潮の迷宮、海王の祭殿
1)白砂の朝と、潮の門
東雲がほどけ、蒼玻群島のひとつ、イスタ礁の白砂が金色に染まる。昨夜の野営は浜の背で、潮の息が寝床までふわりふわりと届いた。
よっしーは相棒――セドのボンネットを軽く叩いてから砂よけのカバーをかぶせ直し、バイク(’88)には帆布を掛けて塩気を避ける。クリフさんは弓弦を点検し、ニーヤは鍋に海水を一杯だけ汲んで魔法で塩分を抜き、湯気を立てた。リンクは波打ち際で二段ジャンプ、ブラックは朝日を一口飲むように翼を挙げて「ン」と鳴く。
「本日の行き先は、島の中央やや沖――海王の祭殿や」
よっしーが地図を指で弾き、俺のほうを見る。
「潮が引いてる間しか入られへん。“潮の門”が二刻で閉まる。準備はええか?」
「あーさん、盃の水、今日は多めに頼む」
「承知いたしました、ユウキさん」
掌の盃に、あーさんは露を三滴落とした。透明な輪が増えるたび、胸の指輪が涼しく灯る。輪の水――アンリの贈り物。俺の拍は、それで落ち着きを取り戻せる。
「リンク、ブラック。先行偵察、二段・一振でよろしく」
「キュイ!」
「ン」
砂洲を渡ると、波間に石の門が見えた。入口は二重の輪――外輪は海藻で、内輪は貝殻で埋められている。潮が抜けている今だけ、白い床が顔を出す。
「入るニャ。……でも“言葉は薄く”、拍で歩くニャ」
ニーヤが杖を抱き、舳鈴の袋を布越しに一撫で。音は鳴らないが、拍は鳴っている。
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2)第一環:潮回廊――吸う壁、吐く床
祭殿の中は冷たく、塩の匂いが甘い。長い回廊は左右で拍が違う。右壁は吸う拍、左壁は吐く拍。床の目地が呼吸するように開閉し、遅れた足を飲む。
「右三、左二、床が一」
俺は旗で**〈空白〉の拍を前へ置き、皆の歩幅を合わせる。
よっしーは盾を斜めに構え、吸い込む右壁に角を当てて力を逃がす。あーさんは掌の水で面**を張り、吐く拍の迎えを柔らげる。クリフさんは弦を一度軽く鳴らし(音は出ないが拍が出る)、リンクは二段で床の開口を越え、ブラックは梁の影を飛ぶ。
角を曲がるたび、壁の貝殻文字が「拝/返/送」を繰り返す。太陽塔の庭と似ているが、ここは水が主。礼は湿って、拍は流れる。
出口の前、床に偽礼の輪が薄く刻まれていた。
鎖の擦れた跡――白鎖の手癖。俺は〈返礼〉の拍を輪の外に置き、輪に輪を重ねず、輪郭の外で礼を返す。輪は恥じて淡くなり、かすかな泡になって消えた。
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3)第二環:泡の碑廊――読めない文字、喋る泡
壁一面に碑。けれど文字の骨が抜かれている。かわりに小さな泡が、碑面からふいに生まれては弾ける。
泡は声にならない声で、記憶を模してくる。
「……鹿鳴館の舞踏会で踊った曲の、あの一節が」
あーさんが眉を寄せると、泡があーさんの足もとに寄って、裾を揺らそうとする。
「黙字の泡や。言わせたい。けど、言うたら呑まれる」
俺は旗で〈拝礼〉の拍を碑の欠けの手前に置いた。ニーヤが氷結弾・泡珠を小さく浮かべ、泡の輪郭だけを冷やす。あーさんの水鏡が泡の内側に水の骨を描き、クリフさんの矢が泡の口を先置きで裂く。
言葉にせず、骨を拍で。泡は静かに割れ、碑の欠け目から潮の地図が露わになった。
地図の端に、朱の点。「潮核」。海王の祭殿の**心臓**だ。
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4)第三環:渦の盤座――回る床、立たぬ影
円形の間。床全体がゆっくりと回っている。中心に青い宝珠、その外側に貝の数陣。
そこに――二つの影。
「来たね、輪の外からの君たち」
白鎖が鎖を肩に掛け、目だけ笑っている。その横に炎糸。右手の指先に小さな火。背後の壁に薄く弓の影――シャヒーンもいるはずだが、姿は見えない。
「今日は、海で頂こう。“拍の礼”の味を」
「食うな言うとるやろがい」
よっしーが小声で噛みつき、盾を半ば下げる。リンクが低く「キュイ」と唸り、ブラックが梁に移って「ン」と短く返す。
俺は旗を両手に取り、胸の指輪に爪を触れた。輪は冷たく、心は静かだ。
「三合。潮の礼でやろう。“返潮/合潮/送潮”。黙字はこっち、拍はそっち」
白鎖が鎖を一度だけ鳴らし、渦の盤が半歩速くなる。
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一合目:返潮――戻る水、試す火
炎糸の指が字画を描く。火は潮の字になり、床の数陣を逆方向に撫でる。白鎖の黙字が火を乾かし、潮を奪う。床の回転が一瞬だけ速まる。
返潮――来た水を戻す礼。
「返しは、こちらが得意や」
俺は〈返礼の拍〉を前縁で軽く打ち、あーさんの水鏡を逆相に立てる。水は火の字画を映し返し、乾きを湿らす。
ニーヤが杖を掲げる。
「氷結弾・返波!」
白い小珠が三つ、火の字の継ぎ目を凍らせ、クリフさんの矢がそこで止めを刺す。
火はしゅ、と音のない音で沈む。返潮は、拍の側に返った。
「うん、“良”。次」
白鎖の目が細くなる。
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二合目:合潮――混じる水、灼ける輪
床の回転が逆に触れ、渦が二つに裂けた。左右の渦が合う場所に、炎糸の火が輪を描く。
「灼環」
火の輪は、潮と触れた瞬間、蒸気の刃に変わった。目に見えないほど薄い。乾きと湿りの境目に沿って走る。
よっしーの盾に蒸気が噛み、金属の縁がきい、と鳴る。
ニーヤが舳鈴の袋を握り、帽子のつばを下げた。
「我が主人。日環を薄く三重で、蒸気の“陽”だけを薄めるニャ」
「任せた」
俺は〈空白〉の拍を蒸気の前に置き、蒸気の刃に遅れを与える。ニーヤが日環の輪で蒸気の熱だけを削り、あーさんの水鏡が面で受けて冷やす。
クリフさんの矢は蒸気が合潮で交わる節に先置き。リンクは二段で輪の外へ軽やかに退き、ブラックは梁から梁へ、蒸気の影を踏まない。
火の輪は、冷えた。火でも水でもない、ただの空気になって消える。
炎糸の眉が僅かに動いた。白鎖が甲の内側で鎖を撫でる。
「合も“良”。――送れるか?」
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三合目:送潮――渡す礼、受けない鎖
渦の中心――青い宝珠が脈動を増す。祭殿の心臓は、礼を欲しがっている。
白鎖が一歩だけ前に出た。鎖が輪を作り、胸の前で閉じる。
「送る礼は、こちらで止める」
言葉の骨が抜かれる気配。黙字の圧。
俺は旗を胸に当て、短い息で三拍を刻んだ。〈拝〉で頭を垂れ、〈返〉で受けたものを返し、〈送〉で輪を手放す。
あーさんは盃の水を一滴だけ宝珠に捧げ、ニーヤが杖先で小さな輪を描く。日環は薄く、水鏡は浅く。クリフさんは弦を撫で、よっしーは盾の表で小さな円。リンクが二段、ブラックが一振。
――全員の礼を、一拍に束ねた。
白鎖の輪が、胸の前でほんのわずか緩む。鎖の目が一つ、息を漏らす。そこに水が入る。
宝珠が、受け取った。
渦が解け、床の回転が静まる。炎糸の指から火が落ち、どこにも燃えつかず、ただの温い空気になった。
白鎖は鎖を肩にかけ直し、片眉を上げる。
「今日も、食べないでおくよ」
「よう言うた」
よっしーが小声で笑い、盾を下ろした。
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5)潮核:羅針の心臓と、海図
祭殿の心臓――青い宝珠の台座がゆっくりと開き、薄い盤が現れた。貝殻を磨いたような光沢。中心に針。周囲に細かな刻印。
「**潮羅針**や」
クリフさんが囁く。
「潮の拍に合わせて、裂け目(風や潮の目)を示す羅針。……海の道を“礼”で渡るための道具だ」
俺が盤に指を置くと、指輪の冷たさが針へ伝わる。針がかすかに振れ、東南を指した。刻印にはアストラムの外輪からさらに東――藍玻海原の名。
海は続く。輪も続く。
「道は渡した。……が、そこで終わりはしない」
白鎖が肩越しに言い、炎糸が指先で小さく火を弾いた。
「“海王”はまだ眠っている。君らの礼で、起きるかもしれない。――それが次の拍だ」
「その時も、食うな」
よっしーがまた小声。白鎖の口角がほんのわずかに上がり、鎖の音が一度だけ鳴った。
彼らは渦の影に薄れていく。シャヒーンの気配も、弓の線も、潮の匂いに溶けた。
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6)祭殿外縁:**貝の梯**と、騒がしい来訪者
外に出ると、潮が少し戻り始めていた。急ごう、と言いかけたとき――
「お――い! そこのカワイコちゃんらぁ!」
潮だまりの向こうから、見覚えのある濃い声が二つ。
砂都で兎を狩ろうとしていた二人組が、派手な布を腰に巻いて手を振っている。
「どこの島にもおるんやな、あの濃いのん……」
よっしーが苦笑する。
「おっちゃんら、なんでここに」
「聞くな若造! 潮の噂を追ったら足が勝手にここへ!」
「今晩の夕餉は貝づくしだぜぇ! おっと、その羅針は……いいもん持ってるじゃねえか!」
二人は名を名乗った。背の低いほうがサジ、大柄で腹の出ているほうがグルマ。二人とも陽に焼け、目だけが少年のようにぎらぎらしている。
「……あの時の兎は、もう“リンク”やからな。食材ちゃうで」
俺が念のため言うと、リンクが胸を張って「キュイ!」と二段ジャンプ。サジとグルマが同時にのけぞった。
「進化してやがる!」「暴れ兎やぞこりゃ!」
「……お二人とも、ここは潮が満ちまする。まずは浜へ」
あーさんの一言で、二人はあっけらかんと頷いた。
「へいへい、お嬢の言うとおり。俺ぁ女の人の言葉には逆らわないのが信条でさ」
「お前さっきまで“カワイコちゃんらぁ”とか言うとったやろ」
よっしーのツッコミが潮風に流れて、笑い声が一つ増えた。
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7)浜の夕餉:海とたこ焼きと、拍の相談
浜に戻る頃には、潮はほとんど戻っていた。ぎりぎり。俺たちは互いの背中を軽く小突き合って安堵の拍を合わせる。
よっしーは虚空庫から鉄板を出し、たこ焼き会の準備。サジとグルマが島貝と海藻をどっさり抱えてきて、ニーヤは塩抜きと出汁取り、あーさんは湯を沸かし、クリフさんは串を削る。リンクは貝殻を集めて模様を作り、ブラックは焚き火の上で風を整える。
「……うまいニャ」
ニーヤが頬を押さえ、尻尾までふくらむように満足げ。
「この“粉の輪っか”は、日本の拍やな」
よっしーがビールを掲げて微笑む。
俺は胸の奥がきゅ、となる。日本からの便り――「全力で頑張りや!」のあの文字が、今も熱い。
「さて、次や」
焼けた丸をひとつ頬張ってから、俺は潮羅針を広げた。針は東南を指す。藍玻海原。
「島々の外輪を離れて、青の道に出る。裂け目が多い。……でも、礼が通るとこや」
「砂はセド、海は船。……けど島と島を繋ぐ石の道が一部残ってるらしい」
クリフさんが古い図を叩く。
「そこは車もバイクも行ける。潮止めの刻が短い。拍勝負だ」
「ええやん、相棒の出番や」
よっしーが嬉しそうに手を打つ。
「潮が引いたら石の背を駆け抜け、潮が満ちたら舟で行く。……混成の旅路やな」
「我が主人。日環は“陽”を薄める。蒼い道は“月”も混じるニャ。月環も覚えておくと良いニャ」
ニーヤが杖の先で、砂に細い輪を描いた。
「月は“引く”。潮を引かせる輪ニャ。あーさんの水鏡と合わせれば、“潮の舌”を鈍らせられるはずニャ」
「頼りにしてる。――あーさん、付き合ってくれ」
「もちろんでございます、ユウキさん」
あーさんは盃の水を一筋垂らし、ニーヤの輪に面を張った。潮騒が、ほんの少しだけ静になった気がする。
リンクが二段ジャンプで丸い皿を運び、ブラックが火の上を一度「ン」と渡る。
サジとグルマは手際よく貝を開け、よっしーの鉄板の端で貝バターをじゅうじゅう言わせた。
「おっちゃんら、明日からどうする気や」
「決まってる! アンタらのあとを着いてく!」
「いや待て。命は投げ出すほど値打ちないぞ」
「任せな! 俺たちゃ漂着してもサバイバルで生きるおっさんズだ!」
こいつら、本当に来る気だ。俺は頭をかき、よっしーと目を合わせて苦笑い。
「……なら、拍を守れ。“いっせーの”で走るぞ」
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8)石の背を駆ける:車とバイクと、潮の牙
翌朝。潮は大きく引き、海面から黒い背骨が伸びた。海中道路――古代の石がつながった背。
よっしーがセドのエンジンを温め、俺が助手席で羅針を押さえる。バイクはクリフさん。あーさんは俺のすぐ後ろ。ニーヤは杖を膝に、リンクとブラックは屋根。
「ボリューム上げていくでぇ!」
「イエーイ!」
今度はサジとグルマまで合唱に参加して、ちょっと恥ずかしい。けど悪くない。
石の背は想像以上に細い。左右はすぐ海。潮は戻り始めている。
「右前方五十、裂け目!」
ブラックの合図に、よっしーがハンドルを切る。俺は〈空白〉を裂け目の縁に置き、車体の落ちる半拍を遅らせる。
バイクのクリフさんは減速→二段ガスで段差を飛び、サジとグルマは荷車で必死に追う(なんでついてきた)。
そこで――背の下から黒い影。
「サンドワームの海種――潮噛!」
クリフさんの声。
「我が主人! アイシクルランスで“額”刺すニャ!」
「頼む!」
ニーヤの詠唱は短かった。
「氷結槍魔法」
氷槍が海面を突き破って伸び、潮噛の額にズバンと刺さる。影はびくりと硬直し、波の下へ沈んだ。
俺はサイドミラーで動きが止まったのを確かめ、ニーヤとハイタッチ。
「やったニャ!」
「ナイス!」
「ワイの嫁はんのメッセージ、思い出すわ……」
よっしーがぼそりと言う。
『――大変な事も楽しい事も全力で。日本から応援してるで』
胸の奥が、また熱くなる。言葉はどこまでも届く。礼の骨は、たしかにある。
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9)海霧の襲来と、氷の弾丸
石の背を半分ほど渡ったとき、海霧が立った。白い壁。視界が奪われる。
「弓、効かん距離や……」
クリフさんが舌打ち。
「我が主人、海霧の“舌”を凍らせるニャ。氷結弾・霧割!」
ニーヤが杖を振る。白い弾が次々と霧へ飛び込み、点で冷やし、霧をちぎる。あーさんの水鏡が面を滑らせ、霧の境界を整える。
その隙間を、俺は〈返礼〉の拍で**“抜け道”にする。よっしーはそこを正確に通し、クリフさんはバイクで斜め後ろをぴたり。サジとグルマは……ほんの少し遅れている。
「待て! 戻る拍、半拍だけ」
俺が旗を振り、よっしーが減速**。リンクが二段で荷車の前に跳んで挑発、ブラックが上から風で押す。二人は間一髪で合流した。
「命の恩人!」「姫に誓ってついて行く!」
「……姫ではございませんのよ?」
あーさんが頬を赤くし、扇でそっと顔を隠した。俺は思わず笑って「悪くないぞ、あーさん」と小声で言う。
「もう、ユウキさんったら……」
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10)藍玻海原の手前、潮路の市
石の背を渡り切ると、小さな潮路の市があった。潮の合間に開く仮市場。帆布の屋根が波のように並び、貝貨が飛び交う。
よっしーはすばやくセドを帆布の陰に入れ、塩水の洗い場で下回りを流す。バイクも短時間でケア。
俺たちは補給と情報収集に散った。
「潮羅針の針先が震えてる。……“波目”が近い」
クリフさんが羅針を覗き込む。
「白鎖の“波目”やろな。向こうも海図を喰って学んどる」
屋台の老婆が言う。「今宵、潮の灯が立つよ。海王が寝返りをうつ夜だ。旅人なら、拍を合わせて過ごしな」
ニーヤは干し魚を眺め、リンクは果物屋の前で尻尾を振り、ブラックは柱の上で見張る。
俺は羅針と塔で写した潮図を重ね、次の足取りを決めた。
藍玻海原――そこは水が深く、空は近い。海王の寝床がある。
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11)潮の灯の夜:拍の稽古と、月環
夜。海上に灯が点々と立ち、遠く近くの波が光る。市は静かに黙刻に入り、言葉は薄く、拍が濃い。
俺たちは浜から少し離れた岩棚で拍の稽古をした。〈拝〉〈返〉〈送〉――それに、輪の水。
ニーヤが新しい術を教える。
「月環。日環の“陽”を薄める輪に対して、月環は“引く”。潮を引かせ、裂け目を閉じ、舌を鈍らせるニャ。……やってみるニャ」
俺は旗で〈空白〉の拍を置き、あーさんが水鏡を薄く広げ、ニーヤが月環を細く重ねた。
潮風の刃が、音もなく丸くなる。
「……できる」
「ユウキさん、呼吸が静かでいらっしゃいます」
「指輪が手伝ってくれてる。アンリになんか送らなきゃな」
「お姫様抱っこ、でございましょうか」
「あの子は要求が過激だからな……別の礼で」
俺が苦笑すると、ニーヤが「ふふ」と肩をすくめ、リンクが「キュイ」と跳ね、ブラックが「ン」と短く答えた。
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12)藍玻海原へ:潮王の寝息、そして“起きる”気配
明け方。潮の灯が消える頃、俺たちは再び舟へ。羅針は東南を指したまま微動だにせず、針の根本が淡く青い。
藍玻海原。
波は大きくないが、深い。空は群青の底。海鳥の鳴き声が途切れ途切れに落ちる。
やがて、海面に巨大な輪が見えた。泡で縁取られた、自然ではありえない円。
「海王の寝返りや」
クリフさんが低く言い、よっしーが舵を切る。
泡の輪の外側を回り、羅針の示す割目を探す。そこは送礼を通した者だけが渡れる細い道だ。
――だが。
「鎖の匂い」
ニーヤが耳を伏せた。同時に、海の上に白い輪がぱんと張られる。
白鎖の“波目”。
「灼環・潮版!」
炎糸の声。見えない蒸気の刃が波の目を走る。
俺は月環を合図し、あーさんが水鏡を重ね、ニーヤが日月二環で蒸気の熱と湿を分けた。
よっしーが盾で風を受け、クリフさんが矢で節を撃ち抜く。リンクは二段で高く跳び、ブラックが裂け目の上を一度だけ「ン」と斬る。
蒸気は丸く、波目はほどける。
――ただ、向こうも笑っている。
「起きるよ」
白鎖の声が、波に溶けて届く。
海の底から、音のない音が来る。
海王が、眼を開ける。
⸻
13)海王のまどろみ:泡冠と、輪の心
海が、ふくらむ。輪が重なる。影が長く、深く、優雅に伸びる。
姿は――大きすぎて見えない。ただ、泡の冠が海上に七つ、規則正しく並んだ。
「七拍……」
俺は数える。〈拝・返・送〉に、潮の〈引・満・緩・早〉が乗って七。
あーさんが盃を胸に寄せる。ニーヤが杖を抱える。よっしーが息を整え、クリフさんが弓の握りを浅くする。リンクが尻尾をゆっくり振り、ブラックが高みで円を描く。
「礼、渡そう」
俺は旗を胸に当て、七拍を打つ。
〈拝〉で頭を垂れ、〈返〉で受けた潮を返し、〈送〉で輪を離す。〈引〉で月に預け、〈満〉で太陽に返し、〈緩〉で風に任せ、〈早〉で刃を丸める。
ニーヤの日月二環が輪に沿って薄く流れ、あーさんの水鏡が面で優しく受ける。クリフさんの弦が拍を合わせ、よっしーの盾が舌を抑える。
リンクが二段で**“間”を示し、ブラックが一振で“合図”**を切る。
泡冠が、ひとつ、下がった。
海王のまどろみは続く。だが、怒っていない。確かめている。
「よし、通す」
羅針の針が、真東に跳ねた。
泡の輪の一部がほどけ、細い青の道が現れる。
白鎖の気配が、少しだけ遠くなる。
「また、先で」
「食うな。……いや、観てろ」
よっしーが笑い、舵を切る。舟は青の細道に乗り、音もなく滑り出した。
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14)青の道の果て、小さな港町
半日。青い道はときに消え、ときに濃く、俺たちは羅針と拍で走った。
夕刻、小さな港町が見えた。白壁の家々が斜面に張り付き、屋根は青い瓦。桟橋の先に灯台。市場の軒には南果が吊られ、人の声が夕焼けに混じる。
「今夜はここやな」
よっしーが相棒を桟橋の横に停め、バイクは倉の影に。
宿は思いのほか清潔で、窓からは海が広がる。俺たちは荷をほどき、汗と塩を落とし、久しぶりにベッドに身を沈めた。
夕餉。港のスープは香草の拍が心地よく、魚は骨まで甘い。たこ焼きももちろん登場し、サジとグルマはローカル酒で上機嫌。
リンクは果実を抱え、ブラックは窓辺で月を眺める。
「ユウキさん」
あーさんがそっと近づき、小さな包みを差し出した。
「こちら、露と塩で固めた“潮珠”でございます。明日の道でも、きっとお役に立ちまする」
「ありがとう、あーさん」
掌に乗せると、ひんやりして、指輪と同じ波の骨が伝わる。
「俺、あーさんの“骨”に、ずいぶん助けられてる」
「それは……皆さまの“輪”の賜物でございます」
あーさんは目を伏せ、微笑んだ。
俺は胸がすこし痛いくらいに温かくなって、外の月を見た。
――輪は、まだ続く。
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15)夜更け、さざなみの便り
寝入る直前。窓の外で、波が一度だけ不自然に跳ねた。
鎖の音。
白鎖の声が、遠くで笑う。
「君らの礼、美味だった。……いや、美しいと言うべきか。次は“海王の目覚め”。そこでまた、会おう」
「食わん言葉、覚えたやんけ」
よっしーが布団の中で小さく突っ込んで、俺たちは同時に笑いをこぼした。
潮の灯が遠ざかっていく。波は静かだ。
明日はまた、青の道。
俺は指輪に触れ、アンリの顔を思う。
――“優しさ、忘れるな”。
大丈夫。忘れない。
礼の骨は、ここにある。
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次回予告
藍玻海原のさらに奥、海王の眼と呼ばれる渦の聖域。
白鎖の“波目”は二重に、炎糸の灼環は“潮霧”に変じる。
ニーヤの日月二環が重なり、あーさんの水鏡が“深みの拍”を映す。
よっしーは石の背と舟を乗り継ぎ、バイクで灯台稜線を疾走。
リンクとブラックは“青の継ぎ目”を跳び、俺は潮羅針と旗で“送潮”の道を開く。
――海王は目を開く。そこで渡すのは、言葉のない「礼」。**




