邂逅、青の声
前書き(謎の声)
呼んだのは、お前か。
いや、違う。呼んでいたのは、あの夜からずっと——渇いた胸骨の隙間で、言葉にならぬ音を擦っていた者。
名を貼られて生きてきた人間よ。外の札をはがせぬまま、内側に空白を残した者よ。
来い。まだ手は触れぬ。声だけを置く。
森は冷たいが、渇きは殺す。まず水だ。
お前が選ぶのなら、私も名のないまま側にいる。
聞こえるか。では、行け。
森は、夜の底できしんでいた。
踏み出すたび、靴裏に湿った落ち葉が貼りついて、剥がれる音が心臓の拍を乱す。風はほとんど吹かないのに、細い枝同士が擦れ合って、遠い寺の木魚みたいな音を時おり立てた。
城の赤は、もう木立の向こうでぼやけている。耳の奥に残っていた鐘の残響も、土に吸われて小さくなっていった。
「……ここで一旦、息整えよか」
よっしーが顎で示したのは、倒木と根の間にできた小さな空洞だった。低木が張り出して、外からは影に見える。
ユウキは頷いて、千鶴の手首を引いた。汗で冷えた指が、頼りなくも確かに返事をする。
「ありがとうございます……」
声は掠れているのに、言い切るところに芯があった。彼女は膝をつき、袴の裾を抱えながら呼吸を整える。息が細く、入ってこない。
「ゆっくり吸って、長めに吐いて。吐く方を長く」
ユウキが手本を見せると、千鶴は頷き、ぎこちなく真似た。三度目で胸の上下が少し落ち着く。
「えらい。ほんまに」
よっしーが目だけで笑う。「泣くんも笑うんも、空気がいる。まず息や」
喉が焼けていた。
水がない。城を抜けるとき、配給の薄粥の木椀すら手放してしまった。
唇を舐めると、血の味がする。噛み締めた拍子に切れたのだろう。
(水……)
脳がそれしか言わなくなる前に、ユウキは思い出を呼んだ。家賃四万円の台所、安い蛇口から出たぬるい水の金属臭。あの水ですら、この森のどの葉より甘い気がする。
「水脈——探せるか?」
よっしーが短く問う。
「……やってみる」
探すと言っても、スキルで見えるわけじゃない。テイマーだとか、癒しだとか、柱の前で読み上げられた言葉は、いまここで役に立つ気がしない。
けれど、嗅げる。聴ける。
静かに目を閉じる。
鼻に入る匂いを一枚ずつ剥がす——湿った土、腐りかけの葉、遠い煙、樹皮の渋。
(甘い、冷たい……)
耳に残る音を拾い直す——枝の擦れ、虫の跳ね、夜鳥の一声。
そして、ずっと低い位置で、さらさらと、誰かが紙を撫でるような細い音。
(——右の方)
ユウキは顔を上げた。「行ける。右斜め、少し下り」
「信じるで」
よっしーは迷わず立ち、低い枝を手で押さえてくれた。千鶴がそこを潜る。
「滑るから足、先に置くんやなくて“置かせる”。土に任せて」
「……はい」
斜面を下ると、闇が少しだけ薄くなった。
木々の間に、夜の色を持ち上げるような、うっすらとした明るみがある。草が寝て、黒い土が見えて、そこだけ風の匂いが違った。
「ここ——窪んどる」
よっしーがしゃがみ込み、手甲で土を掻き分ける。指先が冷えに触れ、ぴたりと止まる。
「ある」
彼は土をさらにすくい、溜まった影を掌で受けた。
ユウキは顔を近づける。匂いで確信が広がる。
「湧いてる。浅いけど、十分」
千鶴が唇に手を当てたまま、目だけが潤んだ。
「器……無いですね」
「掌でええ。土ごと飲み込む気持ちや」
「でも、不浄が——」
「いまは、生きるための水や」
ユウキは膝をついて、手で小さなくぼみをつくり、そこへ水が滲み出て溜まるのを待った。掌が痺れるほど冷たい。
千鶴は恐る恐る手を伸ばし、指先で一滴をすくい、舌に乗せた。
「……甘い」
その小さな声が、森の夜に灯りのように浮いた。
ユウキも一口飲んだ。喉に触れた瞬間、さっきまで焼け石みたいだった内側が、じゅ、と静かに冷えていく。
(生き返る——)
声にならない声が、胸骨の裏で膨らんだ。
水を回し、三度、四度と掌の器を満たし直す。
よっしーは途中で手を止め、耳を澄ました。「……追いは、いまは無いな。耳が休んでる」
「休めるだけ、休もう。けど火は、まだ」
「焚かん。腹は、どうにか“気を紛らわせる”ほうで」
よっしーは倒木の皮をめくり、白い朽ち木を少し口に含むと吐いた。「繊維の匂いだけでも、錯覚くらいはする」
「錯覚……」千鶴が苦笑した。「わたくし、幻の重湯でもありがたくいただけそうです」
夜が深くなるにつれ、土の匂いの向こうから、別の気配が寄ってきた。
冷たいのに、痛くない。金属臭の代わりに、井戸の底の藍色の空気が、ふっと胸の奥を撫でていく。
(また——)
ユウキはゆっくり目を閉じた。水の位置を見つけたときと同じ、耳でも目でもないところに、声が触れる。
「よくやった」
囁きは、葉裏で生まれて、骨の内側に降りてきた。
「人間は、水を見つけるとき、昔の形に戻る。
嗅ぎ、聴き、待つ。
数値ではなく、息で測る」
(お前は——誰だ)
「呼ぶなら、まだ名は要らぬ。
名は、結ぶときに使う。
いまは、ただ側にいる」
音が、いちど薄くなる。
代わりに、ほんの一瞬、視界の片隅が青く揺れた。小さな蛍光の筋が、湧き水の縁に沿って、指で撫でたみたいに走って消える。
千鶴が、息を呑んだ。「今、光……」
「見えた?」
「はい。川面に映った月影のようで……でも、月は、木々で隠れて」
よっしーは目を細めるだけで、特に驚かない。「追っ手やないなら、ええ。こっちの味方や」
(味方——)
胸の奥で、言葉にまだならないものが、じんわり膨らむ。
「この先に、浅い獣道。
鹿と、人が通った。新しくはないが、嫌な匂いは薄い。
夜のうちに、木立の密いほうへ」
(わかった)
返事をしたつもりだった。口は動いていないのに、声は、それで満足したように静かに引いた。
千鶴が、ユウキの袖口を遠慮がちに引く。「あの……先ほどから、どなたとお話を?」
「わからない。けど、水に導いてくれた“何か”だ」
千鶴は胸の前で両手を組みかけ、はっとしてほどいた。「……失礼。癖で」
「いい癖や。祈るんは、ええ」
よっしーが枯葉を払って立ち上がる。「けど、祈るだけやと凍える。動こ」
歩く前に、ユウキは地面に落ちていた細い枝を二本拾って、千鶴に手渡した。「杖代わりに。転ばないように」
「ありがとうございます」
「俺も、一本」
よっしーは枝をくるりと回し、重さの偏りを確かめると、満足げに頷く。「ええバランスや」
獣道は、たしかにあった。人ひとりが肩をすぼめれば通れる程度の、低い枝のトンネル。土が柔らかく、足跡は古いけれど、たしかに何かがここを通った痕が残っている。
「足は、真後ろじゃなく少し外へ落とす。踏み跡重ねたら音が増えるさかい」
よっしーの言う通りに歩くと、枝の擦れが減った。
千鶴は二、三度つまずきかけ、そのたび小さく「失礼」と呟いて姿勢を直した。言葉の選び方はまだ明治のままなのに、歩みだけは少しずつ、この森のやり方を覚えていく。
月が一つ、雲間から顔を出した。
湿った光が、獣道の先をわずかに照らす。
その光の端で、黒い影がピクリと動いた。
止まる。
藪の中に、二つの目。小さな獣だ。
千鶴の腹が、きゅうと鳴った。自分で驚いたのか、頬を赤くする。
「……食べられるでしょうか」
ユウキは枝を握りしめた。
逃げる小さな命。空腹。手段は乏しく、狩りの経験はない。
(殺す——)
言葉にしてみると、喉が渇いたときとは違う種類の乾きが胸に広がった。
あの声が、そこで微かに触れる。
「奪え、ではない。
奪う術を、覚えるのは後でいい。
いまは、生き延びる術を重ねろ」
(——どうすれば)
「動く。
噛まず、飲む。
朝が来るまで、温を分け合う。
小さな獣は、今夜は、お前たちより弱くない」
影が、するりと藪に消えた。
千鶴が、枝を握る手に力を込めたまま、目を閉じた。「……すみません」
「謝ることやない」
ユウキは首を振る。「明日に回そう。いまは、凍えないことの方が先だ」
倒木の根の溝に、枯葉を厚めに敷き、三人で肩を寄せ合った。
火は焚かない。代わりに、裾や上着の裾を重ねて、空気の隙間を減らす。
よっしーが指示を出す。「足首を互い違いに。膝の内側で温める。手は脇、脇や。息で濡らすな」
千鶴は頷き、言われたとおりに体を畳んだ。震えは残るが、さっきより歯の根の合う音が少ない。
ユウキは、千鶴の肩に少しだけ重みを預けた。「重かったら、言って」
「……大丈夫です。人の重みは、暖かいですから」
その言い方が、あまりにも丁寧で、ユウキは笑いそうになった。笑えば、胸の痛いところが少しだけ軽くなった。
夜の真ん中で、再び声が来た。
「よくやっている。
お前は“ほどほど”という道を、まだ知らないまま歩いている。
いつか知る。殺し切らず、死に切らず。
それは弱さではない。
蝶番のように、重さを受けて動く知恵だ」
(蝶番?)
聞き慣れないのに、妙に胸に残る比喩だった。
「いずれ、出会う。
風の子と、森の賢者と。
そこで名を交わすとき、私は名を名乗ろう」
——風の子。
——森の賢者。
ユウキは、それが誰なのかまだ知らない。ただ、言葉の輪郭が、夜の形をほんの少しだけ優しく見せるのを感じた。
うとうとと眠りに落ちかけて、また戻り、時間がほどけたり結んだりする間に、空がわずかに薄くなった。
鳥が一度だけ鳴く。
冷気は緩まず、それでも、黒の濃さが少し退く。
よっしーが静かに起き上がって首を伸ばした。「東、灰色。動けるで」
千鶴も体を起こし、裾を整える。彼女の目の下にはくっきりと影があったが、その奥は澄んでいた。
「ありがとう、ございます」
「礼は、森に言いや」
ユウキは湧き水の場所に最後の礼を目で送って、立ち上がる。
歩き出す前、ふと振り返ると、黒い枝の先に一羽のカラスが止まっていた。
無表情な瞳がこちらを見て、首を小さく傾げる。
(——見られてる)
よっしーが肩をすくめる。「情報屋や。森でも街でも、ようおる」
千鶴は小さく会釈して、まじめに言った。「おはようございます」
カラスは何も言わず、羽を一度だけ広げて、朝の薄光の方へ消えた。
「行こう」
ユウキは、自分の声が昨日より少しだけ前を向いているのに気づいた。
森の奥へ。獣道の先へ。
足の裏に、土の粒が一つずつ確かに触れてくる。
最後にもう一度、声が、遠くで囁いた。
「よく、聞こえた。
では、また」
青い気配は、露の粒の隙間に沈み、朝の匂いに溶けた。
それだけで、少しだけ、お腹が減らなくなった気がした。
今日を越えれば、きっと次が来る。
ユウキたちは、互いの歩幅を覚え合いながら、まだ見ぬ風の子の方角へ歩き出した。




