第49話 砂海の果て、海風の街へ
砂走路を南西へ抜けて半日。乾いた熱気の向こうで、空の色が少しだけ濃くなった。海だ。塩の匂いが、灼けた砂と混ざって新しい息をくれる。やがて見えてきたのは、白壁の家々と色鮮やかな幌を連ねた港町――シェムサハル。この地方きっての夜市で知られる“太陽の市場”だという。
街門のアーチを潜った瞬間、景色が一変した。
椰子の葉が風にきらめき、通りの両側に屋台がびっしり。香辛料、焼きたての平パン、果物の甘い香り、楽師の弦、客引きの声、子どもらの笑い――南国の音と匂いで世界が膨らむ。
「よっしゃ、ここは車ジロジロ見られるやろ。いったん仕舞うで」
よっしーが路肩に寄せて、掌をくるり。**虚空庫**へ愛車を吸い込ませる。セドのボディがきらりと光にほどけ、空気が軽くなった。
「これで身軽ニャ。さ、夜市を攻略するニャ!」
ニーヤが尻尾をぴんと立て、俺は肩の上のブラックと腕の中のリンクをなだめつつ笑う。あーさんは扇を掌に、クリフさんは外套の襟を正して、みんなで人の流れに混じった。
南国夜市・果物と香辛料と客引きと
屋台の軒先に、見たことのない果実が山のように積まれている。薄緑の楕円に棘――割ると真珠みたいな果肉が覗く“シェラム”。ひょうたん色の“タムル”。艶やかな黒紫の“ナハシュ”。香りが甘くて、少しだけ海の塩の気配。
「キューイ!」
リンクが俺の服をくいっと引っ張って、果物の山を顎で示す。目がきらきら。ブラックも喉の奥で短く鳴いた。
「うむ、フルーツ屋台か。私のいた聖教国では見たことのない果実が多いな……。ユウキ殿、一つ買ってやってはどうか?」
クリフさんが目を細める。俺が財布(といってもこっちの銀貨)を取り出しかけたとき、すっと横からよっしーの腕。
「まてまて。交渉はワイに任せぇ」
犬耳の店主が素早く鼻をひくつかせ、よっしーの手元を指す。
「兄ちゃん、その袋、スゲェ匂いがするな。そいつと交換ってのはどうだい?」
「お、この香り……わかるんか。せやったら交渉成立や」
よっしーが取り出したのは、銀色のビニール袋に入ったたこ焼き。彼の“日本からの荷物”セットのうち、奥さんが「皆で食べ」と持たせてくれた品だ。犬耳の店主は袋を開けるなり、とろけそうな顔になった。
「……うめぇ……なんだコレは……! よし、店にある果物、全種類ひと盛りずつだ!」
「まいど!」
交渉成立。リンクが両前脚を上げて歓喜の二段ジャンプ。「キューイ!」 ブラックもくちばしでシェラムの薄い皮を器用についばむ。
さらに少し歩くと、串焼きの香り。煤けた大鍋と鉄串。大柄の店主が前掛けで手を拭きながら声を張った。
「寄ってけよ兄ちゃん姐ちゃん! ウチの串はここいらじゃ一番だ!」
「うわぁ、旨そうニャ!」
「うむ、確かに……肉の焼ける香りが良い」
よっしーが屋台を覗き込み、ニヤリ。
「おっ、ええやん。鳥か? 牛か?」
店主は胸を反らした。
「ははっ、鳥や牛なんざ序の口だ。ウチはワームの肉串専門よ!」
「アカン!」
「また今度で!」
俺とよっしーの声が奇麗に重なる。虫系は……心の準備がいる。店主は豪快に笑った。
「南の胃袋を舐めるなよ若いの! また来な!」
熱気と笑いに包まれ、俺たちは一度路地裏で輪になって小さな相談会。
「想像以上に賑やかだな」
クリフさんが周囲を見回す。あーさんは少し耳まで赤い。
「……あの、呼び込みの方々が、たいへん……積極的で……」
「さっきの色っぽいねーちゃん、ユウキ君に目ぇ付けとったな。行っとけ行っとけ」
「やめろよっ」
ニーヤは屋台マップを素早く作り、目を輝かせる。
「甘い・辛い・酸っぱい・しょっぱい、四拍で回れるように並べるニャ!」
「今晩の宿、先に取っとこ」
俺たちは通りの端の宿通りへ。白壁に青い扉の二階建て「月の房」。手堅そうな宿だ。女将に二部屋取り、荷物を置く。
たこ焼き会と、ささやかな安堵
「ほな、始めますか」
よっしーが虚空庫から銀色のトレーと小皿、そして缶ビールを人数分(もちろん合法年齢組だけ)出す。あーさんには掌の水で薄めたミント茶。ニーヤにはフルーツ水。リンクはシェラムの果肉、ブラックには干し魚。
「かんぱーい!」
泡が喉に転がり落ちる。たこ焼きのソースと青のりとマヨの香り。南の街で、日本の味。胸の変なところがじんわりする。
「うまいニャ……」
ニーヤは目を細め、串に刺したタムルと交互に攻める。クリフさんは不思議そうに丸い生地を見てから、噛んで目を見開いた。
「……出汁の余韻がある。これは……良い」
「あーさん、お口に合いますか?」
「はい……まことに美味でございます。外はかるく、中は……ぷるりとして……」
あーさんの頬がほんのり染まって、俺の胸はまた、じんわり温かくなった。
「そうそう、さっきの果物屋に渡したんは、うちの嫁はんが『皆で食べ』言うて持たせてくれた“お土産”や。ちゃんと人数分、コピーも済みや。ほな、明日も食べられるで」
よっしーの“向こう側”の話に、皆が静かに頷く。あの紙の葉――「無茶しすぎ、でもカッコええ、はよ帰って一緒にドライブ」――が頭をよぎる。喉の奥が少し熱くなった。
夜半、路地裏の影
深夜。屋台のざわめきが少し遠のき、代わりに波と風の音が耳に残る。俺は宿の裏庭で、眠気眼のまま用を足しに出た。月光が白壁を薄く照らす。すると――。
――ふわり。
人の腰ほどの高さを、“女性ものの下着”が、まるで生き物のようにこちらへ向かって漂ってくるではないか。
「え、えええ……?」
思わず変な声が漏れた次の瞬間、その下着を頭に被った中年男が、路地の影から“スッ”と姿を現し、そして――また消えた。
「おいっ!」
脱力しかけた腹筋を無理やり締め直し、思いきり低い声で呼び止める。
「逃げてもムダだ。顔、見たからな」
路地の陰で気配が止まり、男が泣きそうな顔で現れた。頭から下着を外し、両手を上げる。
「……参ったよ。通報、しますか? なんでもするから、見逃してほしい……」
事情を聴くと、男の名はハッサン。シェムサハルに住んで二十年。人付き合いは苦手、要領も悪い。ある晩、ひょんな拍子に“薄景化”――“気配を薄くして視界から滑り落ちる”能力に目覚めたという。真面目に働いていたが、誰にも気づかれないことに疲れた時期、悪い気の迷いで下着泥棒へ……。
「……最悪の選択だ。それはやめろ。今すぐ」
俺はきっぱり言った。警備隊に突き出すのは簡単だが、こいつは根っからの悪党には見えない。道を戻せるなら、戻したい。
「通報はしない。代わりに――ガイドをやってくれないか。金は払う。明日、南西の密林にあるという“遺跡”へ行く」
「えっ……いいのか? そんなことで」
「ただし条件がひとつ。下着泥棒は今日でやめろ。やめるって誓えるか? 次やったら、俺は通報する」
ハッサンは唇を噛み、深く頭を下げた。
「……ありがとう。本当に。やめる。“薄景化”は、あなたたちのために使う。遺跡の道も、罠も、任せてくれ」
「決まりだ。明朝、宿の前。日の出二拍後な」
握手。手は少し震えていたが、掌は温かった。
夜明け前の支度
翌朝。港の東が白み、椰子の葉に潮の雫が光る。俺たちは宿の前で集合。よっしーは「街中やし」ということで徒歩&現地の馬車を選択。相棒は虚空庫に温存だ。砂地と密林が交互に続く道らしく、バイクは途中まで使えるという。
「おいで、**砂履き馬車**がええで!」
ハッサンが頼んでおいてくれた短車が二台。砂を噛む広い車輪と、帆のような日除け。御者台にハッサン、後ろに俺たち。出発前に彼はもう一度、深く頭を下げた。
「昨日は、助けてくれてありがとう。……俺、本当にやめるよ」
「うむ。人は、何度でもやり直せる」
クリフさんが頷き、あーさんが微笑む。
「ガイドをお引き受けいただき、ありがたうございます。どうぞ、よろしくお願ひいたします」
ハッサンは照れ臭そうに笑って、手綱を鳴らした。
密林の縁、翡翠の気配
街道を外れ、南西へ一時間。砂の海は次第に緑に侵食され、やがて**翡翠叢林**と呼ばれるジャングルの縁へ達した。背丈を越えるシダと濃い葉。鳥の鳴き声。湿った土の匂い。砂塵でひび割れた肌が、ここでは湿り気を取り戻す。
「この奥に“失われた秘宝”が眠る遺跡が?」
「本当に、あるニャ?」
ハッサンは頷き、声を潜める。
「ゼベルの階。古い祭祀の階段が森に飲まれてる。最近、紅蓮の牙やら数の連中が近づいてて、物騒だ。けど、俺に任せてくれ。薄くなるのは得意だ」
よっしーがFZRを出そうか迷って、結局しまう。
「林道が狭いな。ここは徒歩や」
「了解」
ブラックが先導するように枝から枝へ。そして――リンクがぴたりと耳を立てた。
「キューイ……!」
「何かいる?」
俺が囁くと、ハッサンが手を上げて合図。路肩の蔓を軽く払うと、地面の模様が“踏み板”に化ける。罠だ。踏めば蔓が足首を締め上げ、木上の“巣”へ引き上げる仕組み。
「うちの若い頃は、こういうのに引っかかってばかりで……痛い目みた」
自嘲ぎみに笑い、器用に“結び目”を解いていく。ミラが隣で感心したように頷いた(ミラとエレオノーラは今回は街に寄せて控え、五人+眷属での行動だ。必要になれば呼ぶ合図を決めてきた)。
「助かる」
進むほど、森の密度が上がり、光は緑にろ過される。汗が背中に流れ、指の感覚が少し重くなる。そんな時――
「止まれ」
クリフさんが囁き、弓を半ばで止めた。前方の茂み、黒い影が二つ。赤い襟巻。砂の匂いに混ざる、焦げと薬草の匂い。
「紅蓮の牙だ」
茂みの火、木漏れ日の氷
茂みから滑り出たのは、二人のならず者と一体の猿型の魔獣。ならず者の片割れが火打石で薬壺を叩き、もう一人が既製の炎の矢符を折る。猿型は牙を剥き、背中の袋から棘の蔓を広げる。
「お前ら、ここから先は“数の管理地”だ。通行料置いてけよ」
「ほな、礼だけ置いとくわ」
よっしーの言葉に男が笑いかけ、すぐ次の瞬間、俺の旗が地面に**〈戻る拍〉**を置いた。蔓が伸びる“タイミング”を半拍遅らせる。
「ニーヤ!」
「氷結弾・散!」
青い小弾が木漏れ日の筋を拾って拡散、炎符の起動を冷やして鈍らせる。男が舌打ち、符は湿って火がつかない。猿の蔓が遅れた一瞬に、クリフさんの矢が肩の筋を正確に**“ほどく”**。蔓は自分で勝手に根本へ絡まり、猿はドタバタと転げた。
「通行料は道直しでもらっとくわ」
よっしーが笑い、茂みの枝を足で払い、進路を確保。男たちは目を白黒させ、やがて怒鳴った。
「てめぇら、ハダル塁を止めた連中か! “氷の輪の猫”と“旗の野郎”!」
「噂が回るの早っ」
ニーヤがドヤ顔で胸を張り、尻尾をぴん。
「氷結弾・環、おかわりいかがニャ?」
男たちは顔を見合わせ、一歩後ずさり。――が、その背後、森の奥で別の音がした。低い、長い呼吸。木々の葉が内側から吸い込まれるような、いやな音。
「……来る」
ハッサンが青ざめ、囁く。
「茂炎カメレオン。森の“光”を飲んで、炎に変える」
茂炎カメレオン
木幹の陰から、巨大な舌が――透明な光の舌が、伸びてきた。光を飲む舌。飲み込まれた光が、喉を通るうち熱に変わって、背の瘤から炎の霧が漏れ出る。
「まずい、“光”が武器にされる!」
森の木漏れ日が減り、視界が緑の闇に傾く。代わりに熱が肌に刺さる。あーさんが盃を胸に抱え、掌の水を持ち上げる。
「ユウキさん、水鏡をお使いくださいませ」
「おう!」
俺は旗で**〈空白〉を茂みの前に薄く置き、あーさんの水鏡をその上に滑らせる。鏡は光を返し**、カメレオンの舌に“冷たい面”を押し当てた。熱はわずかに鈍る。
「ニーヤ、行ける?」
「零相、一粒だけ!」
ニーヤの極小弾が、茂炎カメレオンの喉の**“温度差”を一瞬だけゼロにする。炎の霧が途切れ**、その隙にクリフさんの矢が瘤の“排気孔”へ。矢羽根が熱で燃えかけるが、キリア(今回は留守番だが事前に作ってくれた冷封布)の冷布を巻いた矢先が瘤内部を急冷。茂炎カメレオンは呻き、森の奥へ後退した。
「ふぅ……助かった」
紅蓮の牙の二人はさっきの勢いをなくし、ついに武器を捨てて逃げ出す。猿型は自分の蔓に絡まって「キィー」と鳴き、リンクが小さく鼻を鳴らした。
「キューイ!」
「ナイス“危険察知”。助かったよ」
俺が撫でると、リンクは得意げに跳ねる。ブラックは木の高い枝で羽を整え、短く「ン」。
ゼベルの階
さらに一刻、森は突然ひらけた。目の前に現れたのは、苔むした広大な階段。上へ上へと続く石段と、途中で折れて横へ伸びる踊り場。側面には風化した碑文と、太陽と水と輪をあしらった古い紋章。
「ここが……ゼベルの階」
ハッサンが帽子を脱ぎ、額の汗を拭う。
「上がるにつれて“拍”が増える。息の合わない奴は、ここで足を取られる」
実際、登り始めると、足が自然と拍を刻み始めた。二、二、五。あの谷と似たが、もう少し乾いた拍。俺は旗で**〈戻る拍〉**を、段の切り替わりに薄く置く。あーさんが掌の水で足裏を湿らせ、滑りを防ぐ。ニーヤは舳鈴の袋を軽く押さえ、耳で風の“合図”を拾う。クリフさんは弦を低く鳴らし、“休み拍”を知らせる。よっしーは息を合わせ、大阪のノリでリズムを保つ。
踊り場の手前、石の壁にうっすらと新しい傷。最近、誰かがここをこじ開けようとした跡。ハッサンが薄景化で“先”を確認して戻り、親指を下に向ける。
「罠。足元の数の板、踏むと階段が“逆”になる」
「逆?」
「上りの拍が、下りに引っ張られて落ちる。ここで骨折る旅人が多い」
ミラが居たら一目で縫い目を見抜けるが、今日は俺たちでやる。俺は旗で**〈空白〉を板の“始まり”に置き、よっしーがその上に石楔を打ち込む。あーさんの水で板の縁を“膨らませ”、クリフさんが弦の“逆拍”で板を怯ませる。ニーヤが最後に氷結弾・楔を角に置き、板の動きを鈍らせた**。
「……よし。いける」
一段、また一段。息が上がる。額の汗が目にしみる。だが、頂上の踊り場に、風が抜けた。そこには、半ば崩れた拝所があり、中央に円形の石の蓋。縁には、昨日イフラの鎖輪で見たのに似た“輪”の模様。しかし、ここに刻まれた輪は――水で満たされている。
「……“鎖”じゃない。“輪の水”や」
俺が呟くと、ハッサンが怪訝そうに首を傾げた。
「輪の水?」
「説明は後。開ける前に――」
俺は膝をつき、旗の先で蓋の縁に**〈礼〉の拍を一拍、置いた。あーさんが盃の水をひと滴**、輪へ。ニーヤは舳鈴を布越しに一度だけ撫でる。――石の蓋が“軽く”なった。
「開く……!」
四人で縁を持ち、呼吸を合わせて持ち上げる。石がきしみ、内部からひんやりとした空気。暗闇。階段が下へ。嫌な匂いはしない。湿った土と、古い香の匂い。
「行こう」
最初の一歩を俺が踏み、皆が続く。ニーヤが微光の魔法を灯し、周囲の壁には古い碑文。読み解くまでもなく、太陽と水の輪が繰り返し描かれている。
「“太陽は傲にて乾き、輪は礼にて満ちる”。――礼の輪……」
あーさんが指で石の文様をなぞり、目を細めた。胸が少しだけ、落ち着く言葉だ。
地下拝殿と、封じられた光
階段の底に、小さな拝殿。中央に青い杯が一つ、石台に鎮座している。杯の縁には薄く霜。いや、霜に似た光。
「これが“秘宝”……?」
ハッサンが喉を鳴らす。クリフさんは慎重に周囲を警戒し、よっしーは床の“数の板”がないか軽く叩く。ニーヤが杯をのぞくと、水が張られていて、そこに細い輪の光が揺れていた。
「……輪の水、ホンモノや。触れたら、誰かが怒るタイプのやつ」
「怒るのは、誰?」
俺が訊ねた瞬間、地上から大きな音。木が裂ける、布が裂ける、火が走る――。
「来た!」
ハッサンが顔を上げる。「紅蓮の牙」か、それとも数の連中か。俺たちは視線で頷き合い、杯の前に**〈礼〉をもう一つだけ置いた。あーさんの盃の水**が細く光を返す。
「持ち出しはしない。見ただけ。ここは、“礼”の場所や」
よっしーが言い、俺は杯に背を向けて入口へ。ニーヤが杖を構え、舳鈴に頬を寄せる。リンクは肩で身を低くし、ブラックは上方の暗がりへ一跳び。クリフさんが弦を軽く震わせた。
地上・炎の包囲
階段を上がる直前、熱が降ってきた。出口の上で、油を染ませた布が燃えている。煙幕で挟み撃ちにして、出てきたところを叩くつもりだ。
「火は任せて!」
ニーヤが杖で氷結弾・霜華散を上へ。薄い氷の花びらが舞い上がり、燃える布の表面を**“撫でて鎮める”。火は勢いを失い、あーさんの掌の水**で蒸気になって消える。
階段を飛び出すと、踊り場の周囲に十数人。赤い襟巻の連中に、灰縁の短杖を持った数の術士が三人。その中央――昨日、塁で戦った炎糸が腕を組んでいた。隣には見知らぬ男。飾り気のない黒装束、肩から白い鎖。胸元に小さな輪。イフラの“外輪”の奥に繋がっているかのような、内輪の匂い。
「お出ましだ。“輪の水”の匂いまで連れてきたな、旅人」
黒装束の男が口角を上げる。炎糸が薄く笑い、指先に細い炎を絡めた。
「ボスの“内輪”の客人――**白鎖**って呼べばいいか?」
俺が訊くと、男は「好きに」と肩をすくめ、白い鎖を軽く振る。鎖の輪が礼の形を模す。――偽礼だ。
「ここで礼を語る気か」
よっしーが鼻で笑い、相棒がいれば突っ込みたいところだが、今は徒歩。旗を構える俺の肩でリンクが「キュイ」と鳴き、ブラックが上から「ン」と返す。
「輪の水は――礼の返しで守る」
俺は旗の先で空気を撫で、踊り場の床に**〈返礼の拍〉**を置いた。ニーヤが頷き、杖を高く掲げる。
「氷結弾・返礼輪」
青白い二重の輪が、白鎖の偽礼の上に重なる。輪は“空白”だけを拾い、偽礼の舌――熱の悪意――を掬い取り、凍らせて砕く。炎糸の細い火が、礼に恥じて鎮まる。
「……いい輪だ」
白鎖が目を細める。学ぶ目だ。嫌な種類の天才。俺たちの手筋を見、次には真似て上回る相手。
「学ばれる前に、崩す!」
クリフさんの矢が唐突に走り、数の術士の黙字の輪を二つ、射抜く。あーさんの水鏡が光を返し、炎糸の細い火の“芯”を曇らせる。よっしーは白鎖との間合いに石楔を蹴り込み、足の“拍”を狂わせる。
「ニーヤ、零相!」
「一粒、いきますニャ!」
極小の核が、白鎖の胸の小さな輪――内輪の“温度差”を一瞬だけゼロに。白鎖の鎖が息をつく。その半拍――。
「――戻れ」
俺の旗の**〈戻る拍〉が白鎖の胸にそっと触れ、彼の“吸い”を返す**。白鎖の足が一瞬だけ空振り。炎糸がカバーしようと火を張るが、ニーヤの霜華散が軽く撫でて鎮める。
「ハッサン、退路の確保!」
「任せろ!」
薄景化したハッサンが、踊り場の石壁の**“へ”を二つほどいて隙間を作る。あーさんが掌の水で滑りを良くし、俺たちは横へ抜けて階段を閉じ**た。
「追うか?」
白鎖が鎖を軽く鳴らす。炎糸が一歩詰める。だが、数の術士の一人が耳を押さえて顔をしかめた。……上の森で、茂炎カメレオンが吠えたのだ。昼の“光の食事”の時間が来た。森は、火を嫌う。
「今日はここまで」
白鎖は鎖を肩に回し、軽く会釈した。
「輪の水は、乾きに弱い。太陽の塔で会おう。――ヘリオポラで」
「上等」
よっしーが肩をすくめ、俺は旗を下ろした。白鎖と炎糸、数の術士たちは森影へ消え、茂炎カメレオンの影も遠ざかる。踊り場には、熱の名残と、冷たい風だけ。
引き返す足、残る輪
「杯はどうする?」
ハッサンが不安げに問う。俺は首を横に振った。
「置いていく。あれは“持つもの”じゃない。“守るもの”だ。……“礼”で」
あーさんが盃をそっと撫で、掌の水をひと滴、返す。ニーヤは舳鈴を布越しに一度だけ鳴らす。クリフさんは弦を静かに合わせ、よっしーは踊り場の石楔を抜いて道直しをする。ハッサンは薄く笑い、その場に頭を垂れた。
帰路、森の光は柔らかく、潮の匂いがゆっくり戻る。リンクが肩の上でうとうと。ブラックは枝から枝へ、時折こちらを見て「ン」。
「なぁ、ユウキ」
よっしーがぽつり。
「白鎖。アイツ、内輪持っとるで。イフラの“先”や。……行き先、決まったな」
「ああ。ヘリオポラ。太陽の塔。――あそこで、こっちの“輪”を磨く」
俺は旗の布を握り直し、胸の指輪を確かめた。アンリの指輪は、微かに涼しい。
帰港、そして決意
シェムサハルの門に戻る頃には、空は橙。椰子の影が長く伸び、人々が夜市の準備にまた忙しくなる。ハッサンは門前で立ち止まり、深く息を吐いた。
「……ありがとう。俺、今日から……ちゃんとガイドで食ってく。下らないことはしない」
「よし。困ったら、宿“月の房”に連絡入れろ。……いや、呼べ。ワイら暇見つけて旨いもん食いに来る」
よっしーが笑い、あーさんが柔らかな眼差しで頷く。
「あなた様は、今日たいせつな“拍”をお返しになりました。どうか、その拍を忘れなきよう」
ハッサンは目を潤ませ、胸に手を当てて礼をした。
「忘れない。“礼”の輪――だな」
それぞれ宿へ戻り、汗と砂を落とし、少し遅い夕餉。よっしーがまた缶を鳴らし、たこ焼き残りを温め、果物の皮を剥く。ニーヤは魚のスパイス焼きに目を輝かせ、クリフさんは香草のスープを褒め、あーさんは掌の水で茶を点てる。
「明日、出る?」
「うん。夜明け、海沿いを東へ。ヘリオポラ街道。途中、塩床と、風の裂け目。車か、馬車か――状況で決めよう」
よっしーは親指を立てる。
「街道は相棒でええ。塩の上は滑るから、途中で四駆の荷馬車借りよか。必要ならバイクも出す」
「ニーヤ、“日輪対策”の弾、仕込める?」
「日環……作るニャ。輪の水の“冷たい面”を薄く纏わせる。返礼輪とも相性よし」
「頼んだ」
窓の外で、夜市の明かりがまた灯る。人の声。海の音。南の夜風。リンクが膝の上で丸くなり、ブラックが天井梁で羽をたたむ。
俺は寝台に仰向けになり、薄い天井を見上げた。俺の中の“イシュタムの魂”は静かだ。……でも、どこか遠くで、小さな輪が誰かの鎖に触れる音がしている。白鎖の向こう。太陽の塔の上。誰かが、こちらを見て、学び、待っている。
「待ってろ。返礼、持ってく」
小さく呟き、目を閉じた。
――次の朝、俺たちはヘリオポラへ向けて走り出す。
(つづく/次話:太陽塔ヘリオポラ――“黙字の太陽”と“輪の水”、白鎖の手筋、ニーヤの新弾日環、よっしーの相棒×塩床街道。あーさんの水鏡が陽炎をほどく。そして、ボスの“内輪”の正体がゆっくりと輪郭を見せる)




