第1話 Modern Culure Labo
『Modern Culture Labo』という室名札。
「現代文化研究部……ここだよな」
誰も居ない廊下でこう呟いたのは、朱陣 幸である。
彼は埼玉県のどこかに存在する私立天木高校の新入生。入学式を昨日終えた彼は、今日、先ほど部活動説明会を終えて、部活動体験会の時間のさなかにいた。
彼は生徒が手作りして頒布した部活動紹介パンフレットを片手に、旧校舎のとある教室前で、そう呟いた。廊下の左右に視線を向けて、不安そうにしている。
不安の理由、本来ならこの時間、体験会が行われているなら他の新入生が居てもいいはずだ。ここが旧校舎というのもあるだろうが、にしても誰もいないのは不自然。
(ノック、してみるか?)
彼は引っ込み思案だった。体験しに来たのだからノックすればいい。部室に誰か居るかもしれない。この部が今日は体験会をしていないならその旨も伝えてくれるであろう。
しかし彼は、ノックするのも躊躇うほど、人とのコミュニケーションが苦手だった。
長い前髪の下で眉を寄せている彼に、誰かが声をかけた。
「やぁ! どうしたんだい君」
筋骨隆々、浴衣姿の大男だった。身長は二メートル近くあるだろうか。右手には分厚い本を持っていた。高級感のある紫色の装丁が施された本だ。
幸は怯えて肩を丸めた。
「あ、あの! 俺、えーっとぉ……」
幸は固まった。知らない人怖い。大きい人怖い。それが彼の感想だった。
「もしかして、ウチを見に来たのかい?」
幸は視線を室名札に向けた。大男は大仰に頷き、胸元から取り出した扇子を開いた。
「正に! ここは現代文化研究会、略してMCLの部室だ」
顧問の先生だろうか。少し安堵した幸は小さく頷いて、「見学に……」と言った。
「入れ入れ!」
彼は教室の戸を引いて、手を小招いた。
「あー! 四角でもう下がり始めてる! 最悪ー。まぁいいや、次々……」
部屋の中から、不機嫌そうな女の声が聞こえた。幸が中を覗くと、十二畳ほどの教室中央に、折り畳み式の長机が二つ並べてあり、周囲にはパイプ椅子が六個。そのうち一席には人が座っていた。
今、声を上げていた女である。染めているのだろうか、白金色のストンと重力に従って伸びる長い頭髪が、天井のLEDを受けて煌びやかに光を弾いている。
彼女はスマートフォンを横向きにして、真剣に画面を見ていた。
幸と大男が部屋の戸を引いたのも気づいていない。
(ギャルだ……!)
幸は過呼吸寸前の胸をなんとか深呼吸で落ち着かせて、大男の方を伺い見た。大男は歩いてギャルに近寄り、彼女の見ているスマホを一緒に眺めている。
(え? 俺は?)
その瞬間、幸は自分がこの世界全てから無視されているような大げさな悲壮感にさいなまれた。今しがた話しかけてくれたあの大男、なぜ俺を彼女に紹介してくれないんだ。しかし、心の中で悪態をつき、糾弾して非難できるほど、彼は人へ悪意を向けるたちでもなかった。
ギャルが、何かに気づいたように幸の方を見た。目と目があった。
鮮やかな青い目をしていた。一瞬見せたきょとんとした表情に、幸は心拍数が上がる。
何か言うべきかと悩む間、幸はこの窮地を切り抜けるために走馬灯を垣間見た。
ギャルと話せなくても別に死ぬわけでもないというのに、大げさな男である。
幸はこの世のギャルという存在に、二つの捻じれた感想を覚えている。
一つ、仲良くなりたくないわけではないけど、会話の仕方が分からない。
一つ、少しの事で機嫌を損ね、自分のような奥手をそれから一生ぞんざいに扱う。
二つ目の感想は、幸の中学時代の経験談からくる感想だった。彼は自分の机の上に座る女生徒に「邪魔だからどいて」と小さな声で、勇気を振り絞って声をかけた。
しかしそれだけで、その女生徒はそれ以降、幸に対する扱いがぞんざいになった。
いつも、虫でも見るかのような嫌悪感丸出しの目をするのである。
幸は、趣味と言えばネットに浸る以外にほとんど無い男であった。しかし、アニメは語れるほど詳しくない。マイナーな対人ゲームばかりしていて、寧ろアニメオタクを見下している。幸は、人と会話するデッキを全く持っていないのである。
そんな彼も、ある日その女生徒に何とか機嫌を治してもらいたいと思って話かけた事がある。彼女が他の人と話す表情は、素敵に見えたから。
「あの時はごめん」
帰りのHRのあと、廊下で彼女を呼び止めて、そう呟いた。再びの勇気を出したのだ。
彼女の周りには二人の女友達がいた。彼女の顔を見て、「なんかあった?」と聞く。
「なんもないよ。……なんのこと?」
彼女は幸を不審者でも見るような目で見ながらそう言った。その時幸は衝撃を受けて、膝から崩れ落ちたい気分だった。三人が楽しそうに談笑しながら廊下の角に消えていくのを、茫然と見ていた。衝撃だった。
謝罪が何の事か覚えてもいないのに、彼女は自分のことが嫌いなのだ。
これが、彼のまだ鮮明に思い出せるたった数週間前まで続いていた苦い記憶、幸はゆっくりと後ずさりして、部屋から出ようと思った。
しかし――。
「あーっ! まってまって、もしかして新入生!? ようこそようこそ! 座ってよ!」
幸は自分の心臓が跳ね上がって天井にぶつかるような気分だった。
目の前のギャルは――幸にとって――デートの待ち合わせで恋人を発見したかのような表情をしていたからだ。待望の新入生に向ける感情を、好意と勘違いしてしまうほどに、幸という男は男女関係に疎いのだ。
当然、普通はそこまで飛躍した妄想はしないだろうが、中学時代、幸にとってトラウマとなったあの女生徒とは違った。
少なくとも、幸はそう思った。
「は、はひ……」
幸は言われるがまま、ニコニコとかわいい笑みを浮かべているギャルの正面に座った。パイプ椅子を引くときに鳴った、床と擦れるキィという音があまりに大きかったので、幸は「すみません!」と頭を下げた。顔を上げた時、ギャルはおかしそうに笑っていた。
「あはは、なにに謝ってるの?」
しかし、その笑いは侮蔑の笑いではなかった。
彼女は自分の胸に細くて白い手を当てて、口を開いた。
「私、白鷺桜姫。この学校の三年生だよ」
名乗りを終えた桜姫は綺麗な白い歯を見せて笑う。
幸は彼女を見て決めた。
この部活に入ろうと決心した。そして、トラウマを乗り越えて、女性と普通に話せる男になろうと思った。
ただ。……ただ。幸は気づいていない、知る由もない。
この女、芸能人と見まがう天性の容姿を持つ白鷺桜姫が、一体どんな女なのか。学校一、いや、埼玉一の美貌を持つこの女が、ここに居る理由。
桜姫は視線を一瞬落とし、机上のスマホを見た。そして、眉を寄せた。
「あ~。結局しんがりだぁ」
幸と大男がスマホをのぞき込む。
そこには、電光掲示板が映っていた。数字が縦に並んでいる。
「これ、何見てたんですか?」
幸は意を決して話しかけた。桜姫と仲良くなりたいという一心で。
「これ~? 船橋競馬だよ」
幸は彼女の口に出した言葉を疑い、スマホを眺める。確かに、馬と騎手だ。映っているのは競馬場で間違いなかった。
幸は大男の方を見て、彼の表情を見た。
「まーた外れたか! だから言っただろ! 今日のお前のラッキーカラーは緑! 六枠の馬を選べと!」
「ぶー。さっきは六枠選んだもん。外れたけど」
桜姫は机に上半身を乗っけて腕を伸ばし、だらけた格好で唇を尖らせた。
幸が机に載せている手のすぐ近くに、彼女の白くてすらっとした、爪がきれいにネイルアートで手入れされた彼女の手がある。
「め、珍しいですね? 競馬がお好きなんですか?」
幸は精一杯の愛想を顔に携えて聞いた。桜姫は机に顎をつけて、図らず上目遣いで幸を見上げる。
「私、競馬予想で生計建ててるの」




