密林の宿編3(夜明けの返礼)
鐘は――鳴らない。
だが、宿の呼吸が変わった。
さっきまで胸の奥にまとわりついていた、湿ったような、どこか“咀嚼されている側”の息づかいが、ふっとほどける。
天井の灯が、三つ灯ってひとつ暗くなる、あの不穏なリズムをゆっくりと失い、今度は人間の睡眠に近い波に移っていく。
廊下の端でうごめいていた木の人形たちは、関節から力が抜けたように膝から崩れた。
老婆の影――宿そのものをかたどっていたあの女性の“名残”も、煙のように薄くなっていく。
「あら……今ので半拍、還りましたわね」
あーさんが二鈴を静かに重ね、音をほとんど立てないほどの力で揺らした。
金属音というより“気配”に近い、柔らかい高音が、広間に残っていた歪みを撫でるように走る。
「一度ずれた祈りを、元の刻に戻す……百年前にも似たような祭礼がございましたわ」
ニーヤは尾をぴんと立て、祠と床の間に渡した水糸をすっと張り直した。
細くて透明な糸が、灯りの反射で一瞬だけ青く光る。
「水路、繋がってますニャ。祠まで届く。……主殿、これで“返礼”がまっすぐ通るはずですニャ」
よっしーは、さっき貼ったラミネートを指で軽く押し、角が浮いていないか確認した。
「湿気、すごいな。けどこのくらいやったら反射は保てる。蝶番は仮固定したで、ユウキ、やれるか?」
「いける」
クリフはというと、もう斧を振るのをやめていた。
斧は床に“置く”というより“預ける”ように立てかけ、今度は梁の撓みを両手で支えている。
ただの力技じゃない。
梁がこれ以上沈まず、でも逆に跳ね戻って室内を壊さないように、“重さを貸している”のだ。
「力で殴るな。重みで静かに閉じるんだ」
短くそう言い、俺の方を見もせずに床の軋みを聞いていた。
広間の空気はまだ湿っていて、すべてが終わったとは誰も言えない。
でも“戻ってきている”のは、誰の肌にも伝わっていた。
「返礼――」
俺は札をひとつ、またひとつと、折り畳んだまま指先で撫でる。
薄い影のような紙片が、俺の手の中でふっと軽くなり、糸になった。
床板の合わせ目や、さっきまで人形がにじみ出ていた染みのあたりから、その糸がするすると伸びていく。
黒く曇っていた床の色が、糸を通されたところから少しずつ薄まり、乾いた木の色に戻っていった。
糸は祠へ吸い込まれ、さらにその奥――この宿が“預かってしまっていた人たち”のいる場所へと流れていく。
宿の壁一面に刻まれていた“息づかい”が、和紙の墨が水でぼかされるように、じわりと静謐に変わる。
さっきまで、どの板にも“誰かの指で撫でられたあと”が見えていたのに、それが見えなくなる。
ここに眠っていた祈りが、ようやく家路を見つけたのだ。
老婆の顔が、かすれて輪郭を失っていく。
さきほどまで不気味に裂けていた口元は、台所の隅に擦り切れた座布団を見つけたように、そっと腰を下ろした。
皺のさきで、わずかに悔いるような、でも安堵したような表情がのぞいた。
「……客を、守りたかっただけじゃ」
振り出しに戻るような声だった。
多分これが、この宿がずっと繰り返してきた“言い訳”であり、“本心”だったのだろう。
「知ってる」
俺は短く答えた。
「だから返す。お前が溜めたやつは、お前が溜めたときよりきれいな形にして返す。……それで終わりだ」
老婆は目を閉じた。
間仕切りに掛かっていた薄汚れた布に溶けるように、ゆっくりと姿を消した。
厳密には“消えた”というより、ここに最初からあった古い布が、元の役目――ただの台所の布――に戻っただけだ。
次の瞬間、宿全体が大きく軋んだ。
骨組みが船のように鳴る。
床が一気に上がり、さっき俺とクリフが落ちかけた穴が、木の舌でぺたりと塞がる。
宿が「もう飲み込まない」と決めた音だった。
「出るぞ!」
俺が言うより早く、クリフが俺の襟を直して引き上げる。
よっしーが背中をぐっと押し上げ、水糸を張ったニーヤが足場をすべりやすいように濡らし、俺の身体を座へ乗せた。
まるで流れ作業のように、俺たちは“宿の腹”から表へ押し出される。
あーさんが直後に二鈴を鳴らし、動きの最後の一拍を整えた。
「はい、ここまででございますわ。しめ」
板戸を蹴って外へ出ると、密林の朝気がいっきに肺を刺した。
冷たい。
さっきまでの宿の中の空気が湿布だったとしたら、外は冷水だ。
思わず肩が震える。
そして、その冷たさと一緒に、“生きて戻ってきた”という実感が胸にぶち当たった。
振り返れば、そこにはもう宿はなかった。
泥と湿りと、少し焦げたような匂いだけが残っていた。
形あるものは、朝日の角度で輪郭を持つはずなのに、そこには何もない。
あるのは地面に置かれた小さな木札――例の「三の刻は鳴らさず、客の願いを運ぶ」という文言が刻まれた札だけ。
宿は、自分の役目の“本体”だけをぽんとそこに置いて、あとは森に消えたのだ。
俺はその木札を拾い上げた。
ほのかに温かい。
返礼がうまく行った証だ。
◇
野営地に戻ると、まだ空は白んでいなかった。
でも、夜の黒はゆるみはじめていて、低い霧が地面をかすめていた。
誰も眠ってはいない。
焚き火の火が丸く呼吸し、薪が鳴る音だけがゆっくりとした時間を刻んでいた。
「……夢やないよな」
よっしーが炎を見つめながら言った。
声はいつもの軽さがあるのに、目はどこか真面目だ。
さっきまで、木の関節をタイラップで止めてた男と同じ目とは思えないくらい。
「夢じゃない」
俺は拾ってきた木札を撫でる。
木肌の裏が、まだかすかに脈打っている。
「鳴らさぬ鐘は、ここにもあった。……というか、あの宿ごとが“鳴らさない鐘”だったんだろうな」
ニーヤが鼻先を近づけ、くん、と匂いを嗅いだ。
「祈り、返ってきた匂いですニャ。……湿った木と、ちょっとだけ甘い匂い。客が食べたものまで覚えてたんでしょうニャぁ、あの宿」
リンクは俺の膝で小さく丸まり、疲れたのかふにゃ、と短く鳴いた。
ブラックは肩で羽を震わせ、静かに羽づくろいをする。
いつもの夜なら、ここでオレかよっしーが「ビール!」とか言い出すところだが、さすがに今は誰も口にしなかった。
なんとなく、声を大きく出すのが惜しい夜だった。
クリフは相変わらず働いていた。
俺のマントの留めをまた直し、喉当てを少し上にずらす。
「汗で緩む。寒気が入る前に締めろ」
「……ありがとう、兄貴」
「礼は歩きながら言え」
そう言って座る。焚き火の光で、彼の横顔が険しくも穏やかに見えた。
木札の裏が、ふっと淡く光った。
全員の視線が集まる。
焚き火の光よりもやわらかく、でも消えない光。
いつもの、“こっちにいけ”と示すやつだ。
――次の指標、東宙の山間《骨の総礼》。
――第八断章、輪と音を試す地。
文字が見えるというより、“頭の中に浮かんだ言葉が木札と一致する”という感じだ。
見えたやつから順に読み上げる。
よっしーが肩をすくめた。
「骨の、総礼……字面が怖いな」
「怖いのは字ではなく礼法でございますわ」
あーさんが穏やかに微笑み、二鈴をそっと合わせた。
チリ、と夜明けの空気に小さな輪が広がる。
「鐘は鳴らさず、輪で示す。……先ほどと似ておりますが、今度はきっと“鳴らさない”のではなく“鳴らせない”のでございましょうね」
「鍵穴じゃなく、蝶番へ」
俺は木札を握り直す。
「さっきの宿もそうだった。形になってたからこそ、戻せた。次もたぶん、そうだ」
「ほな決まりやな」
よっしーが腰を伸ばす。
「鳴らさんで返す。……それ、ウチらの専売特許になってきたなぁ」
夜の果ての方で、空の色がすこしだけ薄くなった。
密林の端で、風が二拍だけ鈴を鳴らした。
あの宿の中で聞いた“間”と同じ、二拍の呼吸。
でも今度は重くない。重さを返したあとの、軽い鈴の音だ。
音は立てず、祈りは届く。
あの宿でこぼれそうになっていた願いは、今度こそ届くだろう。
俺たちはそれを、ただ返していけばいい。
鐘を鳴らすんじゃない。
鳴らさず、示す。
そのやり方を、もう俺たちはひとつ身につけたんだ。
焚き火がぱち、とはじけた。
東の空が白みはじめる。
密林に夜が終わり、次の仕事が顔を出した。




