海王の眼(まなこ)、月環の誓い
1)港町ミュラの朝靄
藍玻海原の外輪に寄り添う港町――ミュラ。
白壁と青瓦の家々が斜面に段を作り、夜の名残りの霧が、屋根から屋根へ薄い絹のように渡っていく。波止場では貝鈴を編む娘たちの笑い声、沖では小舟が潮だまりを回収している。魚と香草の匂いに混じって、遠く灯台の油の匂いがした。
「今日は“海王の眼”まで行って、拍を確かめる。帰りは潮次第や」
よっしーが路地に停めた相棒のカバーを外し、バッテリーを軽く見て頷く。
「途中の稜線道は狭い。セドとバイクの混成で行く。……ソジ、グルマ。おっちゃんらは町で待機や」
「なんや置いてく気か若造!」
「俺たちゃ潮が嗅げる男だぜ?」
ソジとグルマがわめくが、あーさんが微笑んで扇を傾けるだけで、二人は肩をすくめて「ははぁ」と引き下がった。
リンクは窓辺の陽だまりで背筋を伸ばし、ブラックは屋根の棟で朝日をひと口、という仕草をする。ニーヤは帽子のつばを指で持ち上げ、俺の目を見て頷いた。
「行くニャ、我が主人。**眼**は、潮の勉強をしたがっているニャ」
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2)灯台稜線、石の背
ミュラの上手から伸びた石畳は、稜線に沿って細い背骨のように続く。左は崖下に蒼の深み、右は急峻な藍の入江。
先導はクリフさんの’88バイク。弓を背負い、視線は裂け目を追っている。よっしーのセドは二番手、俺とあーさん、ニーヤ、リンク、ブラックを乗せた。風が強まるたび、あーさんが掌の盃の水で面を作り、突風を滑らせていく。
「見ろ、あれが灯台稜線の風穴だ」
クリフさんが手で合図する。稜線の途中に、岩が風で穿たれてできた大きな穴。そこから吹き上げる気流が、潮と拍を歪める。
「ここは月環で“引き”、あーさんの水鏡で“受け”、俺の**〈空白〉**で“遅らせる”。……合わせよう」
「はい、ユウキさん」
ニーヤが細い輪を三重に描き、あーさんが水の面で角を丸める。俺は旗で前方に半拍の空白を置き、よっしーがそこへ車体を“そっと”落とす。
風音が一段、低くなった。稜線の石は、拍を許した。
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3)海霧の檻と、炎の矢
灯台の手前で、海霧が立った。突然の白。視界が一気に二間に縮む。
霧の中に、火の粒がゆっくり現れては消える。
「炎の矢だ!」
クリフさんが身を伏せる。
次の瞬間、霧の奥から鋭い火矢が三射。稜線の石に突き立ち、蒸気が爆ぜる。足場が濡れて滑る。
「我が主人、氷結弾・霧割いきますニャ!」
ニーヤが杖を突き出し、白い弾を散弾のように放つ。霧が点で凍り、そこから裂ける。
あーさんの水鏡が広がって蒸気の“舌”を受け、俺は〈返礼〉で火矢の“節”に拍を置く。
クリフさんの矢が凍った霧の“喉”を射貫き、火矢は空しく砕け散った。
「姿を見せろや!」
よっしーが盾を上げ、セドのクラクションを短く二度鳴らす。霧の奥から、布のフードの集団がぬっと現れた。肩には貝殻の徽章。潮祀の魔法師たちだ。
中央の女が低く詠唱し、指先に赤い印。次のフレア・アローが、霧の中で“曲がった”。
「曲射か!」
「月環で“引き”、日環で“温め”、氷結弾で“止める”ニャ!」
ニーヤが二環を重ね、火矢の熱をずらす。俺は〈空白〉を火矢の鼻先に置き、鼻落としにし、クリフさんが射抜いて終止符。
炎の術者が舌打ちし、霧の向こうへ退いた。
霧が薄れ、灯台の白塔が姿を現す。塔の先、遠い海に――巨大な輪。泡の冠が七つ、うっすらと並んでいた。
「……海王の眼」
あーさんの声が、潮騒に沈んだ。
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4)灯台の眼――羅針合せ
灯台内部の螺旋階段を駆け上がる。最上部の床には古い羅針盤の盤面。俺の潮羅針を重ねると、針がぴたりと止まり、真東を示した。
盤面の周囲に、古代の刻印。〈拝/返/送〉に、〈引/満/緩/早〉。七拍の環が刻まれている。
「順番に貝鈴を鳴らす……いや、鳴らしてはいけない。黙奏や」
俺は旗を胸に、深く息を吸う。
〈拝〉で一歩低く、〈返〉で両掌を返し、〈送〉で輪を離す。〈引〉で息を細く、〈満〉で胸を開き、〈緩〉で肩の角を落とし、〈早〉で踵を軽く払う。
ニーヤは杖で日月二環を薄く、あーさんは水鏡を浅く、よっしーは盾で小さな円、クリフさんは弦を撫で、リンクは二段、ブラックは一振。
――音のない演奏が、塔の上で完成した。
海の向こう、泡冠のひとつがす、と沈む。
青の道が細く光る。
「行け、今や!」
よっしーが塔を駆け下り、セドのエンジンが一発で目を覚ます。クリフさんのバイクが先行し、俺たちは灯台稜線を駆け下りた。
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5)青の細道、白鎖の波目
灯台の岬を回り込むと、藍の表面に一本の光が走っていた。そこが“青の細道”。
舟に乗り換え、羅針と目を合わせて舵を切る。風は追い、潮は弱い。……が、
「鎖の匂い」
ニーヤが耳を伏せると同時に、海面に白い輪がぱん、と張られた。白鎖の“波目”。
「灼環・潮版」
遠く、炎糸の声。見えない蒸気の刃が波目を走る。
俺は月環を示し、あーさんが水鏡、ニーヤが二環で熱と湿を分ける。
よっしーが盾で風を受け、クリフさんの矢が節を断ち、リンクが二段で“間”に印を付け、ブラックが上から一振で波目を切る。
蒸気は丸まり、白の輪は解ける。
『――起きるよ』
白鎖の声が水の底から涼しく響いた。
海の大地が、呼吸した。
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6)海王、まどろみの瞼
どこまでも藍の平面が、ふくらみ、たわみ、七つの泡冠が深呼吸に合わせて上下する。
大きすぎて見えない身体。けれど、そこに“眼”があることだけは分かる。
俺は旗を胸に押し当て、指輪を感じる。アンリの涼しい気配が指の骨に広がる。
「礼を――送る」
七拍。〈拝〉〈返〉〈送〉、〈引〉〈満〉〈緩〉〈早〉。
ニーヤが日月二環で輪に沿って薄く流し、あーさんの水鏡が面で受ける。
よっしーは盾の角を落として円を描き、クリフさんは弦を沈め、リンクは二段で“間”を指し示し、ブラックは高みで円を描く。
泡冠が、二つ、三つと下がる。
海王は、怒っていない。確かめている。
――そこへ。
「炎の矢・連環!」
炎糸の詠唱。海霧の向こうから、連鎖する火矢が、礼の輪を焼き切ろうと直進してきた。
同時に、白鎖の“黙字”が礼の骨を抜きにかかる。送潮を無音にし、渡させない。
「ニーヤ!」
「氷結弾・連珠!」
白い弾が数珠繋ぎになって飛び、連なる火矢の節を次々と凍らせる。
「あーさん!」
「水鏡・薄面!」
水の薄い面が幾重にも並び、火矢の熱を薄める。
「クリフ!」
「節矢・三連!」
矢が火の“関節”を正確に断ち切る。
白鎖の黙字が、輪の骨を抜こうと締めを強める。
俺は旗で〈空白〉を骨の座へ置く。抜かれる前に、そこへ**“空”**を差し込む。
――骨は、そこに在る。抜けない。
泡冠が六つ目まで下がる。海王のまなこが、うっすらと開く。
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7)暴きの術者――“黒涌”の女
礼が通ろうとしたその時、海面の別方向で墨色の柱がぼこりと立ち上がった。
霧でも火でもない。影が水に湧く。
フードの中から笑う声。
「――“骨”を見つけるのが得意でね」
**黒涌**の術者。潮祀の異端。影を沸かせ、骨を暴き、弱める。
黒い柱が礼の輪の結び目に触れ、冷たく崩していく。
海王のまぶたが僅かに重くなった。
「リンク!」
「キュイ!」
リンクが二段ジャンプで柱の上面にサマーソルトを叩き込み、反動でさらに高く跳ぶ。ブラックが上から風を落として影をほどく。
ニーヤの氷結弾・芯抜が柱の芯を凍らせ、あーさんの水鏡が面ごと薄く剝がす。
よっしーは盾で小波を押し返し、クリフさんの矢が影の口を射抜いた。
黒柱はぱんと弾け、海に黒い泡が散る。
「見事」
黒涌の女が肩をすくめると、白鎖の影がかすかに揺れた。炎糸は指を止め、興味深げにこちらを見ている。
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8)七拍目――送潮の一閃
最後の泡冠が、ゆっくりと下がる。
俺は旗を胸に、指輪をぎゅと握った。アンリの声が、遠い森の冷たい朝の匂いで背骨を撫でる。
優しさを忘れるな。
――分かってる。
「送潮」
声にならない声で告げ、旗の先で空をひとつなぞる。
ニーヤの二環が輪郭を薄く、「月」が潮を引き、「日」が温度を整え、あーさんの水鏡が面で包む。
よっしーの盾が最後の舌を丸め、クリフさんの弦が微笑み、リンクが二段で印を結び、ブラックが高みで円を閉じた。
海王のまなこが――開いた。
海が、笑った。
青の深みが、ひと呼吸ぶんだけ軽くなる。
羅針の針が震え、はるか東を指した。
海王の承認。次の道を示す礼が、返ってきたのだ。
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9)白鎖の掌、炎糸の舌
白鎖が鎖を肩に掛け直し、こちらを見た。
「――美」
短い、けれど満腹のような言葉。
炎糸が指先で火を転がしながら笑う。
「お前らの礼は旨い。……いや、美しい、か。どっちでもいいや。――今日はここまで。海王が起きたら、“祝盃”をあげよう」
「祝盃は食うんやないぞ」
よっしーが悪態を小さく吐き、俺は笑いをこらえた。
黒涌の女はフードの陰で「またね」と唇だけで言い、三人の気配は潮の目へとほどけていった。
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10)帰港――ミュラの夜更け、潮鈴の音
青の細道が消える前に、俺たちは舟を返し、灯台稜線を辿ってミュラへ戻った。
港には潮の小市が立ち、貝鈴の音が涼しく続く。ソジとグルマは屋台の後片付けを手伝いながら、俺たちを見るなり走ってきた。
「どうだった、海王は!」
「起きた。礼を返してくれた」
「マジかよ……!」
二人の目が、少年みたいに輝く。
宿のテラスで、よっしーが虚空庫から鉄板を出す。たこ焼き会、再び。
香草のスープも合わせて、ミュラの夜は急に大阪の片隅みたいになった。
「おかわり!」
「こらソジ、リンクの分も残しとけ」
「キュイ!」
ブラックが欄干に止まり、三日月を横目で見て「ン」と短く鳴く。
食後、あーさんが小さな包みを差し出した。
「ユウキさん。先ほど“眼”で受けた返礼で、盃の中に潮珠が結ばれました。三粒。道中でお役立てくださいませ」
「ありがとう、あーさん」
掌にのせると、指輪がひんやり応える。俺は胸の熱をそっと息に変え、「助かる」とだけ言った。
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11)真夜中の打合せ――東の外輪へ
地図を広げ、潮羅針と灯台の盤、太陽塔で写した潮図を重ねる。針は東へ――玻璃の外輪を抜け、さらにその先、翡青列島の影。
「二、三話……いや、二、三日後には、移動しよう」
よっしーがビール缶を指で回して笑う。
「セドとバイクは石の背、海は砂舟。混成でルート組むで」
「我が主人。次は“風”の礼が強いニャ。海王は水の骨。今度は“風の骨”が試されるニャ」
ニーヤが杖の先で砂糖を一筋引いて、風環の仮輪を描く。
「あーさんの水鏡とケンカしないよう、薄く、軽く、早くニャ」
「はい。風の骨を写しまする」
あーさんは掌の盃に息を吹き、波紋を細く重ねた。
「クリフは偵察と護衛の割り振り、ソジとグルマは……」
「飯!」
「と、荷運び」
俺が続けると、二人はえへへと笑って親指を立てた。
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12)潮の寝息、指輪の熱
皆が床についたあと、俺は窓辺で海を見た。波は静かで、港の灯が水面に細い道を作る。
指輪を胸に押し当てる。アンリの笑い声、森の匂い。
“優しさを忘れるな”――あの子の言葉は、潮の骨になって俺の中で鳴る。
「あーさん」
小さく呼ぶと、襖の向こうで「はい」と優しい声。
「今日、助かった。礼を渡せたのは、あーさんの面があったからだ」
「わたくしこそ、ユウキさんの拍がなければ、ただの水でございます」
静かなやり取りに、胸がまた熱くなる。
「……おやすみ」
「おやすみなさいませ」
指輪が、ほんの少し熱くなった。輪が深くなっていく。
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13)翌朝――潮の市の騒ぎと、黒い影
出立の支度をしていると、港のほうがざわついた。
人垣が割れて、水を吸った黒布がずるずると引き上げられる。
黒涌だ。昨夜の女の痕跡。布は骨を探るように地面を這い、魚籠の影に潜り込んで消えた。
「しぶといな……」
クリフさんが矢を一本、布の這った道に伏せて置く。
「踏めば鳴る。見張りは俺が」
「ミュラを巻き込むわけにはいかん。さっさと東へ抜けよか」
よっしーが鍵を回し、相棒がうなった。
ニーヤが帽子を被り直し、リンクが二段で舟の欄干を飛び越え、ブラックが高みから風を読む。
港の子どもが手を振り、貝鈴が鳴る。
俺は旗を肩に、潮羅針を胸に、青の道の先を見た。
「行こう。玻璃の外輪を越えて、翡青列島へ」
――輪は続く。
海王が返した礼は、次の道を照らしている。
白鎖の波目も、炎糸の灼環も、黒涌の影も、全部まるごと抱えて前へ進む。
指輪は涼しく、心は熱い。
拍は、もう合っている。
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次回予告
玻璃の外輪の外、翡青列島へ。
風の骨が支配する風背峠、浮かぶ砂丘“風舟”、そして空を翔る都市アウライ。
炎糸の灼環は潮霧から砂霧へ、白鎖の波目は風目に変じる。
ニーヤの日月二環に新たな薄輪――風環が重なり、あーさんの水鏡が空の面を写す。
よっしーはセドとバイクで風背の稜線を駆け、クリフは滑空矢で空域を制す。
リンクとブラックは青と空の継ぎ目を跳び、俺は旗と潮羅針で“送風”の道を拓く。
――輪は、さらに軽やかに。次の礼を、渡しに行く。




