宿りと白きカラス
前書き(イシュタム)
扉を壊すのは容易い。鍵穴を探すのも、覚えれば誰にでもできる。
だが、蝶番を見よ。
そこは音もなく重みを受け、軋みながら世界を開く。
お前は力を恐れている。ならば振り下ろすな。支えよ。
留めず、流せ。壊さず、動かせ。
それが“鎮め”だ。
まだ名を交わさずともよい。お前が歩けば、私は在る。
聞こえるなら、息を合わせよう。
朝が来る。まず、誰かの喉を潤せ。
⸻
森の朝は、黒の底から灰へとほどけ、そこからようやく緑を思い出す。
夜明けの風は冷たく、薄い霧が獣道の膝あたりを漂っている。吐いた息が溶けて、梢の露がまだ落ちず、鳥は鳴くのをためらっている。
「……行けるか」
よっしーの声は低いが、急かさない。
ユウキはうなずき、千鶴の肩にそっと手を添えた。彼女は顔色が白く、唇の赤が薄い。さっきから歩幅が半分に落ちている。夜のあいだに拾った枯枝の杖を握りしめ、膝を震わせながらついてくるが、足元の小石に指先の力が吸われているのが見て取れた。
「少し、ここで……」
千鶴が言いかけて足元を滑らせ、膝から崩れた。
「あ——」
ユウキは慌てて抱き留め、地面に背を預けさせる。掌に伝わる体温が、火照りと冷えの中間で揺れている。
「脈、速いな」よっしーが手首をとる。「水、もう少し欲しい」
「湧きはさっきの窪みが最後だった。露……集める」
ユウキは周囲を見回した。葉の先で丸くなった水滴が、朝の薄光を孕んで揺れている。布はない。掌で受けても弾ける。
(どうする。どうやって——)
そのとき、内側で音がした。
耳ではない、心臓の裏側に、静かな金属音が触れた。チン。
——蝶番。
言葉に形が与えられるより先に、声がそこへ滑り込んでくる。
『留めるのではない。流すのだ。』
(誰だ)
問いはもう何度もした。昨夜、水を導いた青い気配。
今度は、はっきりとした名が重なる。
『我が名は——イシュタム。多くを鎮め、多くを失い、なお残った“拍”の者。』
『借りよう。お前の胸の空白を。私はそこに座る。お前は生き残り、私は再び在る。』
胸骨の中央が、熱で押される。痛みではない。鼓動が増幅され、身体の内側で波が立つ。
息を吸う。肺が冷え、吐く息が青に薄く光る錯覚。
『扉は壊すな。鍵穴に固執するな。蝶番を見ろ。重みを受ける支点を見抜き、そこにそっと力を差し込め。世界は傷つけずに動く。それが“ほどほど”の道だ。』
(ほどほど……)
『殺し切らず、死に切らず。生かすために止める。』
光が胸の内側から外へ漏れた。シャツの布越しに、親指の爪ほどの青い紋が一度だけ瞬き、すぐに沈む。
よっしーが眉をひそめる。「今、光——」
「後で話す。水を、どうにか……」
『風はまだ眠い。だが露は起きている』
(露……)
ユウキの視界が、奇妙に焦点を変えた。葉先の滴が線から点へ、そして輪郭のぼけた珠に見える。
そっと手を近づける。弾ける前にふっと息を吹く。
珠が跳ねず、吸い込まれるように掌へ乗った。
(……乗った?)
「コツがある。葉の裏から呼べ」
イシュタムは短く言って黙る。
ユウキは葉の裏面を撫でる指の角度と、息の圧を調整した。二滴、三滴。掌の中に小さな水たまりが生まれる。
「千鶴、少しずつ」
唇に触れさせると、彼女の喉が細く動いた。
「……あたたかい。いえ、冷たいのに、あたたかい……」
声が、わずかに戻る。頬に色が差すにはまだ遠いが、目の焦点がこちらへ寄ってくる。
「もう一回行く」
ユウキは露を集めながら、心の隅で契約の感触を確かめた。
(俺の中に、いる)
『“宿る”と呼ぶなら、呼べ。私はそこで息を合わせる。命令はしない。提案はする。』
「うるさくないのが助かる」
『お前はもう充分に自分を責めてきた。私が加える必要はない。』
自嘲に似たやわらかさ。嘲りのない、静かな隣。
露を運んでいると、梢がコトリと鳴った。
一羽の黒いカラスが、音もなく降りてくる。枝から枝へ、最後は地面近くの枯れ枝に止まり、首を傾げてこちらを見た。
光の少ない朝なのに、その瞳だけは灰青の反射を持っている。
「さっき城壁で見た奴や」よっしーが囁く。「同じ群れかもしれん」
「追っ手なら鳴いて知らせるはずだ。黙っている」
ユウキがそっと手を下げたまま、カラスと目を合わせる。
カラスは一歩、枝の上で足を進め、露のついた葉へ嘴を近づけた。
ひとかけらの朝を含み、こちらへ歩み寄る。
(……持ってくる気か?)
よっしーが肩で笑う。「ほら、器持ったってるやん」
ユウキは掌を差し出した。
黒い嘴が、こつんとそっと当たり、露が掌へ落ちる。
露は落ちるだけではなかった。落ちた瞬間、掌の表面に薄い膜のような光が走り、露の粒がつながる。
「今の、なんや?」
『水を鎮めた。壊さず、流れをまとめただけだ。』
(ヒール、じゃないのか)
『それはお前の手より、この鳥がやる。見ていろ。』
カラスはユウキの掌から一粒をくちばしに含むと、千鶴の額へ滴らせた。
透明な点が肌に触れた瞬間、淡い光がその周囲に淡雪のように広がる。
千鶴の唇から、かすかな吐息。
「……あ、深い……」
胸が、少し大きく上下した。
次の滴。今度は喉の窪みへ。肌がゆるみ、こわばっていた肩の力が抜ける。
「《ヒールウォーター》」
よっしーが呟く。「水の癒やしや……けど、唱えもせんし、杖も振らん」
『名付けが先だ。』
(名付け? 誰に)
『鳥に。名は祈りであり、蝶番を回す拍だ。』
ユウキは、黒い羽を見つめた。
闇の象徴。監視者の色。
だが、この嘴はいま、水を運んでいる。
(黒のままで、いい。けど、反転させたい)
額の紋が、内側で熱を灯す。
すると、俺の目の前に、またもやゲームのような表示が現れた。
『山カラスを眷属化テイムしますか? YES/NO』
「おおっ、もしかして、こんな感じで魔物を仲間にできるのか!?」
俺は、この能力に驚きを隠せない。テイマーとしてのスキルが、こんな形で発動するとは。
「おい、ユウキ! なんやその表示は!」
よっしーが、俺の背中から身を乗り出して、画面を覗き込む。
俺は、迷わず「YES」を選択した。すると、すぐに次の表示が現れた。
『山カラスの眷属化に成功しました。続いて、名前を付けてください』
「名前か……」
俺は、カラスの真っ黒な羽を見て考えた。
「よし、お前は……黒。ブラックだ」
俺がそう告げた瞬間、カラスは眩い光を放ち始めた。
「な……なんだこれ!?」
光は徐々に強くなり、俺の視界は真っ白になった。
瞬間、羽の先端が、白に染まった。
よっしーが目を丸くする。「お、お前……白うなったで?」
これは、俺のスキル**「進化促進」**が発動したのか?
俺は、すぐにブラックのステータスを確認した。
ブラック
* 種族:白鴉
* レベル:1
* HP:29
* MP:36
* SP:0
* 攻撃:15
* 守り:18
* 速さ:21
* スキル:風魔法、水魔法
* 進化:条件を満たしていません
* 加護:なし
「やっぱり進化してる……!」
山カラスから**「白鴉」**へと進化していた。しかも、魔法が使えるようになっている。これは、マジでとんでもないスキルだ。
俺は、ブラックの身体を撫で回した。ブラックは、俺に懐いてくれたのか、俺の手に身を寄せてきてくれた。
「よし、ブラック! これから、俺たちの仲間として、一緒に戦ってくれ!」
ブラックは、「クァッ!」と鳴き、俺の肩に止まった。
イシュタムが、愉快そうに小さく囁いた。
『黒に白の名残。いい。光は影を必要とし、影は光で輪郭を得る。“ほどほど”の証だ。』
ブラックは落ちかけた露を拾い直す。白き部分は光を集め、落とす滴にわずかな輝きを与える。
それが千鶴の皮膚に触れるたび、呼吸の深さが一つずつ戻る。頬に血色が戻り、固く結ばれていた眉間がほどける。
「……生き返る、という言葉は、こういう……」
千鶴がうっすら目を開け、微笑に近い形を作った。「ありがとうございます」
カラスは首を傾げる。
よっしーが勝手に通訳する。「“どういたしまして”言うとる顔や」
「そんな顔、ある?」
「ある。カラスは表情が豊かや」
ブラック(羽づくろいで無言の否定)
露が尽き、ヒールはやんだ。
朝の光が一段明るくなり、森の低い位置を流れていた霧がゆっくり割れる。
ユウキは胸の紋にそっと触れた。皮膚の表からは見えないが、内側で確かに拍が合っている。
『聞け。蝶番の話を続けよう』
イシュタムの声は、樹皮の年輪に触れる時のように落ち着いている。
『扉を壊せば早い。だが、残るのは破片だ。鍵穴に固執すれば、鍵を失った時、扉は開かない。
蝶番は、重みを受け、軋みながらも回る。支点を見つけて、そこに少しの力を置けば、扉は傷つかずに開く。
人も同じだ。言葉も、怒りも、刃も。支点を見極めろ。』
(支点……相手の“止め所”)
『そう。止め所に触れ、ほどほどに力を与えよ。殺さず、止める。そのための鎮めだ。』
千鶴が身体を起こして、裾を整える。
「わたくし……寝てしまっておりましたか」
「逝かれかけてた。戻ってこられた」よっしーが肩を貸す。「水の力と、カラスさんのおかげや」
千鶴は真剣な表情で一礼した。「ありがとうございます、ブラック様」
ブラックはくるりと回って枝に戻り、胸の白を朝日に見せた。
「よし、進路。昨日の獣道をまだ使う? それとも隠れる?」
ユウキが問うと、ブラックが羽先で北東を示すように振る。
『風はまだ弱い。水脈がそちらだ。人の足音は薄い。』
(お前、便利だな)
『私ではない。名が道を作る。呼び続ければ、拍が合う。』
腹は相変わらず空っぽだったが、歩ける。
よっしーが足の置き方を指示し、千鶴が真面目に従う。
「膝、抜きすぎんように。足首の力で“置く”。かかとドンは音なる」
「はい……わたくし、すぐにかしこまりと言ってしまいますわね」
「ええねん。礼は体でええ」
言葉の端々に、千鶴の明治が残っている。だが息遣いは、少しずつこの森の現在に合ってきた。
しばらく進むと、地形がゆるやかに下り、遠くに灰色の靄が溜まっているのが見えた。
「湿地かもな。靴、濡らしたくないけど」
ブラックが先行し、低く滑るように飛ぶ。
その動きに合わせて、木陰の露が揺れ、細い風が道を示す。
『行け。水は危険だが、乾きはもっと危険だ』
イシュタムの声が短く促す。
足首までの泥を選んで渡ると、小さな泉が現れた。濁りはあるが流れがある。
よっしーが袖で濾しながら口に含み、「いける」と頷く。
千鶴は両手で器をつくり、ぱしゃりと飲む。喉仏が静かに上下した。
泉の縁に、黒い影が三つ現れた。
カラス——ではない。フードの影だ。
レジスタンスか、追っ手か、一瞬見極めがつかない。
よっしーが杖を斜めに構え、ユウキが千鶴の前に出る。
風が止まる。葉音が引っ込む。世界が選ぶ前の沈黙を置いた。
最初の影が、指笛を一度吹く。敵の合図なら二度三度続くはずだが、音はそこで切れた。
ブラックがふわりと降り、泉の上で一度だけ円を描く。
影のひとりが、フードの端を折って見せた。敵意なしの合図だ。
「昨夜の“黒”。助太刀の連中や」よっしーが肩の力を半分だけ抜く。
影の一人が声を低くした。「城の追撃隊は北に回った。森の東は薄い。……負傷者は?」
ユウキは即座に首を振る。「今は無し。だが仲間が一人、城に残っている。右脇腹」
影はうなずき、短い言葉を置いて去る。「東へ。風の子の庵へ行け」
「風の子?」
影は答えず、音の少ない足取りで森に消えた。
『行け』
イシュタムの声が重ねる。
『この森の賢者は水を、風の子は風を持つ。
そこで“蝶番”の意味を日常にする術を学べ。
刃を鈍らせるのではない。支点を見抜く目を鍛えよ。』
ユウキは胸に手を当て、うなずいた。
自分が“勇者”ではないことを、もう恥に思わない。
(俺は、宿す側だ。力を振り下ろさない。支える。流す)
よっしーが肩を小突く。「ほな、行こか。腹は減るけど、命は増えた」
「増えた?」
「数ちゃう。重なりや。お嬢はんが戻ってきた分、重なりが増えた。せやろ」
千鶴はこくりと頷き、杖を握り直した。
ブラックが前に飛び、白い羽先で東を示す。
朝が、ようやく完全に来た。
梢の隙間から差す光が、三人と一羽の影を長く伸ばす。
その影が交わる地点に、小さな青い点がひとつ浮かんで、すぐ消えた。拍の合図。
「黒いのに、白いんだな」
ユウキが言うと、ブラックは肩にとまり、嘴で彼の髪を一つだけ整えた。
(了解、ってことか)
『名は祈り。祈りは拍。拍が合えば、蝶番は軋まずに回る』
イシュタムの声が、静かに遠のく。昼は人に任せる、というふうに。
獣道はやがて、踏み固められた細い生活の道につながった。
木の幹に刻まれた小さな風紋が、ところどころに見える。
「これが……風の子の印?」
千鶴が指でなぞると、木肌のささくれが指先にやさしく触れた。
よっしーが目を細める。「風、変わった。吸うんが楽や」
ユウキは、肩のブラックに目をやった。
「なぁ、ブラック。クリフを助けに戻る道、いつか必ず見つける。だから——」
ブラックは無言のまま、翼で一度だけ頬を撫でた。
それは肯定のようでもあり、急くなという戒めのようでもあった。
森の向こうで、水の落ちる音がした。
小さな滝だろうか。
その音は、昨夜の鐘とは違う明るい拍で、彼らの歩みにテンポを与える。
ユウキ、よっしー、千鶴、そして白き羽を宿したブラック。
四つ分の影と四つ分の呼吸が、同じ拍で並んだ。
蝶番は、見えない場所で回り続ける。
扉は、壊さずに開く。
そして、その向こうにある風は、誰のものでもない。
⸻
後書き(ユウキ)
胸の奥に、誰かがいる。
でも、うるさくないんだ。
俺が立ち止まると、黙って隣で止まってくれて、また歩き出すと、同じテンポで並んでくる。
ブラックは何も言わない。けど、その沈黙で、だいたい分かる。
千鶴はまだ細いけど……ちゃんと、戻ってきた。
壊さないように、動かす。
できるかどうかなんて、分かんないけど――やる。
扉の開く音ってさ、思ったよりも、小さいんだよ。




