風脈走りと黒い舌
(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)
朝。梁の鐘は、鳴らさずに塔全体を振るわせ、胸の奥の骨をひとつずつ磨いていくようだった。旗の裾に縫い付けた小さな“E”の布片が、風の節に合わせて微かに震える。梁の札は六つ――セラ、ルゥ、ダン、ウラ、〈家〉、そして〈鐘〉。名は重なるほど、落ちにくくなる。
「本日の工程、表題を読み上げます!」
よっしーが相棒のボンネットに腰かけ、腕を天に伸ばした。平成の朝礼は今日も大きい。
「一番:鈴橋の増設――祈堂の北側“糸庭”まで“鳴らさずに拍子”を運ぶ。二番:記録庫裏口の“舌”を検分し、使えるなら鍵に細工。三番:灯台西の“風溜まり”に薄い橋を一本。四番:物資搬送――本日は相棒ではなく“新顔”を出す」
「新顔?」
俺が首を傾げると、よっしーがニヤァと笑って虚空に手を突っ込んだ。空気が一度だけきらめき、黒い影が地面に落ちる。低いシート、細いタンク、鋭いカウル。四気筒の細い鉄の束が日差しを跳ね返し、メーターの針は眠ったまま前を向く。
「1988年式、FZRや。二輪の相棒――風を刻む刃やで」
「……かっこいい」
セラが素直に漏らし、ルゥとダンが目を輝かせる。ミラは眉をひそめたが、口元だけは楽しそうだった。レオールは白外套の袖を一度払って、「静かに走れるなら歓迎する」と短く言った。
「静かに走る工夫は済んどる」
よっしーはカウルの内側から薄い“鈴皮”を取り出し、エンジンの脇に巻き付けていく。「振動を“拍子”に変換するんや。鳴らへんけど、風は憶える」
「風脈走り、ですね」
キリアが目を細める。「輪の外側の風筋をなぞって、拍子を増幅させる。……やってみたい」
「なら、先導はワイや。ユウキは旗で後ろを“家寄り”に整えてくれ。あーさんは掌の水で“角”を丸める。ニーヤは鈴を布越し、エレオノーラは視線で遠い“返り”を読む。クリフ君は、鳩尾で拍子を受けてくれ。ミラ殿とレオール殿は、糸庭の入口で“段の耳”を背に回す役目や」
「承りました」
あーさんがうなずき、掌の中の水が朝の光を掬った。ニーヤは帽子の上のブラックを撫で、「バイクは猫のように軽やかニャ」と嬉しそうに尻尾を振る。エレオノーラは背の弓を確かめ、クリフさんは矢筒の重さを踵に落とした。俺は旗を肩に掛け直し、裾の鍵束の鈴を一度指で撫でる。鳴らない。けれど、そこに“道”がある。
糸庭の前
糸庭は祈堂の北側、紙道と砂道と細い水路が寄り合ってできた“風の盆地”だ。名の通り、細い糸が庭のように交差する。第三の糸の布教者が好んで立つ場所でもある。箱の影は薄く、けれど、いつでも差し込める。
「いくで、風脈走り」
よっしーがFZRのスタータを軽く踏む――のではなく、掌で鈴皮を撫でた。金属は目覚め、しかし吠えない。喉を低く震わせるだけで、前へと“拍”を押す。砂の上に細い線が生まれ、風がその線を覚える。俺は旗で線の縁を撫で、〈囁き手〉で“家寄り”に。あーさんの水が角をほどき、ニーヤの鈴が鳴らずに擦れる。エレオノーラの目が遠くの光と影を弾き、クリフさんの鳩尾が“返り”を受け止める。
「――よし」
糸庭の入口。白外套と司書長が両脇に立つ。レオールは瞼をすこし重く下ろし、ミラは袖の針を指先で弾く。段の耳は背中に。家の耳は、前へ。
庭に入ると、風は一度だけ迷った。糸が多すぎる。拍子が多すぎる。歌が多すぎる。――多すぎるのは、悪いことばかりじゃない。増やせば、選べる。選べば、落ちない。
「右二割、低い方へ」
俺が旗の裾を傾け、よっしーがFZRの体重をわずかに右に。鈴皮が振動を拾い、風が線の上をなぞり始める。ニーヤが布越しに鈴を擦り、あーさんが掌の水を線の先に落とす。エレオノーラが「十歩先、影」と囁き、クリフさんが短く「受けた」と応じる。ミラの針が空気に小さな結び目を作り、レオールは数を止めた。
糸庭の中心に、黒外套がひとり。あの布教者だ。彼は立ちはだからない。片手を上げただけ。止めるでも、促すでもない、ただ“見ている”手。
「見てるだけか?」
よっしーの昭和の声が、鈴皮の振動に混ざって空気を震わせる。布教者は答えない。その代わり、足元の砂に細い“舌”を置いた。黒い金属。鐘の舌――ではなく、鍵の舌。昨夜受け取った小さな舌よりも、さらに薄く、さらに黒い。焼きを入れ過ぎた鉄の色。第三の糸が用意した“黒い舌”。
「これは“閉じる舌”です」
あーさんが低く言った。「音を生まぬ舌……扉の鳴りを封じるための――」
「なら、開く舌も、置けばええ」
よっしーがFZRを止めずに片足で砂を蹴り、小さな布袋を布教者の足元に投げた。布袋の中で、赤い糸がひとつ結び、薄い金属が微かに笑った。《裏口の舌》。彼はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「交換?」
「預かり合いや。返す先は、歌」
「歌は、管理しにくい」
「それがええ」
俺は旗で線を整え、糸庭の出口へと風を導く。黒外套の“黒い舌”は砂の中へ沈み、〈裏口の舌〉はミラの袖へ滑った。ミラはそれを針で袖の裏に縫い留め、レオールは一度だけ小さく頷く。
「第一工程、完了」
よっしーがFZRを寝かせ、鈴皮の振動を止めた。風は線を覚え、庭は“家寄り”に半拍、傾いた。
鍵の実験――裏口の舌
塔に戻ると同時に、記録庫の裏口へ向かう。裏口は表よりさらに薄く、低い。段の人間でさえ存在を“忘れさせられている”場所だ。礼拝堂の影が薄く落ち、灯台の輪の光は届きにくい。鳴らさずに響く鐘が遠くで胸を揺らし、心を落ち着ける。
「舌はここ」
ミラが床の継ぎ目を指で撫でる。鍵穴の代わりに、舌を“飲み込む口”がある。キリアが熱の瓶を布で包み、あーさんが掌の水を口の縁に薄く置く。ニーヤが風を寝かせ、エレオノーラとクリフさんが“見張りの影”を背で押さえる。レオールは白外套の肩を後ろへ引き、段の耳を背に回した。よっしーはFZRの鈴皮を指で撫で、俺は旗の裾で〈囁き手〉を口の周りに散らす。
「入れるよ」
ミラが〈裏口の舌〉を両の指で持ち、ゆっくりと口へ差し入れた。舌は拒まない。けれど、すぐには飲まない。ためらう。“ためらい”は水の仕事。あーさんが掌の水で舌の縁を撫で、キリアの熱が“皮”だけを温める。舌は、飲まれた。――鳴らない。けれど、床の骨が一度だけ“くつろいだ”。
「鍵、開けます」
俺は旗の裾から鈴のついた鍵束を外し、鳴らない鈴に指で触れた。〈裏口の舌〉は鍵ではない。けれど、鍵が“歌を思い出す手掛かり”になる。下段――半拍置いて中段――さらに半拍置いて上段――戻る拍。錠は“退いた”。
裏口の扉は開いた。狭い。けれど、息が通る。ミラが息をひとつだけ落とし、レオールが目を閉じる。よっしーは笑い、キリアは瓶の栓を戻し、ニーヤは帽子の上のブラックを指で撫でる。エレオノーラとクリフさんは視線で「問題なし」と告げ、あーさんが小さく「ありがとうございます」と床に囁いた。
「――黒い舌の使い道も、分かってきた」
俺は糸庭で見た“黒い舌”の形を思い出す。鳴りを封じる舌。段が“静けさ”を秩序と呼ぶための道具。静かにすべき所は静かに、響かせるべき所は響かせる。舌をどこに“置くか”。それだけだ。
風溜まり(かざだまり)――薄い橋
三番目の工程、灯台西の風溜まり。砂丘が四方から寄せたくぼみで、風が渦になって自分自身を食べる場所だ。鈴橋を渡しても、渦の中で拍子が絡まってしまう。ここに一本、“薄い橋”を掛ける。薄い橋は、紙一枚。けれど、落ちにくい。
「紙は、塔の少女に頼む」
俺が言うと、少女は粉を抱えたまま頷いた。「いちばん薄い紙。名前がぎりぎり透けるくらいのを、すぐに」
「紙に“躊躇”を塗り、渦の“角”を丸め、旗で“戻る拍”を置く」
あーさんが手順を整理し、キリアが熱の瓶を新しいものに交換する。ニーヤは鈴を布越しに擦り、エレオノーラは渦の縁の“高低差”を目で測る。クリフさんは砂に足跡を刻み、よっしーはFZRで渦の外周を一周し、鈴皮に“渦の拍”を覚えさせる。ミラとレオールは渦の出口に立って、“段の耳”が入り込まないように背を預け合った。
紙を置く瞬間、風は怒る。怒る前に、紙に“名”を置く。塔の少女が薄紙の端に小さく刺繍――“家”。紙は家寄りになり、渦は半歩だけ躊躇する。そこにあーさんの水が落ち、角が丸みを思い出す。キリアの熱が“皮”を作り、ニーヤの鈴が鳴らずに擦れ、俺の旗が“戻る拍”を紙の中央に置く。紙は、落ちない。渦は、怒らない。薄い橋は、渡れる。
「やった」
セラが拍手し、ルゥとダンが歓声を上げる。ミラが口元だけで笑い、レオールは数を再開した。よっしーはFZRを寝かせ、鈴皮を外す。「こいつ、風の教習にはええな。音を立てずに“拍子”だけ撒ける」
「砂が乾きすぎたときは、逆に“水脈走り”も要るかもな」
俺が冗談めかして言うと、あーさんが「それなら、わたくしの掌にお任せを」と穏やかに笑った。ニーヤは「水の上は滑るニャ」と尻尾を振り、エレオノーラは「滑る前に止めて」と真顔で釘を刺す。クリフさんは「止まる場所を先に決める」と短く言った。
風信――《E・S:九頁》
帰途。旗の裾がふっと軽くなり、紙が落ちた。《E・S:九頁》。短い行が三つ。
“黒い舌は、口を閉じるための舌。
だが、舌は味も知っている。
味を覚えた舌は、いつか歌う。”
“糸庭に“子の刻”の影。
そこに箱の“鍵穴”がひとつ。
風脈走りで、影の縁を切ること。”
“鐘師の弟子“イオ”。
櫓の足元で、舌の“響き”を数える。”
「……イオ?」
キリアが頁を覗き込む。「エリダの弟子の名か」
「灯台の櫓の足元におるなら、今夜会えるな」
よっしーが顎に手を当て、「子の刻(真夜中)に糸庭の影を切るのも、今夜が最短や」と続けた。レオールは眉根を寄せ、「箱の鍵穴は“巡回の目”がついている。踏み外せば、扉が塞がる」と警告する。ミラは袖の針で頁の端に小さな結び目を作り、「縁だけを切る」と呟いた。
「風脈走り、夜間仕様にするで」
よっしーがFZRに鈴皮を巻き直し、布越しに鈴を増やす。「ライトは殺す。代わりに“鈴の節”で自分の位置を測る。ユウキ、旗で“暗い拍”を引けるか?」
「やってみる」
暗い拍――音がなく、光もない拍子。鳴らさず、見えず、しかし“戻ってくる”。旗の布目を指で撫でると、指先が夜の滑らかさを思い出した。あーさんが掌の水で布の端を一度だけ濡らし、「乾く前に覚えます」と微笑む。ニーヤは鈴を布越しに「ひと、ふた」と擦り、エレオノーラは星の位置を目に写す。クリフさんは影の濃さで距離を測り、キリアは熱の瓶を二本だけ腰に残した。ミラとレオールは糸庭の外縁に“背中の壁”を作る段取りを確認する。
子の刻、影の縁
夜。灯台の輪はゆっくりと、しかし確かに回る。梁の鐘は鳴らさずに響き、祈堂の母柱は半拍で息をした。糸庭は黒い水盤のように静まり、影は濃い布のように地面に落ちている。影の“縁”――そこに、箱の鍵穴。鍵穴は影にだけ開き、光にだけ閉じる。第三の糸の遊びだ。遊びは、返し方を覚えればただの“手順”になる。
「いくで」
よっしーがFZRに跨がる。鈴皮は夜用に巻き直され、振動は拍子だけに変換される。エンジンは低く、息だけで走る。俺は旗を肩に掛け、暗い拍を引く。布の目が星の光を拾い、微かに震えた。あーさんが掌の水で“ためらい”を影の縁に置き、ニーヤが鈴を布越しに擦る。エレオノーラは弓を持たず、目だけで星と影を測り、クリフさんは“返り”の重さを踵に溜める。ミラとレオールは外縁で背中を合わせ、段の耳を背に回した。
FZRが影の縁を走る。鈴皮の拍が地面に細い線を刻み、旗がそれを“家寄り”に撫でる。影は怒らない。むしろ、くすぐったそうに揺れる。影の“鍵穴”は、縁を切られれば、開く。“光で閉じるもの”は、“暗さで開く”。第三の糸の性格を逆手に取る。ただし、切りすぎれば、影が“逃げる”。影が逃げれば、鍵穴は消える。
「ここ」
エレオノーラの目が一点を捉え、俺は旗の裾でその場所だけを“躊躇”で固める。よっしーがFZRの体重を微妙に移し、鈴皮の拍を一瞬だけ重くする。あーさんが掌の水で影の縁を丸め、ニーヤが鈴を「ひと、ふた」と擦り、キリアの熱が“皮”に回る。――影が、息を吐いた。鍵穴が、開いた。
「開ける」
俺は旗の裾から鍵束を外し、鳴らない鈴を指で撫でる。〈裏口の舌〉はここでは使えない。影の鍵穴は、名を欲しがる。鍵の柄に結ばれた小さな布に、塔の少女が縫った“家”の刺繍。鍵穴はそれを“見た”。下――中――上――戻る。扉は、開いた。
中から、冷たい空気。箱の匂い。番号の匂い。――そして、微かな“歌”。箱の中で、歌った誰かの残り香。
「短く、三十呼べる」
ミラが言う。レオールは数を数え、エレオノーラとクリフさんは入口の“返り”を押さえ、あーさんが掌の水で声の角を丸める。ニーヤは鈴を布越しに擦り、キリアが熱の瓶を“皮”に回す。よっしーはFZRで影の縁を保ち、俺は旗で“戻る拍”を織り込む。
三十。呼んだ。影の中から三十の影が出て、息を覚え、膝から崩れ、抱えられ、戻る拍に乗った。影の扉は“戻る拍”の後で自ら閉じ、鍵穴は影に沈んだ。――糸庭は、何事もなかったかのように、星を映した。
櫓の足元のイオ
夜明け前。塔に戻る前に、灯台の櫓へ寄った。舌は鳴らずに響き、輪は眠らずに回る。櫓の足元で、ひとりの少年が膝を抱えていた。十七、八だろうか。手は古く、目は若い。髪に砂。指に煤。
「イオ?」
キリアが声をかける。少年が顔を上げ、こちらを見た。目に“舌の響き”が宿っている。耳で聞くのではなく、骨で聞く耳だ。
「舌は、うまく響いてる」
イオは立ち上がり、舌の“腹”にそっと掌を当てた。「でも、まだ“遠くの骨”に届いてない。……梁の鐘が鳴らさずに響くのと同じ要領で、舌にも“戻る拍”をもうひとつ、要る」
「舌に“躊躇”を置いて、戻る拍を作るのか」
俺が訊くと、イオは頷いた。「躊躇は水。戻る拍は旗。皮は熱。……ぼくは、その“最初の合図”を出すだけでいい。舌は、あとは自分で覚える」
「弟子にしては、よく見てる」
エリダの声が櫓の上から降りてきた。いつの間にか起きていた鐘師が、舌に背中を預け、空を見る。
「イオは『数える』。響きの数。戻る拍の回数。彼は、鐘の“日記”を書く」
「日記?」
セラが首を傾げる。イオは頷いて、袖から薄い布を取り出した。布には細い点がびっしりと縫われ、ところどころに赤い糸で小さな結び目。
「一が鳴って、二が返って、三が眠った。……みたいなこと」
「ええやん」
よっしーが笑う。「うちの“工程表”とよう似とる」
「工程表?」
イオの目が輝く。よっしーは虚空から手帳を取り出し、昭和の字で大ぶりに書かれた“工程”を見せた。イオはそれを穴があくほど見つめ、「……これ、舌にも使える」と呟いた。
「使いなさい」
ミラが柔らかく言った。「舌は戻る。戻る道は、誰かが書いた道を踏むと、早い」
「はい」
イオは布の日記を懐にしまい、舌に額を軽く当てた。「――じゃ、ぼく、鐘の“息”を数えるね」
「よろしく」
俺は旗を肩にかけ直す。あーさんが掌の水を舌に一滴置き、キリアが熱の瓶を“皮”に回す。ニーヤは鈴を布越しに擦り、エレオノーラとクリフさんは櫓の柱の“返り”を確かめ、よっしーはFZRの鈴皮を外して巻物のように丸めた。ミラとレオールは目だけで頷き、朝の風が塔の足元を撫でた。
風の便りと、黒外套の告白
塔の中庭に戻ると、礼拝堂の影で黒外套が待っていた。彼は相変わらず笑わず、泣かない。けれど、今朝の目は昨日よりもわずかに湿っていた。夜露かもしれないし、灯台の霧かもしれない。
「交換の礼を」
彼は短く言い、掌に小さな紙を乗せた。紙には、細い線で“道”が描かれている。段の巡回路。箱の輸送路。――そして、点線で“穴”。第三の糸が開けた“忘れ穴”。
「なぜ渡す」
よっしーが率直に訊いた。黒外套は空を一度だけ見上げ、言った。
「“管理”は、地図が要る。君たちが橋を増やすなら、私は〈穴〉を埋める。……埋めるためには、まず、見つけなければならない」
「穴を埋めるのに、橋が要る」
俺が言うと、彼は頷いた。「低い橋は、穴を埋めやすい。……高い橋は、落ちる」
「せやから、ワイらは低い橋や」
よっしーが胸を叩く。「鳴らさず、吠えず、拍子だけで行く」
「拍子だけでは、人は集まらない」
彼は初めて、すこしだけ口角を動かした。「歌が要る。歌は――管理しにくい。だから、私は君たちと話す」
「十分や」
ミラが袖を撫で、レオールは白外套の肩を落とした。「あなたが“見ている”間に、私たちは“息”を増やす」
「見ている」
黒外套はそれだけ言い、礼拝堂の影に消えた。砂は少しだけ湿っていた。夜露。朝露。――掌の水の匂い。
家の昼餉と、子どもたちの“走り”
昼。耳舟棟の脇で、塔の少女のスープに香りが増えた。粉は同じなのに、味が違う。風の拍がスープにも移るのだ。三十の“帰りびと”が一人ずつ椀を受け取り、名を名乗る練習をしている。セラはイオの布日記に興味津々で、ルゥとダンはよっしーのFZRの周りをぐるぐる回っている。
「触ったらあかんで」
よっしーが笑いながら脅すと、二人はぴたりと止まってお辞儀をした。「はい!」
「でも、いつか“風脈走り”の見張りくらいはやってもらおかな」
「やる!」
瞳が一斉に光り、あーさんが「あの、危険のない範囲で」と慌てて手を振った。ニーヤは帽子を深くかぶり、「若猫はよく跳ぶニャ」と尻尾を振る。エレオノーラは微笑んで、「跳ぶ前に、落ちる場所を見て」と言った。クリフさんは短く「足を残せ」と加え、キリアは「息を数えなさい」と微笑んだ。ミラは「針の先は噛むものじゃないですよ」とセラの口から針をそっと外し、レオールは「数える歌」を子どもたちに教え始めた。
砂の上の影芝居――誰かの昔話
午後。作業の合間。塔の影で、誰かが影芝居を始めた。布団くらいの薄布に灯台の光を透かし、砂を舞台に、指で影を作る。影は箱になり、橋になり、鈴になり、舌になった。子どもたちの笑い声。大人たちの低い相槌。――影芝居は、誰かの昔話。
「あーさん」
俺は隣で掌の水を揺らしている彼女に囁いた。「この世界に来る前、影芝居、見たことある?」
「ええ。明治の頃、寺子屋の縁日で、紙芝居を。影の芝居は……母が、障子に手を映して、狐や千鳥を作ってくださいました」
目が少し湿る。けれど、笑っている。「あの指の影に、子どものわたくしは、どれほど救われたことでしょう」
「今は、あーさんが掌で影を作ってる」
俺は旗の裾の“E”を指で押さえ、布の目の震えを感じた。彼女は静かにうなずき、「はい」と短く答えた。
夕景――相棒と刃と、戻る拍
夕日。塔の影が伸び、灯台の輪は赤く染まる。よっしーは相棒のボンネットを開け、FZRの鈴皮を巻物にして虚空庫へ戻した。
「四輪と二輪、どっちが好き?」
セラが無邪気に聞く。よっしーは空を見て、少し考えた。
「坂は四輪、風は二輪。どっちもええ。けどな、どっちにも“戻る拍”が要る。アクセル抜く一瞬、ブレーキ離す一瞬、クラッチ合わせる一瞬――あれがないと、曲がられへん」
「戻る拍……」
あーさんが掌を胸に重ねる。「今日は幾つの“戻る拍”を置けましたでしょう」
「数え方はいろいろあるけどな」
イオが布日記を広げる。「鐘――百二十七。輪――五十八。糸庭――二十三。記録庫――四十六。風溜まり――十三」
「よう数えた」
エリダが笑い、キリアが「熱の瓶――三」と冗談めかして言い、皆が笑った。レオールでさえ、口の端だけ少し上がった。ミラは頁を一枚取り出し、針で“今日の印”を布に留める。塔の少女が粉袋に寄りかかって居眠りし、ルゥとダンはFZRの影を跳び越える遊びを続け、ニーヤは帽子の上でブラックと目を閉じた。エレオノーラとクリフさんは塔の縁で砂の海を見て、矢と刃を磨いた。
夜――名を縫う
夜。梁の鐘は今日も鳴らさずに響き、祈堂の母柱は半拍で息をした。塔の梁の札に、新しい名がひとつ追加される――イオ。セラが針を進め、あーさんが掌の水で糸を湿らせ、俺は旗の裾の“E”の布片の縁を指でなぞる。布は柔らかく、しかし、ほどけない。
「ユウキさん」
あーさんが小さな声で呼ぶ。「本日、影の鍵穴からお救いした方々の中に、“歌”を覚えている方がいらっしゃいました。わたくしが明日、少し、歌の“返し方”を習ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
俺は頷く。「あーさんの歌は、橋を低くする」
「はい」
彼女は微笑み、掌の水が灯りをひとつ、揺らした。
旗の裾が、するりと軽くなる。紙が落ちる。《E・S:十頁》。短い最後の一行。
“戻る場所を増やすほど、出かけられる。”
読み上げると、よっしーが「そらそうや」と笑い、エリダが舌に額を当て、キリアが炉の火を細くし、エレオノーラとクリフさんが交代で見張りに立ち、ミラは白外套を畳んで枕にし、レオールは数える歌を小さく口ずさみ、ニーヤは帽子を深くかぶり、あーさんは掌を胸に置き、俺は旗を肩にかけ直した。
家は眠る。
風は回る。
低い橋は、明日も一本ずつ。
――
余白――“風脈走り”の稽古
(翌朝の前、少しだけ)
「ユウキ、ちょっと起きろ」
よっしーに肩を揺すられ、屋根に出る。まだ群青の空。FZRが影の中に低く座り、相棒は静かに見ている。
「風脈走り、もう一段軽くできる」
よっしーがFZRのシートを叩く。「乗れ。後ろはワイ乗る。旗、片手で」
「まじで?」
「まじや」
俺は跨がり、旗を肩に掛け、片手で裾を探る。鈴皮は巻かれている。エンジンは鳴らない。拍子だけが、じわりと喉に集まる。
「最初の角でアクセルを“戻す”。旗で“戻る拍”。水で“ためらい”。鈴で“擦り”。……ぜんぶ、同時や」
「同時……」
「同時にやるために、先に“戻る場所”を決めてから走る。――ええか。出る前に、戻る」
よっしーの言葉が、夜明けの風に溶ける。俺はうなずき、FZRを起こす。軽い。砂の上に線が一本、引かれる。旗が震え、掌の水が想像の上で角を丸め、鈴が鳴らずに擦れ、俺の胸が――戻る拍を、覚える。
「よし、止まれ」
よっしーの声。FZRは止まった。心臓は――走っていない。拍子だけが、胸に残った。戻る場所が胸の内にひとつ増え、出かける道が胸の外にひとつ増えた。
「……わかった」
「ほな、今日も一本ずつ行こか」
よっしーが笑い、相棒が朝露を弾いた。塔の梁の札が揺れ、鐘が鳴らさずに響き、祈堂の母柱が息をした。俺は旗を肩にかけ直し、屋根から中庭を見下ろした。皆が起きる。名が増える。戻る場所が、またひとつ。
――
(つづく)




