第42話 紅玉の峡 ―― 二重の拍をほどく
(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)
塩の譜を背に、俺たちは東南へ折れた。やがて大地の色は白から朱へ、朱から深い紅へと移り変わる。遠目にはレンガを積み上げた城壁のよう、近づけば石ひとつひとつが内側から灯るような赤を抱いている。ラヤが地図歌を低く継いだ。
「ここが“紅玉の峡”。古い海の崖が火で焼かれ、音を食べて紅になった。――音は食べるが、声は渡す」
「音と声、ちがうんやな?」
よっしーがFZRのクラッチを切りながらたずねる。ラヤは小さく笑った。
「音は“数えられるもの”に近い、声は“呼びかけ”。峡は呼びかけに足場を返す」
“声の足場”。前にもそんな言い回しがあった気がする。俺は旗の〈囁き手〉を肩に掛け直し、〈暗い拍〉を沈ませる準備をした。
入口の洞は、ぐっと喉のように狭い。左右の壁が互いの呼吸を測るように向き合い、足元は波の化石みたいな皺。上に空のひと筋。風がそこを通るたび、二拍のこすれる音が響いた。――ひとつは早い、ひとつは遅い。ぴたりと合いそうで合わない“二重の拍”。
「合わへんまま突っ込むと、列が割られるで」
よっしーが後ろを振り返る。俺は頷き、列を組み直す。
• 先行:FZR+舳鈴 → 〈呼吸〉を作る
• 中核:相棒(エレオノーラ運転/クリフさん助手) → 〈心拍〉を一定に
• 橋:舟“いえ”(帆半巻) → 〈ためらい〉の布で段差を撫でる
• 中央:ミラ(針)+ラヤ(歌)+キリア(熱瓶)
• 守り:俺(旗)+あーさん(掌の水)+ブラック
「“早い拍”に合わせへん。“遅い拍”にも寄らへん。――両拍の間に“ためらい”を置く」
ミラが針箱を腰に括り直し、きっぱりと言う。あーさんは盃に掌の水を受け、舳鈴は布越しに二拍・半拍・空白の順で擦れた。俺は旗で足元に〈戻る拍〉を薄く置き、相棒はアイドルをひと目盛り下げる。FZRが“息”を刻み、二重の拍の“谷”に軽く前輪を落とした。
紅の壁は、確かに声を返した。よっしーが吐いた息が壁の襞で“足場”になり、前へ出るための踏み所が一瞬あらわれる。そこへニーヤの舳鈴がそっと音を置く。エレオノーラは相棒の鼻を“足場”に合わせ、右前輪だけをひとつ先へ。舟は帆の『へ』を半拍止め、段差を撫でてから乗せる。俺は旗の影を、次の“声の足場”の直前に薄く置き、あーさんは掌の水で滑りを作る。
一歩。二歩。三歩。――足場は続いた。
反響の祠と“倍音の鍵”
峡の三つ目の屈曲で、壁面が抉れて小さな祠になっているところに出た。中には赤い石片に刻まれた記号――点・線・小さな弧。ラヤが歌に訳した。
「“声は一本に見えて二本。二本に見えて一本。――倍音の鍵を回せ”」
倍音。クリフさんが弦を軽く鳴らし、その上に指をそっと触れる。「基音の上に薄い影の音を立てるやつだな」
「やってみよう」
俺は旗を肩から外し、〈囁き手〉の端をくるりと巻いて“空気の孔”を作った。ニーヤが舳鈴で基音の二拍に“薄音”を足し、クリフさんが弦で“ハーモニクス”を浮かべる。ミラは針で祠の縁に“返し縫い”の点を二つ、ずらして置く。ラヤの声が倍音の輪郭を塗り、キリアの熱瓶が空気の温度差を作る。あーさんが掌の水を薄く散らし、よっしーはFZRの回転数を基音より僅かに高く保った。エレオノーラは相棒の心拍を低く一定に――拍を“地”に敷く。
祠の奥で、石が“呼吸”した。二重だった峡の拍が、一瞬だけ“合う”。その刹那、目の前の段差が“低く”なる。列は一気にひと段、上がった。
「倍音の鍵、効くな」
よっしーが親指を上げる。だが浮かれている暇はない。峡はさらに深く、狭く、そしてどこか“湿った”匂いに変わりつつあった。――塩ではない、油。青銅の都の匂いが、風に混ざり始める。
運搬枠 ―― 数で走る台車
峡の七曲りで、先の視界がふいにひらけた。赤の床の上に、鈍い金属のレールが二条。そこに箱型の台車が三つ、無人で載っている。台車の縁には黒い数字の刻印。レールの脇に薄い柱。柱が振れるたび、台車が“数の拍”で少しずつ進む。
「青銅の都からの“運搬枠”や」
エレオノーラが吐き捨てるように言った。「枠自体が車両で、数で動く。人を運ぶより、拍を奪うのが仕事や」
台車は人影を認知するや、刻印の数字を一桁上げ、前へ出ようとする。こちらの列の拍に“割り込み”、足場を崩す算段だ。
「止める?」
クリフさんが矢ではなく矢筒の蓋を叩く。俺は首を振る。
「“止める”だと〈数〉で勝負になる。――“ほどく”」
ミラが前に出て、針先で台車の角の布――いや、布に見えるが、細い金属の編み――に“返し縫い”の手振りを見せる。ラヤが数字を歌に置き換え、数字の〈位〉ごとに違う母音を割り当てた。ニーヤが舳鈴を〈位〉の変わり目だけ擦り、よっしーはFZRでレールの側を軽くタイヤで撫でて“段差の嘘”を作る。あーさんは掌の水でレールを湿らせ、“滑り”と“ためらい”を両方染み込ませる。俺は旗を低く構え、台車の影の縁に〈空白〉を置く。キリアが熱瓶をレールの下に差し入れて温度の段差を作り、クリフさんは弦で“位相”をずらした。
数字は“読めなくなった”。位が母音に変わり、母音は風に滲み、台車の刻印は“自分で自分を説明できない”状態に追い込まれる。台車は一瞬だけ迷い、やがて“安全側”へ――レールの端へ退いた。
「一両、退行。二両、停止。三両……」
三両目だけ、動きを止めない。刻印が一瞬だけ“枠師の筆癖”を見せた。――誰かが遠隔で見ている。青銅の都の“輸送室”と繋がっているのかもしれない。
「なら、こっちは“声の足場”で跨ぐ!」
俺は旗で峡の壁に“声の手形”を二つ置き、ニーヤが舳鈴でそこを“鳴り石”に変える。よっしーがFZRで一気に飛び、相棒はエレオノーラの手で鼻を上げ、舟は帆の『へ』を強めに止めてから滑らせた。ミラは針で最後尾の足場を縫い付け、あーさんの水は台車の角に“ためらい”を付ける。キリアは熱瓶でレールを冷やし、クリフさんは弦で残響を“食う”。ラヤの歌が列の息を合わせ、俺は最後に〈戻る拍〉の札を足元に落とす。
三両目は、うしろ向きに一歩だけ下がった。――その隙に、俺たちは跨いだ。
狭間の棚 ―― クルマから舟へ、舟から足へ
峡はさらに狭く、床は段差の連続へと変わった。ここからは相棒の腹を擦らせないため、役目を入れ替える。
「相棒は“息継ぎ”。舟が主役」
よっしーが合図を出し、相棒は一段下の広い棚に回り込み、アイドリングで“心拍を供給”。舟は帆を三分の一だけ張り、“座り橋”から“跳ね橋”へ変態する。舳鈴は三拍に“返し拍”を挟み、布の下に空気の楔を作る。ミラは帆の『へ』の裏へ新しい名のない布を一枚添え、ラヤが歌で布を“軽く”。キリアは熱瓶で岩の“冷え”を鈍らせ、ニーヤは鈴を枠に擦り、クリフさんは弦で足場の“鳴り”を読む。あーさんは掌の水で靴底を湿らせて滑りすぎを防ぎ、俺は旗で次の手形の位置を示す。
段差を一つ、二つ、三つ――攀じるのではない。乗り換える。声の足場から布の足場へ、布から水の足場へ、水から拍の足場へ。峡は呼びかけに足場を返し続けた。
“喉”の広間 ―― ためらいの祭壇
紅玉の峡のただ中、“喉”と呼ばれる自然の広間がある。天井が高く、壁はつややかで、中央に低い台がひとつ。台の上には、割れた碗と、細い管。碗は乾いて白く、管は赤く濡れている。
「“ためらいの祭壇”」
ラヤが囁く。「ここで昔、砂の民と青銅の民が“拍の取り決め”をした。――それを破った方が、峡の声に嫌われる」
嫌われたくない。俺たちは台を囲み、順に小さな礼を置いた。あーさんは掌の水を碗に一滴。ミラは針で台布のほつれを一針。エレオノーラは靴底の砂を払い、クリフさんは弦を緩め直す。キリアは熱瓶の口を閉め、ニーヤは舳鈴を柔らかく撫でる。よっしーはFZRのエンジンを止めて帽子を取る。俺は旗を胸に抱え、〈戻る拍〉を碗の縁に置いた。
「――“拍を奪うな。拍を返せ”」
誰の声でもない声が、広間の上の暗がりから落ちてきた。俺たちは一斉に頷いた。
青銅の“声挿し” ―― 数の楔を抜く
広間を出ると、峡の“喉”の先に、青銅の楔が打ち込まれていた。楔の上に薄い板が差し入れられ、そこから“人工の声”が峡に流し込まれている。――声といっても、それは〈数の声〉。拍を奪うための“声挿し”だ。
「抜こか」
よっしーが低く笑い、エレオノーラが矢ではなく手袋をはめた。ミラは針の向きを変え、ラヤは歌を反転させる。ニーヤは鈴で“逆拍”を刻み、キリアは熱瓶で楔の熱を奪う。あーさんは掌の水を細く糸にして楔の縁に通し、俺は旗で“空白の輪”を楔の周りに置く。クリフさんは弦で“抜く前の静けさ”を作った。
楔の“数の声”は、俺たちの〈無声の輪〉に絡め取られ、自分で自分をほどいた。板は滑り落ち、楔は少し浮く。エレオノーラが一気に抜き、よっしーがFZRで斜めに引いて“実体の支え”をずらす。楔は抜けた。峡は軽く溜息をつき、壁の赤が一段明るくなった。
迷い子と“声の名札”
峡の奥で、細い影がすっと岩の裏に消えた。子どもだ。肩に砂の布を掛け、目だけが紅の暗がりで光る。俺が呼びかける前に、あーさんが膝をついて掌の水を掲げた。
「大丈夫。あなたの“声の名札”、一緒に探しましょう」
この地域では、幼子は“声の名札”を持つ。布に縫われた小さな音の縫い目。迷ったとき、その名札を峡が返してくれる。けれど、青銅の楔で声が挿し替えられていたせいで、峡は返せなくなっていたのだろう。
ミラが針で赤布の端に“呼び縫い”を一針、あーさんは掌の水でその一針を湿らせ、ラヤがその縫い目に“母音”を落とす。舳鈴が一度だけ擦れ、峡の壁のどこかで“チリ”と音がした。そこに、小さな名札が砂に半分埋もれていた。
子どもは名札を胸に押し当て、無言で頷き、すっと別の通りへ消えた。名は呼ばない。呼ばないことで、帰る道が残る。
峡の出口 ―― 声の橋を最後に
峡の最奥、出口の手前に最後の“欠け”があった。床が途切れ、向こうの棚まで人二人ぶんの幅。高さはたいしたことはないが、峡の風が二重の拍で横へ引く。
「声で橋、つくろか」
クリフさんが弦を握り、俺は旗の端をほどく。ニーヤが舳鈴を“擦り出し”、ラヤは〈母音の梁〉を歌う。ミラは空中に“縫い止め”の手振りを置き、あーさんが掌の水を霧にして梁の上に薄く散らす。よっしーはFZRで風の“向きを読む”だけに徹し、エレオノーラは相棒のアイドリングを少し上げて心拍を供給。キリアは熱瓶で空気の層の厚みを整えた。
まず、俺が渡る。旗の影が梁の上に降り、足に“踏みしろ”の感覚が返ってくる。次にミラ。針を握ったまま猫のように軽い。次にあーさん。俺は手を差し出す。彼女の掌は水の匂いがして、指先が少しだけ震えていたが、足取りは思ったよりも確かだった。
「大丈夫、あーさん」
「ええ。……“声の橋”、美しゅうございます」
最後に相棒。ここだけはクルマを渡す必要がある。エレオノーラがハンドルを握り、前輪を梁の“なるほど”へ導く。よっしーが後ろから軽く押し、俺は旗で“戻る拍”を梁の下に置き、ニーヤは舳鈴を三拍に。クリフさんは弦で“重量の歌”を鳴らし、キリアは熱瓶でタイヤの前の空気を“厚く”。――渡った。
峡の出口の空が、ぱっと広がった。赤から群青へ、一気に世界が変わる。
“静かな門” ―― イシュタムの余韻
峡を抜けた先は、風の音が薄い台地だった。遠くに埋もれた青銅の塔、近くに草の影、空は乾いているのに、耳が休まる。中央に石を二つ積んだ“門”――といっても、くぐるための高さではない。膝の上くらいの低い石組み。ラヤが歌をほどきながら、その名を口の裏で転がした。
「“静かな門”。――イシュタムの余韻が、薄く残ってる」
俺の胸の奥で、石の鳥が片翼だけをそっと広げるような感覚がした。イシュタム。あの時、石の書から声を受けた存在。アンリが言った“力は諸刃”という警告が耳奥で鳴る。
「ここは“声を置いていく場所”。先に進むため、余分な声を門に預ける。――代わりに“帰る拍”を少し持たせてくれる」
ミラが針を抜き、名のない布に小さな紋を縫いつける。あーさんは掌の水で布を湿らせ、俺は旗の端をほどいてその布に“影のひと欠片”を織り込んだ。よっしーは相棒のエンジンを切り、FZRに毛布を掛ける。エレオノーラは矢筒の中身を数え直し、クリフさんは弦をひとつ弛める。ラヤは歌を半拍、止めた。キリアは熱瓶をひとつ、陰へ置く。ニーヤは舳鈴を撫で、ブラックは石の影で小さくあくび。
門は何も言わない。言わないまま、台地の空気が少しやわらいだ。胸の奥の石の鳥は、それ以上は広げない。よし。――まだ“闇”ではない。
追っ手の影と“輪郭狩り”
安堵の息は短かった。台地の向こう、陽炎の中に四角い影が三つ、四つ。枠舟ではない。――“輪郭狩り”だ。第三の糸の中でも、道の輪郭そのものを“刈り取る”連中。彼らは道を失わせ、拍を浮遊させ、列を宙ぶらりんにする。
「距離、ある。けど、こっちに“数の風”を投げてきよる」
よっしーが目を細める。ラヤが耳を澄まし、ミラは針を握る。ここで正面から戦えば、道が裂ける。俺は石の門に指を置き、〈戻る拍〉をもう一枚、胸に引き寄せた。イシュタムの余韻が、波紋のように広がって消える。――使いどころは、ここじゃない。
「輪郭を“濃く”してやれば、刈る対象が“多すぎて刈れない”」
ミラがにやりと笑う。あーさんが掌の水を霧にして台地に広げ、よっしーはFZRで薄いタイヤ跡を複数の“嘘道”に増殖させる。相棒はアイドリングで低い拍を広く撒き、ニーヤは舳鈴で“類音”を辺りじゅうに散らす。クリフさんは弦で“輪郭のふち”だけを撫で、キリアは熱瓶で地面に“温度の尾”を描く。ラヤは歌で“地図の未記載”を声にし、俺は旗で“影の輪郭”を点々と置いた。
輪郭狩りは遠くで一度、二度、刈り込んだ。だが刈り跡は“すぐ増える”。狩る対象が増えすぎ、刈りの精度が落ちる。やがて影は方針を変え、青銅の都の方角へ折れた。追撃はしない。礼を知らない刈りは、礼を置けば勝手に離れる。
風のテラス ―― 旅の稽古
夕刻。台地の縁に風のテラスのような場所を見つけ、幕を張った。塩の譜ほどの甘さはないが、紅の余熱が頬に気持ちよい。簡単な煮込みを火にかけ、パンを温め、ミントを揉む。サリーフから借りた“歌束”を少し開き、塔で受け取った“返礼の拍”と照らし合わせて戻す順序を決める。
「綴」
クリフさんが呼ぶ。「声の足場、今日ので掴んだこと、言葉に落としておけ。次に渡す者のために」
俺はうなずき、旗の裏に“手形の順序”を小さく記した。――“息→鈴→水→旗→帆のへ→弦→針→熱→車の拍”。順序は絶対ではない。けれど“どこでためらうか”を書き残すのは大事だ。
「……ありがとう、クリフさん」
「お互い様だ」
あーさんが湯を配り、よっしーが相棒のエンジンを軽く回して油を回す。エレオノーラは矢の羽根を撫で、ミラは針先を砥石で軽く整え、ラヤは声を湿らせ、キリアは熱瓶の栓の鳴りを確かめる。ニーヤは舳鈴を磨き、ブラックは俺の膝で丸くなった。
夜半の呼び声 ―― “赤い糸道”
夜半、風がふと止み、紅の岩が低く鳴った。遠くで誰かが“足場を探す声”をこぼす。道に迷った隊だ。俺たちは起きた。ミラは針、あーさんは水、よっしーはFZR、俺は旗――最小編成で向かう。風のテラスから斜め下へ、赤い石の“糸道”が伸びている。そこに三人の影。背負子、壺、布。サフラでもサリーフでもない。――“紅玉の採り手”。
「大丈夫か」
名は呼ばない。男はうなずき、喉を押さえた。峡の“二重の拍”にやられ、呼吸が裏返っている。あーさんが掌の水を少しずつ舌の縁に落とし、俺は旗で〈戻る拍〉を胸骨の上に置いた。ニーヤが舳鈴で“足場”を三つ、前に置く。よっしーはFZRを横にねかせ、ライトの反射を壁に“足場の印”として返す。ミラは男の踵に“返し縫い”の軽い指圧。
呼吸が戻る。男は胸を叩いて礼をし、布の包みを差し出そうとした。俺は手を振る。
「礼は、拍で。――戻る拍が足りんところへ置いてくれ」
男はうなずき、布を引っ込め、胸に小さく手を当てて低い声を一つ。――それで十分だ。
夜明け前の相談 ―― 次の一手
夜明け前、淡い青の縁が空にさす。テラスの端で、俺たちは次の地図歌を囲んだ。東――青銅の都。南――砂の深奥。西――塩の譜。北――黒曜の窓辺。俺たちは東南のまま、斜めに降りて“風止まり”の町“タルフィート”を目指すのが良い、とラヤが言った。そこには“舳鈴の心”に合う古い鐘の破片が眠っているらしい。青銅の都へ直行すれば部品は早いが、拍を食われる。――回り込む。
「よっしー、地の足は?」
「相棒は上々や。FZRは一回キャブを洗いたい。タルフィートで“息の管”が拾えるかも」
「ミラ、“へ”の布は?」
「名のない布、あと三枚。紅玉で一枚増やせる。――あの祠の赤糸を少しだけ借りる許しを、明朝に貰いに行く」
「あーさん、水は?」
「掌の水は充分。でも、瓶の水は半分。タルフィートの“風の井戸”で足せます」
「ニーヤ、舳鈴は?」
「心が少し痩せたニャ。鐘の破片が要るニャ」
「クリフさん、弦は?」
「一本換える。タルフィートに“竪琴の腸”があるはずだ」
それぞれの不足が“道の言葉”になる。道は不足の中に現れ、満ちてはまた欠ける。――その繰り返しが、旅だ。
朝、赤の見送り
朝日が紅の壁に差し、峡の口が金色に光った。俺たちは幕を畳み、荷をまとめ、列を整えた。サリーフから借りた歌束のうち一巻を塩の譜へ返す“返路”も、ラヤが頭の中で整えている。紅玉の峡は、昨日よりもやさしい色で俺たちを見ていた。
「短一回」
よっしーの軽いクラクション。「ピッ」。舳鈴が一度擦れ、旗の〈囁き手〉が低く息を吐く。相棒は低い心拍で応え、FZRは一瞬だけ甲高く鳴ってすぐ沈めた。ミラの針が袖口で光り、ラヤの歌が胸の奥で薄く鳴る。あーさんの掌の水が盃に揺れ、クリフさんの弦が空気を撫で、キリアの熱瓶が朝の温さを抱いた。ニーヤは尻尾で舳鈴の布を整え、ブラックは俺の肩で小さく身じろぎした。
紅玉の峡を振り返ると、祠の縁に小さな赤糸が一本、結ばれていた。倍音の鍵に礼を言い、俺は胸の内で“戻る拍”を一つ落とした。帰る道は、いつでもここにある。――名は呼ばなくていい。
風止まり“タルフィート”へ
台地はやがてゆるやかに傾き、風の勢いが落ちた。遠くに、風車でも水車でもない“風止まり輪”が並ぶ町が見える。小さな円筒を横倒しにしたような装置が行儀よく丘に刺さり、回るかわりに風を“貯める”。その底に、市があるという。
「タルフィート。――風を止め、音を寝かせ、拍にする町」
ラヤが微笑んだ。俺は旗を肩で整え、胸の奥の石の鳥の静けさを確かめた。イシュタムの余韻は、まだ穏やかだ。使わない。――使わなくて済むなら、それがいちばんいい。
「行こか」
よっしーが片手を上げ、相棒の鼻が軽く下がる。FZRが呼吸を合わせ、舟が帆の『へ』を小さくためらわせる。俺たちは、風を止める町へ――“舳鈴の心”を求めて、歩を進めた。
低く、遠くへ。
声と拍と、少しのためらいを連れて。
――
(つづく/次話:「風止まりタルフィート」――風を“貯める輪”の仕組みと、舳鈴の心に合う古鐘の破片探し。青銅の都から伸びる“数の配達網”との静かな綱引き、よっしーのFZR“息の管”再生、そしてあーさんの掌の水が町の“風の井戸”に見せるさざ波。)




