8.迷子の心
努力が実って招かれたお茶会。
そこに響いたのは――愛した人の断罪の声だった。
信じることをやめたとき、
人は大切なものを見失ってしまう。
けれど、優しく見守る瞳に気づいたとき、
立ち上がる勇気も、歩き出す希望も見えてくる。
「ノーラ、お前は許すのかもしれないが、俺は納得いかなくてな。」
テネシーがスッと、一枚の封筒を差し出す。
「裏が取れた。これをどうするかは、お前が次第だ。」
――そこに記されていた名前に、大きくため息をついた。
ベルに「教育係のお礼がしたい」とお茶会に誘われていた朝。
おそらくテネシーは、すべてを計算ずくでこの封筒を手渡したのだろう。
だって、あの午後のお茶会であんなことがなければ、わたし自身、この情報をどう扱うべきか、迷ったに違いないのだから……。
***
「ベルさま、本日はお招きいただき、ありがとうございます。」
庭園のあずまやに、二人用のティーセットが用意されている。
テーブルにはわたしが好きなデンファレが飾られている。華美になりすぎない装飾が、わたしの好みをしっかり反映している。
「エレオノーラさま、お忙しい中、お越しいただきありがとうございます。」
少し緊張気味のあいさつではあるけれど、優雅なカーテシーは淑女教育の成果の表れだ。
必要最低限の挨拶を済ませれば、もうそこは気心の知れた女子会の空間。用意された芳醇な香りのアップルティーが、心地よい午後を演出する。
「正式な妃教育が始まっても、もう大丈夫ね。」
そう微笑むと、ベルも嬉しそうに笑った。
「エレオノーラさまのおかげです。」
不安しかなかった教育係の自分。
それでも、ベルの真っ直ぐさと賢明さに励まされて、いつの間にか自分も全力になっていた。
彼女の人柄は、笑顔だけで心を癒す力を持っている。王太子妃にふさわしい――心からそう思った。
「わたし……ずっと、謝りたくて。」
ベルがふいにうつむく。小さな声だが、真剣な思いが伝わる。
「サミュエル殿下のことです。エレオノーラさまは殿下とご婚約されていたのに、わたしの教育係なんて……そんな理不尽なこと。」
「婚約破棄はわたしが望んだことです。ベルさまのような優しいお方が王太子妃になられること、国民の一人として嬉しく思っております。」
本心からの言葉だった。サミュエルの幸せに、ベルが必要だ。淑女教育で触れた彼女の人柄は、必ずこの国を支える国母にふさわしいものだった。自分にはなかった資質――ヒロインという枠を越えて、わたしはベルという女性を尊敬し、幸せになってほしいと願う。
互いに静かに視線を交わし、微笑み合う。
穏やかに揺れていた庭園の花々が、突然風を失って止まる。
次の瞬間、少し離れて護衛にあたっているテネシーの空気が、ピンと張り詰める。
その張り詰めた空気の中でも、テネシーが守ってくれているという安心感を感じた直後、慌ただしい足音と怒声が庭園を駆け抜けた。
「エレオノーラ!君はまだ、ベルを虐げようというのかっ!!」
ものすごい剣幕で現れたのは、淑女教育の第一段階を終え、ようやくベルとの婚姻を認められた王太子殿下、サミュエルさまその人だった。
***
「わたしが提案した妃教育は終了したと報告を受けている。」
王太子のマナーとしては評価することも憚られるような勢いだ。
「レッスンの間も、数々の嫌がらせを企てたそうじゃないかっ!教育係を終了してまで、まだ嫌がらせを続けるとは、恥を知れっ!!」
庭園の静寂を切り裂くように響いたサミュエルの声に、言葉を失う。
驚いたのは、その声の大きさでも怒りに満ちた表情でもなかった――彼の発言が信じられなかったのだ。
「……。」
視線を合わせることすらできず、うつむいたまま固く両手を握った。
ベルも驚きと戸惑いで立ち尽くしている。
どうやらそれを、勘違いしたらしく、サミュエルはさらに言葉を続ける。
「君は、計画的にベルを追い詰めていたようだな。備品を紛失させ、ドレスを破損させ……妃教育が上手くいっていないと言いがかりをつけるつもりだったか――卑怯なっ!」
違う……わたしじゃない。そんなこと考えたこともなかった。
恐怖で言葉が出ない。無言は肯定だと思ったのか、サミュエルが大きな落胆のため息をつく。
「殿下、落ち着いていただけますか?」
低く響く声が、優しく身体を包んでくれる。
力強い立ち姿が、サミュエルの庭園を射貫くような視線を遮るように立ちはだかる。
そのテネシーの影が、わたしを守ってくれているようだ。
「あなたは……っ」
サミュエルの驚く声を遮るように、テネシーが続ける。
「今、殿下がおっしゃったすべての事件に、エレオノーラ嬢は一切かかわっておりません。これらはわたしが回収した証拠品と関係者のリストです。」
「だが、お茶会での所業は……」
「あれはわたしが事前に阻止した。彼女たちは"それ自体"を知らないよ。」
最後は諭すような声だった。疑念の怒りが霧散していく。
「いかにベルさまが大切だとは言え、確固たる証拠もなく、断罪しようとなさるのであれば、わたしも護衛として黙ってはいません。」
王太子殿下へのテネシーの言葉は、不敬と取られても仕方ないほど語気が荒かった。そこへ、ベルが声を張り上げた。
「エレオノーラさまは、わたくしを支え、かばいこそすれ、嫌がらせをしたことなど、ただの一度もございませんっ!」
ベルは真っ直ぐにサミュエルを見つめている。
「曇りなき眼で真実を見つめることができずして、何が王太子ですかっ!サミュエルさま、しっかりなさいませ。」
視界に映ったベルの手が震えている。婚約したとはいえ、下級貴族出身の彼女が王太子に意見するなど、どれほどの勇気が必要だっただろう。小刻みに震える手を必死に抑え、わたしを信じ、意見してくれるベルに、胸が熱くなって、ゆっくりと立ち上がった。
「サミュエルさま、信じていただくのは難しいかもしれませんが、どうか、釈明の機会をお与えください。」
テネシーの一歩横へ歩み出て、心を込めて頭を下げる。
沈黙が痛い。でも、これで少しは前に進める――そう、信じたい。
「わかった……後日、連絡をしよう。」
テネシーの冷静な説得と、愛する人の明確な抗議に、サミュエルの怒りは形を失ったようだ。
それだけ言うと、肩を落として彼は去って行った。
***
「おい、あれ、どうしたんだ。」
少し離れたところに立っていたテネシーが、ミミに話しかけているのが聞こえた。
「なんでも、"やさぐれモード"なんですって。意味はよくわかりませんけど……。」
ミミの呆れた声も聞こえる。
「何をしても、悪役令嬢……頑張ったって無駄なんだもん。」
令嬢らしからぬ格好で、足を揺らして遊ぶ。
「何を言っても聞いてもらえないのに、釈明ってどうするのよね。修道院へ行くことになってるんだし、反省してますって言っちゃえば、無事に解決するのかなぁ……。」
サミュエルのあの怒りは、尋常じゃなかった。
正直、あれほどまでに憎まれているとは思わなかった。
あれ以上、刺激してはいけないんじゃないかと心配になったほどだ。
「また何かやらかして、公爵家に迷惑はかけられないもん。」
短い人生だったけど、一生分の業を背負っちゃったんだね……わたし。
そんなことを考えていたら、大きな影が顔を隠した。
「"やさぐれモード"って何だ?」
「自己反省中、かな?」
説明できない言葉を、笑ってごまかす。
テネシーはあきれ顔だ。
「わたしのしてきたことは、何一つ見てもらえてなかったなって実感しちゃったの。」
愚痴半分、本音半分で、今の気持ちをあけすけにつぶやいてみた。
「わたしの声も、誰にも届かないんだよ……。そんなわたしは、無価値な人間なんだな……って思ってたところ。」
――視界が一気に暗くなる。
一瞬遅れて、テネシーに抱きしめられていると気づく。
「お前の優しさに気づかない男を、いつまでも想うな。」
よく知った優しい声が、全身を包む。
「泣くだけ泣いたら、忘れろ。お前は――お前が思う以上に価値のある女なんだよ。」
この男性は、どうしてこんなにわたしを泣かせるのが上手いんだろう。
吐き出せない感情も、やり切れない気持ちも――身体の中に巣食う真っ黒な思考を流し出してくれるんだろう。
もう、何度目になるかわからない泣き顔を、また晒してしまった。
それでも、こうして負の感情を押し流すたびに、自分の中の"大切な自分"だけが残る。
だから、甘えることにした。
どこまでも広いこの胸に、どこまでも強いこの腕に寄りかかり、もう一度立ち上がる力が見つかるまで、わたしは泣いた。
***
「お前に必要なもの、揃えておいた。」
またもや大きな封筒が差し出される。
「この前より、詳細が書いてある。証人として登城する合意も得ているぞ。」
慌てて封書の中を確認する。
わたしの護衛は、まったく諦めていなかった。
カトラリー紛失の実行犯、紛失したカトラリーの行方、ドレスの宝飾品を盗んだとされるメイドと、その盗品に関わった商人。
「これ、全部……。」
「あぁ、お前の家族を始め、お前を信じてくれた人たちがくれた証拠品ってところだな。」
目頭が熱くなった。
信じてくれる人がいる。
「お前は何も悪くない。あのバカが先走っただけだ。」
「バカって……不敬よ。」
泣きながら笑ってしまいそうになった。
テネシーが、お茶会での出来事を報告したのだろう。
両親はサミュエルの行動に呆れ、兄は彼の言動に怒り、名誉挽回のための協力は惜しまないでくれた。
わたしは愛されている――その事実がわたしにもう一度、勇気をくれた。
***
「ベルとサミュエルの絆は強そうね。」
お茶会でわたしを責めたサミュエルは、ベルを思えばこそだし、それに対してハッキリ意見するベルも、サミュエルを思えばこその行動だ。
二人の様子を思い出して、心がズキンと痛む。
痛む心を自覚しながら、同時にサミュエルから自分を守ってくれた大きな背中を思い出す。
テネシーには、助けられてばかりだな。
路地裏の出会いから、幾度となく守ってくれたたくましい後姿に、頬が熱くなるのを感じる。
――えっ?わたし、何を考えてるの?
ドクドクと鼓動が早鐘を打つ。
わずかに温かくなった頬に、浮かびそうになった原因の可能性を意図的に否定する。
そして、即座に考えるのを止めた。
「心配するな。俺がついてる。」
聞き慣れたバリトンに「何とかなる」と思えたあの日を思い出す。
最強の味方がいるんだもの。大丈夫よ。
胸に再び広がる安堵が、認めたくない気持ちをそっと覆い隠して、明日の試練の答えを導いてくれた。
嫌がらせは単純な問題ではなかった。テネシーの調査をもとに、慎重な証拠集めと証人確保が進んだ。
約束通り、両親も兄も、全力でサポートしてくれた。
もう、迷いはないわ。
わたしの覚悟と準備が整った頃を見計らったかのように、サミュエルからの謁見許可が届いた。
――あのお茶会から、2週間が過ぎていた。
"迷う"ことで見つけた"始まり"へと、
エレオノーラが歩き出す。
次回「第9話:大人の男……過保護攻撃開始」
いよいよ、テネシーの本領発揮です。
お楽しみに!




