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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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第35話 低い橋の、その先




(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)


朝の鐘は、今日も鳴らさずに胸の骨を洗った。梁の札は七つ――セラ、ルゥ、ダン、ウラ、〈家〉、〈鐘〉、そして昨夜縫い足した〈イオ〉。名が梁に増えるたびに、塔の床は少し広くなった気がする。戻る場所が増えると、出かけたい気持ちも増える。低い橋は、いつか遠くの地名を連れてくる。


「ほんじゃ、工程メニュー読み上げるで!」


よっしーが相棒のボンネットに腰をかけ、空を指差した。平成の朝礼は、今日も風通しがいい。


「一番:糸庭と耳舟棟を結ぶ“稽古橋”の常設化。二番:祈堂西の“棄て井戸”に隠された黒い舌の処理。三番:新顔の商隊の受け入れ――『藍玻璃沿岸のカディス』から来たらしい。四番:風脈走りの夜間拡張――灯台南の“潮壁しおかべ”の手前まで。五番:新情報の整理――『潮壁の向こうに“青磁の段丘テラス”あり』の真偽確認や」


「商隊……」


エレオノーラがわずかに目を細める。「外の道を知る口は必要だ。矢よりも」


「ほんの少し緊張しますわ」


あーさんが掌に水を受け、その面に朝の空を映した。「わたくしの時代で申せば“海の向こうからの舶来品”に触れるようなもの……いえ、ここでは言葉コトバこそが舶来品でございましょうか」


ニーヤは帽子を目深にして尻尾を立て、「舶来の煮干しは旨いニャ」と真顔で言い、セラがくすくす笑った。キリアは炉の前で瓶の栓を確かめ、「潮壁しおかべまで行くなら、熱の“皮”は薄手で足りる」と短く言った。レオールは白外套の肩を少しだけ解き、「段の耳は背に回す準備ができている」と淡々と付け足した。ミラは袖の針を一度“鳴らさずに鳴らし”、記録札の束を胸に抱えた。


「ユウキ、一本目頼むで」


よっしーが顎をあげる。俺は旗の裾の“E”を指で押さえ、鈴の結びを確かめた。鳴らない鈴は今日も軽く、冷たい。


稽古橋の常設化


稽古橋――昨日まで、子どもたち(と新人)に“戻る拍”を覚えてもらうために仮設で渡してきた鈴橋の簡易版だ。糸庭から耳舟棟へ、塔の脇を通って細く繋ぐ。落ちないように短く、忘れないように響かせない。今日はそれを常設にする。


「柱の“節”は三つ。低く、浅く、短く」


カムが唄う棹を脇に抱え、木杭の節を指で数える。キリアが熱の瓶の口をほんの少し開け、木口に“皮”をつくる。あーさんが掌の水で角を丸め、ニーヤが布越しに鈴を擦る。俺は旗で風の筋を撚り、〈囁き手〉でこの場所を“家寄り”に思い出させる。エレオノーラは距離の“返り”を、クリフさんは足場の“戻り”を、目で読む。


「“戻る拍”は、踏む前に置く」


セラに声をかけると、彼女は真剣な顔でこくりと頷き、小さな足で鈴の無い鈴橋を渡った。足音は鳴らない。振り返る目だけが、確かに鳴っている。


「できた」


セラが胸を張る。俺は親指を立て、よっしーが「おう、ええやないか」と笑い、ミラが札に小さな印を付けた。


「この稽古橋は、いずれ塔を離れる時にも“置き土産”になる」


俺が言うと、皆の視線が少しだけ遠くなる。出立のことばかりは、冗談にできない。レオールが短く頷き、ミラは袖を握り直した。あーさんは掌の水に朝の光をひとしずく入れ、「いつでも戻れますように」と小さく祈る。――戻る場所を増やすほど、出かけられる。昨日の頁の言葉が、喉の奥でやわらかく繰り返された。


棄て井戸の黒い舌


祈堂の西側にある“棄て井戸”。段の古い工事で掘りかけて捨てられ、今は乾いた喉のように口を開ける。第三の糸が、ここに“黒い舌”を沈めたらしい。鳴りを封じ、返事の道を塞ぐ舌。外すには、味を思い出させればいい――昨夜の頁はそう書いていた。


「味、ですか」


あーさんが首を傾げる。「舌に、でございますね」


「そらもう、味見やろ」


よっしーが言うと、セラとルゥとダンが「えーっ」と同時に顔をしかめ、ニーヤは「金属はうまくないニャ」と正直な顔をする。キリアは瓶をひと振りし、「甘・鹹・苦・酸――“四つの皮”を薄く、舌に塗る」と短く決めた。


井戸の縁に身を伏せる。冷たい影が立ち上がる。俺は旗の裾で〈囁き手〉を広げ、風の筋を“眠らせる”。あーさんが掌の水を井戸の壁にそっと置き、キリアが薄い“甘皮”を舌に送る。ニーヤが鈴を布越しに二度擦り、エレオノーラとクリフさんが周囲の“返り”を見張る。ミラは袖の針を握り、レオールは数を止めた。


「――上がってきます」


あーさんの声。底から、黒い金属の息。黒の舌は、最初、嫌がる子どものように唇をかたく閉じていたが、甘皮が触れると、わずかに戸惑い、次の“しお”で思い出し、苦皮で顔をしかめ、酸でやっと自分の形を思い出した。エリダに学んだ要領で、カムが棹の背で“背渡り”をし、舌の重心を変える。俺は旗で“戻る拍”を井戸の口に用意し、よっしーがロープを手繰る。――黒い舌が、喉から抜けた。


「これは……祈堂の“口”を塞ぐ型の舌やな」


レオールが覆い布の上から形を読み取り、ミラが札に図を写す。「預かる。返す先は“歌”」


「捨てるんやなく、使い方を変える。閉じる舌は、守る舌にもなる」


俺の言葉に、あーさんが柔らかく頷いた。「門は、開くだけではございませぬもの」


黒い舌を麻袋に包んで塔へ運ぶ。舌に“味”を覚えさせたことで、ただの封印具ではなく、門の“れい”を守る道具に変えられる――エリダとイオなら、やってくれる。


藍玻璃らんがらすの商隊


昼近く。砂の彼方から、鈴の鳴らない鈴の拍が近づいた。旗を広げ、鈴橋に“戻る拍”を置く。砂煙は低く、荷車は軸が太い。先頭の旗に、青いガラス片が縫い付けてあった。日差しにちらちらと光る。――藍玻璃沿岸の商人の目印。


「ようこそ、『家』へ」


ミラが代表して挨拶する。白外套と司書長が並んで頭を下げる光景は、段の常では珍しい。けれど、今は“家寄り”だ。商隊の頭領は痩身の女。額に砂の刺青。瞳は海の色の端を思い出す薄群青。背には小さな短弓。名乗りは短く、「ラヤ」と言った。


「潮壁の手前で風が変わった。灯台の輪が、こちらに拍を寄越すのを感じた」


ラヤの声は低く、遠くの石に跳ね返って帰ってくる。キリアが瓶を一つ渡すと、彼女は匂いで熱の質を見分けたらしく、「礼」と簡潔に頭を下げた。荷の中身は、塩、干した魚、藍玻璃の細片、薄い綿、そして――“地図歌ちずうた”。


「地図“歌”?」


俺の問いに、ラヤは頷いて荷の一番上から薄い巻布を取り出した。布には線も記号もない。ただ、刺繍で音程が記されている。言葉ではなく、音で道を覚える布。ミラが目を輝かせ、あーさんが掌の水で布を湿らせて、そっと一節歌った。


「……潮壁の“門”は、潮が引くときにしか見えぬ……」


音の跳ね返り方が、道の曲がり方を教える。エレオノーラの目が興味深そうに細まり、よっしーが「ええな、それ」と頷く。ラヤは布を俺の方へ押しやり、「これは“青磁の段丘テラス”へ至る歌」と言った。


「青磁の段丘?」


「潮壁の向こう、海風が削った青い石のきざはしが幾重にもなっている土地。そこに“名を刻まぬいしぶみ”がある。風を呼ぶと云われる碑。……イシュタムの名を傍に置く者は、みな、そこで風を一度学ぶ」


イシュタム――胸の奥で遠い声が、微かに笑う。俺の指先の指輪が、内側から軽く脈打った。


「行きたい、ですね」


あーさんが囁く。掌の水が喜びで細かく震えた。「ですが、今すぐではなく……」


「二つか、三つの橋を置いてから」


俺は頷く。ラヤは満足げに目を細め、「潮壁の前に“砂のサーラ”がある。そこなら荷を補い、案内人も手に入る」と付け足した。地名が、ひとつ、胸に書き込まれる。


風脈走り――潮壁の手前まで


夜。ラヤの地図歌を半分まで覚え、灯台の南へ“風脈走り”を伸ばす。よっしーがFZRを静かに起こし、鈴皮を巻き直す。「今日は“潮の息”を拾う仕様や」――エンジンの振動をさらに細い拍子に変換する。俺は旗の裾を肩に掛け、暗い拍を指先で探る。あーさんが掌の水で“ためらい”を影の縁に置き、ニーヤが鈴を布越しに擦る。エレオノーラとクリフさんは遠い影の“返り”を読み、キリアは熱の瓶を二本、腰に下げた。ミラとレオールは塔の外縁で“背中の壁”を作り、エリダとイオは梁の上から鐘の“息”を数える。ラヤの商人たちは糸庭の端で静かに歌い、地図布の一節を空に返す。


潮壁は、砂海のはるか向こうに黒い刃のように立っていた。夜でもわかる。風の向きが、そこで変わる。壁――と呼ぶには自然すぎる“段差”。潮の時代に削られ、今は風が磨く。


「潮の門は“引き潮”にだけ開く」


ラヤの歌の一節を口の中で転がす。よっしーがFZRの体重を微妙に操り、鈴皮の拍で風の“返り”を刻む。旗は拍を受け、暗い道を“家寄り”に撫でる。あーさんの掌の水が角を丸め、ニーヤの鈴が鳴らずに二度擦れる。エレオノーラが星の位置を目に焼き、クリフさんが踵で砂の重さを受け、キリアは熱を薄く“皮”に伸ばす。


「……ここが“港”の手前やな」


よっしーがFZRを止め、砂に短い円を描く。乾いた地に、塩の匂い。目には見えないが、舌の奥が知っている。あーさんが掌の水を砂に落とすと、音が少し変わった。砂ではなく、砕けた貝の上を叩く音。――ここに、サーラがある。砂の港。潮の門が開くのを待つ町。低い橋の先に置かれるべき、次の“戻る場所”。


「決めよう」


俺は言った。ラヤが静かに頷く。「二つ橋を置き、三つ目で出る」


「賛成だ」


レオールが即答し、ミラは袖に針を刺して印を付けた。キリアは瓶をひとつ振り、「熱の補給路をもう一本、左から」と付け足す。エレオノーラは「見張りの線を二重にする」と短く言い、クリフさんは「弓の“返り”に鈴を」と続けた。よっしーはFZRの鈴皮を撫で、「二輪でも四輪でも行ける道を残す」と笑った。あーさんは「歌を二節、覚えておきます」と掌の水に星を沈め、ニーヤは「猫も港が好きニャ」と尻尾を振った。セラ、ルゥ、ダンは眠い目をこすりながら「出発の歌、練習する」と真剣な顔をした。エリダとイオは梁の上から鐘の“息”を増やす方法を囁き合う。カムは棹の握りを一度だけ撫で、「舟の背も、唄える」とぽつりと言った。


《E・S:十一頁》――舟


戻る道すがら、旗の裾が軽くなり、頁が落ちた。《E・S:十一頁》。今回はめずらしく、行が長かった。


“潮壁を越えるには、橋の名を舟と呼ぶ。

舟は、家の背から生まれる。

背に棹、腹に歌、ともに鈴。

舟の帆は、紙。帆柱は、名。

名を帆に書くとき、

一字、残すこと。

残した一字に、戻る拍が宿る。”


「舟……」


あーさんが頁を掌に乗せ、目を細めた。「紙の帆……名の帆柱……」


「棹は、任せろ」


カムが唄う棹を抱き直す。「舟棹ふなざおに“背”を替えるのは、わしの悦びや」


「帆は、塔の少女に頼む」


俺が言うと、少女は粉袋を抱いたまま「はい」と答えた。紙の帆に名を縫う――残す一字に戻る拍。ミラは袖の針を見つめ、「一字、残す……」と呟く。「では、舟の名は――“いえ”の『へ』を残しましょう」


「“いえ”の『へ』?」


よっしーが笑った。「“へ”だけ残したら、帰り道の矢印みたいや」


「ええやん」


エレオノーラの口元がわずかに緩む。キリアも「矢は、戻る」と短く同意した。レオールは珍しくくすっと笑い、クリフさんは「矢文やぶみ」と一言。ニーヤは「“へ”は猫の口音にも似ているニャ」と真剣に分析し、あーさんは掌の水に『へ』を描いて、少し照れた。


商いのおりの夜


ラヤの商隊は塔の中庭で“商いの座”を開いた。物々交換。塩と粉、藍玻璃と針、干魚と熱瓶。よっしーはFZRの鈴皮の“薄一巻き”をラヤに渡し、代わりに地図歌の補遺を受け取る。エレオノーラは矢羽根の材料を、クリフさんは硬い革の“腕”を、キリアは瓶用の薄い金属蓋を、ミラは布用の微細な針を手に入れた。レオールは珍しく何も取らず、石の上で数の歌を子どもに教えた。ラヤは塔の少女の作る薄い“甘餅”に目を細め、セラは彼女に影芝居を見せた。ニーヤは干魚にぱしりと手を伸ばして怒られ、ブラックが肩で小さく鳴いた。あーさんは掌の水で小さな“お椀”を作って、子どもたちに水を分けた。


「潮壁の向こうは、道の言い方も変わる」


ラヤが俺に静かに忠告する。「“段”は少なく、“家”は多い。だが“家”同士ののりは時に厳しい。低い橋の礼を忘れない者と行け」


「ありがとう」


俺は頭を下げ、旗の裾で頁を一枚、ラヤの足元に“わざと落とす”。《E・S:古片》――昔の歌の切れ端を、こちらからも渡す。彼女の瞳が少し柔らかくなり、「また、風で会おう」と言った。


子どもたちの稽古と、あーさんの歌


翌朝。出立の準備は“二、三話先”だとしても、稽古は今日からだ。子どもたちは稽古橋を渡り、戻る拍を数え、旗の端を触り、掌の水を一滴受ける。あーさんが小さな“返し歌”を教える。明治の調べに、塔の空気がゆっくりとやわらぐ。


「あーさん、歌、もう一度」


セラの頼みに、あーさんは少し頬を染めて頷いた。


「――♪ ゆきのふる よるのしずけさ……」


明治の発音は、砂の空にもよく合う。歌は“名の帆柱”を立てる稽古にもなる。俺は旗を肩に掛けたまま、その旋律に合わせて〈囁き手〉を薄く編んだ。よっしーは相棒のボンネットを開けたままリズムを取り、キリアは瓶の口をわずかに開け閉めして音を合わせる。エレオノーラは矢羽根の音で和音を乗せ、クリフさんは短剣を鞘に収める“音”を一度だけ重ねた。ニーヤは帽子を深くして尻尾で拍を刻み、ブラックは小さく囀った。ミラは袖に針を刺して印を付け、レオールは数を止めて聞いた。――歌は橋。低い橋。落ちないために必要なもの。


風脈走りの追試――FZRと“潮の息”


午後。潮壁までの道を“一人で”なぞる練習を、よっしーが申し出た。FZRの鈴皮は昨日の夜よりさらに薄い巻き。俺は後ろに乗らず、旗で遠くから拍を合わせる稽古。エレオノーラとクリフさんは両側から“返り”を読む。キリアは熱を“皮”だけに、あーさんは掌の水を風に混ぜ、ニーヤは鈴を二度擦る。


「行ってくるで」


FZRが息だけで走る。砂の上に細い音もない線。よっしーは体重移動だけで風を曲げ、“戻る拍”を先に置いてから角に入る。見事だ。昭和の体は、低い橋を知っている。――そのとき、砂の上に奇妙な“からっ風”の皺が走った。第三の糸の“乾きかわきす”。誰かが糸庭の端から一筋、こちらへ向けて撒いた。


「よっしー、戻る!」


俺が叫ぶより先に、彼はアクセルを“戻した”。戻る拍。FZRは滑らず、砂に“座る”。からっ風の皺は彼の前でほどけ、あーさんの掌の水が角に落ち、ニーヤの鈴が擦れる。エレオノーラの目が皺の“出どころ”を射抜き、クリフさんは矢を番えた。矢は放たれない。矢は、相手に“矢面やおもて”を思い出させるためだけに上がる。


影から一人、黒外套が現れた。いつもの布教者……ではない。裾に小さな“赤”。第三の糸と赤の裾の混じり者。彼は笑わない唇を少し開いて、「乾きを試した」と簡単に言った。


「試す場所を間違えたな」


よっしーがヘルメットを脱ぎ、汗を拭った。昭和の笑顔は、怒りを飲み込む術に長けている。


「乾きは、橋の“反対”。我らは橋を選ぶ」


レオールが白外套の肩を後ろに引いて言う。男は小さく肩をすくめ、「見ていた」とだけ残して引いた。見ている者が増えていく。見ているうちは、まだ、落ちない。


出立の段取り(だんどり)を紙に


夕方。塔の土間で、出立の段取りを紙に落とす。塔の少女が一枚ずつ紙を張り、ミラが針で“出立歌でだちうた”の項目を縫う。よっしーが大書する。


一、鈴橋:糸庭⇔耳舟棟(常設)/祈堂⇔灯台(仮設延長)

二、舌:黒い舌改造(門の禮)/裏口の舌(記録庫用)

三、舟:帆(紙)、帆柱(名)、カム舳鈴ニーヤ腹歌あーさん

四、道:風脈走り(FZR)/砂積ハチロク

五、見張:エレオノーラ&クリフ(交代)

六、火:キリア(薄皮)

七、数:レオール(道中の数歌)

八、記:ミラ(記録札)

九、鐘:エリダ&イオ(“鳴らさず響き”の継続)

十、留守:塔の少女+白外套二名(ミラ指名)/“稽古橋”管理


「“留守”の字が、いちばん重い」


俺が言うと、ミラが穏やかに頷いた。「戻る場所を守る重さです」


「二話先、あるいは三話先に“サーラへ出立”。潮の門が開く頃合いに合わせる」


レオールが砂時計を逆さにする。イオが布日記を膝に、鐘の“息”の数を書きつける。エリダが舌に額を当て、「戻ってこい」と短く言う。カムは棹を抱いて「舟唄、仕込む」と笑い、塔の少女は「帆、夜までに一枚」と胸を叩いた。セラ、ルゥ、ダンは出立歌の練習を始め、ラヤは商隊の荷を軽く整え直す。


夜――帆に名を


夜。塔の屋根の上で、紙の帆に名を縫う儀。ミラが針を持ち、あーさんが掌の水で紙を湿らせ、塔の少女が糸を引き、俺は旗で“戻る拍”を帆の端に置く。よっしーは相棒のライトを一瞬だけ反射させ、キリアは瓶の熱で糸を柔らかくする。エレオノーラとクリフさんは屋根の縁で見張り、ニーヤは舳の鈴に布を巻く。エリダとイオは梁の上から鐘の息をひと息分、貸してくれる。


「舟の名は『いえ』。ただし、『へ』を残す」


ミラが言い、針を進める。「い――え――(へ)」――最後の一字は、あえて縫い切らない。その“残り”が、帆に戻る拍を灯す。あーさんが掌の水でその部分を撫でると、水は沁みず、ただ光を映した。


「……美しい」


あーさんが小さく息を漏らす。明治の娘の目に、砂の夜の星がふたつ写った。


「舳の鈴は“鳴らさず擦る”」


ニーヤが布越しの鈴を軽く撫でる。帆の縁がわずかに震え、鐘の息と共鳴する。カムは棹の背を帆柱に当て、「舟棹ふなざお、歌う」とぽつり。


「出立前の最終稽古、明日」


レオールが数を締め、ミラが針を布に刺したまま目を閉じる。よっしーは相棒の影に寄りかかり、キリアは瓶を箱に戻し、エレオノーラとクリフさんは交代の合図をし、エリダとイオは舌に額を当て、ラヤは地図歌を巻き、塔の少女は糸を枕に眠った。セラ、ルゥ、ダンは小さな声で出立歌を口ずさみ、ニーヤは帽子を深くしてブラックを包んだ。あーさんは掌の水を胸に当て、俺は旗を肩にかけ直した。


砂の夜話よばなし――遠い地名


出立が“二、三話先”と決まり、夜の土間に“地名”の話が集まった。ラヤが語る。「サーラの先に“ヴァレン潮道”。その果てに“青磁の段丘テラス”。さらに東に“澪標みおつくしの森”。北に“白骨岬”。南に“珊瑚の眼”。」――一つ一つが、まだ“音”のままの地図だ。


「青磁の段丘で、イシュタムの碑に会う」


俺が言うと、あーさんが掌をぎゅっと握った。「はい。ユウキさんの“魂”のこと、もう少し……」


「怖い?」


「ええ。怖うございます。でも……胸の内に、ずっと“帰りたい音”が鳴っております。あの碑が、その音を、わたくしたちの“歌”にしてくれる気がいたします」


「歌にする」


俺は旗を握り、「戻る拍のある歌に」と付け足した。


翌朝――最終稽古と、小さな事件


最終稽古の朝、塔の外縁で小さな事件が起きた。稽古橋の“戻る拍”をいたずらしようとした指が一本。細く、速い。“箱の民”にされかけて逃げてきた少年――その目はまだ“番号”の匂いがした。


「誰や?」


よっしーが柔らかく声をかける。少年は逃げない。ただ、指先に“戻る拍”の感触を覚えようとしていただけだ。ミラが袖の針を見せ、「ここは“残す”ところ」と教える。あーさんが掌の水をその指先にひとしずく与え、「あなたの名を」と優しく問う。少年は小さな声で、「カイ」と言った。海の“音”の名だ。


「カイ、出立の後も塔に残るか?」


レオールが問うと、カイは首を振った。「海、見たい。壁の向こう」


「ほな、稽古や」


よっしーが笑い、カイの肩を軽く叩いた。セラが手を取り、稽古橋へ連れて行く。俺は旗で“戻る拍”を橋の端に置き、カイの踵がそれを踏むのを見守った。――大丈夫だ。彼も“歌う背”になる。


そして、旗は少しだけ高く


昼。塔の梁の札に、もうひとつ名が縫われた――〈カイ〉。名は軽い。軽いから、落ちない。旗の裾は、今日も鳴らない鈴を隠したまま、肩で小さく笑った。


「さあ、段取りも帆も舳鈴も、だいぶ揃ってきた」


よっしーが肩を回す。「つぎの次、あるいはその次には、サーラへ“出る”」


「はい」


あーさんが掌の水を胸に置き、目を細める。エレオノーラは遠くの砂の色を確かめ、クリフさんは弦の張りを調整し、キリアは瓶の数を数え、ミラは札の束を整え、レオールは数え歌を口の中で転がした。エリダとイオは鐘の息を“旅モード”に合わせる相談をし、カムは棹の背を舟棹に削り、ラヤは荷の軽量化を助言し、塔の少女は帆の端に『へ』を残した。セラ、ルゥ、ダンは出立歌を一日に三度歌い、ニーヤは舳鈴の布を取り替えて撫で、ブラックは小さく頷いた。


旗は少しだけ高く。

でも、橋はいつも低く。

落ちないために。

帰ってくるために。


終わりの手前――風の手紙


夕刻。灯台の輪が金に染まる時、旗の裾から小さな古片が落ちた。《E・S:十二頁の欠片》。そこに、二行だけ。


“サーラの門で、右の灯を選ぶこと。

左の灯は、名を薄くする。”


右か、左か。――地図歌にも、その節がある。ラヤは頷き、「サーラはいくつも灯を立てて旅人を惑わす。右は“家”、左は“段”だ」と短く教えた。レオールが少しだけ苦笑し、「そこでも背に回す」と呟く。ミラは袖の裏にその欠片を縫い付けた。


「覚えた」


俺は旗を握り、短く言う。あーさんが微笑み、掌の水が一滴、赤く光を拾った。――出立はもうすぐ。二つの橋を置き、三つ目で出る。低い橋は、遠い地名を連れてくる。潮壁の向こう、“青磁の段丘”。名を帆柱に、歌を腹に、棹を背に、鈴を舳に。残す一字に、戻る拍。


家は、出る準備を始める。

そして、戻る準備も同じだけ。


――


(つづく/次話では“舟”の試作と“砂の港サーラ”への準備を進め、2~3話先で出立・地域移動します)

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