第37話 未明の手前、家の中の明るさ
(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)
まだ夜は終わっていない。けれど、塔の中は朝みたいに明るかった。灯りが強いわけじゃない。粉の匂い、熱瓶のぬくさ、掌の水の澄み、それから針が布を渡る小さな音――それらが、胸の内側から部屋を明るくする。
梁の札は九つに増え、さらに一枚、子どもの字で“へ”が書き足されている。帆の縁に縫い残した『へ』の真似。セラのいたずらだ。ミラが微笑んで、袖の裏へ“写し縫い”した。
「最終工程読み上げます」
ミラが針を持ちながら声を整える。よっしーが相棒のボンネットの上に腰をかけ、いつもの“平成式朝礼”の役も今日は譲ったらしい。
「一番:舟“いえ”—背の締め直し、帆の青磁糸の点検、舳鈴の布交換。二番:相棒—荷室固定具とロープ類の再確認、積載順序の最終確認。三番:FZR—鈴皮巻き替え、曳航点のグリスアップ、予備プラグ。四番:門見—潮壁の“皿”再計測、右の灯の並び替わり確認。五番:留守—塔の稽古橋、祈堂の“門の禮”、鐘の“息”の手順を再確認。六番:小さな別れ—一人ずつ、言葉を短く」
「祭やない、支度や」
レオールが短く付け足す。数を揃える目は今日も平らで、少しだけ柔らかい。
「はい。支度です」
ミラに促され、みんなが散る。動きが綺麗だ。出る前に“戻る”段取りを、誰もが指先で思い出す。
帆の『へ』と青磁の糸
屋上。帆は夜の湿りを吸い、青磁の糸が薄く光っている。あーさんが掌の水を薄く延ばし、青磁糸のところへひとしずく置く。水は沁みない。糸の色だけが、深呼吸みたいに濃くなった。
「……良い“ためらい”が宿っております」
あーさんの声は小さいが、揺れない。ミラが針を持ち、青磁の糸の交差点に“返し縫い”を二つ、置いた。よっしーが帆柱の根本に手をかけ、軋みの音を耳で拾う。キリアは熱瓶の口を一瞬だけ開けて、帆の縁を乾かす。ニーヤが舳鈴の布をほどき、新しい布を巻き直す。ブラックは帽子のひさしの上で目を細めている。
「『へ』は残す、触らない」
ミラが針先で小さく示す。みんなが頷いた。残すことを決めるのは、出発以上に緊張する。戻る拍を、わざと残していく。その決心は、声に出すより難しい。
背の締め直し
カムが唄う棹を「舟棹」に持ち替える。木目の節が、砂の呼吸に合うように削られている。背の楔をひとつ抜き、ひとつ挿し、低い音で確かめる。
「……唄う」
カムの言葉は短い。けれど、音が全部言っている。俺は旗の裾で背の上を撫で、〈囁き手〉で“家寄り”の癖をもう一度、背に覚えさせた。背の木は思い出してくれる。ここに戻る。どんな風に押されても、帰ってくる。
相棒とFZRの最終点検
土間に降りると、よっしーが相棒の荷室に段ボールの枠を“はめ木”みたいに組んでいた。積載順は、重いものから低い段へ――熱瓶、水、粉、工具、矢、糸、札、そして“歌”。歌は最後。汚さないため。最後だから、すぐ取り出せる。
「ロープは“戻る拍”で締めてな」
よっしーが俺に渡す。締める、緩める、戻す。二度目の締めで止める。平成の手の癖は、砂でも生きる。
FZRは鈴皮を巻き替え中。今日の仕様は“皿に触れずに皿を読む”。よっしーの指が皮を滑り、巻き締めの角度が半刻前よりもやわらかい。「未明の冷えは、皮が固うなる。少し甘めに巻いとく」
「甘め、ね」
俺は笑いながら、相棒のミラーを布で拭いた。見間違えは、命取りだ。鏡も“戻る拍”にする。映るものを一拍遅らせて見る。それだけで、だいぶ落ちない。
留守の段取り
塔の中央。ミラが“留守番の手順”を大きな紙に書く。稽古橋の点検は朝と夕。祈堂の“門の禮”は、来客の有無に関わらず正午に一度。鐘の“息”は昼前に薄く、黄昏に厚く。キリアは熱瓶の交換時刻を赤い点で示し、エリダとイオは舌の“控え”の角度を書き足す。塔の少女は粉袋を叩き、「餅は三日分」。セラ、ルゥ、ダン、カイは順番に読んで、うなずいて、同じ紙を子ども字で書き写した。
「帰る歌は三つ。忘れたら、一番短いやつ」
レオールが数え歌を口にし、子どもたちが真似る。あーさんは掌の水を小碗に分け、子どもたちの額に一滴ずつ置いた。「きれいに忘れ、きれいに思い出すための水です」
「忘れんように、忘れ方を覚える」
よっしーが笑い、子どもたちも笑った。
小さな別れ
支度は手順で、別れは呼吸だ。一人ずつ、短く。
エレオノーラは矢羽根を一本、塔の梁に挿した。「ここに“見張り”を置く。私がいない間、目にしておいてくれ」
クリフさんは腕の革を外してミラに預けた。「返してもらいに戻る」
ミラは袖の針を掲げ、「返せるように、ここを保ちます」
キリアは熱瓶の蓋を二つ、子どもたちに渡した。「蓋は小さな“太陽”。落とすな。踏むな」
エリダは黒い舌に額を当て、「礼を守れ」とだけ。イオは布日記の白い頁を見せ、「空白を残せ」と笑った。
カムは棹の節を子どもの手に握らせ、「唄は重さと同じや。持てる分だけ持て」
ラヤは藍玻璃の細片を稽古橋に縫い付け、「灯は低く」と囁く。
よっしーは相棒のキーを塔の少女に一瞬だけ握らせ、「鍵は音や。音は鍵や」と意味不明なことを言って、皆を笑わせた。
そして――あーさん。彼女は掌の水を僕の胸に置き、短く、はっきりと言った。
「ユウキさん。必ず、帰っていらして」
「うん。必ず、あーさんに“戻る拍”を渡しに帰る」
言う前に一拍、遅らせる。《E・S:十三頁》の欠片の通りに。唇の奥で名を転がし、呼ばない。呼ばなくても伝わる距離が、今はありがたい。
出立前の古片
旗の裾が軽くなり、古片がひとひら舞い落ちる。《E・S:十四頁》――短い行が三つ。
“右の灯は、家の数。
家の数は、歌の数。
歌の数は、戻る拍の数。”
単純で、底が深い。俺は旗で古片を拾い、帆の『へ』の裏にミラの手で縫い付けてもらった。
未明、出る
砂の空が群青から薄鼠へほどけ、灯台の輪が白く褪せる。潮壁は、黒い刃のまま立っている。サーラの右の灯が低く並び、番人の老人が扉の陰から現れた。
「右の灯は、昨夜の並びのまま。皿の縁は、薄い」
老人の声は砂の底から。よっしーがFZRの鈴皮を撫で、「よっしゃ」と応える。相棒は荷を半分にして塔に残る。今日は舟“いえ”とFZRの組み合わせで“門をくぐる練習”だ。重い荷は、明朝に追う。
「行くのは――よっしー、ニーヤ、エレオノーラ、クリフ、ラヤ、そして俺。あーさんはサーラの縁で皿の“息”を見ていて」
「承知いたしました」
あーさんの掌の水が薄く広がり、皿の色を読む。ミラは塔で帆の予備を縫い、レオールは数を塔に残して“戻りの歌”を整える。キリアは留守の熱を、エリダとイオは祈堂の門を。カムは子どもたちの棹の稽古を見てくれる。
「出る前に、戻る」
よっしーが繰り返し、俺は旗で合図を返した。舳鈴に布。鳴らさず擦る。ニーヤが指を添え、ブラックが帽子の上で丸くなる。
舟の背に、僕は片膝をついて乗る。帆の『へ』が胸の高さで揺れ、青磁の糸が未明の空気を吸う。よっしーのFZRが前で息を刻み、ラヤが右の灯の根元へ砂をつま先で蹴る。エレオノーラが目の高さで“皿の縁”を測り、クリフさんが踵で返しを押さえる。
番人が一歩、前へ。「家は低い。低いまま行け」
「はい」
灯の間をほどく
右の灯は三つ、四つ、五つ――低い影になって足元を指す。真ん中の“消えかけ”は、昨日置いた薄い蓋のせいで、誘いの力が弱い。左の灯は高い。背を伸ばさないと見えない灯は、家の灯じゃない。見ないでいい。
「一つ目の影、右二歩」
エレオノーラの声。よっしーがFZRの体重を軽く右へ。舟が素直に滑る。舳鈴が“擦れ”を一つ、帆の『へ』がわずかに揺れ、青磁の糸が鳴らない音を吸い込む。ラヤの地図歌が舌の奥で鳴り、クリフさんの踵が返しを受け流す。
「二つ目、角を丸く。三つ目、半拍遅らせ」
あーさんの声が、風に溶けて届く。掌の水は皿の息を知る。半拍遅らせる――名を呼ぶときの癖を、足にも移す。俺は旗で“暗い拍”を置き、よっしーのアクセルがそれを踏む。舟の背が低く笑い、滑りは落ちず、上がらず。
皿の縁
潮壁の根元。黒い刃が砂を押し、そこに“凹み”――皿がある。見えるというより、胸の骨が知っている凹み。息がそこだけ柔らかい。番人が言った通り、今朝は薄い。入りやすい。出やすい。でも、だからこそ、礼を欠くと戻れない。
「舳先、半歩下げるニャ」
ニーヤの指が布越しに鈴を撫でる。舳鈴が“擦れ”で合図し、よっしーがFZRの前輪をほんの少しだけ高くした。舟の前端が皿の縁に触れない角度を取る。ラヤの地図歌が“右の灯”の次の一節へ滑り、エレオノーラが目を細め、クリフさんが矢を番えない指で弦を一度だけ弾く。俺は旗で〈囁き手〉を皿の縁へ薄く敷いた。戻る拍の“置き石”。
「入る」
よっしーの声。FZRが息で線を引き、舟がそれに従う。皿に“沈む”感じはない。むしろ、空気が舟を受け止めて、低いところへ移してくれる。帆の『へ』が二度、やわらかく揺れ、青磁の糸がひと呼吸だけ“涼しい音”を吸った。
影、割り込み
――その瞬間。皿の左側の高い灯の向こうから、乾いた笑いが“番号”の匂いを連れて滑ってくる。赤い裾――ではない。第三の糸の本流、その“布教者”の長衣。裾は黒い、しかし縁に灰色の“縁取り”。箱は持っていない。指先に、薄い板。名を薄くする“札”。砂に差し込めば、灯と灯の間に“偽物の影”が立つ。
「割り込ませる気や!」
よっしーが低く唸る。皿の縁は狭い。影を増やされれば、右の灯の列が乱れ、戻る拍が捲れやすくなる。
「“名を呼ぶな”。一拍、遅らせよ」
レオールの声が、耳の奥で鳴る。俺は旗を握り直し、名を呼ばずに影の“根元”へ暗い拍を置いた。ニーヤが舳鈴を二度擦り、エレオノーラの目が札の差し込み角度を射抜く。クリフさんの踵が砂の返しを一つ“崩し”、ラヤが右の灯の根元へ砂を蹴る。
「FZR、半歩戻す!」
俺の声より先に、よっしーの体が動く。アクセルを“戻す”。戻る拍。舟は前へ出ず、皿の“深み”へ落ちず、ただ低いところに座る。偽物の影が立ち上がる位置が半拍ズレた。札の男の眉がぴくりと動く。遅れた影は、もう“誘い”になりえない。
「右、指し直せ」
ラヤの声。俺は旗で右の灯の“根元”を撫で、ニーヤが鈴を擦る。エレオノーラは札の男から目を外さず、クリフさんが矢を番えない指で弦をそっと撫でた。よっしーはFZRの前輪を少しだけ右に向け、皿の上を“滑らせないように滑らせる”。――行ける。
札の男は、笑わなかった。唇の線が少しだけ深くなっただけだ。板を引き抜き、左の高い灯の向こうへ消える。番号の匂いだけが薄く残り、未明の空気がそれをすぐに洗った。
皿の中を歩く
皿の底は、静かだった。風が吹いていないわけじゃない。けれど、吹いても“低い”。帆の『へ』が息を受け、人の胸がそれに合わせる。舳鈴は鳴らず、擦れて、合図だけを落とす。青磁の糸が、どこか遠くの石段の匂いを少しだけ連れてくる。
「……ここから先は“潮道”。潮の記憶が風に残っとる」
ラヤが囁く。右の灯はもうない。灯台の輪も見えない。砂も黒い刃も、背中へ遠ざかっていく。船底――いや、舟の背の下に、固い“層”の気配。砂じゃない。削れた石。弾力のある“青”。
「戻る拍は、帆に残した『へ』と、旗と、舳鈴と、二輪の拍で三重に」
エレオノーラが短く言う。よっしーがFZRの拍を少しだけ細かくし、俺は旗の〈囁き手〉を“串”みたいに細くして前へ伸ばす。ニーヤは擦れを二拍一組に変え、ラヤが地図歌の節を低く保つ。クリフさんの踵は“固い層”の返しを読む。
はじめの“青磁”
空が青くなるのと同じ速度で、足元の色が青くなる。砂の黄が薄れ、石の青が顔を出す。青磁の段丘――その“端っこ”が、皿の出口の向こうに見え始める。段は高くない。想像よりも低い。低すぎるくらい低い。けれど、それがいい。低い段は、上りやすい。落ちにくい。
「見えた!」
ニーヤが帽子のつばを上げ、尻尾を立てる。舳鈴が小さく擦れ、帆の青磁糸がうっすらと“音”を返した。よっしーがFZRのハンドルを少し起こし、ラヤが歌を一節上げる。エレオノーラが目を細め、クリフさんが弦を軽く弾く。俺は旗で“暗い拍”を青へ渡す。――初めての“青”。
戻る
皿の出口の手前で、俺たちは止まった。出過ぎない。今日は“くぐる練習”。出てしまえば、戻りが重くなる。皿の縁に“戻る拍”を置き直し、舳鈴を布越しに二度擦り、FZRの拍を半分にする。ラヤが地図歌を“裏声”に返し、エレオノーラは目で“帰りの角”を数える。クリフさんの踵が返しを“覚え直す”。
「戻るぞ」
よっしーが声を落とす。俺は旗を肩にかけ直し、帆の『へ』に指を添えた。青磁の糸が一瞬だけ“未練”みたいな音を吸い込んだが、すぐに静かになった。舟は低いまま向きを変え、皿の中を“帰る”。右の灯は背から前へ。番人の扉は、まだ開いている。
「おかえり」
老人の声。言葉は短く、息は長い。よっしーがFZRを停め、俺たちは砂に座った。帆の『へ』がたゆたい、青磁の糸が“次”の風を予習するみたいに震えた。
サーラの朝
サーラの町が目を覚ます。低い屋根から低い煙。低い笑い声。低い橋を渡る小さな足音。番人は扉の陰へ戻り、僕らはひとまず塔へ帰るための準備をした。今日は“報告の日”。ミラに渡す図、レオールの数、キリアの熱、エリダとイオの礼、あーさんの水――全部、塔に戻して、次の本番へ繋げる。
「ユウキさん」
あーさんが近づき、掌の水を僕の額に置いた。「良い“練習”でした。明朝、参りましょう」
「うん。明朝、行こう」
名を呼ばない。呼びたくなるけど、呼ばない。欠片は、まだ帆の裏で新しい。
塔への帰投と“引き継ぎ”
塔に戻ると、ミラが帆の図を受け取り、あーさんから青磁の糸の“鳴り”を聞き取り、すぐに針を動かし始めた。レオールは皿の“時刻”を数に落とし、出立の朝の“刻み”を紙に書く。キリアは熱瓶の換装を段取りし、エリダとイオは祈堂の舌を撫で、塔の少女は粉を量る。子どもたちは「門の歌」を三度通しで歌い、カムは棹で“出船の唄”を低く始めた。ラヤは商隊を軽く休ませ、俺たちに水を分ける。
よっしーは相棒の荷室を空にし、代わりに舟に積む荷を“受け渡し”できるように、木の滑り台を一本作った。「低いスロープや。荷は滑る方がええ。持つより滑らす」
「低いほど、落ちない」
エレオノーラが笑う。クリフさんは弦を張り直し、ニーヤは舳鈴の布を“青磁色”に替えた。ブラックは帽子の上で寝落ちしかけて、慌てて目を開ける。
予期せぬ訪い
夕刻。塔の門の前に、ひとりの女が立った。黒でも赤でもない。布は砂色。瞳は薄琥珀。手には“何も”持っていない。けれど、その“空っぽ”が、箱よりもずっと重かった。
「入りなされ」
ミラが“礼”に従って招く。女は深く礼をし、門をくぐる。その動きが、変だった。礼を知っているのに、“知らないふり”をしている。あるいは、忘れるふり。
「旅の者。潮道の手前で“影”を見た。赤い裾でも、布教者でもない影。影の中に、石の“手”があった」
女の声は乾いていない。喉が水を覚えている。あーさんが一歩、前へ。「石の……手?」
「“青磁の段丘”の端。段に“手”が突き立っていた。風を握っていた。……それを、見てしまった」
「見てしまった?」
レオールが目を細める。女は頷き、「見た者は、帰らねばならない。風に“名”を与えてしまう前に」
「名を与えると、番号になる」
俺が言うと、女は少しだけ笑った。笑い方が、家の人の笑い方に似ている。礼を欠かない笑い。戻る拍のある笑い。
「わたしは“スーラ”。潮道の伝い人。塔へ告げに来た。手が“開きかけている”。開いてしまえば、風は逃げる。閉じたままなら、風は溜まる。……明朝、潮壁を越えるなら、手の“指”を一本だけ“撫でて”通ること」
「撫でる?」
あーさんの掌の水が、微かに震えた。スーラは掌をこちらへ向け、「撫でるのは、水の役目です」と言った。
「承りました」
あーさんが深く礼をする。スーラはミラに向き直り、「礼は済んだ。わたしはこれで」と門へ向かう。エリダが舌に額を当て、「良い客だ」と短く呟き、イオが白い頁に点をひとつ打つ。
「ありがとうございます」
俺は旗を下げ、彼女の背に言った。彼女は振り向かない。ただ、指先で“戻る拍”をひとつ空に置いて、消えた。
最後の夜の短い眠り
夜。眠りは薄い。けれど、眠る。眠らないと、戻れない。帆の『へ』は屋根の上で静かにたゆたい、青磁の糸は夜露を少し吸う。相棒は荷室を空にして静まり、FZRは鈴皮の巻き目を落ち着かせる。塔の骨は熱を溜め、掌の水は盃の底で星を映す。針は布に刺さったまま眠り、鐘の“息”はいつもより低い。
夢の手前で、古片が落ちた。《E・S:十五頁(半)》――行は一つ。
“撫でる手は、名を呼ばぬ手。”
あーさんの掌が浮かび、スーラの薄琥珀の瞳が浮かび、帆の『へ』が半拍、遅れて揺れた。
明朝、門
未明。昨日より冷たい。灯台の輪は白から青へ。番人は扉の陰ではなく、扉の前に立っていた。礼が深い。「いってらっしゃい」が言葉に出ないとき、人は立つ。
よっしーがFZRを起こし、俺は旗を肩に、あーさんは掌の水を薄く広げる。ニーヤは舳鈴を布越しに撫で、エレオノーラは目を細め、クリフさんは踵で返しを確かめ、ラヤは歌を低くした。
「今日は荷も半分積む」
よっしーが相棒の荷を舟へ“滑らせる”。低いスロープが生きる。熱瓶二本、水袋二つ、粉一袋、布と針と札を最低限。重すぎない、軽すぎない。落ちない重さ。
「行こう」
番人が一歩、下がる。門は開いた。右の灯は昨夜より一つ増え、真ん中の消えかけは昨日の“蓋”のせいでさらに弱い。左の灯は高く、寒い。
皿の縁――薄い。撫でられたみたいに、昨日より柔らかい。スーラが言った“石の手”は、向こうにある。
「入る」
よっしーの声。FZRが息で線を引き、舟が低く滑る。帆の『へ』が揺れ、青磁の糸が冷たい息を吸う。舳鈴が擦れ、旗が〈囁き手〉を皿の縁へ薄く敷く。あーさんが掌の水を半拍、遅らせて風に置く。エレオノーラが目で皿の浅い波を読み、クリフさんが踵で返しを受け、ラヤの地図歌が“段丘の前奏”を舌の奥で鳴らした。
皿の中、昨日より深く。出口の向こう、青磁の段が“手”を伸ばしている。石の手――確かに、見えた。段から生えた石の柱ではない。段の縁から、指が五本、空を掴むように伸びている。風が指の間を抜け、音にならない音が骨を撫でる。
「……あれが“風碑”の手」
ラヤの声は低く、尊い。あーさんが掌の水を広げ、「撫でさせてください」と小さく囁く。名は呼ばない。名はまだ、知らない。
撫でる
舟は段の手前で一度“座り”、舳先の高さを“撫でる高さ”に下げる。ニーヤが舳鈴を布越しに二度擦り、よっしーがFZRの前輪を少しだけ落とす。俺は旗で〈囁き手〉を細く“指の腹”みたいにして前へ伸ばし、あーさんは掌の水を薄く延ばした。
「ユウキさん。いっしょに」
「ああ、あーさん」
呼ばない。呼ばないまま、隣に立つ。掌と旗と水と風で“撫でる形”を作る。息を一拍、遅らせる。《E・S:十五頁》の行が、胸の裏で光る。
風碑の指先に、掌の水が触れた。水は沁みない。ただ、冷たい音だけが、あーさんの掌から俺の掌へ、俺の掌から帆の『へ』へ、帆から舟の背へ、背からFZRの拍へ、拍から舳鈴の擦れへ、擦れから右の灯へ――低い輪になって回った。
「……通れる」
あーさんの声が震えずに言う。ラヤが頷き、エレオノーラが目を細め、クリフさんが弦を一度だけ弾き、ニーヤが舳鈴を撫で、よっしーがアクセルを“戻して”から“少しだけ”開けた。
第一歩
舟が段の“はじめの段”に乗った。青磁の石は固いのに、柔らかい。足裏が覚える“低い段差”。落ちない。上がりすぎない。帆の『へ』が短く揺れ、青磁の糸が“ここだ”と鳴らない声を吸う。旗の〈囁き手〉は段の耳を“背”に回し、舳鈴は擦れで合図する。右の灯はもうない。灯台もない。家の数は――僕らの歌の数だけ。
「一歩、置いた」
よっしーが笑う。平成の笑いが、青磁の上で平らに響いた。俺は旗を肩にかけ直し、あーさんの掌の水に指を触れた。冷たい。けれど、家の温度だ。
「戻る?」
エレオノーラが問う。練習なら、ここで戻るのが手順だ。けれど、番人の扉はもう見えない。皿は薄くなり、段の“返し”は僕らの足裏を知ろうとしている。
「今日の約束は“第一歩まで”。戻ろう」
ラヤが決める。戻る拍を置く。舳鈴を擦る。FZRの拍を半分に。帆の『へ』を指で押さえる。青磁の糸が“また来い”と鳴らない声で言う。風碑の手は、指をゆっくり閉じた。風を逃がさないように。
「ありがとうございました」
あーさんが掌の水を胸に当て、段へ礼をする。名は呼ばない。呼ぶ日は、きっと来る。けれど、今日ではない。
帰り道の軽さ
驚くほど、帰り道は軽かった。置いた“第一歩”が、戻る拍を“濃く”してくれたのだと思う。皿の縁は薄いまま、右の灯は低いまま、番人の扉は開いたまま。塔の梁の札が、遠くで手招きしている。
「おかえり」
番人の声。よっしーがFZRを止め、俺たちは砂に座る。帆の『へ』が一度だけ、はっきり揺れた。青磁の糸は静かで、深い。
帰投と宣言
塔に戻る。ミラが帆の『へ』を撫で、青磁の糸を見て頷く。レオールは皿の時刻を書き直し、キリアは熱瓶を新しいものに換え、エリダとイオは門の“控え”を少し深くし、カムは棹の“登り唄”を一節増やした。子どもたちは稽古橋の端で跳ね、塔の少女は粉を二袋、追加で用意した。
「明朝、本番。荷をすべて“舟”へ。相棒は“砂積み”の予備。塔は“家”のまま」
レオールが宣言し、ミラが袖に“出立印”をもう一つ縫い足す。よっしーは相棒の屋根を叩き、「お前も行くで」と笑い、FZRの鈴皮を指先で確かめた。エレオノーラは矢羽根を数え、クリフさんは腕革を締め直す。ニーヤは舳鈴の布を指で整え、ブラックは帽子の上でこくりと頷いた。ラヤは地図歌を梁に掛け、番人の紙を帆の裏に縫い付ける。あーさんは掌の水を盃に分け、皆の額に一滴ずつ置いた。
「家へ。――そして、“へ”へ」
俺が言うと、笑いが低く広がった。落ちない笑い。戻る笑い。青磁の段丘の“はじめの段”は、もう僕らの足裏にある。潮壁の皿は、僕らの胸の骨にある。風碑の手は、あーさんの掌のなかの水にある。
出立は、明朝。
低く、遠くへ。
家は、背に乗せて行く。
――
(つづく/次話:本番の潮壁越え—舟“いえ”とFZR、相棒も活用して荷を渡し、“青磁の段丘”の内部へ。風碑と名、そして最初の試練へ)




