雲梯渓、山の背で鳴るもの
1)空から山の背へ
アウライの朝靄が薄くなるのを待って、俺たちは風端を降りた。浮都の外縁を一周する板道の下で、山並みは海の波みたいに重なり、北東にかけては鋸の歯のような稜が空を噛んでいる。そこが雲梯渓――山背の骨がむき出しになった峡だ。
「地図、確認。ここから吊り橋三本、片側だけ柵や。高所恐怖症は目ぇつぶっとき」
よっしーが笑いながらセドのボンネットを軽く叩く。今日は麓の集落までセドで、その先の峠はバイクに乗り換える段取りだ。
「我が主人。本日は“五環”の稽古ニャ。風・水(空)・土・鈴(音)に“木”の薄輪を添えるニャ。山は樹の呼吸で出来ているニャ」
ニーヤが杖の先で、空中に小さな年輪を描いた。すうっと輪が広がり、風の流れがほんのり甘い匂いに変わる。
「あーさん、面は任せる。木の面って、俺にはまだ想像がつかない」
「承り候。**空鏡**に“樹面”を写す稽古、致しましょう」
クリフさんは矢羽根を撫でただけで、何も言わない。その代わり、少し顎を上げて風鳴りを聞いていた。リンクはダッシュボードで二段ジャンプの準備運動、ブラックはマストの端で羽を震わせ、東風の**節**を数える。
セドのエンジンが低く唸って、山道へ。空の舟と違って、ここでは重量が味方だ。四つのタイヤが大地の骨に噛み、俺たちをゆっくり押し上げる。
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2)吊り橋、谷風、そして木の薄輪
一本目の吊り橋。板は乾いて軽く、踏むたびにポンと小さく鳴る。谷底は霧。風が横を抜けると、橋全体が弦みたいに震える。
「木輪・薄呼」
ニーヤが囁くと、橋板の下に見えない年輪が描かれる。
あーさんの空鏡が橋の表に薄く重なり、俺は旗で〈空白〉を板と板の間に置く。
よっしーは盾で角を落とし、クリフは弦で拍を整える。
リンクが板のつなぎ目をトトンと二段で示し、ブラックが橋の上で一振、谷風の背を撫でた。
橋はきしみをやめ、木の呼吸で揺れた。
――木輪は“抑えつける”のではなく、“息を合わせる”のだと、体が理解する。
二本目。谷風が右から左へ強く吹く。橋の支柱に苔、板に樹液が滲む。
「滑るで。速度落とす」
よっしーがハンドルを切り、セドは赤子を抱くように橋に乗る。
俺は旗で〈縁留〉を足し、ニーヤは木輪・節守で古い板の節を撫で、あーさんは樹面を映し替える。
クリフは矢を番えず、ただ風を聴く。リンクは尻尾をぴんと立てて“ここ危ない”を体で教える。ブラックは橋の前後で風を仕切り直した。
三本目。谷の向こうに、雲梯渓の門が見えた。
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3)榧の翁、樹師
麓の集落は、山の背に沿って細長く伸びている。屋根は板葺き、軒からは木札が吊られ、風に合わせてコトコト鳴る。
集落の外れ、大榧の根元に、樹師がいた。
白髪というより白樹皮のような髪、節の多い手が、触れたものから埃の音まで聞き分ける。
「木輪の稽古に来たのか」
翁は俺たちの足音を数え、頷いた。
「山を渡る者は、木の呼吸に寄り添え。押すな、斬るな、撓ませて戻す」
翁の前で、俺たちは輪を描いた。
風・水(空)・土・鈴(音)に、木の薄輪を添える。
〈拝〉〈返〉〈送〉に、〈撓み〉の一拍。
ニーヤの氷結弾は尖らせず、絞った露として葉先で震える。
あーさんの空鏡は水面だけでなく、年輪の淡い線を写す。
よっしーの盾は角を落とした先に弾力を作り、クリフの弦は“撓んで戻る”音を探す。
リンクは跳ぶ直前にわずかに沈み、ブラックは上空から“撓みの谷”を見つけてそこへ一筋の風を落とした。
「――よかろう」
翁が目を細める。
「五つの輪を重ねたな。……だが、山は向こうからも見ている。鎖は木の節を嫌い、火は樹液を愛し、影は根を求める。忘れるな」
翁は榧の幹を一度、とんと叩いた。
山の奥――雲梯渓の方から、低い唸りが返ってきた。
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4)峠へ――二輪と四輪
集落から先は、車幅が一気に狭くなる。
「ここからはバイクの出番や」
よっしーが虚空庫から1988年の愛車を出した。空冷二気筒、軽くひねるだけでドドドと鼓動が路面を叩く。
「俺は旗とリンクをセドに。ニーヤとあーさん、どっち乗る?」
「わたくし、ユウキさんの隣で“樹面”を保ちまする」
「ニーヤは後ろ、風の拍を感じるニャ」
「任せた」
クリフさんは荷を最小にしてバイクの後ろ。ブラックはマストからバイクのテールへ、風背をひと筋。
ハッサンは徒歩で細道の“罠”を見に走る。
峠道は、崖側に木の吊り桁が続く。下は雲。上は岩の張り出し。
よっしーのバイクが先行して路面の拍を刻み、セドはその拍に重ねて撓みを合わせる。
リンクは窓から顔を出し、二段で合図。
あーさんの盃はこぼれない。水面は揺れず、面だけが薄く撓む。
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5)鎖音と雷熔
峠の一番細い背で、鎖の鈴が鳴った。
白鎖だ。
鎖は石に触れず、空中で輪になって共鳴している。鎖を鳴らして“木の節”の位置を狂わせる――鎖音。
反対側の張り出しに、炎糸が腰をおろし、指で火を転がしている。火は赤くない。紫がかった白――雷の核を熔かした火、雷熔。
「やぁ。山の礼はどう?」
炎糸がにやりと笑う。「遊びに来たよ」
鎖の輪がキンと鳴り、橋桁の節がずれた。
木の呼吸が半拍乱れる。橋が撓みではなく跳ねに変わる――落とす気だ。
「木輪・節守/鈴条・縫!」
俺は旗で〈空白〉を“外れた節”に差し、ニーヤが木輪で節の呼吸を戻す。
あーさんの空鏡と盃が、木の表に薄面を重ね、よっしーは盾で角を落として撓みをつくる。
クリフの節矢が鎖の逆拍に打ち込まれ、リンクは二段で板間を押さえ、ブラックが上から風背を撫でた。
鈴の一条――無鈴を指に転がしてチ。鎖音に**“縫い目”**ができる。
そこへ雷熔が走る。
木は火に弱い。だが、“熔ける雷”は音にも面にも絡む――厄介だ。
「氷結弾・露連!」
ニーヤの白珠が露になって木肌を冷やし、雷の舌を鈍らせる。
あーさんの空鏡が熱の面を分割し、俺は旗で〈送〉の間を伸ばして熱の居場所をズラす。
よっしーは盾を撓ませ、クリフは弦を緩めて雷の音を逃がす。
リンクが二段で火筋の上に影を落とし、ブラックが上からひと振で風の舌を引っ張る。
雷熔は焦れ、白鎖の鎖は音痩せた。
「ほんと、旨いな」
炎糸は笑い、指の火を小さくした。
白鎖は鎖を肩にかけ直し、橋をじっと見た。「……美」
その影で、黒涌が沈んで聴く。
声もなく、ただ根の方へしみ込むように。
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6)雲梯渓の背骨
鎖音と雷熔が退くと、峠の先は一気に開けた。
背骨が空に露出し、白い石が連なる稜の上に、古い木橋と樹の鳥居が点々と置かれている。
鳥居はどれも片側だけ脚が木、もう片側は石。風・水・土・鈴・木――五つの輪で渡れ、という記号だ。
「“骨の第二断章”、この先」
指標の羽がぴたりと止まった。
ハッサンが「ここからは足で」と手を振る。
「罠は少ない。けど、倒木の橋は“撓み”を合わせんと折れる」
倒木の橋は、足裏に畳みたいな柔らかさ。
俺は旗で〈撓み〉を置き、ニーヤが木輪を薄く回す。
あーさんの空鏡は年輪を見えるようにし、よっしーは盾の端でわずかに押して撓みの芯を探す。
クリフは弦の張りを木に合わせ、リンクは二段で合図、ブラックは上から風背をすっと一筋。
木は折れなかった。
橋を渡り切ると、盤のような石に古い彫りが現れる。
〈山背、鳴りやむるとき、骨は下に眠る〉
「下?」
見れば、樹の根元に落ち口がある。
風は下からひやりと上がってくる。木の匂い、土の匂い、そして鉄に似た匂い。
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7)樹根の洞、そして声
洞は狭く、くだるほどに音が吸われていった。
無鈴を指で転がす。チ。
その一音ですら、厚い土に吸い込まれる。
「“沈聴”があるニャ」
ニーヤが囁く。
黒涌の聞き耳――音の骨を盗む術だ。
洞の底。樹根が絡む空間に、薄青い板石がうずもれている。
これが“骨の第二断章”だ。
だが、板石の縁に鎖が絡み、石の上に焦げがある。
白鎖と炎糸――ここに既に手を入れている。
「引くぞ。礼で」
俺は旗を胸に、五環を重ねた。
風・水・土・鈴・木。
〈拝〉〈返〉〈送〉+〈撓み〉。
あーさんの空鏡が面をひらき、ニーヤの輪が薄く回る。
よっしーは盾で角を柔らげ、クリフは弦で節を結い直す。
リンクは二段で高さを示し、ブラックが上から風背を撫でる。
板石がうすく光り、鎖は音を失い、焦げは冷えた。
胸の指輪がちりと鳴り、骨の**文**が旗へ――
その瞬間、根がうごめいた。
「根喰み!」
ハッサンの叫び。
黒涌が仕掛ける根の影――見えない“根”が、足首を絡め取ろうと伸びる。
「鈴条・断根!」
俺は無鈴を指で転がし、チを三つ。
音の一条が根の影を断つ。
ニーヤの氷結弾・糸目が影の縁を縫い、あーさんの空鏡が薄面で“根の表”をそらす。
よっしーの盾が押しても倒さず、撓ませて戻し、クリフの矢が節を留め、リンクは二段で根の向きを変え、ブラックが上から風背をひと筋。
根喰は引いた。
板石は完全に旗へ移った。
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8)山は覚えている
洞を出ると、樹師の翁が待っていた。
何も言わず、榧の幹をとんと叩く。
山の背が一拍、深く息を吸って吐いた。
「お前らの礼は、山の記憶に入った。使いに来るだろう、あれらが」
翁の目は笑っていない。
「黒涌は根へ降り、白鎖は節を外し、炎糸は樹液を甘く見る。……お前たちの撓みが、山の骨を折らぬことを願う」
「肝に銘じます」
俺は頭を下げる。
よっしーも珍しく真顔で「銘じる」と言い、ニーヤは杖を胸に、あーさんは盃を額に当てた。
クリフさんは弓を背に、リンクは背筋を伸ばし、ブラックは上で円を一つ描いた。
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9)峠返し――罠と相殺
帰りの峠で、鎖音がまた鳴った。
だが今度は橋桁ではない。俺たち自身の中の“節”――呼吸の拍を狂わせる狙いだ。
「ふぅん、内側に打つのね」
炎糸が楽しそうに笑い、雷熔を指の上で転がす。
黒涌は見えないが、沈んで聴くの気配がする。
「鈴帳・相殺」
鈴の島でもらった**『鈴の帳』。ページを一枚開くと、線が現れて俺の脈に重なる。
無鈴を指に転がし、チ。
内側に入った鎖音の位相を、音の骨でほどく**。
ニーヤの木輪・撓拍が俺たちの足拍を揃え、あーさんの空鏡が面を整える。
よっしーは盾で角を落とすふりをして、実は鎖の拍をズラす。
クリフは弦で節を修正し、リンクは二段で“ここ”を示し、ブラックが上から風背を撫でる。
内の拍は戻り、鎖音はすべり、雷熔は絡む場所を失くした。
「今日のところは、ね」
炎糸が肩をすくめる。
白鎖は鎖を肩に、短く「美」とだけ言って、背を向けた。
黒涌は最後まで沈んでいた。聴き終えて、根へ沈む。
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沈む。
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10)麓の宴、そして“登場人物紹介の回”の予告
集落に戻ると、翁が榧の実を煎って待っていた。
よっしーは虚空庫からたこ焼き器を、俺は鈴守の島でもらった香草を、ニーヤは山葵に似た根を刻み、あーさんは盃で山水を汲む。
クリフさんは弓の弦を張り替え、リンクは子供たちと跳んで遊び、ブラックは梁の上で見守る。
「ユウキさん」
あーさんが盃を差し出す。「良き撓みでございました」
「ありがとう。……あーさんの面がなかったら、折れてた」
よっしーが缶をプシュと開けて、「日本から嫁はんのメッセージや。“山の空気、うらやましい。無事に帰ってきてな”やって」
胸の指輪がちりと鳴って、少し、目の奥が熱くなる。
リンクが俺の膝に額を押し付け、「キューイ」。ブラックがそっと肩に降りる。
「そうだ」
俺は鞄から**『鈴の帳』を取り出した。
「登場人物紹介の回――きちんとやる。鈴の帳に、俺たちの拍をまとめてから、次の節目で読者**に渡そう」
「どの節目にする?」
よっしーが笑う。
「雲梯渓―鈴の島―山背、ここでひと段落や。次の宙路に出る前、空都・瑠璃環でやろか」
ニーヤがすっと指を立てる。「三話先くらいが拍として美しいニャ」
「決まりだね」
クリフさんが短く頷き、あーさんが「承り候」と微笑む。
リンクは二段でくるりと回って「キューイ」、ブラックは梁で円を描いた。
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11)風骨通信――次の矢先
夜。
榧の上で風が低く鳴った。
指輪がちり、旗の裏の鈴文が温かい。
――東北・瑠璃環空都。
――骨の第三断章、宙路の輪に嵌まる。
――白鎖は“鎖梯”を掛け、炎糸は“火玻”を吹き、黒涌は“空根”を掘る。
――風は通す、が、音を試す。
風はそれだけ告げ、また軽くなった。
「ルート確保。セドは麓まで、空路は帆車を借りる。バイクの峠越えはここで終わりや」
よっしーが地図を畳む。
「我が主人、“音”の骨が試されるニャ。鈴条の変化、練るニャ」
ニーヤが杖を抱いてふぁ、と欠伸。
あーさんは盃の面に星風を写し、「読みの回の準備、楽しゅうございます」と囁いた。
クリフさんは弦を弾かず、ただ張りを確かめ、リンクは丸くなって規則的に息をし、ブラックは梁で一振りしてから眠った。
榧の外で、風がチ・リン・リ。
輪は、また次へ。
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12)小さな挿話:山のメール
寝床に入る前、よっしーがぽつりと言った。
「なぁユウキ。ワイのあっちにメッセージ送れるスキルなんやけどや、
圏外でも、なんや奥の奥で一個だけ、既読付くときあるねん。たぶん鈴の島の無鈴経由なんやろな。……不思議な圏内や」
「うん」
「全部は返せんけどな。一言だけ、“大丈夫”って送ったわ」
俺は目を閉じる。
指に挟んだ無鈴が、チと一度だけ鳴った。
大丈夫――鈴の骨が、確かに返してくれた気がした。
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次回予告
• 瑠璃環空都――宙路の輪で鳴る“音”の骨。
• 白鎖の鎖梯、炎糸の火玻、黒涌の空根。
• ニーヤは鈴条の変化“返鈴”を会得、あーさんは空鏡に“音面”を張る。
• よっしーのセドは帆車に牽引され、クリフは滑空矢で空路の節を射抜く。
• リンクとブラックは宙路の撓みを跳び、俺は旗と指標と鈴の帳で“宙の礼”を織る。
• そして――三話先、登場人物紹介の特別篇。輪と面と節と拍、各自の“得手と不得手”、これまでの“成長”と“鍵の場面”をまとめます。楽しみに。




