密林の宿編2(闇宿の腹)
広間の灯は、呼吸のように明滅していた。
三つ点り、ひとつ暗く――三、ひと、三、ひと。
その律の狭間に、誰かの息が紛れ込んでいるような気がした。
天井の梁から吊るされた灯籠が、わずかに揺れる。
壁の影がゆらめくたびに、木目が波打ち、まるで生き物の皮膚が蠢くようだ。
「三の刻を空ける記憶、でございましょうか」
あーさんが眉を寄せ、静かに口を開いた。「鳴らさぬ鐘の掟かと」
よっしーがカメラを構え、パッとフラッシュを焚く。
白い閃光が走り、暗がりが一瞬だけ消える。
その一瞬、壁の木目に“縫い目”のような亀裂が浮かび上がった。
まるで誰かがここを縫い合わせようとし、途中で針を折ったまま放置されたような、乾いた線。
「主殿」
ニーヤが尾を立てる。「宿そのものが“守ろうとして歪んだ”。宿守の写しじゃ」
その言葉に、老婆の影がかすかに震えた。
囲炉裏の火に照らされた顔がひしゃげ、皮膚がざらりと音を立てて裂ける。
裂け目の下から、木繊維めいた紋が覗いた。
節くれだった指先が軋むたび、床の畳が波紋のようにうねる。
その瞬間、廊下の奥から無数の足音。
人形たちが、どこからともなく這い出してくる。
宿が、息をしていた。
壁が膨らみ、梁が鳴り、障子の紙が微かに呼気を吐く。
古びた匂いの中に、濡れた木と血と油の臭いが混じる。
「ルールがあるはずだ」
ユウキ――俺は指を折りながら口にする。
「①霧を吸った者は“宿の腹”に収められる。②三の刻は鳴らさない――祈りの時間。③“鳴らさない”を形に固めると、宿が噛む」
「対処は“奪う”やない。“返す”や」よっしーが低く言い、バックライトを落とした。
「鍵穴ではなく、蝶番だ」クリフが短く言い、俺の襟を整え、喉当てを押しつける。
「汗で冷える。今は喉を守れ」
「……兄貴」
「足元から整えろ」
空気が止まる。
次の“揺り返し”。
広間の床がゆっくりと沈み込み、板の下から何かが這い出してくる。
木製の人形たち――人の形をしているが、顔はどれも空洞。
胴体の継ぎ目から、糸のような樹液が垂れていた。
俺は息を殺し、足裏の感触で床の歪みを読む。
――今、宿全体がひとつの臓器として動いている。
呼吸して、飲み込み、吐き出している。
「通さない」
俺は“座”を二つ、三つと連ねる。
空間が波打ち、見えないベンチのような支点が形を成す。
押し寄せてきた人形の群れが、まるで腰掛けるように沈み込み、動きが一瞬鈍った。
その隙を逃さず、ニーヤの“水の糸”が伸びる。
透明な線が人形たちの関節を縫い止め、よっしーの手から飛んだタイラップがそれを束ねる。
パチン、パチンと小気味よい音を立て、動きを封じる。
あーさんは二鈴を鳴らし、半拍遅れの“間”を作る。
そのわずかな遅延に、宿の律が乱れた。
クリフの置き斧が最短の角度で落ち、通路を塞ぐ。
非致死・ほどほど――壊さず、止める。
その刹那、床下で何かが鳴った。
カン、カン、カン。
三度、そして一度。
上の灯と同じリズム。
「三、ひと」――宿の心音。
「――来る」クリフが低く言い、天井を見上げた。
梁の裏で、黒い裂け目が動いた。
そこから声が落ちてくる。《帰れ》《まだだ》《祈れ》《鳴らすな》
「時報の反響だ」
俺はリングを握る。
「三の刻だけ、宿が“祈りを溜める”。鳴らさない鐘を……見える形にしようとして、牙になった」
「なら、形をほどいて戻すしかない」
あーさんの声が、澄んだ鈴の音と重なる。
広間の奥――煤けた木の壁に、小さな祠があった。
その表面には薄く掘られた刻印。
「三の刻は鳴らさず、客の願いを運ぶ」
よっしーが鞄からラミネートシートを取り出し、祠の前に貼る。
反射した光で、壁の“縫い目”の走行が浮かび上がった。
「ここ、蝶番」
彼が短く言う。
俺は懐から返礼札を抜き、逆位相で折る。
「鳴らさない祈りを、元の座へ返す」
イシュタムが笑う。
(よい。返せ)
老婆が、皮のような声で吠えた。
「返せるものかァァァ!!」
顔の裂け目が口腔となり、奥から無数の木の指が伸びる。
それが祠を掴もうとする瞬間――
「返すんだよ」
俺は札を掲げ、祠へ叩きつけた。
だが、その瞬間――床が崩れた。
闇。
吸い込まれるように、俺とクリフが下階へ落ちた。
木屑が頬を掠め、肺に土と血の臭いが満ちる。
背中に衝撃。
湿った梁、倒れた寝台、壊れた鏡、人形の山。
「無理に立つな。足で床を確かめろ」
クリフの声が落ち着いていた。
俺は呼吸を整え、掌で床の温度を探る。
そこかしこで、小さな心音のような振動。
――まだ宿が生きている。
(……聞け、ユウキ)
イシュタムの声が、血管の奥を流れた。
遠い鐘の音。
三の刻の直前。
「兄貴、時間がない」
「ある。半拍、伸ばす」
クリフは短剣で梁に楔を打ち込み、息を合わせる。
上階で、あーさんの二鈴が律を刻んでいる。
よっしーの声が響いた。「ユウキ、フラッシュ行くでぇ!」
白光が階段穴から落ちる。
木繊維の走りが浮かび上がり、まるで宿の血管のように枝分かれしていた。
「見えた。ここだ――」
俺は返礼札をもう一枚折る。
指先の感覚だけで縫い目の温度を辿り、札を貼り付けた。
祠と縫い目、宿の腹を一本の“座”でつなぐ。
瞬間、闇が震えた。
返礼の回路が、静かに点る。
黒い木肌に薄青い光が走り、宿の鳴らさぬ鐘が、遠くで“ふっ”と息を吐いた。
その光は、祈りのように優しく、
――やがて宿全体を包み込んだ。
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後書き
「鍵穴ではなく、蝶番へ」――
祈りを“鳴らさず返す”術は、ただの封印ではない。
宿は再び眠りに入り、夜の密林に静寂が戻った。
けれど、三の刻の空白はまだ塔のどこかに息づいている。




