第36話 帆に残す一字、背に載せる家
(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)
朝。梁の鐘は鳴らさずに、塔の骨を静かに拭った。帆は屋根で一夜を吸い込み、薄い紙肌がほんの少しだけ柔らかくなっている。縁に縫い残した一字――『へ』――は、星を飲み込んだ名残りのように鈍く光り、触れると指先に“戻る拍”が宿った。
「今日の工程を読み上げるで!」
よっしーが相棒のボンネットに腰をかけ、空を指差す。平成元年の朝礼は、いつもどこか校庭めいて元気だ。
「一番:舟の骨組み“背”、完成させる。二番:舳に鈴を据え、鳴らさず擦る試験。三番:砂滑り(すべり)の走行テスト――FZRで曳いてコース取りを検証。四番:黒い舌の“門の禮”化、祈堂脇で運用試験。五番:サーラ行の荷まとめ“仮積み”――熱・水・粉・矢・針・札・歌の順に」
「歌が最後なのは、紙の端を汚さないため」
ミラが袖を整え、針の先を一度だけ“鳴らさず”に鳴らした。レオールは白外套の肩を少しほどき、「数はわたしが持つ。重さはよっしー殿」と分業を短く告げる。キリアは炉の前にしゃがみ、熱瓶の“皮”を一本一本撫でてゆく。エレオノーラは矢羽根の毛並みを整え、クリフさんは弦の鳴りを直した。あーさんは掌に水を汲み、帆の端を一度撫でる。「糸が喉を鳴らしませんように」
「舳鈴は、ニーヤの担当ニャ」
帽子のつばを指で持ち上げ、ニーヤが杖の先で鈴の布を軽く撫でる。ブラックがその上で丸くなり、片目を薄く開けてこちらを見た。ラヤは商隊の人足に短く指令を飛ばし、カムは唄う棹を肩に背負う。「背は、舟の命や」
背を組む
舟の背骨は、棹と梁の“合いの手”でできている。砂に沈まないように幅広で、しかし風を切るとき抵抗が少ないように薄く――矛盾を和解させる形を、朝の光が探る。カムが唄う棹を床に置き、節を見極めるたびに短く唄う。唄に合わせ、俺は旗の裾で風の筋を薄く撚り、〈囁き手〉でこの骨に“家寄り”の癖を覚えさせる。
「この節は“戻る拍”に効く」
カムは棹の背を指で叩き、ココン、と低く鳴らした。あーさんが掌の水を節目にひとしずく置く。水は沁みず、ただ光を呼んで消えた。ミラが針で節の傍に小さな布片を縫い留め、『家』の一角の記号を添える。レオールが数をひとつ止め、キリアは熱を薄く走らせて木肌を“皮”に変えた。
「帆柱はここ」
ミラの言う“ここ”に、よっしーが軽く体重を載せる。「おっし、強度は出とる。ハチロク積み込み時の荷重もこの線内やな」
「車、乗せるの?」
セラが目を丸くする。よっしーは笑って首を振る。「乗せへん。けど、荷重はいつだって“動く”。耐える線を先に知っとかな」
「動く荷重……」
レオールが小さく頷く。「歌も重さが動く。重さの移り変わりを数に落とす」
カムは唄う棹を持ち上げ、背に嵌めた。「おう、生きた。風が通る。背や」
舳鈴、鳴らさず擦る
舳先に鈴を据える。ニーヤが布越しに鈴の輪郭を撫で、帽子の上のブラックが小さく喉を鳴らす。「舳は高くない方がええニャ。猫は低い所から跳ぶニャ」
「人も同じだ」
エレオノーラが眼差しだけで笑う。「高く掲げるのは矢だけでいい。鈴は低く、近くに」
「鳴らさず擦る“音”を舟に教え込む」
俺は旗の裾で帆の端を撫で、〈囁き手〉の薄い粒を鈴に寄せる。よっしーがFZRの鈴皮をほどき、布の薄片を鈴座に滑り込ませた。キリアが熱瓶の口をほんの少しだけ開き、その温度差が鈴の金属の“皮”にやさしく絡む。あーさんの掌の水が鈴の縁を丸く湿らせ、ミラは針で布留めを一刺し。
「擦る」
ニーヤが細い指で布越しに輪をなぞる――チリ、チ……。鳴らない。けれど、胸の内側で“呼吸の合図”みたいな音が返ってきた。エリダが舌に額を当て、「良い」と短く呟く。イオは布日記に小さく点を打った。
砂滑りの走行テスト
背と帆と舳鈴が仮に組み上がる。まずは砂上で“滑る”だけを確かめる。曳くのはFZR。よっしーが鈴皮を巻き直し、エンジンを息だけに変えて起こす。僕は帆の横で旗を肩にかけ、“戻る拍”をいつでも置けるように手を緩めた。エレオノーラとクリフさんは左右の“返り”を読む位置に立ち、キリアは熱瓶を腰に、あーさんは掌の水を帆柱の根に添える。ラヤは砂の癖を目で追い、カムは棹の背を両手で掴んだ。ミラとレオールは距離と数を盤に記す。
「いくで」
よっしーがFZRの体を少し寝かせ、砂に細い線を引く。舟は最初、ためらった。砂の舌が“新参者”に慎重だ。俺は旗をひとつ傾け、帆の縁をなでる。あーさんの掌の水が、帆の舌に“戻る拍”を一滴置いた。――舟が、出た。
音はない。砂が、舟の下で静かに“位置を変える”だけ。舳鈴が布越しに擦れて、胸骨がそれを受ける。キリアの熱が“皮”となって背を守り、ラヤの歩調が砂の癖を舟へ伝える。わずかに横に流される――エレオノーラが「右二歩」と低く告げ、クリフさんが砂の“返り”を踵で押さえた。ニーヤが鈴を二度擦り、帆の影が角を丸める。
「止まれ」
よっしーの声。FZRの拍が消え、舟は砂に座った。止まる位置は、想定の“戻る拍”の上。レオールが数を止め、ミラが札に印を付ける。カムは棹を額に当て、「うん、唄える」と笑った。
「もう一回。“風上ぎわ”へ」
ラヤが指で砂の面をなぞる。潮壁の手前の“潮返し”を想定したライン取り。この辺りは風が二重に折り返す。よっしーがFZRの体重を反対側に預け、俺は旗で“暗い拍”を薄く引いた。――舟が、逆らわずに向きを変える。高くない、無理をしない。低い橋の走り方で、舟もまた、低く滑った。
門の禮
祈堂脇で、黒い舌の“門の禮”化の試験をする。舌はもう“味”を覚え、封じの道具ではなく、通すべきを選ぶ“礼”の道具へ育ちつつある。エリダが舌に額を当て、イオが布日記に微小な点を置く。
「舌はこの角度で“控える”。礼はいつでも“主”を先に通す」
ミラが札を持ち、あーさんが掌の水で舌の縁に薄い輪を描く。よっしーは舌の根元に鈴皮の欠片を挟み、“鳴らさず”を仕込む。キリアが熱をほんの一息だけ舌に渡し、レオールは数を半拍遅らせた。俺は旗の裾の“E”を撫で、〈囁き手〉を門の枠に置く。
「お通りください」
ミラが静かに言うと、舌が“わずかに退く”。礼を尽くすために一歩退き、しかし“戻る拍”で必ず戻る仕組み。塔の少女が粉袋を抱えて試験で出入りする。子どもたちが稽古橋からも観に来て、セラが「こんにちは」と舌に挨拶した。舌は当然返事をしないが、その“控え”の気配に、子どもたちは自然と小さく頭を下げた。
「――うまくいく」
レオールが短く言う。エリダが舌にもう一度額を当て、イオは布日記に丸をひとつ書き足した。
仮積みと、よっしーの勘
午後。サーラ行の“仮積み”を始める。順番は決めた通り――熱、水、粉、矢、針、札、歌。よっしーは相棒の荷室を開き、積んでは降ろす“リハーサル”を繰り返した。FZRは曳航用のロープを帆柱の根に絡め、バイク側の固定点を点検する。舟には“地上走行モード”と“砂潮走行モード”――ふたつのバランス取りが要る。相棒は“重いものを運べる低い橋”。FZRは“拍子で道を刻む刃”。
「ユウキ」
よっしーが、不意に真顔で呼ぶ。「たぶんやけど、サーラの“灯り”は、生きとるもんと死んどるもんが混ざっとる。右の灯が“家”、左の灯が“段”ちゅう稿、前に落ちた古片で見たやろ。けどな、もうひとつ、真ん中に“消えかけの灯”があるはずや」
「消えかけ?」
「迷わしたるための“誘い水”。ふらりと寄ると、名が薄ゆうなる。……勘やけど、昭和でナイトランしとると、そういう“誘い”は街角にいっくらでもあったんや」
「信号の死角、路面のテカり、看板の残光……」
俺は思わず頷く。あの感じ。行けそうに見える道は、だいたい罠だ。
「旗の“暗い拍”で、消えかけに蓋をしていく」
「せや。舳鈴は擦るんや、叩くんやない。ニーヤ、頼むで」
「任せるニャ」
ニーヤが尻尾をピンと立て、帽子を上げた。ブラックが「コ」と小さく返事をした。
砂の稽古祭
日が落ちる前、塔は小さな“稽古祭”を開いた。出立はまだ先――二つ橋を置いたのち。だが、気持ちの区切りを皆で同じ方向へ向けるための、静かな祭だ。塔の少女が粉を握り、薄い餅を焼く。ラヤは藍玻璃の細片を紙に縫い、灯にすると綺麗だと教えた。子どもたちは稽古橋を渡り、あーさんの返し歌を輪で歌う。
「ユウキさん、こちらへ」
あーさんが呼ぶ。掌の水を小さな椀に分け、俺に差し出した。「今夜は、掌を“舳”に見立てて乾杯を。――家へ」
「“へ”へ」
俺は笑って受け取り、縫い残した一字を胸の奥で鳴らした。よっしーが相棒のライトを一瞬だけ“反射”に使い、灯台の輪の金を帆の『へ』の上に落とした。キリアは熱を細く流し、帆の縁を乾かす。エレオノーラとクリフさんは塔の縁で警戒の視線を交わし、ミラは袖に祭の印をひとつ縫い付ける。レオールは数え歌を子どもに教え、エリダとイオは舌を撫でながら低く和した。カムは棹を鳴らし、ラヤは地図歌を一節だけ、皆の声域に合わせて下げた。
影の裂け目と、赤い裾
――そのときだ。稽古橋の端、影が“逆向き”に流れた。戻る拍に反く流れ。俺は旗を肩にかけ直し、〈囁き手〉を橋の下へ落とす。よっしーが反射的にFZRのロープを掴み、キリアが瓶を握り、あーさんの掌の水が跳ねた。エレオノーラは矢を取らず、目だけで影の“出どころ”を見る。クリフさんの踵が砂を押さえた。
影の裂け目から、黒外套――ではない。黒の裾に“赤”を混ぜた者が二人、静かに現れる。第三の糸の布教者に、赤い裾の“異端”。その背に、薄い木箱。箱の匂いは“番号”。吐き気のする乾いた匂い。
「門を貸してもらおう」
赤い裾のひとりが、礼の形だけを真似て言う。祈堂の“門の禮”の試験を見ていたのだ。黒い舌は控え、礼を尽くす――が、礼は“主”を先に通すものだ。ミラが静かに前に出る。袖の針が音もなく光った。
「その箱は、通さない」
ミラの声は柔らかく、しかし門の骨のように硬い。レオールが白外套の肩をゆっくり後ろへ引き、段の耳を背に回す。よっしーは相棒とFZRの間に立ち、ロープを足に絡めた。キリアは熱を“皮”に仕舞い、あーさんは掌の水で子どもたちの足元に“躊躇”の輪を描く。エレオノーラは矢を取らず、代わりに舳鈴を見る。ニーヤが布越しに輪を撫で、舳鈴がほんのわずかに“擦れた”。
「通す価値を示せ」
レオールが数を止めたまま言う。赤い裾の二人は目を細め、箱を少しだけ開けた。中は――空。空だが、空気が“番号”を孕んでいる。箱そのものが“番号”。名を薄くし、歌を乾かす器。
「箱に名を吸われる」
あーさんが震え声で言う。「これは……“人さらい”よりもなお悪しき仕掛け……」
「門の禮は、礼を欠く者に開かぬ」
ミラが針を握り直す。彼女の袖から白い糸が一本、ぴんと張った。“礼の糸”。俺は旗で〈囁き手〉を門の枠に厚く置き、戻る拍を半拍だけ早くした。キリアが熱で舌の根を温め、黒い舌は“控え”を深める。よっしーが足のロープを引き、FZRの鈴皮が空気の拍を細く刻んだ。ニーヤは吠えない“擦れ”を二度、舳鈴に与える。エレオノーラの目が赤い裾の手の角度を捕らえ、クリフさんの踵が砂の返しを踏む。
赤い裾は箱の蓋を閉じ、無言で退いた。――礼の姿勢だけは最後まで保って。影は裂け目を閉じ、塔の骨は静かに息を吐いた。
「試してきた」
よっしーが低く言う。「サーラ行きの前に“門の禮”を壊せるかどうか、測りに来たんや」
「壊せない」
レオールが淡々と答える。「礼は、歌の先にある。歌は、橋の上にある。橋は、家に生える」
ミラが袖の針を袖の裏に戻す。あーさんは掌の水を胸に当て、「よかった……」と小さく息を吐いた。子どもたちはセラの合図で稽古橋から下がり、ラヤは地図歌の一節を指でなぞる。イオは布日記に三つの点を打ち、エリダが舌に額を当てた。「礼は、育つ」
夜更けの整備――ハチロクとFZR
緊張の一幕のあと、よっしーは相棒とFZRの整備に没頭した。平成元年の鉄の心臓は、砂の息を吸ってもなお誠実だ。エンジンは鳴らさず、拍だけで対話する。鈴皮の巻き方を一段薄くし、曳航時の“戻る拍”を短く設定。相棒の荷室の“隙”に、帆の予備を丸めて入れる。俺は旗を肩にかけたまま、ハチロクの屋根に肘を置いて、よっしーの手元を見た。
「ユウキ、覚えとけ。出る前に“戻る”。戻る場所を最初に決めてから、アクセルを踏む」
「うん」
「人も同じや。あーさんに“戻る拍”を必ず渡せ」
突然名前が出てきて、心臓がひとつ跳ねた。よっしーはにやりと笑い、FZRのミラーに俺の顔を映して見せた。情けないほど真剣な顔をしている。――笑ってしまい、でも真剣のまま頷いた。
出立前夜の前夜――舟の名入れ式
帆に残した『へ』の縫い目を、もう一度だけ“なおす”。風を吸い込むうちに少し伸びた部分を、ミラが針でやさしく締める。あーさんが掌の水を一滴落とし、キリアが熱で縫い目を柔らかく整える。ニーヤが布越しに舳鈴を撫で、カムは棹の角を紙に合わせて薄く削った。ラヤは地図歌の“右の灯”の節を低く歌い、子どもたちは出立歌の「はじめの拍」を覚え直す。レオールが数を揃え、エレオノーラとクリフさんが屋根の縁を交代で見張る。エリダとイオは鐘の“息”を舟に一拍、貸した。
「舟の名、『いえ』」
ミラが最後の糸を紙の裏で結び、縫い残しの『へ』が微かに揺れた。――戻る拍は、ここに。旗の裾の“E”の布片がそれに応じて震え、肩が軽くなる。
翌朝――砂の港サーラへ“先乗り”
「ユウキ。よっしー。ニーヤ。クリフ。エレオノーラ。ラヤ。六名で“先乗り”しよか」
レオールが提案した。サーラの手前までは橋を置いてある。港の入り口の“灯”の見分けだけ、実地で確かめる。塔はミラ、キリア、あーさん、エリダ、イオ、子どもたち、カム、塔の少女、白外套二名で守る。
「行く」
俺は旗を肩に、よっしーはFZRに跨がり、クリフさんは弓を軽く背に、エレオノーラは矢数を半分に絞った。ニーヤは杖と舳鈴の予備布を抱え、ラヤは地図歌を腰に巻く。相棒は“留守番”。重い荷はまだ塔。今日は“軽い走り”で、灯を読み、戻る。
「出る前に、戻る」
あーさんが掌の水を僕の胸にひとしずく置いた。冷たさが、そのまま“合図”になる。頷き、出る。
砂を渡る六つの影
FZRが息だけで砂を切る。よっしーは“戻る拍”を先に置き、ラインを滑らせる。俺は旗で〈囁き手〉を薄く流し、“消えかけの灯”に蓋をする準備を整える。クリフさんは踵で砂の反しを読み、エレオノーラは星と砂紋の関係を目に写す。ニーヤは舳鈴の布を指先で確かめ、ラヤは風の“匂い”で分岐を嗅ぎ分けた。
砂の地平に、低い灯がいくつも点り始める。昼でも見える灯――砂面の反射と布の影を巧みに組み合わせた幻の灯。右、左、真ん中(消えかけ)。古片が言った通り。右は“家”。左は“段”。真ん中は“名を薄める灯”。
「右の灯、二つ先の“影の縁”に切れ目」
エレオノーラの声。俺は旗で暗い拍を、真ん中の灯の根元に置く。ニーヤが布越しに鈴を二度擦る――チ、チ……音はない。けれど灯の“誘い”が、かすかに座屈して沈む。ラヤは右の灯の根元に軽く砂を蹴り、進路の“迷い”を砂に覚えさせた。クリフさんが踵で返しを押さえ、よっしーはFZRの体をわずかに起こした。
「右、入る」
ラヤが短く告げる。俺は旗で道を“家寄り”に撫で、ニーヤの鈴が合図を重ねる。――砂の港サーラの“外縁”に踏み込む。静かな歓声が胸の中で上がった。灯は“人の手”の高さに降り、布の陰に、家々の影が見え始める。低い屋根、低い扉、低い橋。これなら、落ちにくい。
サーラの番人
港の入口に、砂色の布衣をまとった老人がひとり。背はまっすぐ、目は砂よりも深い。「右の灯を選んだ者は、戻る場所を持っている」と、こちらが名乗る前に言った。ラヤが手短に挨拶する。老人は頷き、舳先の鈴に視線を落とす。
「擦る鈴。よい。叩く鈴の客は、左へ行け」
「戻る拍で来ました」
俺が言うと、老人は少しだけ目を細めた。「“へ”を残した帆を見たのは、久しい」
「帆、見えるの?」
ニーヤが驚く。老人は口角をほんのわずか上げた。「見えるのは、帆ではない。帆に残した“ためらい”だ」
「番人殿」
ラヤが声を潜め、古片の二行目を確認する。「左の灯は名を薄くする。真ん中の“消えかけ”は、何をする?」
「“足を疲れさせる”。帰り道で膝が笑う。帰れぬほどではないが、戻る拍を盗む」
「なるほど」
よっしーがFZRのハンドルを軽く持ち替えた。「じゃあ、真ん中の灯の根元に“蓋”を置いとくのが、いちばん効く」
「置けるなら、置け」
老人の目はやわらかいが、言葉は固い。「この町は“低い礼”でできておる。自分で置いた蓋は、自分で外して帰ること」
「蓋の置き忘れは、礼の欠落」
レオールが聞けば喜びそうな言い回しだ。俺は旗の裾を正し、老人に軽く頭を下げた。
港の中の“低い手続き”
サーラの中は、すべてが低かった。敷居は踵の半分。屋根は背を丸めれば触れる。橋は幼子でも渡れる高さ。ここでは、誰も“高く”ならない。ラヤが商いの挨拶を半刻で終え、僕らは最低限の調達と情報収集に動いた。塩、薄い綿、干魚、帆の補修糸、鈴の布。情報は――潮壁の“門の開き足”。明後日の未明と、四日後の黄昏。未明の方が門の“返り”はやさしい。
「明後日、未明に“門見”だけ先にやる」
俺が言うと、ラヤは頷いた。「商隊は一旦塔へ戻る。明日もう一度、荷の仮積みと“礼”の稽古をする」
番人の老人は扉の陰から出てきて、紙片をひとつ手渡した。薄い紙に、砂を混ぜた墨で短い線が描いてある。灯の並びと、潮の“返りの皿”。「持ち帰って、帆に縫え」
「ありがとうございます」
あーさんがいれば、この紙はもっと早く理解されたのだろう――と心のどこかで思い、同時に“戻る拍”を胸の内で一度鳴らした。塔に戻ったら、あーさんに見せる。彼女の掌の水が、この紙を“舳の言葉”にしてくれる。
帰り――消えかけに蓋
サーラの外に出る前に、真ん中の“消えかけの灯”の根元に薄い“蓋”を置く。旗の〈囁き手〉を砂の面に広げ、ニーヤの舳鈴を布越しに二度擦る。よっしーがFZRの鈴皮を軽く弾き、クリフさんが踵で返しを整え、エレオノーラが灯の“残光”の角を射る目で丸めた。蓋は音もなく沈み、砂の下に“ためらい”の薄い輪が残る。戻る拍を盗む“誘い”は、これで弱る。
「帰る」
ラヤの短い合図。俺は旗を肩に、右の灯へ。――塔に戻る道は、来た時よりも軽かった。戻る場所が、増えたからだ。
帰投――塔の笑み
塔に戻ると、最初に出迎えたのはあーさんの掌の水だった。「おかえりなさいませ」――水は光を含み、安堵の匂いがした。ミラは袖に針を走らせ、記録札に“サーラの灯の図”を写す。キリアは熱瓶の本数を数え直し、エリダとイオは舌に額を当てて“礼”を確認。カムは棹を抱き直し、子どもたちは稽古橋の“戻る拍”を増やして見せた。レオールは数をひとつ止め、「未明、門見」とだけ告げる。ラヤは地図歌を塔の梁に掛け、番人から受け取った紙をミラに渡す。
「見せてください」
あーさんが紙を受け取り、掌の水の上でそっと開いた。「……潮の返りの皿。“舳”の角度、“帆”のためらい、“背”の唄。これなら――」
「帆に縫える」
ミラが同時に言い、二人は顔を見合わせて笑った。俺はその笑みに胸が温かくなり、よっしーは「ええなぁ、こういうんが“家”や」と相棒の屋根を軽く叩いた。ニーヤは舳鈴を撫で、ブラックが眠そうに片目を瞬いた。エレオノーラとクリフさんは塔の縁で交代の合図を交わし、キリアは瓶の皮を撫でた。エリダとイオは鐘の“息”を低く整え、カムは棹の節を一度だけ鳴らした。――低い音。戻る拍。
未明の“門見”――見て、戻る
二日後の未明。空はまだ群青で、灯台の輪は白に近い。サーラの番人が言った時間。僕らは“見に行く”だけ――出ない。門の“返り”と“皿”を目で、耳で、胸で覚える。
先乗りの六名に、今回はあーさんを加えた。彼女の掌の水は“門の性格”を知る。ミラは塔に残り、帆の縫いに集中。レオールは数の準備を整え、エリダとイオは鐘の息を“旅の間合い”に寄せる。カムは棹の唄を低く保持し、キリアは熱瓶を二本だけ腰に下げた。
砂の港の外縁。灯は右に列を作り、左に高い影を伸ばし、真ん中は相変わらず“消えかけ”。潮壁の黒い刃の根元に、薄い“門の皿”が見える――いや、感じる。胸の骨が、そこだけ“凹む”。風が“そこだけ”柔らかい。
「――門、開きます」
あーさんが掌の水を薄く拡げ、声を落とす。潮の息が一度だけ吸われ、門の皿は“縁取り(ふちどり)”をはっきりさせた。よっしーがFZRの体重を預けずに寝かせ、僕は旗で〈囁き手〉を薄く敷く。ニーヤが布越しに舳鈴を二度擦り、エレオノーラは目だけで“皿の縁”の高さを測る。クリフさんが踵で砂の返しを整え、ラヤが地図歌の一節を唇の内側で鳴らした。
門は開いた。だが、僕らは出ない。見るだけ。皿の縁を踏まず、皿の“躊躇”を胸に写し取る。門は――思っていたよりも“低い”。低いから、落ちにくい。けれど、低いからこそ“礼”を欠くとすぐに閉じる。
「戻る」
ラヤの合図。僕らは一斉に戻る拍を踏み、砂に座った。門は静かに閉じ、胸骨の凹みは元に戻る。あーさんが掌の水を胸に収め、息を整えた。「……大丈夫、行けます」
「行ける」
よっしーが短く言い、俺は旗を肩に掛け直した。エレオノーラは目を細め、クリフさんは弦を軽く弾いた。ニーヤは鈴を撫で、ラヤは頷いた。――次は、出る。
帰り道の“贈り物”
サーラの入口に戻ると、番人の老人が扉の陰から出てきた。手には、小さな布包み。
「“へ”を残す帆に、もうひとつだけ糸を」
布包みの中には、薄い青磁色の糸が一綛。差すと帆は“青磁の段丘”の風をほんの少し、先取りできるという。
「ありがとうございます」
あーさんが受け取り、掌の水の上で糸を転がす。青磁の色は水の上でさらに青く、深くなった。ミラの指に渡せば、帆は“そこへ行く前に”少しだけ“そこの声”を知るだろう。
塔へ――最後の準備を
塔に戻る。ミラが青磁の糸を見て目を輝かせ、「これで『へ』の縫い口が“海風”を噛みます」と言った。キリアは熱瓶の数の最終確認に入る。レオールは数を旅の節に合わせる。エリダとイオは鐘の息を“出立の朝用”に調整。カムは棹の唄を舟棹に移し、ラヤは商隊の荷を“削る”。よっしーは相棒の荷室を空にし、FZRの鈴皮を最終巻き。エレオノーラは矢数を旅用にし、クリフさんは腕の革を柔らかく馴らす。ニーヤは舳鈴の布を新しく巻き、ブラックは薄目でこちらを見た。あーさんは帆の『へ』に青磁の糸を一刺し、一刺し、縫い足していく。俺は旗の裾の“E”を撫で、梁の札に手を伸ばした。セラ、ルゥ、ダン、ウラ、〈家〉、〈鐘〉、〈イオ〉、〈カイ〉――名は、戻る場所。
「出る前夜」
ミラが袖を整えた。「祭ほどではない、小さな“支度”を」
塔の土間に薄い灯がともる。粉の匂い。熱の気配。掌の水。針の音。鈴の擦れ。棹の唄。――家の音。
低い乾杯、遠い地名
「家へ」
あーさんが小さな盃に掌の水を分け、皆に配る。よっしーは相棒の屋根を軽く叩き、FZRのミラーを布で拭う。ラヤは地図歌を半節だけ歌い、キリアは熱の瓶に布を巻く。エレオノーラとクリフさんは目で合図し、ミラは袖の裏に“出立印”を縫う。レオールは数を止め、エリダとイオは舌に額を当て、カムは棹を胸に抱く。ニーヤは舳鈴を撫で、ブラックはこくりと頷いた。子どもたちは稽古橋の端から見つめ、塔の少女は粉袋を抱いて笑った。
「家へ――そして、“へ”へ」
俺が言うと、みんなが笑った。縫い残した一字が、今夜はやけに頼もしい。青磁の段丘。潮壁。澪標の森。珊瑚の眼。遠い地名が、胸の中で“具体”を持ち始める。低い橋の上でなら、遠くへ行ける。
終章の手前――誰かの声
夜更け。旗の裾がふっと軽くなり、小さな古片が落ちた。《E・S:十三頁》――に見えたが、行はただ一つ。
“名を呼ぶとき、ひと拍、遅らせよ。”
誰の名を――問う間もなく、塔の陰で“乾いた笑い”。赤い裾の笑いではない。もっと古い、番号の乾き。俺は旗を肩にかけ直し、よっしーがFZRのロープを足に巻く。エレオノーラとクリフさんが同時に振り向き、キリアは瓶を握り、ミラは袖の針を指に挟んだ。あーさんの掌の水が、灯りをひとつだけ揺らす。
「――呼ぶな」
レオールの低い声。名を呼べば、番号に変わる。名を呼ばなければ、歌のまま。乾いた笑いは、すぐに消えた。古片は、帆の『へ』の裏にミラの手で縫い付けられる。
「出る前に、戻る」
よっしーがもう一度だけ言い、俺は大きく頷いた。あーさんが掌の水で僕の胸に小さな円を描き、「戻る拍」とそっと囁いた。
明朝、未明。
右の灯。
門の皿。
青磁の糸。
『へ』。
家は低く、遠くへ出る。
――
(つづく/次話:出立直前の“最終点検”と小さな別れ、未明の門出・サーラ通過の第一歩/その次:潮壁越え~青磁の段丘へ)




