黄昏の旅団 ― 砂嵐を越えて ― その2
――
夜明けの薄桃が砂の稜線をやさしく撫で、遠い谷が「ボン、ボン」と二度だけ鳴いた。――今日だ。箏の谷が“開く日”。
「相棒、今日も頼むで」
よっしーがボンネットを撫で、キーを捻る。低く丸い心拍。FZRは後ろで軽くスロットルを煽り、息の管が上機嫌を告げた。俺は助手席、旗(〈囁き手〉)を肩に、胸の奥の拍子を二と五に合わせる。後部座席で、あーさんが掌の水を盃で揺らし、ラヤが歌を胸に畳み、ミラは針箱の糸を一本だけ外へ。エレオノーラは矢羽根を撫で、クリフさんは弦に指を添え、キリアは熱瓶の蓋を点検。ニーヤは舳鈴の心を布越しに確かめ、リンクは窓枠で二段ジャンプの屈伸。ブラックはダッシュボードの隅で目を細めた。
「行こか――箏の谷へ!」
「イエーイ!」
今度は全員の声が重なり、砂の畝が小さく笑った。
◇
午前の風は甘く、砂は締まっていた。遠くに、弦のように細い断崖が連なった地形――箏の谷の“琴面”が見える。谷の入り口へ向かう砂走路は、右へ左へとゆるく蛇行し、ところどころに灰縁の小柱(数の配達網の植え枠)が埋まっている。
「植え枠が増えたな」
クリフさんが呟く。配達網は、谷の拍を“都の拍”に縛るため、この周辺まで伸びているらしい。ラヤが眉間に皺。
「谷の鳴りが濁ってる……誰かが“余計な拍”を入れてる」
「嫌な予感やな。スピードは落とさんけど、滑らせへんようにいくで」
よっしーが足首でスロットルを微調整。相棒の鼻先が畝をなで、FZRは少し離れて番う。――その時だ。
「キューイ!」
リンクが肩の上で耳を跳ね上げ、ブラックが短く「ン」と鳴いた。危険察知。サイドミラーの端で、砂の表面に“影の継ぎ目”がきらりと光る。
「前方右手の影、縫ってある!」
ミラの声。砂の中に、風と数を結び直す“見えない結び目”。俺は旗を斜に構え、〈空白〉を一本、道路の縁に走らせる。よっしーがハンドルを軽くこじり、相棒は結び目をかすめてかわす。直後、砂の影から人影が三つ四つ、立ち上がった。
紅のスカーフ、砂色のマント、鳴き砂を踏んでも音を出さない軽足――砂盗団〈赤砂の弦〉。その先頭、焼けた肌に銅の飾りをあしらった男が、右手に細長い杖。杖頭には煤けた紅玉。炎術士だ。目が合った瞬間、やつの口元が笑う。
「炎の矢( フレア・アロー )」
ぱちん、と乾いた音。紅玉の芯から火が芽吹き、空を渡って矢の形へ伸びる。矢羽根代わりの熱の尾が二本、きらめきながら相棒のフロントガラスめがけて――。
「しゃがめ!」
俺が叫ぶより早く、ニーヤの瞳が鋭く細くなった。ひげが空気を切り、舳鈴が布越しにわずかに鳴る。
「氷結弾!」
杖の先から群青の光点が三つ、矢よりも速い三連の弾として放たれた。空気が一拍で冷える。熱の矢は、氷の弾に触れた途端、凍りの花に変わり、砂上にぱらぱらと散った。フロントガラスに、冷たく綺麗な霜の紋が一瞬だけ咲いて消える。
「ナイス、ニーヤ!」
「にゃふん、当然であります!」
よっしーがハンドルを切り、相棒は砂の畝で軽くテールを出して体勢を立て直す。FZRがうしろで吠え、エレオノーラが窓から身を乗り出した。
「後方、二! 側面、三!」
砂盗団の二列目が、砂の下から木杭を突き立て、進路を塞ごうとする。ミラが針箱から糸一本を抜き、指で輪を作って空に投げた。見えない糸が杭の影を“ほつれ”に変え、木は自重で横へ倒れる。クリフさんの弦が一度だけ低く鳴り、相棒の後輪が砂を掴む。
「束紐師がいる。風を結んで道路を“縛る”気や」
ラヤの声。赤砂の弦の後列、痩せた女が砂の上に“縫い目”を走らせている。見えない紐が道路の拍を絡め取り、車輪を“重く”する術。よっしーの額に汗。
「ユウキ、旗で“戻す”!」
「任せろ」
俺は旗を立て、〈戻る拍〉を一枚、路面の少し先に“置く”。見えない返しが道路の結び目をひっくり返し、相棒の足回りから重さが抜けた。キリアが熱瓶をひと吹き、タイヤの接地に薄い温風の膜。あーさんが掌の水を窓から垂らし、砂を一瞬だけ“しめる”。FZRがその跡を踏んで滑らかに跳ぶ。
炎術士が舌打ちし、杖を振った。今度は矢だけじゃない。地表に火の帯が走り、呑気な蛇みたいにこちらへ突進してくる。
「炎の矢( フレア・アロー )・帯」
「帯までやるか! 相棒、右!」
よっしーが切り、相棒は炎の帯を跨いだ。熱風が腹を撫で、内装のプラスチックがきゅっと鳴る。リンクが肩で小さく身体を縮め、「キュイ!」と声。ブラックは前脚でダッシュボードをコン、コンと二拍。ニーヤが別の詠唱を走らせる。
「連弾――氷結弾・散!」
ぱららら、と音がして、青白い弾がばらまかれる。炎の帯の表面に霜の泡が広がり、熱の道が一瞬で“鈍い”に変わる。炎術士の顔が歪んだ。
「なぶりやがって……! おい、弦を張れ!」
赤砂の弦の背後で、二人の大男が黒い“柱”を砂から引きずり出した。柱の先端には燻銀の“鈴”。嫌な音。谷の鳴りを乱す“偽拍鈴”。
「谷口でそれ鳴らす気か……!」
ラヤの声が低い。偽拍鈴を同時に鳴らせば、箏の谷は“開く日”でも口を閉じる。俺たちをこの砂地で足止めするつもりだ。
「止める」
エレオノーラが短く言って、矢をつがえた。彼女の矢羽根が陽光を撫で、弦が「ん」と鳴る。一本、二本――黒柱の太い指の間を抜け、鈴を吊る紐の玉を射抜いていく。鈴は落ち、砂に転がる。だが一つ、杖を持つ炎術士の隣の鈴だけは、太い金具で固定されていて、びくともしない。
「なら、凍らせるニャ!」
ニーヤが帽子を押さえ、舳鈴の腹を一回優しく撫でた。今度はいつもより低い声で囁く。
「……氷結弾・核」
空気の芯が、きゅっと縮む。光点は一つ――だが、重い。弾は直線で鈴へ向かわず、微妙に上下して風の“谷”を拾いながら進む。鈴の縁に触れた瞬間、氷の“核”が内側で静かに膨らみ、鈴の“たましい”と呼吸を重ねてから――ぱん、と内側から割った。音が出ない。代わりに、カランと小さく涼しい破片の音だけが残った。
炎術士が歯ぎしりをし、杖を地面に突いた。砂が一斉に巻き上がり、俺たちの視界を奪う。砂幕の向こう、束紐師が両手を広げ、風と数の線を幾十にも結び、透明な“網”を道路に張る。
「見えん“網”や! 突っ込んだら終わりや!」
よっしーがブレーキに触れ、相棒は砂の上で静かに止まる。FZRが左右に蛇行して“網”の端を探す。リンクが肩の上で鼻をひくひく、「キュイ……」――臭いで“結び目”を嗅ぎ分けるらしい。俺は旗を立て、〈戻る拍〉を地面に刺すように置いてから、もう一手、学んだばかりの裏技を試す。
「ラヤ、“返し歌”少し貸して!」
「どうぞ」
ラヤの低い母音を胸に通し、旗の先で空気をやさしく撫でた。空白・撓ませ。結ばれた線の上に“重さのないたるみ”を作る。網全体がふっと鈍く沈み、張力が落ちる。
「今や!」
エレオノーラがFZRを一気に加速、砂の上でステップを蹴り、たるみの上を“跳ねる”。よっしーが相棒を半輪遅れて送り出す。ミラは針で見えない糸に“切り込み”を入れ、キリアが熱瓶で一瞬だけ風を膨らませ、あーさんが掌の水で結び目を湿して“ほどけやすく”する。クリフさんの弦が「いま」と合図を出し、ブラックが「ン」と一声。
網の上を、二台がすり抜けた。後輪が地を掴んだ瞬間、束紐師の表情が崩れる。炎術士が目を見開く。――その隙。
「リンク、チャージ!」
「キュイッ!」
リンクが俺の肩から飛び、前方の砂上を低い姿勢で疾走。チャージ攻撃で束紐師の足首にコツンと体当たり。軽いが正確だ。束紐師の結びの指が一瞬だけ止まり、網の張りが崩れる。
「今度はこっちの番ニャ!」
ニーヤが杖を横一文字に構え、連射を開始。
「氷結弾・連!」
ぱらぱら、ぱらぱら――細かな青い弾が砂幕の中で線を描き、炎術士の周囲に立つ“火舎”――火を増幅する小さな火籠――の芯を一つずつ“急冷”。火は拗ねたように消え、炎術士の顔色から熱が抜ける。
「……小賢しい!」
炎術士が叫び、杖を空へ。空気がきしんで、太い一本――今までの矢とは桁の違う、槍のような熱の柱が生まれる。谷の鳴りさえ、怯えたように壁に貼りついた。
「炎の矢( フレア・アロー )・槍!」
「相棒、下がる!」
よっしーがアクセルを抜き、ブレーキへ軽く触れた。相棒は砂を掴み、尻を落として止まる。――だが、この“槍”は避けても追ってくる。熱の尾が意志を持っている。ニーヤが舌打ち。
「追尾やと!? うにゃ、なら“芯”を奪う!」
彼女は目を閉じ、舳鈴にそっと頬を寄せた。鈴が、誰にも聞こえないほど小さく、柔らかく鳴る。ニーヤの杖先が、熱の槍の“わずかな躊躇”に指先を差し入れたみたいに、ほんの一瞬だけ触れる。
「氷結弾・心奪」
青い点が一つ、熱の槍の“芯”に吸い込まれた。熱の意志が切り取られ、槍はただの熱塊に変わる。砂上でじゅう、と嫌な音を立てて弱り、リンクの二段ジャンプで生まれた風がそれを散らす。
炎術士は一歩、二歩、後退。束紐師は結びかけの紐を自分の手に絡めてしまい、身動きが鈍る。赤砂の弦の大男二人が、ぎょろりと目を剥いて俺たちを睨む。
「弓、左!」
エレオノーラが叫び、彼女自身が矢をつがえるより早く、クリフさんの弦が「今」と鳴り、俺は旗で〈戻る拍〉を砂上にひとつ置いた。大男の一人が投げた鉄輪が、その“戻る拍”にぶつかって自分の足元に戻り、足を絡めて転ぶ。もう一人はエレオノーラの矢が手元の刃の柄を弾き、砂へ落とした。
「撤け!」
炎術士が舌を鳴らし、砂幕の奥へ跳ぶ。束紐師は自分の結びに足をとられて派手に転げ、赤砂の弦は砂に紛れて四方へ散った。残ったのは、冷えた火籠の芯、割れた偽拍鈴、そして砂の上に転がる煤けた紅玉――炎術士の杖頭の“紅炎触媒”。ニーヤがとことこと歩いて拾い上げ、鼻先で匂いを嗅いで首をかしげた。
「使えるの?」
「うむ、これは“火の心臓の欠片”。鍋に熱を伝えるにも、湯を長く温かく保つにも、よい。……もちろん、悪さにも使えるが」
キリアがそっと受け取り、布に包む。あーさんが掌の水を指先に移し、砂の上に小さな輪を書いた。輪はすぐに乾くが、その瞬間、谷の方角で、微かな“正しい鳴り”が戻っていくのがわかる。
「谷、開く」
ラヤが顔を上げた。遠く、箏の谷の琴面が陽を撥ね、風の弦がたわみ、二と五の拍がしっかり立つ。――間に合った。
◇
谷口は、思ったよりも狭かった。左右に刃物みたいに尖った岩の柱が立ち並び、その間を、風の“弦”が目に見えない糸のように渡っている。音は見えないが、確かに“張って”いるのがわかる。鳴らなければ斬られる。――そういう類いの場所だ。
「相棒は低い三速、FZRは二速のトルクで。拍は二―二―五。ブレーキは“礼”。踏みすぎると、谷が怒る」
よっしーが呼吸を整える。エレオノーラはFZRのタンクを軽く叩き、ミラは針箱を腰へ。ラヤは胸の奥で“谷渡りの歌”を起こし、キリアは熱瓶の口を半分だけ開く。あーさんは掌の水を盃から一口、舳鈴に薄く霧を吹いた。ニーヤは紅玉の触媒を舳鈴の袋とは別にしまい、杖を構え直す。リンクは肩で身を低くし、ブラックは前脚でダッシュボードをコツンコツンと二拍。
「行くで」
相棒が谷口に鼻先を入れた瞬間、風の弦が俺たちの車体を“聴いた”。俺は旗で〈空白〉を少しだけ前に置き、谷の“初手の刃”を鈍らせる。弦が“ふむ”と鳴って退き、通る道が一本できる。よっしーの指が軽く踊り、ハンドルが弦の間を縫う。エレオノーラのFZRは後ろで踊るようにステップを刻む。
「右、弦が下りる!」
ラヤの声。相棒は一瞬だけ減速し、弦の落ちる拍をやり過ごす。ミラが針で“へ”を袖口に一つ縫い、俺は旗で〈戻る拍〉を薄く置いて、道の“返し”を作る。あーさんの掌の水がフロントガラスに細い膜をつくり、弦の砂埃を払いのける。キリアの熱瓶が曇りを逃がす。リンクが肩で耳を伏せ、ブラックは鼻先で“危ない”空気を俺の頬に押しつける。
弦が低く鳴り、道が開けた。谷は、通すことを許した。
しばらくは順調だった。――が、谷の中央付近、左右の柱の影から、さっきの連中とは違う気配。灰縁の短い杖、顔を布で覆い、肩に配達網の印。**数の術士**だ。その傍ら、砂に半身を埋めた影――炎術士も戻っていた。紅玉の杖頭を失っても、まだやる気だ。
「谷の中でやる気か……!」
よっしーが歯を食いしばる。数の術士が短杖を上げる。見えない“黙字”が空気に書かれ、弦の鳴りが一瞬だけ凍る。谷の“言葉”を封じる術。ラヤの歌が喉で止まった。
「声が、出ない……!」
「なら音は“擦る”」
ニーヤが舳鈴を布越しに擦った。だが、音は“黙字”に吸われる。ミラの針が空気を探り、あーさんが掌の水を盃で揺らし、俺は旗で〈空白〉を谷の奥へ投げる。――届かない。数の術士の黙字の封じは、音も風も“文字”に吸い込んでしまう。
「ユウキ!」
ラヤが喉で音にならない声を投げ、俺は頷いた。言葉を捨て、拍だけを――。
旗を“振る”のではなく、“置く”。〈戻る拍〉を三つ、弦と弦の間の見えない“節”にそっと座らせる。弦は“礼”を知る。数の術士の黙字は、礼に弱い。黙字の輪郭がほんの少しだけ“にじむ”。その瞬間。
「氷結弾・針!」
ニーヤの詠唱が、わずかに通った。彼女は声に頼らず、杖先で“拍”を刻んだ。生まれた氷の針は極小、十六本。黙字の文字列の“交点”だけを、寸分違わず突く。凍りついた文字が割れ、黙字の封じが“息”を吐いた。ラヤの歌が戻る。あーさんの掌の水が盃で小さく踊る。ミラの針は空中の糸を拾い、キリアの熱瓶が曇りを払う。
炎術士が最後の意地で杖の素芯を振り、火花を撒いた。だが紅玉の触媒がない炎は幼く、ニーヤの氷結弾・散がその一つ一つを“寝かせた”。数の術士が短杖を握り直す――が、エレオノーラの矢が杖の“数の輪”を射抜き、輪は二つに割れて砂へ落ちた。
「退け!」
炎術士が叫び、数の術士は柱の影へ転がり込んだ。谷は再び“歌”を取り戻し、弦が優しくたわむ。
「……はぁ。生きてる」
よっしーが深く息を吐く。相棒は低い三速で谷の“返し”を越え、FZRがその後ろで猫のように滑る。出口の光が濃くなり、外の風が「おかえり」と頬を撫でた。
◇
谷を抜けた先は、意外にも、ひらけた段丘の村だった。石灰質の白い段になった棚田――いや、“絣の棚”。風で布を干し、糸を染めるための“段”。村の名はソラハタ。弦の音に耳が慣れた人々が住み、谷を守る“布の結界”を織るという。
「よう来んさった」
棚の上から、背の曲がった老女が手を振った。耳が良いのだろう。俺たちの“拍”を聴いて、敵でないと分かったのだ。よっしーが相棒を段の陰に停め、俺たちは礼を述べる。
「谷で、悪さしとるもんがおった。鳴りを濁そうと」
ラヤが言うと、老女は「知っとる」と頷いた。
「都の配達網から見張りが来ての。ここいらの“布の拍”を数で測り直すゆうて。……けんど、拍は測るもんやない。合わせるもんじゃ」
老女は段の端から薄い布を一枚、ふわりと俺の肩に掛けた。軽い。風紙の布。ミラが目を細め、指で縁をつまんだ。
「いい布……“ほどけやすく、結べやすい”」
「旅ん拍に合うよ。――代は、音で」
ニーヤが舳鈴をそっと擦り、棚田の段が小さく歌った。あーさんが掌の水を盃で一滴、段の角に落とす。布は光を帯び、風は布を撫でて、村の子どもらが「きれい」と笑った。リンクは褒められて胸を張り、ブラックは縁に止まって首をかしげる。
「泊まっていきなされ。谷越えは身体に“拍の疲れ”が溜まるけん」
老女の言葉に頷き、俺たちは段の隅に天幕を張った。よっしーは相棒の心拍を下げるため、ボンネットを開けて風を通し、FZRは日陰へ。キリアは紅炎触媒を小鍋の下に置いて、湯をちいさく温め始める。掌の水で薄めたミント茶の香りが広がった。
「……ニーヤ、今日の“氷結弾”、すごかったな」
俺が言うと、ニーヤはむふーっと鼻を鳴らして、帽子を傾けた。
「にゃは。谷の風は“拍”が多いから、弾も“拍”に合わせると良く効くのニャ。炎の矢は“焦りの拍”でできてる。そこに“ためらい”を入れてやると、ふやける」
「ためらい、か」
俺は旗の先を見つめた。アンリにもらった指輪が、不意に温い。――ためらいは、進むための滑りを良くする。今日、何度もそれに助けられた。
「ユウキさん」
あーさんがそっと俺の隣に座り、盃を差し出した。掌の水で薄めたミント茶。湯気が白く、風がそれをいたずらして形を変える。
「本日は……本当に、よう守ってくださいました。皆も、わたくしも……あなたが、旗を静かに“置く”たび、胸のざわめきが落ち着きました」
「俺だけじゃないさ。――あーさんの水も、ニーヤの鈴も、みんなの“拍”だ」
「ふふ……」
あーさんは目を細め、盃の水面に映る夕焼けを眺めた。
「よっしー」
俺は相棒の脇にしゃがみ込む彼に声をかけた。彼は胸ポケットから、あの紙の葉――サンドワームの時に届いた“嫁のメッセージ”を出して、もう一度読んでいた。
「……帰るで。いつか絶対に。ほやけどな――」
彼は空を見上げ、笑った。
「この世界で“良い拍”を拾って、持って帰る。せやから、明日も頼むで、相棒」
「イエーイ」
俺は笑って拳を掲げ、彼の拳とそっと合わせた。ニーヤも前足でちょん、と拳合わせ。リンクは鼻でコツン。ブラックは爪先でコチコチ二拍。エレオノーラは矢羽根で小さくリズムを取り、クリフさんは弦を軽く弾いた。ラヤは歌の母音を一つだけ漏らし、ミラは針で“へ”を、もう一つ袖に縫い足す。キリアは小鍋の下の紅炎触媒に布を一枚かませ、火を“やわらかく”した。
その夜は、ソラハタの段に寝転び、星の拍を数えた。遠くで箏の谷がもう一度だけ「ボン」と鳴き、眠りの合図をくれた。
◇
翌朝。片付けをしていると、村の子が駆けてきた。
「旅のひとー! 南の砂尾根で、火の柱見たって!」
火の柱。――炎術士の“槍”とは違う、もっと太く長いものだろう。あれだけ叩いたのに、まだやる気か。俺は旗を握り直し、ニーヤは杖を肩に担いだ。よっしーは相棒に毛布を外させ、FZRに跨るエレオノーラが顎で合図。
「行く先は南か?」
ラヤが地図歌の余白を指で撫でた。そこには、薄く書かれた地名――ハダル塁。数の配達網の南の拠点。赤砂の弦や炎術士が拠り所にしている場所らしい。
「二、三話先で移る予定やった“次の地域”に、ちょうどええのが用意されとるな」
よっしーが皮肉を飛ばし、俺は笑い、そして頷いた。
「行こう。谷は抜けた。次は、数の街道の“心臓”を見に行く」
ソラハタの老女が段の上から手を振る。「拍を忘れんように」と。俺たちはそれぞれ、短く礼を返し、相棒とFZRに乗り込んだ。リンクが肩で身を低くし、ブラックはダッシュボードの隅で目を細める。舳鈴は布越しに静か、旗は軽く、掌の水は澄んでいる。
「よっしゃ――ボリューム、ちょい上げで南へ!」
「イエーイ!」
カセットが回り、砂の畝がリズムを刻む。遠く、砂尾根の向こうに細い煙が揺れた。火の匂い。――その先に、次の拍が待っている。
そして、ニーヤは窓の外に杖を突き出し、小さく呟いた。
「今日も凍らせて参るニャ」
俺は笑って、ハイタッチの手を上げた。
ぱちん。
――砂は固く、風は甘い。低く、遠くへ




