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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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風の塔から、石の都へ(前編)

[前編・本文ブロック]


(主人公・相良ユウキ=“綴” の視点)


夜を二つ越え、碑の原の東端に、石を積み上げた都が見えた。渦のように環を描く外壁――“渦都うずとエルネス”。赤衣の鉄書院が一つの核だとすれば、この都は“段”の実験場なのだとエレオノーラは言った。


「でも、風の塔の印も少しあるニャ。完全に赤のものでもないニャ」


ニーヤの鼻がぴくりと動く。たしかに城壁の上、風見の板が等間隔に取り付けられている。紙守の“糸口”がある。


「潜るより、入る口を選ぼう。――祭日さいじつだ」


城門前の広場は賑わっていた。紙人形を掲げた行列、歌う子ども、香草の湯気。赤衣の姿は目立たず、代わりに灰色の作業服――工匠たちの列が主役を張っていた。黒印工房群から運ばれた“新型の押し型”の披露会だという。


「堂々と入るのが、一番目立たへん」


よっしーがハンドルを握りしめる。ハチロクは今回、布で覆って荷車に偽装した。俺たちは工匠の行列の後ろに並び、入城検めの列につく。門の上から見下ろす兵の視線は鋭いが、祈り札の“鉄書式”が門の内側にだけ貼られているのが分かる。外には貼らない。外の風を嫌っている証だ。


「偽印、いけるか?」


旗の端に縫い込んだタリアの“風紋”を指先で撫でる。紙針で糸を一目だけ起こし、門の札にそっと触れさせた。祈り札が一瞬だけ“くすぐったそう”に揺れ、門の段の歯が半拍、抜ける。


「通ってよし!」


上から声が落ち、列が動く。俺たちは渦都へ入った。石畳は螺旋で、中心へ向かって細くなる。風の通りは悪い。だからこそ、どこかの角に必ず風の抜け道がある。紙守が昔、掘った細い穴。俺の〈探索〉の糸は、そんな“隙”を見つけるためにある。


「まずは“風のくら”だ。塔の出張所があるはず」


渦の二の環、裏路地の一番奥に、貧相な戸があった。ドアに小さく釘一本。叩き方は“旗一拍、間一拍、旗二拍”。老人の塔で教わった通りに叩くと、戸がわずかに開いて、紙の匂いが漏れた。


「旗の人」


痩せた青年が顔を出し、俺たちを見ると安堵の笑みを浮かべる。頬に煤の痕があり、指に紙の切り傷。工匠上がりの紙守だ。


「僕はカイ。渦都の“風の蔵”の留守番。――君たちの詩、もう街で囁かれてるよ」


壁に貼られた詩をちらりと見る。《箱は歌わず、家が歌う》――タリアの友の筆致に、カイの癖が混じっている。詩は増殖する。音は止められない。


「赤衣の“エス”に繋がる縁を探してる」


俺が札袋から“E・S”の名片を示すと、カイは目を細めた。「それ、街の“堂書どうがき”に似てる。赤衣たちは“人前の段”を堂で読み上げる。その控えが“堂書”。署名に針傷が入る癖が、二人いる。ひとりは痣の男。もうひとりは……“エス”。」


「やっぱり、エス、か」


「正式の名は、誰も知らない。ただ、堂の厨房くりやで働く女将が、昔の呼び名を一度口にした。“エスフォリオ”。紙のフォリオ(対開)。赤衣の中では珍しく、本の言葉を名に持つ」


胸が跳ねた。名は力だ。欠けていた骨格に肉が乗る。呼べる。だが、呼べばこちらも“見られる”。


「夜、堂書が読み上げられる“演段えんだん”がある。今日の祭の締めだよ」


カイは地図を出して、俺たちに回した。「ここ。渦の一の環の中央“渦堂うずどう”。赤衣は必ず姿を見せる。たぶん“エスフォリオ”も。……ただし罠だ。君たちが街に入ったのは、向こうも知ってる」


「罠なら、罠ごと“綴じ直す”」


エレオノーラが短く言い、クリフさんが頷く。よっしーは「せやけど、逃げ道は確保しとこ」と相棒の布を一枚めくった。ハチロクの目がちらりと覗く。


あーさんがカイに頭を下げた。「お水と、紙の切れ端を少し。……詩を、少し読ませてくださいませ」


カイは嬉しそうに頷き、紙束を渡した。あーさんは指の腹で一枚ずつ撫で、紙の“重さ”を測る。水を混ぜ、糊を少し作る。小さな仕込みの時間。彼女が紙の声を聴いている間、俺は旗の“綴”を撫で、胸の舟を整えた。



渦堂の演段


日の暮れ、渦堂には人が集まっていた。広間の床に渦の模様。壁に一面の石。天井からは短い鐘。中央の壇に赤い布。黒帽子が二列で脇を固め、後ろには灰色の工匠――この街の半分は工匠でできている。


「“段”の朗読に、工匠を呼ぶ。……自分たちの手で打った釘の正しさを、声でもって共有させるためか」


エレオノーラが低く言う。俺は壇の端――十字の小さな台座に紙針の意識を寄せた。どの堂にも同じ“段の核”がある。そこに針を入れれば“演段”の流れを曲げられる。


「始めよう」


痣の男が先に壇に立った。洗いざらしの赤。顔の古傷は既に癒えている。彼の声は乾いているが、熱がある。工匠はこの声で“働くことの正しさ”を確認するのだろう。


「次――“エスフォリオ”」


痣の男が下がり、もう一人が壇に上がる。薄い笑み。灰のついていない裾。彼だ。エスフォリオ。声は滑らかで、乾いていない。だが、どこかで“誰かの声”を真似している違和感。写音炉の匂いがする。


「本日の“堂書”、第七項――“箱責はこせき”について」


口が段の言葉を紡ぎ始めた瞬間、あーさんが俺の袖を引いた。彼女の掌に、細かな紙片が十枚。糊で薄く折り目を付けた“風のすずめ”。


「ユウキさん。飛ばします」


頷く。俺は人々の頭の上を通る薄い“風の裾”に〈風縫い〉を渡した。あーさんが一枚、二枚、紙雀を放る。紙雀は堂の渦に沿って滑空し、壇上の周りでくるりと輪を作る。


「――?」


赤衣の目がほんの少しだけ紙を追う。そこへ俺は紙針を台座の“段”に差した。逆撚り。飛沫拾い。祠返し。布の旗はあえて鳴らさない。空気をあまり撹乱させない。段の読み上げがほんの一文字だけ噛んだ。


「“箱責は、箱——”」


言葉が引っかかる。工匠たちが瞬き、黒帽子の片方が足を半歩ずらす。あーさんの紙雀が二枚、エスフォリオの裾に触れ、紙粉をほんの少し付けた。彼はそれを払わず、笑みを崩さず、言葉を続けた。


「箱責は、箱の数に応じて、責を課すのがあいだ。――ただし、箱が“歌う時”、責は“家”に移る」


ざわめき。俺とあーさんが目を合わせる。今の言葉は、段の文法にはない。“家”という語を、赤衣が口にした。堂書にそんな語は使われないはずだ。


「“家”は、旗の下にあり、旗は風の下にある。ゆえに、風が止む時、箱は歌わない」


……挑発だ。旗の存在を逆手に取る。彼の視線は壇上からまっすぐこちらに落ちてくる。俺は胸の名片“E・S”にそっと触れ、唇を動かさずに、〈囁き手〉で呼んだ。


――エスフォリオ。


壇の上の彼の瞼が、ほんのわずかに震えた。声が半拍、素に戻りかける。その隙に、紙雀が彼の肩で静かにほどけ、“薄い糊”が赤布に移った。次の瞬間――よっしーが外の広場で短くクラクションを鳴らした。渦堂の天井がその音を増幅し、鐘が一つ勝手に鳴った。


「合図や」


俺は紙針を深く入れ、台座の“段”を逆撚りで折り返す。段の朗読の“韻”が、家の拍子へ滑る。工匠の一団の誰かが、思わず歌い出しそうになって口を手で押さえた。エスフォリオの笑みは崩れない。だが、裾の内側――刺繍された“名の骨”が、呼吸をした。


「――“綴”」


彼は俺を名で呼んだ。堂の空気が冷える。黒帽子が一斉に前へ。痣の男が短く合図。工匠たちが退く。渦堂が“舞台”になる。


「君は、名を拾った」


エスフォリオの声は、もはや演段の声ではない。彼自身の素に近い声。薄い疲れが滲む。


「なら、こちらも礼を返す。“君の家”を見せてみろ」


挑発ではなく、要求だ。俺は旗を握り、渦堂の床の渦へ布の端をそっと置いた。布が鳴る。家の音が、渦に入る。紙針が台座と渦を繋ぎ、〈地継〉が床の重心を浅く返す。あーさんの水糸が柱の汗を拭い、ニーヤの〈風縫い〉が人の息を滑らかにする。よっしーの相棒は外で低く歌い、エレオノーラとクリフさんは左右の列の間に薄い陰を作る。


「家は、ここにある」


俺の声は大きくない。だが、布の音がそれを増幅した。渦堂の渦が一瞬だけ“家の渦”になった。工匠の列の中で、誰かの肩が震え、誰かが唇を噛み、誰かが布を結び直す。エスフォリオの瞼が、また震えた。


「やめろ」


痣の男が段を踏もうと前へ出た瞬間、渦堂の天井の梁が“きしんだ”。段に逆流。俺は紙針を引き、布を抱え、渦堂から跳んだ。黒帽子が追う。渦堂の外は祭の終わりで雑踏。よっしーの相棒が路地の隙間に鼻を出す。


「乗れ!」


全員が躍り込む。相棒が一拍で唸り、渦の路地を駆け上がる。石の狭さは承知の上。〈地継〉でタイヤの面圧を変え、〈風縫い〉で鼻先を軽く押す。石段を一段飛ばし、梁の下をくぐり、裏門へ。門の札は――“風紋”でくすぐる。歯が抜ける。門が開く。


「外へ!」


石の外、砂の手前で、赤い影が一つ、石の上に止まった。エスフォリオだ。追わない。笑っていない。彼の裾から、紙片が一枚、風に乗って飛んだ。旗の布がそれを拾い、俺の膝の上に落ちる。


《“E・S:一頁いちページ

 ――“石は歌わない。だから、我らは石を積む”》


彼の手になる詩だ。嘲りには見えない。宣誓にも見えない。矛盾の自覚。俺は紙片を旗の内側に縫い、布の鳴る音で返事をした。


(※ここで前編終わり)


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