表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/360

邂逅、青の声

前書き(謎の声)


 呼んだのは、お前か。

 いや、違う。呼んでいたのは、あの夜からずっと——渇いた胸骨の隙間で、言葉にならぬ音を擦っていた者。

 名を貼られて生きてきた人間よ。外の札をはがせぬまま、内側に空白を残した者よ。

 来い。まだ手は触れぬ。声だけを置く。

 森は冷たいが、渇きは殺す。まず水だ。

 お前が選ぶのなら、私も名のないまま側にいる。

 聞こえるか。では、行け。







 森は、夜の底できしんでいた。

 踏み出すたび、靴裏に湿った落ち葉が貼りついて、剥がれる音が心臓の拍を乱す。風はほとんど吹かないのに、細い枝同士が擦れ合って、遠い寺の木魚みたいな音を時おり立てた。

 城の赤は、もう木立の向こうでぼやけている。耳の奥に残っていた鐘の残響も、土に吸われて小さくなっていった。


 「……ここで一旦、息整えよか」

 よっしーが顎で示したのは、倒木と根の間にできた小さな空洞だった。低木が張り出して、外からは影に見える。

 ユウキは頷いて、千鶴の手首を引いた。汗で冷えた指が、頼りなくも確かに返事をする。

 「ありがとうございます……」

 声は掠れているのに、言い切るところに芯があった。彼女は膝をつき、袴の裾を抱えながら呼吸を整える。息が細く、入ってこない。

 「ゆっくり吸って、長めに吐いて。吐く方を長く」

 ユウキが手本を見せると、千鶴は頷き、ぎこちなく真似た。三度目で胸の上下が少し落ち着く。

 「えらい。ほんまに」

 よっしーが目だけで笑う。「泣くんも笑うんも、空気がいる。まず息や」


 喉が焼けていた。

 水がない。城を抜けるとき、配給の薄粥の木椀すら手放してしまった。

 唇を舐めると、血の味がする。噛み締めた拍子に切れたのだろう。

 (水……)

 脳がそれしか言わなくなる前に、ユウキは思い出を呼んだ。家賃四万円の台所、安い蛇口から出たぬるい水の金属臭。あの水ですら、この森のどの葉より甘い気がする。


 「水脈みお——探せるか?」

 よっしーが短く問う。

 「……やってみる」

 探すと言っても、スキルで見えるわけじゃない。テイマーだとか、癒しだとか、柱の前で読み上げられた言葉は、いまここで役に立つ気がしない。

 けれど、嗅げる。聴ける。

 静かに目を閉じる。

 鼻に入る匂いを一枚ずつ剥がす——湿った土、腐りかけの葉、遠い煙、樹皮の渋。

 (甘い、冷たい……)

 耳に残る音を拾い直す——枝の擦れ、虫の跳ね、夜鳥の一声。

 そして、ずっと低い位置で、さらさらと、誰かが紙を撫でるような細い音。

 (——右の方)

 ユウキは顔を上げた。「行ける。右斜め、少し下り」

 「信じるで」

 よっしーは迷わず立ち、低い枝を手で押さえてくれた。千鶴がそこを潜る。

 「滑るから足、先に置くんやなくて“置かせる”。土に任せて」

 「……はい」


 斜面を下ると、闇が少しだけ薄くなった。

 木々の間に、夜の色を持ち上げるような、うっすらとした明るみがある。草が寝て、黒い土が見えて、そこだけ風の匂いが違った。

 「ここ——窪んどる」

 よっしーがしゃがみ込み、手甲で土を掻き分ける。指先が冷えに触れ、ぴたりと止まる。

 「ある」

 彼は土をさらにすくい、溜まった影を掌で受けた。

 ユウキは顔を近づける。匂いで確信が広がる。

 「湧いてる。浅いけど、十分」

 千鶴が唇に手を当てたまま、目だけが潤んだ。

 「器……無いですね」

「掌でええ。土ごと飲み込む気持ちや」

 「でも、不浄が——」

 「いまは、生きるための水や」

 ユウキは膝をついて、手で小さなくぼみをつくり、そこへ水が滲み出て溜まるのを待った。掌が痺れるほど冷たい。

 千鶴は恐る恐る手を伸ばし、指先で一滴をすくい、舌に乗せた。

 「……甘い」

 その小さな声が、森の夜に灯りのように浮いた。

 ユウキも一口飲んだ。喉に触れた瞬間、さっきまで焼け石みたいだった内側が、じゅ、と静かに冷えていく。

 (生き返る——)

 声にならない声が、胸骨の裏で膨らんだ。


 水を回し、三度、四度と掌の器を満たし直す。

 よっしーは途中で手を止め、耳を澄ました。「……追いは、いまは無いな。耳が休んでる」

 「休めるだけ、休もう。けど火は、まだ」

 「焚かん。腹は、どうにか“気を紛らわせる”ほうで」

 よっしーは倒木の皮をめくり、白い朽ち木を少し口に含むと吐いた。「繊維の匂いだけでも、錯覚くらいはする」

 「錯覚……」千鶴が苦笑した。「わたくし、幻の重湯でもありがたくいただけそうです」


 夜が深くなるにつれ、土の匂いの向こうから、別の気配が寄ってきた。

 冷たいのに、痛くない。金属臭の代わりに、井戸の底の藍色の空気が、ふっと胸の奥を撫でていく。

 (また——)

 ユウキはゆっくり目を閉じた。水の位置を見つけたときと同じ、耳でも目でもないところに、声が触れる。


 「よくやった」


 囁きは、葉裏で生まれて、骨の内側に降りてきた。

 「人間は、水を見つけるとき、昔の形に戻る。

  嗅ぎ、聴き、待つ。

  数値ではなく、息で測る」

 (お前は——誰だ)

 「呼ぶなら、まだ名は要らぬ。

  名は、結ぶときに使う。

  いまは、ただ側にいる」

 音が、いちど薄くなる。

 代わりに、ほんの一瞬、視界の片隅が青く揺れた。小さな蛍光の筋が、湧き水の縁に沿って、指で撫でたみたいに走って消える。

 千鶴が、息を呑んだ。「今、光……」

 「見えた?」

 「はい。川面に映った月影のようで……でも、月は、木々で隠れて」

 よっしーは目を細めるだけで、特に驚かない。「追っ手やないなら、ええ。こっちの味方や」


 (味方——)

 胸の奥で、言葉にまだならないものが、じんわり膨らむ。

 「この先に、浅い獣道。

  鹿と、人が通った。新しくはないが、嫌な匂いは薄い。

  夜のうちに、木立の密いほうへ」

 (わかった)

 返事をしたつもりだった。口は動いていないのに、声は、それで満足したように静かに引いた。

 千鶴が、ユウキの袖口を遠慮がちに引く。「あの……先ほどから、どなたとお話を?」

 「わからない。けど、水に導いてくれた“何か”だ」

 千鶴は胸の前で両手を組みかけ、はっとしてほどいた。「……失礼。癖で」

 「いい癖や。祈るんは、ええ」

 よっしーが枯葉を払って立ち上がる。「けど、祈るだけやと凍える。動こ」


 歩く前に、ユウキは地面に落ちていた細い枝を二本拾って、千鶴に手渡した。「杖代わりに。転ばないように」

 「ありがとうございます」

 「俺も、一本」

 よっしーは枝をくるりと回し、重さの偏りを確かめると、満足げに頷く。「ええバランスや」


 獣道は、たしかにあった。人ひとりが肩をすぼめれば通れる程度の、低い枝のトンネル。土が柔らかく、足跡は古いけれど、たしかに何かがここを通った痕が残っている。

 「足は、真後ろじゃなく少し外へ落とす。踏み跡重ねたら音が増えるさかい」

 よっしーの言う通りに歩くと、枝の擦れが減った。

 千鶴は二、三度つまずきかけ、そのたび小さく「失礼」と呟いて姿勢を直した。言葉の選び方はまだ明治のままなのに、歩みだけは少しずつ、この森のやり方を覚えていく。


 月が一つ、雲間から顔を出した。

 湿った光が、獣道の先をわずかに照らす。

 その光の端で、黒い影がピクリと動いた。

 止まる。

 藪の中に、二つの目。小さな獣だ。

 千鶴の腹が、きゅうと鳴った。自分で驚いたのか、頬を赤くする。

 「……食べられるでしょうか」

 ユウキは枝を握りしめた。

 逃げる小さな命。空腹。手段は乏しく、狩りの経験はない。

 (殺す——)

 言葉にしてみると、喉が渇いたときとは違う種類の乾きが胸に広がった。

 あの声が、そこで微かに触れる。

 「奪え、ではない。

  奪う術を、覚えるのは後でいい。

  いまは、生き延びる術を重ねろ」

 (——どうすれば)

 「動く。

  噛まず、飲む。

  朝が来るまで、温を分け合う。

  小さな獣は、今夜は、お前たちより弱くない」

 影が、するりと藪に消えた。

 千鶴が、枝を握る手に力を込めたまま、目を閉じた。「……すみません」

 「謝ることやない」

 ユウキは首を振る。「明日に回そう。いまは、凍えないことの方が先だ」


 倒木の根の溝に、枯葉を厚めに敷き、三人で肩を寄せ合った。

 火は焚かない。代わりに、裾や上着の裾を重ねて、空気の隙間を減らす。

 よっしーが指示を出す。「足首を互い違いに。膝の内側で温める。手は脇、脇や。息で濡らすな」

 千鶴は頷き、言われたとおりに体を畳んだ。震えは残るが、さっきより歯の根の合う音が少ない。

 ユウキは、千鶴の肩に少しだけ重みを預けた。「重かったら、言って」

 「……大丈夫です。人の重みは、暖かいですから」

 その言い方が、あまりにも丁寧で、ユウキは笑いそうになった。笑えば、胸の痛いところが少しだけ軽くなった。


 夜の真ん中で、再び声が来た。

 「よくやっている。

  お前は“ほどほど”という道を、まだ知らないまま歩いている。

  いつか知る。殺し切らず、死に切らず。

  それは弱さではない。

  蝶番のように、重さを受けて動く知恵だ」

 (蝶番?)

 聞き慣れないのに、妙に胸に残る比喩だった。

 「いずれ、出会う。

  風の子と、森の賢者と。

  そこで名を交わすとき、私は名を名乗ろう」

 ——風の子。

 ——森の賢者。

 ユウキは、それが誰なのかまだ知らない。ただ、言葉の輪郭が、夜の形をほんの少しだけ優しく見せるのを感じた。


 うとうとと眠りに落ちかけて、また戻り、時間がほどけたり結んだりする間に、空がわずかに薄くなった。

 鳥が一度だけ鳴く。

 冷気は緩まず、それでも、黒の濃さが少し退く。

 よっしーが静かに起き上がって首を伸ばした。「東、灰色。動けるで」

 千鶴も体を起こし、裾を整える。彼女の目の下にはくっきりと影があったが、その奥は澄んでいた。

 「ありがとう、ございます」

 「礼は、森に言いや」

 ユウキは湧き水の場所に最後の礼を目で送って、立ち上がる。


 歩き出す前、ふと振り返ると、黒い枝の先に一羽のカラスが止まっていた。

 無表情な瞳がこちらを見て、首を小さく傾げる。

 (——見られてる)

 よっしーが肩をすくめる。「情報屋や。森でも街でも、ようおる」

 千鶴は小さく会釈して、まじめに言った。「おはようございます」

 カラスは何も言わず、羽を一度だけ広げて、朝の薄光の方へ消えた。


 「行こう」

 ユウキは、自分の声が昨日より少しだけ前を向いているのに気づいた。

 森の奥へ。獣道の先へ。

 足の裏に、土の粒が一つずつ確かに触れてくる。


 最後にもう一度、声が、遠くで囁いた。

 「よく、聞こえた。

  では、また」

 青い気配は、露の粒の隙間に沈み、朝の匂いに溶けた。


 それだけで、少しだけ、お腹が減らなくなった気がした。

 今日を越えれば、きっと次が来る。

 ユウキたちは、互いの歩幅を覚え合いながら、まだ見ぬ風の子の方角へ歩き出した。


挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ