表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/387

第38話 潮壁越え、本番

カクヨム






(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)


夜明け前。塔の土間は、祭ではないのに、祭みたいな静かな高まりで満ちていた。粉の匂い、熱瓶の息、掌の水の澄み、針のとん、とん――それから、よっしーが相棒の荷室でロープを締める音。FZRの鈴皮は昨夜のうちに巻き替え済み、今日は“いえ”と“クルマ(相棒)”の二枚看板でいく。


工程メニュー最終読み上げや」


よっしーが親指と人差し指で“戻る拍”を作ってから、点呼する。


「一番、舟“いえ”に本積み。二番、相棒に重量物、塔から受け渡しスロープで“なめ”積み。三番、FZRは先行偵察と曳航補助。四番、サーラ門通過、皿内で“風碑ふうひの手”の撫で。五番、青磁の段丘“初段”に荷受けベース設営。六番、第三の糸の割り込み警戒。七番、戻る拍の連絡手順――旗・鈴・クラクション“短一回”に統一」


「クラクションを礼に混ぜない発想、斬新」


エレオノーラが目だけで笑う。よっしーは肩をすくめた。


「礼儀正しいクラクションってあるんや。短一回。昭和の路地では“ええか?”の合図や」


「では、短一回で」


ミラが袖に赤糸で小さな円を縫い、梁の札に“◎”をひとつ足した。あーさんが掌の水で僕の胸に“戻る拍”を描く。「ユウキさん、必ず戻りましょう」


「うん、あーさんに戻る拍を渡しに帰る」


名は呼ばない。呼びたくなるけど呼ばない。《E・S》の欠片が帆の『へ』の裏で静かに光っている。


本積み――“滑らす”が勝ち


相棒の荷室から木のスロープを塔の土間へ差し込み、荷を“持たずに”滑らせる。低い角度。落ちない角度。キリアの熱瓶は最下段に二本並べ、上に水袋、さらに粉袋。針・札・糸は箱ごと相棒の後席へ。矢束と弦は梁用フックに掛けてベルクロ固定。歌は最後――塔の梁に掛けたまま、出る直前に僕が肩へ。


「相棒は“砂走り”、舟は“皿渡り”、FZRは“糸通し”。役割分担、忘れへんようにな」


よっしーがロープを二度締めて止める。彼の指の癖は、砂の上でも誠実だ。ミラは帆の『へ』を撫で、青磁の糸の返し縫いをもう一度確かめる。ニーヤは舳鈴の布を巻き直してから杖を抱え、ブラックは帽子の上で半目。レオールは数を紙に落とし、ラヤは地図歌の節を低く合わせた。クリフさんは踵で返しを踏む位置を靴裏に刻み、エレオノーラは矢羽根の向きを全て“家寄り”に整える。エリダとイオは祈堂の舌に額を当て、「れい」とだけ言った。


出立


番人の老人は扉の前に立ち、背で朝焼けを受けていた。「家は低く、遠くへ」。老人の言葉は、僕らの足裏にすでに宿っている。右の灯は昨夜と同じ並び。真ん中の“消えかけ”は、蓋のせいで弱いまま。左の灯は高い。見ない。


列はこう:先頭FZRよっしー+旗(僕)、続いてニーヤ・ラヤ・あーさん、最後尾に相棒(エレオノーラ運転、クリフさん助手席、ミラとキリアと荷)。レオールは塔に残り、戻りの数と鐘の息を合わせる。エリダ・イオは祈堂、カムは稽古橋、子どもたちは梁の札の見張り。塔の少女は粉を量り、セラは梁の端で手を振った。


「短一回」


よっしーの相棒が「ピッ」と低く鳴く。礼のクラクション。舳鈴は布越しに二度擦れて応じ、旗は〈囁き手〉を薄く流す。行こう。


皿へ――“撫で”の再現


サーラの右の灯の間をほどき、皿の縁へ。昨日より風が柔らかい。スーラが告げた“風碑の手”は、今朝は握りを少しだけ緩めている。あーさんが掌の水を広く薄く伸ばし、「撫でさせてください」と囁く。名は呼ばない。呼ばないまま礼を尽くす。俺は旗を細く“指の腹”にし、よっしーはFZRの拍を半拍落とす。舳鈴が擦れ、青磁の糸が息を吸う。舟は座って、高くならずに段の手前へ。相棒は皿の縁で一度“待つ”。重いからだ。ここは“バイクよりクルマ”じゃない。ここは“舟が先”。順番を間違えると、戻る拍が捲れる。


「入るで」


よっしーが短く言い、FZRが薄い線を引く。舟はその線の上を低く滑り、皿の底へ落ちずに“移動”する。あーさんの掌が風碑の指先を撫で、僕の旗がその線を支え、ニーヤの舳鈴が擦れて「ここ」と合図する。ラヤが歌を一音だけ上げ、エレオノーラは相棒のブレーキを緩めず待つ。クリフさんが踵で返しを読み、ミラは箱の紐に手を置いて揺れを殺し、キリアは熱瓶の蓋を撫でて温度を均す。


舟が段に乗った。第一歩。昨日と同じ、しかし今日は荷がある。重い分だけ低くなり、低い分だけ落ちにくい。よっしーがFZRを皿の中でUターンし、相棒の鼻先へ戻ってきた。


「相棒、今!」


短一回。「ピッ」。エレオノーラがハンドルを切り、相棒は皿の縁に鼻先をかけて“腹を擦る角度”に入る。FZRが横から軽く押し、僕は旗で“暗い拍”を相棒の影に置く。あーさんは掌の水を“滑り水”にして前輪の先へ一滴。ミラは荷の紐を二度締め、キリアが蓋を見張る。ラヤの歌は低く、ニーヤの鈴は擦れ、クリフさんの踵は返しを押さえ、エレオノーラの足元は正確だ。


相棒のお腹が皿の縁を“撫でて”、入った。底へ落ちない。低く、短く。よっしーが親指を立て、俺は胸の奥で「ありがとう」とだけ呟いた。番人の老人が遠くで、見えない頷きをした気がした。


青磁の段丘――“初段”設営


皿を抜けると、青磁の段が広がる。低い段が波のように連なり、風が石の耳を撫でていく。遠くに“風碑の手”。五本指が空を握り、今日も“閉じ気味”。撫でたお礼を、あとでまた渡そう。


まずは“初段”にベースを設営する。舟の背から帆を半分だけ展張し、青磁の糸を段の耳に“背縫い”。ミラの針は迷いがない。よっしーは相棒を段の陰に入れて風を“避け壁”にし、FZRはその陰で鈴皮を緩める。荷は“滑り台”で舟から下ろし、相棒と共通の“低い台”に置く。キリアの熱瓶は段の凹みに半埋め、温度の上下を抑える。矢束は風下、針箱は風上、粉は真ん中、水は影に。札と糸は帆の裏に。歌は梁に。


「ここが“家の仮”。落ちんように、低いまま」


ラヤが地図歌の“青磁節”を初めて長く歌う。青磁は歌をよく吸う。段の耳が歌を覚えると、足が迷わなくなる。


クルマの出番――“段間だんま走行”


初段から二段目、三段目へは、舟よりも相棒の方が効くだろう――レオールにそう言われていた。段と段の間は石の“舌”で、舟の腹よりも相棒の腹の方が“擦れ”に強い。荷を半分ずつにし、相棒でピストン輸送。FZRは先に走って“段間の割れ目”を偵察。僕は旗で“暗い拍”を割れ目に蓋し、ニーヤが舳鈴の擦れで“開き”を読む。エレオノーラが運転、クリフさんが目と足で段差を読む。ミラは後方で“撥条ばね紐”を整え、キリアは熱瓶の移動温度を監視。ラヤは地図歌で“段番号”を読み上げ、あーさんは掌の水で“滑り水”と“戻り水”を使い分ける。


「相棒、出すで」


よっしーが一度だけクラクションを鳴らし、「ピッ」。エレオノーラが一段目から二段目へ、鼻先をはすに入れる。前輪が段の縁を“撫で”、腹が軽く擦る。――乗った。戻る拍は、僕の旗とニーヤの舳鈴と、あーさんの掌の水で三重に置いてある。重い荷を載せた相棒の後輪が段の耳を越えた瞬間、低く“コ」と鳴った。いい音。家の音。


「二段目、右へ“裂け目”。幅、子どもの肩幅」


FZRを走らせていたよっしーの声が風に乗ってくる。旗で裂け目に暗い拍を置き、舳鈴の擦れで“蓋”を薄く。エレオノーラはステアリングを切り、クリフさんは体を捻って荷の重心を補助する。相棒のタイヤが裂け目に“落ちず”、段を跨ぐ。二段目のベースへ荷を降ろし、戻る。ピストン。三往復。舟の荷も徐々に移し、初段のベースは“軽く”、二段目が“家らしく”なっていく。


「クルマの方がいい時も、ある」


俺が呟くと、あーさんが微笑んだ。「ええ、状況次第でございますね」


風の“襟巻えりまき”と第三の糸


昼に近づくほど、風は“高さ”を増す。青磁の段の上で、風は襟巻をほどき、また巻き、ほどいては巻く。巻きが強いところは、第三の糸の連中が“布教”に使いやすい場所だとラヤが言った。灯も札もいらない。“風の番号”だけで人を迷わせられるから。


案の定、現れた。灰縁の長衣。裾の色は砂に近い。けれど、縁が“数字”のように刻まれている。指には薄い板――番号の札。箱はない。箱を持ち込むには段が低すぎるのか、あるいは、もう箱は要らないのか。


「また“割り込み”か」


よっしーがFZRを降り、ヘルメットを外して眉をしかめる。長衣の者は笑わない。笑わないまま、板を段の割れ目に差し込み、“偽の影”を立てる。相棒の進路の先――二段目と三段目の間。偽の影に足をかければ、戻る拍が“数字”に吸われる。


「呼ぶな。一拍、遅らせよ」


旗の中で、古片が再び囁く。俺は名を呼ばずに、影の根元へ暗い拍を置く。ニーヤが舳鈴を二度擦り、あーさんは掌の水を“戻り水”にして影の縁へ薄く置く。クリフさんが踵で返しを崩し、エレオノーラはブレーキをほんの一羽根ぶん遅らせた。よっしーはFZRを“影の線”の上にわざと置いて、鈴皮を軽く弾く。鈴は鳴らない。けれど、影は一拍、遅れる。


「退け」


エレオノーラが、きっぱりと言った。声は低い。礼を欠かない低さ。長衣の者は板を引き抜き、僕らを一瞥だけして、風の襟巻の向こうへ消えた。番号の匂いが薄く残る。青磁の段がそれをすぐ“冷ます”。


「……増えてる」


ラヤが唇の内側で歌を落とした。「第三の糸、数が」


「数は歌で返す」


レオールならそう言っただろう。俺は旗を握り直し、戻る拍の札を梁の内ポケットにそっと押し込んだ。


風碑の“指の試練”


二段目のベースが整い、三段目へ荷を運び始めた頃、風碑の手が“ゆっくり開いた”。握りを緩め、指の間を風がちぎり、“音にならない音”が骨を撫でる。スーラが言っていた。「開きかけている」。開ききってはいない。けれど、撫でを誤れば、風は逃げ、段の耳が“鈍る”。


「撫で直し、必要」


あーさんが掌の水を見つめた。水は穏やか。けれど、冷たさの奥に“ざわめき”がある。ニーヤが杖を抱え、舳鈴の布を握る。よっしーはFZRの鈴皮をほどき、俺は旗の〈囁き手〉を“指の腹”に変形させる。


「舟は“留め”。相棒は“陰”。撫では“人”」


エレオノーラが段取りを短く切った。ラヤは歌を“聴き”に回り、クリフさんは矢を番えない指で弦を撫でて風の“高さ”を読む。ミラは糸を袖に仕舞い、キリアは熱瓶の蓋をすべて閉める。風の撫では、熱を殺してから。


俺と、あーさん。二人で、風碑の指へ近づいた。名は呼ばない。呼んだら番号になる。呼ばないまま、礼を尽くす。あーさんが掌の水を薄く広げ、僕は旗で“暗い拍”を指の節に置く。ニーヤが舳鈴を擦り、よっしーが“短一回”。「ピッ」。エレオノーラが相棒のハザードを一瞬だけ点けて消す。クリフさんの踵が返しを押し、ラヤの歌は声にならない高さで鳴る。


「……お願い」


あーさんは“誰にも”言っていない。一拍、遅れて僕の喉が同じ言葉を形にした。“誰にも”。掌が風碑の指先に触れた。冷たい。けれど、吸い込まない。撫でる――水と旗で、撫でる。指の間から風が抜け、音にならない音が一瞬だけ“音”になりかけ、ならず、喉の奥で“戻る拍”に変わった。


指は、少しだけ閉じた。逃げる風は留まり、段の耳は澄んだ。あーさんの肩から、細い息がほどけた。僕は旗を下ろし、二人で一歩、下がった。


「ありがとう」


誰に言うでもなく、あーさんが呟く。名は呼ばない。呼ばなくても、届く。


段間“車列”――クルマが活きる場面


風碑の撫で直しが済むと、段の“返り”が読みやすくなった。ここからはクルマの独壇場。相棒は段間を“あり走り”で二往復、三往復。FZRは先で“罠穴”の縁を鈴皮で撫で、僕は旗で“仮蓋”を置き、ニーヤは擦れで“空気”を押さえる。エレオノーラの足は正確で、クリフさんの目は鋭い。ミラが荷の紐を二重止め、キリアは冷えた蓋に布を巻く。ラヤは地図歌に“段の呼び名”を追加し、あーさんは子どもたちに教えるみたいに掌の水を石に見せる。「ほら、こう撫でるのよ」


昼過ぎ、三段目のベースも整った。塔から持ってきた“家”は、青磁の上に“低いまま”再現されつつある。背の唄はカムの棹に乗り、鐘の息はエリダとイオの遠い気配で重なる。レオールの数は“時計”ではなく“拍子”になって、僕らの足に入っている。


「今日はここまでにしよう」


ラヤが決める。第三の糸は去り、風碑の手は閉じ気味、空はまだ高いが、戻る拍を“濃く”するには、早めの座りがいい。相棒は段の陰へ、舟は帆を半分に、FZRは鈴皮を緩める。粉を練り、薄餅を焼く。熱瓶の上で香りが立ち、掌の水を一滴ずつ落として冷ます。矢を数え、糸を巻き、札を揃え、歌を低く合わせる。


夜の“低いいわい”


夜。青磁の段の上で、僕らは低い祝をした。大声も、鐘も、踊りもない。ただ、薄餅を分かち、唄を一節、低く合わせ、掌の水で額を撫でる。よっしーは相棒の屋根をぽんと叩き、「お前、よう頑張ったな」と呟き、FZRのミラーを指で拭った。エレオノーラは矢に布を巻いて夜露を避け、クリフさんは弓を解いて弦を温める。ミラは袖に“青磁印”を縫い、キリアは蓋の水珠を拭い、ラヤは地図歌を梁に掛ける。ニーヤは舳鈴を撫で、ブラックは帽子から降りて舟の帆の端で丸くなった。あーさんは掌の水を僕の胸に“戻る拍”として置き、僕は旗の『E』の布片をその上で軽く撫でた。


「ユウキさん」


「ああ、あーさん」


名は呼ばない。けれど、呼んだみたいに胸が軽くなる。


青磁の“昼の顔”――地の利と敵影


翌朝。青磁の段は昼の顔を見せた。夜よりも明るく、風は冷たく、音は遠く。段の“返り”がよく見える。ラヤが地図歌を“昼節”に変え、僕らはベースからさらに上へ目を遣った――そこに、旗。旗? いや、布。青磁色ではない。砂色でもない。白。白の布が、四段先の小さな塔に翻っている。


「誰か、いる」


エレオノーラが目を細める。レジスタンスでも、第三の糸でもない布の色。ラヤは唇の内側で二音だけ歌い、「商柱あきないばしら」と答えた。「風の市が立つ時に掲げる布。海が死んでからも、年に数度だけ“空の市”が開く。もし今日がその日なら――」


「クルマの出番や」


よっしーの目が光る。段間を大量に往復しても“落ちにくい”のは、相棒の腹。舟はベース維持、FZRは先導、相棒は物流。行こう。風の市に軒を出すのは、家の証や。


風の市――“空の商い”


四段上の小塔に、白布が翻る。段と段の間に板道が渡され、低い屋台がいくつも並んでいる。売り物は、風の形を写した陶片、青磁に馴染む靴底、舳鈴の布、砂を噛みにくい輪、風碑の拓本、番号を“消す”灰。人の数は多くない。第三の糸は――いる。けれど、布教ではなく“買っている”。番号の札では買えない。灰で“消してから”銀で払っている。礼を欠かない振りをしながら。


「低く、家の高さで行け」


ラヤが僕らを制す。相棒は屋台通りの端に停め、FZRはクラクション短一回、舳鈴は擦れ二拍。僕は旗で〈囁き手〉を低く這わせ、あーさんは掌の水を盃に分けて“試飲”みたいに周りへ配る。ミラは糸を見本に掲げ、キリアは熱瓶用の“皮”の交換を物色。エレオノーラは矢羽根の材料を選び、クリフさんは弦の原料を撫でる。ニーヤは魔道の粉に鼻を近づけ、ブラックは鮮魚の干し物に目を輝かせた(ナマじゃない)。


僕は――布を見た。青磁の段の風を“少し先に”吸ってくれる布。帆の『へ』の“ためらい”を保つのに、きっと役に立つ。店主は青い手甲を巻いた老婆。指は細く、目は笑ってないのに、笑っていた。


「『へ』を残す帆?」


老婆の第一声に背筋が伸びた。「ええ、残してます。戻る拍にするために」


「なら、この布。名はない。名がない布は“番号に変わらない”。値は……灰二匙と銀一枚」


第三の糸の者が、横でじっと見ていた。番号の札は布の前で役に立たない。灰を一度、札に擦り付けて“消し”、銀に戻してから払う。彼は躊躇して――買わなかった。僕らは買った。老婆は布の端をあーさんに手渡し、あーさんは掌の水でそれを濡らし、布は“音を吸い”、軽くなった。


「ありがとう」


名は聞かない。老婆も名を言わない。低い礼だけが交わされた。


市の“影”――砂の銃声


賑わいは低く、落ち着いていた。だからこそ、“銃声”は浮いた。乾いて、短く、二発。段の陰、屋台と屋台の間から、砂色の銃身が顔を出した。第三の糸ではない。銃は“数”を持たない。匂いは金属、油、砂。――盗賊。


「屋台の金を狙う気や!」


よっしーがFZRの影から身を翻し、俺は旗を肩から外に開いた。エレオノーラは矢を取らず、体で子どもを覆い、クリフさんは弦を“鳴らさず”に引いて狙いを潰す。ミラは袖で近くの子を引き寄せ、キリアは熱瓶を盾にする。ラヤは歌で“周波”をずらし、音の焦点をぼかす。あーさんは掌の水を薄く広げ、空気の“硬いところ”に置いた。ニーヤが舳鈴を擦り、ブラックはニーヤの帽子へ飛び込む。


銃を持つ三人。段の陰に分かれ、狙いは屋台の金箱と、番人の代役らしき若者の腰の鍵。第三の糸は――動かない。見ている。番号は“事実”にならないと食えないから。


「短一回!」


よっしーが相棒のクラクションを鳴らす。「ピッ」。低い合図。舳鈴が擦れ、旗が暗い拍を銃口の前に置く。あーさんの水が空気の硬いところに“幕”を作り、クリフさんの弦が“狙いの狙い”を外す。矢は放っていない。けれど、弦の“戻る拍”が相手の肩の“戻る拍”を狂わせる。ミラの袖の糸が盗賊の足元に絡み、ラヤの歌が段の返しを揺らす。よっしーはFZRで横から砂を蹴り上げ、視界を切る。


二発目は空へ逸れ、三発目は段に吸われ、四発目は――鳴らない。エレオノーラが無言で盗賊の手首を“段の耳”に押し当てて“しびれ”を起こし、鍵を守った。番人代役は俯いていたが、顔を上げて礼を言った。「低い礼」。盗賊は逃げ、第三の糸は眺めやめ、白布は揺れ続けた。市は、続く。


「……クルマがあっても、銃には勝てん。けど、戻る拍は勝つ」


よっしーの言葉に、老婆が初めてしっかり笑った。「そうだねえ」


市の収穫――“名のない布”と“灰”


市を離れる前、僕らはもう少しだけ買った。名のない布、舳鈴の布、矢羽根の補修、灰。灰は、番号の札に擦り付けるためのもの。“事実”を数字に変えてしまう前に、“数字”を灰に戻す。第三の糸は遠巻きに見ていた。彼らは買わない。買えば“礼”に染まるから。彼らの礼は、“数字の礼”。それは礼ではない。


二泊目――青磁の星見


ベースに戻ると、空は水色から群青へ。青磁の段に寝転んで、星を見た。低い星。高い星。風は襟巻をほどき、また巻き、僕らの体温を均す。相棒は段の陰で寝息を立て、FZRは鈴皮を緩めて眠る。舟の帆は『へ』を残してたゆたい、青磁の糸は夜露を少し吸う。舳鈴は布越しに指で撫でると“擦れ”が返る。あーさんの掌の水は盃で星を映し、僕は旗の『E』の布片をその光にかざした。


「ユウキさん、青磁の星、まるで海の底のようでございますね」


「うん。あーさんの言う通りだ。海を知らないのに、懐かしい」


名は呼ばない。けれど、心は呼んでいる。


朝――段丘の“声”


三日目の朝、段の“声”がはっきり聞こえた。カムの棹が唄い、鐘の息が塔から届く。レオールの数は相変わらず平らで、エリダとイオは祈堂の舌を撫で続けている。塔は遠いのに、近い。戻る拍が“線”になって僕らの足元に引かれている。


「青磁の段丘を抜けたら、“うしお”に降りる。そこから“瑠璃の棚田たなだ”まで、相棒メインで行けるはずや」


よっしーが地図歌の上に指で線を引く。ラヤが頷く。「ただ、潮の眼の手前に“数仕掛け”がある。第三の糸が置いた“数字の橋”。渡れば楽。けれど、渡ると数になる」


「渡らない」


エレオノーラが即答した。「楽は落ちる。低く行く」


「低く、遠くへ」


クリフさんも頷いた。ミラは袖に“瑠璃印”を縫い、キリアは熱瓶の配分を変える。ニーヤは舳鈴の布を新しい“名のない布”に替え、ブラックは短く鳴いた。あーさんは掌の水を僕の胸に置き、「戻る拍」と囁く。旗の〈囁き手〉は細く長く、“潮の眼”の方角へ。


青磁を抜け、“潮の眼”へ


相棒が段間を行き、舟は帆を半分に、FZRは縁を走る。青磁の段は終わり、石は砂へ、砂は“潮の眼”の縁へ。そこは海でも湖でもない。砂がすり鉢のように沈み、底に“青い鏡”――空が映る。水はない。けれど、濡れているみたいに冷たい。第三の糸の“数字の橋”は、眼の縁に斜めに渡されていた。板ではない。数字の線。踏めば、楽。踏めば、落ちる。


「右の灯、ある?」


「ある。低い。細い。――家の灯や」


ラヤの声に、僕らは線から目を外し、灯の根元へ砂を蹴った。旗で暗い拍、舳鈴で擦れ、掌の水で“滑り”と“戻り”。相棒は鼻先を灯のわきへ入れ、FZRは線の上を“わざと”走って影を遅らせた。第三の糸の者が遠くから見ていた。橋を渡らない者は、彼らにとって“数えられない”。


「数えられないものは、落ちない」


エレオノーラの言葉が、風よりも冷たく強かった。


“眼”の底からの手紙


潮の眼を縁取る道は細い。相棒は腹を擦り、舟は座り、FZRは息を刻む。底の“青い鏡”が、一瞬だけ波打った。水はないのに、波。あーさんの掌の水が盃で揺れ、「……誰か」と呟く。


「誰か?」


「ええ、“手紙”のような。――ユウキさん、耳を」


言われるまま旗を耳に当てる。〈囁き手〉が拾ったのは、声ではない。拍。戻る拍。塔の鐘の息に似ているが、もっと深い。レオールが鳴らすのではない、海が鳴らしていた頃の“拍”。底の青い鏡が、それをまだ覚えている。


『……家の名を、呼ぶな……』


呼ばない。呼ばないまま、行く。潮の眼はその答えを確かめるように、もう一度だけ波打った。


瑠璃の棚田へ――クルマ、全開


潮の眼を抜けると、地形は“棚田”に変わる。青ではなく、瑠璃。石の色が少しだけ透明で、光を舌で味わっているみたいに甘い。ここは――クルマの天下だ。段差は低く、幅は広く、割れ目は浅い。相棒は腹を“撫で”ながら走れる。舟は帆を巻いて荷車になり、FZRは斜面の“はす道”で先に回り込む。


「相棒、頼んだで!」


よっしーが運転をエレオノーラから受け取り、クラッチを丁寧につなぐ。ハチロクのエンジンが喉の奥で低く笑う。短一回。「ピッ」。礼の合図。舳鈴の擦れが重なり、旗の暗い拍が割れ目に蓋を置く。あーさんの水は前輪の前に一滴、ミラは荷の紐をさっと撫で、キリアは蓋を二度叩く。ラヤは歌を“走り節”に変え、クリフさんが返しを踵で押さえる。ニーヤは杖を抱え、ブラックはダッシュボードで丸くなる(危ないので僕が抱え直した)。


ハチロクは低く、速すぎず、確かに走った。段の耳を“撫でる”角度、腹を“擦らない”重心、戻る拍でのシフトアップ。昭和の鉄は、異世界の瑠璃でも“家”だった。


“数の通行証”


棚田の中ほど、低い石の鳥居みたいな門があった。左右に“数の札”。第三の糸の“通行証”。ここをくぐると、楽。くぐると、“数”。門の前に番小屋、紋章は――白。白? サーラの商柱の紋織。番小屋から老人が出てきた。番人の親類か、顔つきが似ている。


「通るなら“礼”。通らないなら“礼”。どちらにせよ“礼”」


老人の言葉に、僕らは一斉に頷いた。ラヤが短く歌い、ミラが袖で礼を縫い、あーさんが掌の水を置き、よっしーが短一回。「ピッ」。舳鈴が擦れ、旗が下がる。


「通らない方を、通る」とエレオノーラ。


老人は笑った。「それが“通る”」


数の門を避け、脇の“低い抜け”を通す。相棒は腹を少し擦り、舟は座り、FZRはスルリとすり抜ける。門の札は揺れ、数字の影が地面に落ちたが、僕らには何の価値も持たない。数字が価値を持つのは、“呼ばれた”ときだけ。僕らは呼ばない。


新しい“家印”


棚田を抜けた先に、石の平場。風は穏やか、灯は低い。ここに“家印”を置こう――ミラが言い、あーさんが頷いた。帆の『へ』の裏に縫い付けてきた古片たち。その隣に、サーラの番人からもらった紙、名のない布の端、灰を含ませた札――全部、“戻る拍”。


「家印は“印”やない。“拍”や」


よっしーが言う。僕は旗の『E』の布片で石の平場を一度撫で、舳鈴を布越しに擦った。短一回。「ピッ」。エレオノーラが矢を一本、梁に差し、クリフさんは弦を軽く弾く。ミラは袖に“瑠璃印”を縫い、キリアは熱瓶を一本埋め、ラヤは地図歌を掛ける。あーさんは掌の水で石に輪を描き、そこに僕らは座った。


風の手紙、ふたたび


風が、紙片を運んできた。古片ではない。布。名のない布の、さらに“端”。誰かが切って、風に預けたのだろう。布は僕の旗の裾に絡み、落ちて、広がった。たった一行、刺繍があった。


「名を捨てずに、呼ぶな」


呼ばない。名を捨てない。――やっぱり、そうだ。僕らの“へ”は、そのために残してある。帆の縁のためらい。戻る拍。家。


あーさんがその布を掌の水に浸し、ミラが帆の裏に縫い付けた。青磁の糸の隣、古片の隣。旗の『E』の布片がやわらかく震え、舳鈴の布が擦れて、相棒が低く喉を鳴らし、FZRの鈴皮が息を吸う。レオールの数は遠くで平らに鳴り、エリダとイオの祈堂の舌は礼を覚えている。


そして、“次の地域”へ


三日間のベース構築と往復搬送を終え、僕らの“家”は青磁の段丘から瑠璃の棚田へ、低いまま伸びた。ラヤの地図歌は新しい節を得て、次の地名を歌う。「花崗かこうの迷路」「翡翠ひすいれ川」「黒曜こくようの窓辺」。遠い。けれど、低ければ、行ける。


「次は“翡翠の涸れ川”へ。相棒メイン、舟は“橋”。FZRは“斜道”」


ラヤが段取りを歌う。よっしーは頷き、「クルマの天下やな」と笑い、エレオノーラは矢を数え、クリフさんは弦を撫でる。ミラは袖に“翡翠印”を縫い、キリアは熱瓶の数を増やす。ニーヤは舳鈴の布を撫で、ブラックは伸びをした。あーさんは掌の水で僕の胸に“戻る拍”を置き、僕は旗で『E』の布片を撫でる。


「家へ。――そして、“へ”へ」


短一回。「ピッ」。

舳鈴、擦れ。

旗、風。


低く、遠くへ。

次の地域へ――。


――


(つづく/次話:瑠璃の棚田から“翡翠の涸れ川”へ。相棒クルマメインの隊列移動、数仕掛けの“数字の渡し”を避けるルート取り、第三の糸の“布数師ぬのかずし”との一戦、そして翡翠の渓で出会う“記憶を写す魚”。)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ