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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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第43話 風を止める町・タルフィート




(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)


台地を斜めに下っていくと、丘の斜面に奇妙な円筒が何十、何百と植わっているのが見えた。プロペラも羽根もない“輪”。風を受けて回るのではなく、風をその腹に“溜める”ための装置らしい。近づくほどに、耳が楽になる。騒音ではなく、余った風の力強さが、ゆっくりと“拍”へ寝かされていく感じだ。


「ここが“風止まり”。タルフィート」


ラヤが地図歌を折り畳みながら言う。「風は輪の中で眠り、夜に“井戸”から汲まれる。音が寝返りして拍になる町」


「なるほどなぁ。静かやのに、心臓はよぉ動く、みたいな不思議な感じや」


よっしーが感心したように相棒のステアリングを撫でた。相棒ハチロクは低いアイドルで町の外縁を這い、FZRは一旦停止、エレオノーラが手早くプラグとエアクリーナーを点検している。


坂を降りると、輪の列の谷間に市場が開けていた。砂の市よりも背の低い屋台が、輪の影を借りて涼みながら並んでいる。干した草の束、鐘の欠片、銅線、皮袋、ミントとセージ、パンとナツメヤシ。風の井戸から汲み上げた“風水”で練ったという白い菓子もある。


「まずは舳鈴のコアと、FZRの息のキャブに合う部品やな。あと、掌の水と熱瓶の詰め直し。……それから、腹ごしらえ」


よっしーが指を折って段取りを言い、全員うなずく。俺は旗(〈囁き手〉)を肩にかけ直し、あーさんの掌に視線を落とした。


「井戸に寄ったら、あーさんの水、きっと喜ぶよ」


「ええ。……この町、静かでよろしゅうございますね」


あーさんがそっと微笑む。掌の水も、彼女の胸の奥の拍も、どこかほっと緩んだ気配がした。





風の井戸と鐘の破片


市場の奥――風止まり輪の根元に穿たれた“井戸”がある。揺るい緑の光の底から、冷えた風が上がってくる。桶で水を汲むのではない。紐を垂らすと、風そのものが樽の内側に結ばれ、蓋をすると“風水”になるのだという。キリアが熱瓶の口を開き、風の井戸の縁に並べた。


「一本は“素の風”。一本はミントを添えて“眠り風”。一本は塩をひとつまみで“帰り風”」


キリアの手元に合わせ、あーさんが掌の水を樽の縁でふっとなぞる。井戸が小さく鳴り、樽の中の風が彼女の指先にお辞儀をしたように見えた。


「舳鈴の心は?」


ニーヤが耳をぴくつかせる。屋台の一つで、渋い顔の老人が古い鐘の破片を磨いていた。青緑の錆が美しい、小振りの鐘。割れてもなお、縁を叩くと“戻る拍”の影が出る。


「これは“波の鐘”。塔から遠く離れた波止場で使われていた。心は軽いが、芯がある」


老人は破片を二つ、三つ、ひねって音を聴かせた。ニーヤの舳鈴が布越しに共鳴し、ラヤの歌が目に見えない“結び目”を拾う。


「この縁、舳鈴の“心”に合うニャ」


「おっちゃん、これと、この小さなクサリも一緒に欲しい。鈴の“ためらい”を吊るすのに丁度ええ」


よっしーが銀と礼を置き、老人は頷いた。ミラが針で鈴の腹に新しい心を縫い込み、布でそっと包む。舳鈴の擦れ一つが、さっきよりも柔らかく深く響いた。


FZRの“息の管”――息を洗う


FZRの前に、油で手が黒く染まった若い整備工がしゃがみ込んだ。タルフィートの工具屋の息子、名はユイード。青銅の都の工房で数年修行したという。


「息のキャブ、砂を噛んでる。混合比もズレてる」


「すまんなぁ。砂上ダート半日ぶっ通しとか、やってもうたからな」


よっしーが頭を掻く。ユイードは慣れた手つきでキャブを外し、手の甲で風を掬って中に流し込んだ。風止まりの風は、油と砂を“ほどく”。錆びついたネジが指一本で回るのを、俺は初めて見た。


「ジェット、針、フロート、全部軽く洗い。息は戻る」


彼は笑い、工具箱から手作りの紙パッキンを取り出す。「これ、輪の皮を漉いた“風紙”。気密が要るところに挟むと、風を逃がさない。代金は……その鈴の音、一つ」


ニーヤが舳鈴を一擦りする。ユイードの目が見開かれ、口元がほどけた。礼は、拍で返す――タルフィートの流儀らしい。






屋台街の夕暮れ


夕刻、とろけかかった陽の光が輪の影を長く伸ばす。屋台が数を増やし、香ばしい匂いが漂い始めた。平たいパンを鉄板で炙り、ハーブを練り込んだ羊肉を焼いた串、ほろ苦いハチミツの菓子。俺たちはそれぞれ、舌と腹が求めるものを紙に包んでもらい、輪の根元のベンチに腰を下ろした。


「うまっ。これ、カリカリのやつ、中にチーズ……やないな、何やろ」


山羊やぎの“風乳”を固めたものやて」


よっしーが頷く。俺は向かいの屋台に目をやった。そこだけ人だかり。ああ、あれは――。


兎だ。長い耳、白と茶のまだら模様。角が一本、額からちょこんと生えている。


「ツノ兎……?」


ニーヤが眉を上げる。屋台の前で、二人組の中年――いや、おっさんだ――が兎を押さえつけている。一人は鷲鼻で頑固そうな顔、名札に「サジ」とある。もう一人は髭面で体が大きく、肩に小さな紐の輪をぶら下げている。店の看板には“サジ&ゴンゾの狩り屋台”と木炭で書かれていた。


「今晩の酒のアテに、一本いっとくかぁ?」


髭面の方が笑い、まな板を叩く。「だがよぉ、兎かぁ。正直言って食おうとは思わねえなぁ。……サジ、お前が押さえろ」


「分かっとるわ、ゴンゾ。コラ暴れるな!」


サジが兎の胴と顎を押さえつけると、兎は目をむいて両足をばたつかせる。「キュイーッ」と高い声。解体包丁を持ってきたゴンゾが、ゆっくり、ゆっくりと近づく。


俺は紙包みを握ったまま、一歩、屋台の前に出ていた。





兎の目と、輪の静けさ


「……」


兎の目が、俺を見た。黒いビー玉みたいな瞳の奥に、輪の静けさが映る。助けてくれ、と言っている――ように、俺には見えた。


“見て見ぬふりをする”選択肢は頭をよぎった。けれどあーさんの掌の水が小さく震え、俺の指を引く。


「待って」


そう言っていた。口に出したのは俺の声で、息を飲んだのは周りの見物人。サジとゴンゾが同時に俺を見た。


「なんだ兄ちゃん、客か? 見世物じゃねえぞ。食うか食わんか、決めるのはこっちだ」


ゴンゾが目を細める。サジの手に力がこもる。兎が「キュイーッ」とまた鳴いた。その瞬間――俺の視界の端に、白い光の枠が浮かんだ。


『ツノ兎を眷属化テイムしますか YES/NO』


……えっ。まさか、こんな人混みの中で?


指が勝手に“YES”を撫でた。リング(アンリにもらった指輪)がぴたりと肌に馴染み、あの石の声――イシュタムの余韻――が遠くで一回、だけ、波紋を立てた。


『ツノ兎の眷属化に成功しました。仲間にしますか YES/NO』


YES。


『ツノ兎に名前を付けてください』


俺は一瞬だけ迷った。あーさんが、ほんの少しだけ頷く。


「……リンク。お前の名前はリンクだ。よろしくな」


名前を決めた途端、兎――リンクはふっと輝き、額の角が短く丸くなり、背筋がしなる。白い毛に赤い筋が一本、尾の付け根から走った。屋台の板が震え、サジとゴンゾの手が弾かれる。


「お、おい!?」


「なんや今の……」


リンクは「キュイ〜」と喉を鳴らし、俺の足元へとぴょん、と近寄ってきた。鼻先で俺の膝をつつく。その仕草に、屋台の人混みからどっと笑いがこぼれた。


「兄ちゃん、今の、どうやった」


ゴンゾが目を丸くする。サジは口を開けたまま兎のいた板を見ている。俺の視界には続けざまにステータスウィンドウが開いていた。


――――――――――――――――――――


リンク《凛紅》

ツノ兎→ 暴れ兎

レベル11

HP96 MP67

攻撃68 守り42 速さ87


スキル

チャージ攻撃、二段ジャンプ、

危険察知、サマーサルト、旋風脚


装備

なし


進化:条件を満たしていません


――――――――――――――――――――


「……いきなりレベル11って、マジか」


俺が思わずつぶやくと、リンクは胸を張って“サマーサルト”の前転を一回くるり。屋台の子どもたちが拍手をした。サジはこめかみに手を当て、ゴンゾは苦笑した。


「いやはや、兄ちゃん。うちらは今晩の酒のアテに、と捕まえただけでよ。そんだけ懐いちまったなら、もう兄ちゃんの家のもんだ。……ただ、礼は受け取る」


「礼は、拍で」


俺はニーヤに目をやる。ニーヤが舳鈴を一擦り、屋台の骨組みが軽く歌って、風止まり輪が一度だけ息を吐いた。サジもゴンゾも顔を上げ、目尻を緩めた。


「……いい音だ。サジ」


「ああ。……兄ちゃん、うちは“獲ったら食う”を昔からやってきた。だが、いまのは、うちの“勘”より、この町の“拍”が勝ったんやろな。持ってけ、可愛がってやれ」


サジは包丁を引っ込め、まな板を洗い始めた。ゴンゾは紐の輪をリンクの首にゆるくかけ、「迷うなよ」と一言だけ。リンクは「キュイ」と答え、俺の足に身体を擦り付けた。





サジ&ゴンゾ


少し落ち着いたところで、よっしーが屋台の隅に座り、串を注文した。


「アンタら、ええ腕やな。狩りも解体も。どの辺まで行くん?」


「輪の外縁から“紅玉の峡”の口まで。……今はこっちの町で稼いどる。名前はサジ。こっちはゴンゾ。昔は“風の国抜け”をやっとった」


「風の国抜け?」


「輪の列の間を、風のないすじで、商品と人を抜く。……まぁ、それは昔話や。今は輪が増えて、風はちゃんと寝るようになった。抜くより、捕って捌く方が腹に入る」


ゴンゾが笑った。彼らの道具は簡素だが、使い込まれている。縄の編み、包丁の重み、まな板の面――どれも“ためらい”が残っていて、荒っぽいのに、礼がある。


「兄ちゃん、さっきの“手品”。……あれ、どこで覚えた」


サジが目だけで俺を見た。俺は肩をすくめる。


「覚えた、というほどじゃない。……ただ、名前を呼んで、手を抜いた。ここは“風を止める町”だから、声が、届いた」


サジはしばし黙り、やがて「なるほど」とだけ言って串を返した。


「その兎、よく喰うぞ。野草、根っこ、水。あと、風の輪の影で昼寝させろ。……怒らせると、足で人の脛を蹴る」


リンクは「キュイ」と鼻を鳴らし、サジの指先をぺろりと舐めた。サジの頬が緩む。ゴンゾが店の端から小さな布袋を差し出した。


「“輪塩”。熱中った時に舐めさせるとええ。……代金は、あの音、一つもらったからチャラだ」


「ありがとう。……よかったら、明日、輪の外で“声の足場”の張り方、見せるよ」


「ほう。面白え」


二人のおっさんは顔を見合わせ、うなずいた。そういう“やり取り”が、この町には似合っていた。





風紙と風鈴――舳鈴の心、収まる


夜、宿替わりに借りた輪の根元の小屋で、ミラとニーヤが舳鈴の心を据え直した。鐘の破片を薄く削り、布の袋に収め、鈴の腹に縫いこんでいく。横からあーさんが掌の水で布を湿し、乾く前に針を通す。ラヤが低く、鈴の名のない名を歌う。


擦った。舳鈴が、いままでよりも“遠く”で響いた。輪の上空を一度、白い糸が渡ってはほどけるような感じ。よっしーが「ええ音や」と呟き、クリフさんは弦を鳴らして余韻を聴いた。


FZRも息を取り戻していた。ユイードの風紙パッキンが効いて、アイドリングが安定している。シートの上で、リンクが前足で座面をふみふみし、気持ちよさそうに目を細めた。危険察知の耳はよく動き、二段ジャンプを試すと、梁から梁へ軽々。俺の肩に戻ってきて、鼻で頬をつついた。


「……可愛いな、お前」


「キュイ〜」


俺はひたすらリンクを撫で回した。毛がふんわりして、輪の寝息みたいな匂いがした。





風の井戸のさざ波


翌朝――輪の影がまだ短い時間、あーさんが風の井戸に掌を差し出した。樽の蓋が開き、眠っていた風がゆっくり顔を出す。彼女の指先が水と風の境に触れると、井戸の肌に細かな波紋が立った。さざ波はすぐに消えたが、その後の風の“手触り”が柔らかくなる。


「井戸が、喜んでおります」


あーさんが振り向く。タルフィートの井戸番の老婆が、目を細めて頷いた。


「拍をよく知る手だよ。……礼に、鐘の縁を一枚、あげよう。古いが、心はまだ温い」


老婆は井戸の棚から薄い輪片を取り出してくれた。ニーヤが丁寧に受け取り、舳鈴の袋の端に縫い足す。心は厚みを増し、擦れの“ためらい”が豊かになった。





風の税と“数の配達網”


昼、町の中心に近い輪の列の間で、灰縁の筒を背負った男たちが行列していた。肩から下げた筒がかすかに鳴り、その音を合図に屋台が小さな箱を差し出す。箱には“数の刻印”。青銅の都の“配達網”――風を使って税や命令を運ぶ網だ。


「礼をもって応じるべし、やな」


クリフさんが囁く。俺たちは列から距離を取り、無用な摩擦を避けた。ラヤは配達網の“拍の癖”を耳に入れ、ミラは針箱の中で縫い糸の本数を一本だけ増やして“見えない縁切り”を準備する。よっしーはFZRの位置をずらし、相棒は輪の影を選んで停まる。タルフィートは第三の糸の網にも礼を残す。――敵対はせず、飲み込まれもせず、拍を返す。





サジとゴンゾの“抜き稽古”


夕刻――約束通り、輪の外で稽古をした。よっしーが棒切れで地面に“声の足場”の位置を描き、俺が旗で〈戻る拍〉を置き、ミラが針で“返し縫い”の手振りを示す。サジは足裏で“ためらい”を掴むのが早かった。ゴンゾは腕力でねじ伏せるのではなく、拍に体重を預けるのが上手い。



「おっちゃんら、筋がええ」


よっしーが笑う。


「おう。……兄ちゃん、うちら、もう“抜け”はやらん。けど、拍の稽古は、明日も来る」



サジはそう言って、屋台の端で焼いた肉を紙に包んでくれた。「礼は、また音でええ」


ニーヤが鈴を一擦り。輪の影が穏やかに揺れ、タルフィートの子どもらが「もう一回!」と騒ぐ。リンクは“危険察知”の耳を立てたまま、子どもたちの手からハーブを受け取ってむしゃむしゃ食べ、二段ジャンプを披露して拍手喝采を浴びていた。


風止まり輪の“逆回し”


夜。輪の列のうち、いくつかが低く唸り始めた。昼の風を溜めた輪が、夜は逆に“吐く”。風は井戸へ戻り、音は拍へ寝かされる。輪の一基が突然、咳き込むように震えた。近くの配達網の筒が、無理をかけたのだ。


ユイードが駆け出す。俺とよっしーも続いた。輪の根元の弁を少し開き、逆回しの“ためらい”を一拍だけ置く。ミラは針で弁の布パッキンの端を押さえ、あーさんは掌の水で摩擦を潤す。舳鈴が一度擦れ、輪の咳は収まった。ユイードが胸を撫で下ろす。


「助かった。……青銅の都からの荷が重い日ほど、輪が喉をやられる」


「拍を返さん“数”は、よく喉を壊す」


ラヤが言い、老婆が笑った。


旅の相談と、次の地名


二晩目の遅い時間。俺たちは輪の影で輪になり、次の道を相談した。タルフィートで整えたもの:

• 舳鈴のコア補修済み。鐘縁追加。

• FZRの息のキャブ清掃&風紙パッキン。

• 熱瓶、風水で再充填。

• 掌の水、風の井戸で“戻る拍”を新たに。


不足:

• 相棒の“心拍計タコメーター”の針が少し鈍い。青銅の都“オルディカ”で部品を。

• ミラの名のない布、残り二枚。南の“かすりの棚田”で糸を。

• ラヤの地図歌、東の“ことの谷”に譜を写す必要あり。


「二、三話先で移動するとしたら――“オルディカ”に寄り、そこで第三の糸の網を横目に見つつ“箏の谷”へ抜けるのがええな」


よっしーの言葉にみんな頷いた。タルフィートは居心地が良すぎる。長居はしたくなるが、道の拍が乾いてしまう前に次へ出よう。


「出立は明日。朝の輪が風を吐き始める前が静かや」


クリフさんが決め、俺は旗の裏に小さな“へ”を一つ縫い留めた。ためらいは、進むための滑りを良くする。


夜のいたずらと、リンクの鼻


夜半。屋台街のはずれ、輪の影を一つ飛び越えたところで、ひそひそと囁く声。リンクが“危険察知”の耳をぴん、と立て、俺の寝袋を前足で叩いた。舳鈴を鳴らさず、俺は旗だけを持って外へ出る。あーさんも目を開け、掌の水を小さく灯りにしてついてくる。


声の主は、灰縁の筒を背負った若造だった。配達網の端末――仕事明けで一杯やりに来て、路地で寝転んでいる。


「……数字の匂いや」


リンクが鼻を鳴らし、若造の筒に前足でちょん、と触れた。筒の蓋が少し開き、中から紙片が一枚、ひらり。ミラの“縫い目”と同じ配列の印。だが、これは叫んでいる。“急配”。青銅の都の要請で、輪の吐く風の一部を“都専用の拍”へ切り替える命令だった。


「やめておきましょう。……これは、この町の喉を痛めます」


あーさんが紙片に掌の水を一滴。インクがにじみ、命令文の“数の線”がほどけた。若造は寝返りを打ち、口笛みたいないびきをかいた。リンクは鼻で紙片を押して俺の手に乗せ、サジとゴンゾの屋台の軒に跳び上がって、紙片を看板の釘に引っ掛けた。朝、二人ならうまく“町の拍”へ渡してくれるだろう。


「よしよし、グッジョブ」


リンクを撫でると、サマーサルトを一回。鼻先をこすり付けてから、俺の肩に収まった。軽い。拍が合う。俺は胸のどこかがひとつ広くなった気がした。


出立の朝――輪の礼、町の礼


朝。輪が風を吐き始める少し前。井戸番の老婆、ユイード、サジとゴンゾ、屋台の子どもたちが輪の影に並んだ。タルフィートの“見送り”は静かだ。名は呼ばない。代わりに、小さな拍を一つずつ、手から手へ渡していく。


「短一回」


よっしーが相棒の軽いクラクションを鳴らす。「ピッ」。舳鈴が一度擦れ、旗の〈囁き手〉が風を抱く。あーさんの掌の水が盃で揺れ、ミラの針が袖口で光る。エレオノーラはハンドルを握り、クリフさんは弦を撫で、ラヤは歌を胸に収納し、キリアは熱瓶の蓋を撫でる。ニーヤは鈴を整え、ブラックは帽子の端で目を細め、リンクは俺の肩で耳を立てた。


「ほな、また音で」


サジが片手を上げた。「うちらは輪の影でやっとる。困ったら“サジ&ゴンゾ”の看板、叩け」


「覚えとくわ」


よっしーが笑い、FZRを軽く煽る。ユイードは親指を立て、老婆は井戸の縁を一度だけ叩いた。輪が低く鳴って、町全体の“のど”が温まる音がした。


オルディカへの街道――風の畝と、数の影


タルフィートを離れてしばらく、風止まり輪の列は少なくなり、地面に風の“うね”が筋を作る。相棒は畝の上で“息”が整いやすく、FZRは軽いステップで畝を跨ぐ。舟は帆の『へ』を少し固くし、風に“ためらい”を覚えさせて走らせる。


道の脇に、灰縁の小さな柱が点々と並び始めた。数の配達網の“植え枠”だ。青銅の都オルディカの手が伸びている証拠。枠の影は薄いが、放置すれば道の拍が“都の拍”に持っていかれる。


「いまは触れん。町から離れたら、“ほどく”」


ミラが針箱を叩く。ラヤは歌の母音を一つ増やし、道の拍を“家側”へ寄せる。リンクが耳を立て、危険の方角に鼻を向けた。俺は肩の上でその気配を受け取り、旗を少しだけ斜めに構え直した。


風影の追っ手――輪郭狩りの亜種


午後。陽炎の中に、四角くはないが輪郭の薄い影が三つ現れた。輪郭狩りの亜種、“風影狩り”。風の畝を刈り込み、車列を“滑らせる”やり方だ。リンクが耳を伏せ、背をぶるりと震わせる。危険察知が灯った。



「舳鈴」



ニーヤが擦れを三拍に切り替え、俺は旗で“空白”を畝の谷に置く。よっしーはFZRで畝を斜めに跨ぎ、相棒はエレオノーラの手で“戻る拍”に乗って進む。ミラは針で“縫い止め”の指を空に置き、ラヤは歌で“畝の母音”を太くする。キリアは熱瓶で路面の温度差を消し、クリフさんは弦で滑りを“食う”。あーさんは掌の水でタイヤの接地に薄い膜を敷いた。



風影狩りは二度、三度、刈り込んだ。だが空白の帯が畝の谷でクッションになり、滑りは“ためらい”に変わる。リンクが肩で身を低くした瞬間――影の一つが右から突っ込んできた。俺は反射的に旗を振り、〈戻る拍〉を影の“輪郭”の外に置いた。影は輪郭を失い、風のただの波へとほどけた。リンクが俺の頬を鼻でつつき、「キュ」と短く鳴いた。



「サンキュー、リンク」






夕暮れの丘で


日が傾き、丘の上に小さな石の祠が見えた。かつて海のともしびだったものの名残――鈍い塔の遠い親類に違いない。祠の中には、古い歯車と、錆びた針一本。相棒の“心拍計”に使えるかもしれない。


よっしーが歯車を手に取り、キリアが油を差す。エレオノーラが針を目で測り、クリフさんが弦で薄い振動を聴く。ミラが針で祠の布を一針直し、ラヤが小さく歌う。あーさんが掌の水を布に一滴。ニーヤが鈴を撫で、リンクは祠の入口で見張りをする。ブラックは祠の屋根で丸くなった。



「タコメーターの針、ここから一本借りられる。……でも、付けるのは“都の外”で」


よっしーが針を布に包み、胸ポケットにしまった。オルディカの鼻先で部品を“勝手に”付け替えるのは無用な揉め事のもと、ってことだ。







夜――小さな灯と、兎の寝息


火は小さく。輪のない丘では、風は寝ていない。舳鈴を布越しに一度擦り、旗で風の端に〈空白〉を置く。熱瓶は三本、弱く開く。ラヤが歌を畳み、ミラが針箱を抱え、あーさんが掌の水を盃の中で揺らす。よっしーは相棒のボディに毛布を掛け、エレオノーラは矢を手元に、クリフさんは弦を枕元に。ニーヤは鈴を抱いて眠り、ブラックは俺の胸で丸くなる。リンクは俺の首のあたりで、布をふみふみしてから、すう、と寝息を立て始めた。



――この世界に来てからの夜で、いちばん“家に近い”音がした。






オルディカの外壁が見える朝


朝。乾いた空に、銅の鈍い光。遠くに、青銅の都――オルディカの外壁が控えている。塔のように積まれた工房、歯車の森、配達網の塔。数の拍が高く鳴り、風の畝が重く沈む。ここから先は、また“礼”と“ためらい”の試験だ。


「リンク、頼りにしてるぞ」


「キュイ〜」


リンクは肩の上でぴょん、と跳ね、二段ジャンプの予備動作をしてから耳を立てた。危険察知は、すでに“都の癖”を嗅ぎ取っている。


「行くで。低く、遠くへ」


よっしーが言い、FZRが静かに息を合わせた。相棒の心拍は安定している。舳鈴の心は深く、掌の水は澄んでいる。旗は軽く、針は潤い、歌は胸で温い。弦は張り、熱瓶は眠い。ブラックは目を細め、ニーヤはひげを揺らす。あーさんは小さく頷き、俺は頷き返した。


タルフィートの風の礼を背に受けながら、俺たちは青銅の都へ向けて、踏み出した。





――



(つづく/次話:「青銅の都オルディカ」――“数の配達網”の心臓部、心拍計の針のすり替え、舳鈴の心と機械の鐘の相性試験。サジ&ゴンゾが語る“風の国抜け”の昔話が、都の下層で再び生きる。リンクの“危険察知”が初めて鳴り続ける夜、そして“名前を呼ばない礼”が試される大広場へ。)

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