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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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黄昏の旅団 ― 蒼穹を駆ける疾走 ―


(主人公・相良ユウキ≒“綴”の視点)



山道の向こう、黄金の平原


 山道を抜けた瞬間、視界がぱっと開けた。


 木々の隙間から、夕日に照らされた平原が一気に広がる。草原は低い波みたいにうねっていて、斜めからの光を受けて黄金色にゆれていた。遠く、煙が細く上がる影――城壁に囲まれた町が見える。多分、目指していた「アルベーヌ」だ。


「よっしゃあ! もうちょいやな!」


 よっしーが肩のリュックを地面に放り投げて、拳を突き上げた。


「そうだな……だが、浮かれすぎて足をくじいては元も子もない。もう少し体力は温存したほうがいいかもしれん」


 クリフさんは相変わらず冷静だけど、口元はいつもよりわずかに緩んでいる。


「ふふ……ああ、ようやく、まとまった“人の営み”が見られる場所でございますね」


 あーさんが胸の前で手を合わせ、ほっと息をついた。旅のあいだ中、野営と村ばかりだったから、ちゃんとした町は久しぶりだ。


「我が主人、あの町、魚の匂いもするニャ。川か湖が近いかもしれないニャ」


 ニーヤが鼻をひくつかせる。ブラックは俺の肩から飛び立って、少し高く旋回してから戻ってきた。小さく「キュイ」と鳴く。あれは多分、「敵影なし」の合図だ。


「よし。じゃあ――」


 歩いて降りるか、と思ったところで。



平原の疾走と、「平成元年セット」


「……ふぅん。ここ、道はそこそこ平らやし、見通しもええし」


 よっしーがニヤっと口を歪めて、虚空に腕を突っ込んだ。


「おい、よっしー、その顔は嫌な予感しかしないんだが」


「ふふん、待ってました“平成元年スペシャル”第二弾! ワイの“もうひとつの相棒”や!」


 次の瞬間、平原の斜面に影が伸びて――緑色の車体が、すぽん、と現れた。


 どこか懐かしい形の、小さめのトラック。艶の落ちた黄緑のボディに、白いホイール。フロントグリルには“NISSAN”の文字。


「……サニートラック……?」


 思わず声が漏れる。ハチロクだけじゃなかったのか、お前の箱。


「軽トラ……いや、ちょっと違うか。だが荷台が広いな」


 クリフさんが興味深そうに車体を撫でる。


「これが文明の力っちゅうやつや! 荷物も乗るし、人も乗るし、平原移動にはもってこいやで。ハチロクは遊び用、こっちは仕事用や。――ほな、みんな乗りぃ!」


 よっしーが運転席に飛び乗る。助手席のドアをぽんぽん叩いて、ニーヤを手招きした。


「助手席は猫枠ニャ!」


 ニーヤが当然みたいな顔でジャンプして、シートの上で丸くなる。あーさんはおっかなびっくり助手席の背もたれを触って、「本当に、ここに人が乗ってもよろしいのでしょうか」と俺を見る。


「荷台、意外と揺れるから、あーさんはキャビンの後ろ側につかまる感じで。……危なそうならすぐ止めるから」


「承知いたしましたわ。文明の“揺れ”……体験してみとうございます」


 俺とクリフさん、あーさんとルゥは荷台へ。荷台の四隅には、よっしーがいつの間にくくりつけたロープが垂れていて、即席の手すり代わりになっている。ブラックは幌の骨に止まり、周囲を警戒。


「ほな――点火ぁ!」


 よっしーがキーをひねる。セルの回る音、続いて、素直なエンジン音が平原に響いた。ハチロクの高回転サウンドとは違う、もっと働き者のリズムだ。


 よっしーがキーをひねる。セルの回る音、続いて、素直なエンジン音が平原に響いた。ハチロクの高回転サウンドとは違う、もっと働き者のリズムだ。


「ひゃっ……! なんですの、この音はっ!?」

 軽トラは平原を滑るように走り出した。俺たちの頬に当たる風が、これまでの旅路の苦労を吹き飛ばしてくれるかのように心地よかった。


「ひゃっ……! やはり、何度乗っても心の準備が追いつきませんわ……!」


 サニトラは平原を滑るように走り出した。ハチロクより視点が高くて、揺れも生々しい。荷台の板がぶるっと震え、俺たちの頬に当たる風が、これまでの旅路の疲れをいっぺんに吹き飛ばしてくれるみたいに心地よかった。「前の赤い車とは、また乗り心地が違いますのね……こちらは“荷馬車の化身”という感じで……」

 あーさんが必死に荷台の縁をつかみながら、それでもどこか楽しそうに笑った。


 あーさんの目が完全に円になっている。思わず笑ってしまった。


「スピードはほどほどで頼む。転倒したら笑えんからな」


「わかっとるわ。“非致死・ほどほど”や」


 よっしーがニヤッと笑ってギアを二速へ。サニトラは驚くほど軽やかに、斜面を駆け下りていった。



ラジカセと、1989年の味


 ある程度、平原に降り切ったところで、よっしーが急にアクセルを抜いた。


「ちょい待ち。ここで、さらに気分を上げるやつ出すわ」


 そう言って、また虚空庫に腕を突っ込む。


「まだ何か出るのか」


「出るに決まっとるやろ、“平成元年セット”やで?」


 次に出てきたのは、黒とシルバーのゴツい箱。取っ手付き――ラジカセ。スピーカーが左右についていて、真ん中にはカセットテープの窓。


「でた……」


 懐かしすぎて頭が少しくらくらする。よっしーは慣れた手つきで上の蓋を開け、タイトルシールの色あせたカセットを一個取り出した。


「本日のBGMは――」


 ガチャン、とテープを押し込み、再生ボタンをカチッと押す。


 少しのノイズのあと、シンセの印象的なリフが流れた。高い声の英語の歌。あれは――


「“Take On Me”……?」


「せや! a-haや! 山越えからの平原、夕焼けにハイテンポな80s洋楽、完璧なシチュやろ!」


 よっしーが運転席の横にラジカセを置いて、音量をちょっと上げる。シンセとドラムマシンの音が風に流れ、サニトラのエンジン音と意外なほど相性が良い。


「……なんというか、妙に胸が高鳴る曲だな」


 クリフさんが不思議そうに耳を傾ける。


「歌は分からぬが、跳ねるようで楽しいですわね」


 あーさんがリズムに合わせて指先で膝をトントン叩く。ニーヤは音に合わせて尻尾をふりふり。


「この音……ねずみを追いかけたくなるニャ」


「それはやめてくれ」


 しばらく走ったところで、よっしーがまた虚空庫に手を突っ込んだ。


「ほな、飲み物とおやつも“88〜89年セレクト”いっとこか。ほれ!」


 荷台に、次々と缶や袋が転がってくる。


 銀色のスリム缶――「タカラcanチューハイ・グレープフルーツ」。金色の「スーパードライ」の350ml缶。茶色い「UCCミルクコーヒー」の缶。紫のファンタ・グレープ。四角い紙パックのコーヒー牛乳。お菓子の袋には「ポテトチップス のり塩」「ビッグカツ」「ハイチュウ」「うまい棒(コーンポタージュ味)」……。


「お前、コンビニ丸ごと持ってきたのか」


「バイトの賄いでな、つい“箱買い”したやつをそのまま……。賞味期限? 異世界には関係あらへん!」


 よっしーがケラケラ笑う。


「アルコールもあるのですね」


 あーさんが「canチューハイ」の缶を見て、少しだけ首を傾げる。


「……ユウキ、飲むか?」


 クリフさんが、スーパードライの缶を一本、俺のほうへ押し出した。いつもなら“いや、今はいい”と断るところだけど、今日はなんとなく――心がそっちに傾いた。


「一本だけ。荷台で暴れたりはしないから安心してくれ」


「ユウキさん、お酒はお強いのですか?」


「普通、かな……多分」


 俺はプルタブを起こし、一息でぱきんと開ける。細かい泡の白い線が、缶の口からのぼる。懐かしい匂い。最初に社会人になった頃、先輩に半分押しつけられて飲んだ味だ。


 一口、口に含む。苦味と炭酸、少しの麦の甘さ。夕焼けの風と、エンジン音と、a-haの声。全部が混ざって、胸のあたりがじんわりと温かくなる。


「ん……やっぱりスーパードライは“キレ”やなぁ」


 思わず呟くと、よっしーが羨ましそうにちらりと見てくる。


「ワイも飲みたいけど……運転あるから、今日はUCCで我慢や」


「その判断は正しい」


 クリフさんは酒は控えめに、“紙パックのコーヒー牛乳”をストローで飲みながら、地平線を見ている。ルゥはファンタ・グレープを小さなカップに分けて、じっと色を眺めてから、ちょびっと口にした。


「……ぶどうの“香りの音”。おもしろい」


 ニーヤはアルコール禁止、代わりにハイチュウをもぐもぐ。咀嚼そしゃくのリズムがBGMに合っていて、なんだか笑える。


「我が主人、これ、歯にくっつくニャ」


「それがいいんだよ」


 ポテチののり塩が回ってきて、紙の袋がぱりぱり鳴る。ビッグカツをかじると、妙にチープなソース味が口いっぱいに広がった。あーさんは最初こそ眉をひそめたけれど、一枚食べたら目を丸くして、


「……これ、癖になりますわね?」


 と、もう一枚手を伸ばした。よっしーがガッツポーズを決める。


「昭和末期の駄菓子パワー、侮ったらあかんで!」


 ラジカセはいつの間にかBon Joviの「Livin’ on a Prayer」に変わっていて、サビの手前でよっしーが音量をちょっと上げる。


「ここ、上がるとこや!」


「どこか分からんが、盛り上がるのだけは伝わる」


 そんなふうに、笑いながら、俺たちはアルベーヌへ向かってサニトラを走らせた。



アルベーヌの城門 ― 人の匂い


 夕暮れが濃くなってきた頃、平原の先に、石造りの城壁がはっきり見えてきた。門前の道には荷馬車が並び、人と声と匂いが混じっている。


「ここからは車は目立ちすぎるな。少し手前で仕舞っておこう」


 エレオノーラの一言で、よっしーは城壁が小さくなるあたりでサニトラを停めた。


「サンキュー、相棒。またな」


 よっしーが軽くボンネットを叩き、虚空庫にぐいっと押し込むと、サニトラとラジカセと残りの缶たちは綺麗さっぱり消えた。俺の手には空き缶だけが残る。


 門前に近づくと、槍を持った門番が二人立っている。片方がこちらに目を細めた。


「おい、そこの一団。身分証を見せろ」


「どないしよ、身分証なんて持っとらへんで……」


 よっしーが小声で言う。確かに、俺たちは“旅人カード”みたいなものはまだ作っていない。どうするかと考えていると――


「私が出よう」


 クリフさんが一歩、前に出た。背筋を伸ばし、元兵士らしいきびきびした仕草で名乗る。


「私は元・聖教国兵士、クリフ・カルロベーノ。この者たちは私が責任を持つ護衛と、同行者だ。アルベーヌへの入城許可を願いたい」


 門番が眉をひそめる。「聖教国」と聞けば警戒されてもおかしくない。でも、クリフさんの声には変な嘘がない。門番は彼の鎧の痕、歩き方、視線のぶれなさをじっと見て、やがて槍を少し下ろした。


「……今は物騒な時勢だ。妙な真似をすれば、すぐに兵が飛んでくる。それでよければ、入れ」


「感謝する」


 クリフさんが短く会釈する。門が重い音を立てて開き、人と灯りと匂いで満ちた“町”の空気が、俺たちを包んだ。


「助かった」


 俺が小さく礼を言うと、クリフさんは「気にするな」とだけ答えた。口元は、さっき平原を見下ろしたときより少しやわらかい。



宿屋の夜、80sと89年のテーブル


 宿屋の広間は、旅人たちの笑い声と、素朴な弦楽器の音で賑わっていた。木のテーブル、天井の梁、壁にかかった古びた盾。厨房のほうからは、肉とハーブと焼き立てのパンの匂い。


 俺たちは大きめのテーブルをひとつ陣取り、宿の料理と、よっしーの“平成元年テーブル”を混ぜた奇妙な宴会を始めた。


 丸いパンの器に入った温かいスープ、香草をまぶした焼き魚、干し肉とチーズの盛り合わせ。そこに、ポテチののり塩と、ビッグカツと、うまい棒(めんたい味)が紛れ込んでいる。飲み物は、宿のエールと葡萄酒、そしてファンタと缶チューハイと缶コーヒー。


「うまっ! なんやこのスープ、最高やんけ!」


 よっしーがパンをちぎってスープに浸し、頬張りながら叫ぶ。口の端にスープがついている。


「あーさん、口に合うか?」


 俺がたずねると、あーさんはスプーンを丁寧に置き、微笑んだ。


「ええ、とても美味しゅうございます。特に、この――“ポテトの薄切りを油で揚げたもの”? のりと塩の香りが、大変よろしいですわ」


「それ、ポテチ。危険な食べ物だから、気をつけてくれ」


「危険……? ――確かに、止まらなくなりそうで危険ですわね」


 あーさんがもう一枚手を伸ばしながら真顔で言うので、テーブルが笑いに包まれた。


「猫には塩分が多すぎるから、匂いだけニャ」


 ニーヤはそう言いつつ、うまい棒の袋を真剣な顔で見つめている。


「その棒状のものは?」


「これは“コーンポタージュ味”や。一本だけやぞ?」 


 よっしーが折ってニーヤに渡す。ニーヤは慎重にひとかじりして、目をまんまるにした。


「……スープを固めて棒にしたみたいニャ!」


「だいたい合ってる」


 エレオノーラは、宿のエールを少しだけグラスに注いで、香りを確かめてから口に運ぶ。その隣で、俺はさっきのスーパードライの続き――二本目に手を伸ばしかけて、あーさんと目が合った。


「飲んでよろしいのですよ?」


「今日は……一本でやめとく。あんまり酔うと、明日の判断が鈍るから」


「そういうところが、ユウキさんらしゅうございますね」


 あーさんがくすっと笑う。クリフさんは葡萄酒を少しだけ口にして、「悪くない」と短く評し、ルゥは宿の水にほんの少しだけファンタを混ぜて、“甘い水”をじっと味わっている。


「音はどうする?」


 よっしーがラジカセの存在を思い出したように顔を上げた。


「宿の連中、驚かないか?」


「音量絞ったら、ただの“よく鳴る箱”や。ほれ」


 よっしーがラジカセをテーブルの端にそっと置き、小さめの音量で再生する。今度はTOTOの「Africa」。ドラムとキーボードが柔らかく広間に流れ、宿の客たちが「なんだあれは?」という顔をしてこちらを見る。


「楽師か?」


「いや、箱だ」


「箱で音が……?」


 いつの間にか、近くのテーブルの子どもが一人、興味津々でラジカセを覗き込んでいた。よっしーがウィンクして、音を少しだけ上げる。子どもがぱちぱちと手を叩き、周りの大人たちが苦笑しながらも耳を傾ける。


「悪目立ちしすぎない程度に……頼むぞ」


 エレオノーラが半分呆れたように言う。けれど口元は緩んでいた。



裏路地の影 ― 静と動


 そんな賑やかな時間の中で――ふっと、空気が変わった。


「……我が主人」


 ニーヤが耳をぴくりと動かし、椅子からひらりと降りる。


「町の裏手に、少し変な気配があるニャ。人の“息”が、布でくるまれてる感じニャ」


 俺はフォークを置いた。酔いはまだ来ていない。頭ははっきりしている。


「クリフさん」


「ああ。行こう。数が多そうなら、途中でエレオノーラを呼ぶ」


 そう決めて、俺とニーヤとクリフさんは、宿の裏口から外に出た。よっしーはラジカセの音を少し上げて、あえて騒がしくしておく。「気づかれてるって悟られんように、表はいつも通りにしといたるわ」とのことだ。


 路地は、表の賑わいが嘘みたいに静かだった。石畳にかすかな湿り気。木箱と樽の影。猫の目線で見るような狭い隙間。


「……前方、三人。さらに奥に二人。片方は荷物を担いでいる」


 クリフさんが低く言う。ニーヤは鼻をひくひくさせて、尻尾をふくらませた。


「麻袋の中、生きてるニャ。小さい。子どもニャ。……血と、薬草の匂い」


 路地の角から、そっと覗く。


 黒装束の男たちが、背中に麻袋を担いでいる。袋の中からは、かすかな呻き声。男たちは手際よく荷を別の手押し車へ移し替えていた。


「……誘拐か?」


 喉の奥がざらついた。胸の中の何かが、ゆっくり熱を持つ。


 その瞬間、黒装束のひとりがこちらを振り返った。目が合う。鋭い口笛が夜気を裂いた。


「ちっ……」


「囲まれたな」


 路地の両側の影から、さらに二人、三人。完全に包囲する気だ。


「またコイツらか……」


 クリフさんが剣を抜く。金属が擦れる音が、低く響いた。俺は指輪に軽く触れ、魔法陣の構図を頭に描く。


「よっしーは……」


「もう来てるで!」


 後ろから、あの軽い足音。よっしーが金属バットを肩に担いで駆けてきた。いつの間に厨房と広間を抜けてきたんだ、お前は。


「おらぁ! 昭和の根性、見したるわ!」


「非致死でな」


「“非致死・ほどほど”や!」


 黒装束の男たちがナイフを抜いて構える。刃は光を吸うように鈍い。多分、“音を立てない”加工がされている。嫌なタイプの道具だ。


「……行くぞ、ニーヤ」


「御意、我が主人!」


 魔法陣が足元に展開する。青白い光が夜の路地を満たし、影が一瞬、後退した。



非致死・ほどほどの殴り合い


 最初に飛びかかってきたのは、ナイフを二本握った男。ニーヤが〈風縫い〉で足元の風を絡め、男の踏み込みを半歩だけずらす。ナイフの軌道がわずかに外れて、その隙間をクリフさんの柄打ちが叩いた。こめかみではなく、鎧の隙間を狙った一撃。男は「ぐっ」とうめいて片膝をつく。


「肩、脱臼。命に別状なし」


「報告いらんから次!」


 よっしーがバットを一閃。狙うのは手首と武器。乾いた音がして、ナイフが石畳に跳ねた。男の指が痺れて動かない。


 俺は麻袋を担いでいる男に狙いを絞る。〈囁き手〉で彼の呼吸に合わせ、〈地継〉で足元の重心を一瞬だけ前に傾ける。男の足がもつれ、バランスを崩した瞬間――ニーヤが飛びついて、袋を抱え込むように引き剥がした。


「袋、確保ニャ!」


「ナイス!」


 袋を抱えてニーヤが俺のほうへ転がってくる。俺はすかさず〈風縫い〉で袋を後ろの樽の上に滑らせる。中から小さな呻き声。


「大丈夫だ、すぐ終わらせる」


 短く声をかけてから振り向くと、黒装束は残り二人。うち一人が合図を送った瞬間――


「退くぞ!」


 思ったより判断が早かった。路地の奥に向かって、一斉に退却を始める。


「追うか?」


「ここで深追いは危険だ。宿にも他の客がいる」


 クリフさんが判断を下す。俺も同意見だ。


「顔は覚えたニャ。匂いも」


 ニーヤが目を細める。黒装束のひとりが最後にこちらを振り返り、聖教国の紋章が縫い込まれた小さな布切れを故意に落としていったように見えた。


 挑発だ。胸の奥の火が、もう一段階、熱くなる。



少年と、銀のペンダント


 麻袋を慎重に開けると、中には痩せた少年が一人、身を縮めて丸まっていた。服は汚れ、腕や足には擦り傷や殴られた跡。目を細めて、暗がりを確かめるようにこちらを見る。


「もう大丈夫だ。ここは宿の裏だ。……痛いところは?」


 俺ができるだけ穏やかに声をかけると、少年はしばらく言葉を探してから、かすれ声で答えた。


「た、助けて……姉さんが……まだ……」


 指が震えている。その手には、銀のペンダント。月と十字を組み合わせた、聖教国の紋章。握り締めすぎて、手のひらにくっきりと跡がついていた。


「姉さんも、あいつらに?」


 少年はうなずこうとして、痛みで顔を歪める。


「どこに連れて行かれたか、分かるか?」


「……町の……北の……教会じゃ、ない……別の、白い……小屋……」


 そこまで言うと、力尽きたように意識が遠のいた。


「気を失っているだけだ。骨は折れていない。打撲と、少しの出血だな」


 いつの間にか後ろに来ていたあーさんが、少年の脈を取りながら静かに言う。よっしーが肩で息をしながら、黒装束の落としていった布切れを拾い上げた。


「聖教国の紋章……やけど、ちょい色が違うな。裏稼業用か?」


「表の聖務局がやっていることか、一部の“影”か……どちらにせよ、子どもを袋に詰めて運ぶ時点で、碌なものではない」


 クリフさんの声が、いつもより低い。


 俺は、拳をゆっくり握った。スーパードライのアルコールが、少しだけ血の巡りを速くしている気がする。けれど、頭は冷えていた。


「……また、あいつらか」


 胸の奥で、静かな怒りが灯る。その炎は、むやみに燃え広がるタイプじゃない。芯だけがじりじりと熱い。


「とりあえず、少年を宿に運ぶ。状況を聞きたい」


「はい。我が主人、わたくしも手伝います」


 ニーヤがそっと少年の頭を支え、あーさんが肩を、俺が足を。慎重に麻袋ごと持ち上げる。


 遠くで、ラジカセの音がかすかに聞こえた。曲は変わって、今度はCyndi Lauperの「Time After Time」。優しくて、少し切ないメロディ。


 ――時間を巻き戻すことはできない。でも、これから先を“綴る”ことはできる。


 少年の手の中の銀のペンダントが、薄暗い路地で、小さく光っていた。



次回予告(地の文風)


 アルベーヌの町。表通りは笑いと光に満ちているが、その裏では、聖教国の紋章を掲げた“影”が、子どもたちを袋に詰めて運び出していた。


 救い出した少年は、まだ見ぬ姉の存在と、“白い小屋”の噂を残して眠りにつく。


 聖教国の暗部。黒装束たちの狙い。町の北でひっそりと灯る、白い建物の明かり――。


 ユウキたちは少年を守り、彼の姉を探し出すため、アルベーヌの夜の奥へと足を踏み入れる。


 次回、“白い小屋”と“偽りの祈り”へ。

 “風の糸”は、またひとつ、ほどいて綴るべき“結び”を見つける。

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