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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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第33話 鍵の重さ、歌の軽さ




(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)


夜明け。旗の裾に縫い付けた小さな“E”の布片が、朝一番の風にきゅっと鳴った気がした。梁の札は五つ――セラ、ルゥ、ダン、ウラ、そして〈家〉。名は増えるほど軽くなる。重さは橋脚、軽さは歌。どちらも、落ちないために必要だ。


「本日の工程、開会宣言や!」


よっしーの声で中庭の砂がほろりと緩む。平成の声量は砂にも効く。


「一番:記録庫の“はじめの三十”を救出。二番:灯台から届き始めた風の筋に“鈴橋”を渡す。三番:耳舟棟の増改築――避難民(箱の民から戻った人)を仮置きできるように。四番:物資搬入。相棒が三往復まで走る。」


「救出班は?」とエレオノーラ。


「ユウキ、あーさん、ニーヤ、クリフ、キリア。そして白外套のレオール殿と司書長ミラ殿。わしら“家”と“段”の共同作業や。……赤の裾は来させへん。白だけ。」


「了解です」


あーさんが掌の水を受け、軽く鳴らした。音は出ないが、拍子は確かだ。ニーヤは帽子にブラックを乗せ、「あるじの鈴は布の下にあるニャ」と得意げに尻尾を振る。クリフさんは矢筒の口を締め、キリアは炉から持参の薄い熱瓶を二本、腰に括り付けた。


旗の裾に縫い付けられた鍵束の鈴は、まだ鳴らない。鳴らさないように縫い止めてある。鳴らない鈴は、重い。けれど、帰り道に鳴る鈴は、軽い。


記録庫の“のど”


記録庫の入口は、昨日と同じ冷たい石の喉。今日は風が薄く通っている。灯台の輪が回り出して、地下の空気圧が少し変わったのだ。空気が一つ抜けるだけで、耳の痛みは減る。


「鍵は三つ。外扉、記名棚、搬出路」


レオールが白外套の袖から古びた図面を見せた。紙ではなく薄い革に焼いた線。記録は燃え、革は残る。


「外扉の鍵は、段の音。記名棚は名の音。搬出路は、歌の音」


「つまり、鍵穴は三種類の耳を持っている、と」


俺が言うと、ミラがうなずいた。「外扉は私が開ける。記名棚の鍵は、ユウキたち“家”にお願いしたい。搬出路は……唄う棹の『背』で歌を返す。カムの棹が要る」


「棹、持ってきた」


入口の陰から、カムがぬっと現れた。耳舟棟を任せてきたはずなのに、顔を見れば分かる、“仕事の匂い”を追ってきた職人だ。


「棹は預け物やろ。返す先は歌。記録庫も歌を少しは覚えとる」


「頼もしい」


キリアが目を細める。炉の熱と棹の歌は、よく馴染む。


外扉の鍵穴は、石の柱に口を開けている。レオールが白外套の胸の飾りを一度鳴らし、低い声で段の文句を一節だけ唱えた。祈りではない。法文を刻む拍。石の耳がそれを聞き、錠は静かに“退いた”。


「行こう」


階段は浅い。けれど、長い。拍子を狂わせないまま、俺たちは“のど”を降りた。中は昨日と同じ――札が壁一面に差し込まれている。番号札の列。名が削がれた人々の影。空気は新しい。けれど、冷たい。灯台の風は、まだここまでは届かない。


記名棚きめいだな


奥の間に、三本の棚が並んでいた。圧倒的に太い柱に見えるが、近づけば、無数の引きひきふだの集合体。一本一本が“名前のスリット”になっている。ここが“記名棚”。番号ではなく、名で呼び出すための棚。“箱の民”にされた者のごく一部だけが、ここに移されている。段の中枢でも“例外”として扱われる場所だ。


「段主代理が譲った“はじめの三十”は、この列から十、この列から十、この列から十」


ミラの指示が静かに飛ぶ。レオールが外で“段の耳”を抑え、俺たちは棚の前に並んだ。鍵穴は三つ。それぞれの列の中央下、胸の高さ、そして上段の端――「上中下」で合わせるのではない。拍で合わせるのだ。


鍵束から一本を外す。旗の裾の縫い目がわずかにほどけた感触。鍵の柄に細い鈴。鳴らない鈴に、あーさんが掌の水をひとしずく、触れさせた。鈴は鳴らないまま、湿り気だけを覚える。


「鍵は“鳴らないまま”歌を持つのですね」


あーさんの呟きが、綴り石に吸い込まれる。ニーヤが鈴を布越しに撫で、キリアが熱の瓶の栓を少しだけ回す。クリフさんは足の重さを棚の前へ落とし、エレオノーラは矢羽根で“間”をなぞる。カムが唄う棹の背を軽く撫で、俺は鍵を下段の鍵穴に当てた。


息を合わせて、半拍。「カチ」ではなく、「ほどり」。錠は“退いた”。


中段、上段――同じ。拍子を半拍ずらしながら、三つの耳に三つの鍵を渡す。


棚はとつぜん“気が変わったように”軽くなった。引き札の列が薄く浮かび上がり、三十の溝に、淡い光が通る。番号ではない。名の光。――呼べる。


「呼び習いを始めましょう」


あーさんが一歩前へ進み、掌の水で唇を湿らせた。「わたくしが“母語”で呼びます。ユウキさんは“綴り”で。ニーヤは風で“囲い”を。クリフ殿とエレオノーラ殿は、扉の“間”を守って」


「了解」


俺は旗の裾を持ち直し、布の目をひとつ開いた。棚の溝に刻まれた線が、ほんの少しだけうごめく。そこに、名を載せる。


「――“ハル”。」


あーさんの声は柔らかく、しかし芯がある。明治の娘の発音は、名前に礼を尽くす。


「――ハル」


俺は布でその形をなぞる。ニーヤが風で溝の“返り”を掃き、キリアが熱を“皮”にして伝える。引き札が、ひゅ、と軽く飛び出した。薄い木札。そこに、金色の糸で読めない文字が刺してある。けれど、“ハル”と読める。名は文字に宿るけれど、文字だけではない。彼の背後に、影がゆっくりと立ち上がる。干からびた喉に水が通るように、名が骨に戻る。


「……ハル、です」


第一声。あーさんが微笑み、「はい」と受ける。彼は膝から崩れ落ち、クリフさんが抱えた。エレオノーラは入口へ目を配り、俺は次の溝へ向き直る。


「――“ミオ”。」


「――ミオ」


二人目。三人目。呼ぶたびに、溝の光が細くなる。棚の“息”が短くなる。三十は、遠い。呼ぶ名が増えるほど、呼ぶ者の息も短くなる。半拍で行き、半拍で戻る。戻る拍を忘れるな。――《六頁》が旗の裾で静かに重くなる。


十を呼び終えたところで、ミラが指で空を切った。「一拍、休め」


俺は旗を下げ、あーさんが掌の水を唇に戻す。ニーヤは帽子の上のブラックを持ち上げ、彼に喉を鳴らさせる。キリアは熱の瓶を布で包み、一度“眠らせる”。カムは棹を抱えて目を閉じる。――半拍を重ね続けるには、一拍の“空白”が必要だ。


「白外套、外で“耳”は?」


ミラが小声で問う。レオールが短く答えた。「静かだ。段主代理が“耳を背に回した”。……ただ、黒外套が礼拝堂の影を動かした。第三の糸の布教者が、“見ている”」


「見てるだけで済むなら天使や」


よっしーがいないのに、よっしーの口調が頭の中で笑った。俺は自分の口角が上がるのを抑え、次の名を呼ぶために旗を持ち直す。


三十の名、三十の息


名を呼ぶのは、想像していたよりもずっと“体”だった。舌と喉だけでなく、掌と膝と踵と背中――全部で呼ぶ。あーさんの「母語」は同じ日本語でも、俺の「令和」の日本語とはリズムが違う。彼女が先、俺が後、二人の拍の“間”をニーヤとキリアが風と熱で埋め、カムの棹の背が“息の通り道”を撫でる。クリフさんとエレオノーラは、扉の“間”に立ったまま、呼吸で俺たちと拍を合わせ続ける。レオールの白外套の肩は、一度も揺れない。ミラは一本の針で袖の破れ目を繕いながら、俺たちの声の高さをうっすらと真似た。段の人間が、家の拍を覚えようとしている。――それが、嬉しかった。


二十六まで呼んだとき、棚の奥で“きしみ”が起きかけた。名の道が渋くなる前兆。段のことわりが、反射で戻ってくる。俺は旗の裾で素早く“躊躇”を置き、あーさんが掌の水を薄く広げ、ニーヤが鈴を布越しに二度擦って“返り”をいなす。キリアの熱が“皮”を厚くし、カムの棹が背で“撫で癖”をつける。……きしみは、起きなかった。


三十。最後の一人の名が、空気に溶ける。札が引き出され、影が立ち、膝が崩れ、腕が支え、息が戻る。――終わった。


「搬出路」


ミラの声。カムが棹を持って前に出る。搬出路の鍵穴は、床の上。ここは“歌の耳”。鍵束では開かない。背で歌を返す。カムは唄う棹の握りに紅の糸をひと巻きし、棹の背を鍵穴にそっと当てた。キリアが熱の瓶を棹の反対側に当て、あーさんが掌の水を鍵穴の縁に置く。ニーヤが風を“押し込む”のではなく、“撫でる”。俺は旗の裾を床に広げ、〈囁き手〉でここが“家寄り”だということを床に思い出させる。――床が息を吸った。搬出路が開く。


「行け」


レオールが先に立ち、白外套が三十の人影の前で“列”ではなく“輪”をつくった。段の人間が輪をつくる。珍しい。嬉しい。クリフさんが外の空気を確かめ、エレオノーラが影の揺れで“見張り”の位置を読む。俺は鍵束の鈴に指で触れ、鳴らない鈴の冷たさが、少し和らいだ気がした。


礼拝堂の影――黒の沈黙


地上に出る。礼拝堂の影が伸びている。第三の糸の布教者が、祭壇の石の前に立っていた。彼は掌を組み、目を伏せ、短く言った。


「三十」


「三十」


俺が繰り返すと、彼は顎を上げた。灯台の輪が遥か遠くで回っているのを、彼の黒い瞳も見ている。


「君たちは“橋”を架ける。私は“管理”を考える。……管理できない橋は、橋ではない」


「落とさないために架ける。落ちないために、低くする。低い橋は、管理されにくい」


「管理されにくいと、壊れやすい」


「壊れにくくするために、増やす」


よっしーの不在を埋めるみたいに、言葉が口から出た。布教者は、初めて目を細めた。


「増やすと、管理が難しい」


「うん。難しいけど、楽しい」


あーさんが袖をそっと引いた。俺は頷く。言い合いは遊びではない。けれど、遊び心は必要だ。遊び心のない橋は、渡るのが怖い。布教者は祭壇の石に手を置き、短く祈った。祈りは、誰のためのものでもない祈りだった。彼はそれをわずかに恥じるように指を引いて、「――見ている」とだけ言って去った。


耳舟棟の昼、相棒の坂


塔へ戻る。耳舟棟の前で、カムが棹を立てて迎えた。三十の“帰りびと”を砂舟に乗せ、相棒の後ろに連結する。よっしーはいつの間にか戻ってきていて、「第二便、第三便の段取りは済んだで」と笑って親指を立てた。平成元年の鉄は、砂の坂道を何度でも登る。


「ユウキ、次、鈴橋や」


よっしーが顎で灯台の方向を示す。「風の筋が出てきたんはええけど、筋同士が喧嘩する。鈴で“節”を揃えてやる必要がある」


「鈴橋は、何本?」


「とりあえず三本。祈堂へ、記録庫へ、耳舟棟へ」


「了解」


鈴橋――糸のような鈴を風の道に“挟み”、風が通るたびに鳴らない拍子を刻ませる。鳴らないからこそ、遠くの耳に“拍子”だけが届く。段の耳に聞こえにくく、家の耳には届きやすい。


あーさんが掌の水で鈴の穴を丸め、ニーヤが布で包む回数を数える。エレオノーラが鈴を掛ける木の枝の角度を見て、クリフさんが結び目に“戻り”の重さを足す。俺は旗で風の筋を撚り直し、〈囁き手〉で“鳴らない拍子”を鈴に覚えさせる。


一本、二本、三本――鈴橋は短い。短い橋は、落ちにくい。けれど、増やせば景色が変わる。灯台の風は、少し“歌いやすく”なる。


家の昼餉ひるげ、歌の味


耳舟棟の脇で、塔の少女が鍋を見ていた。スープは薄いが、香りは強い。香りは“家”の味。三十の“帰りびと”が一人ずつ椀を受け取り、熱いものに驚く舌で息を吹きかける。セラが小さな手で椀を持ち、目を細めて飲む。ルゥとダンが粉の袋のそばで歌の練習をし、キリアがその和音を炉の音に重ねる。ミラが白外套を脱いで袖をまくり、よっしーが相棒のボンネットを開けて風を通す。レオールは少し離れて立ち、目で数を数え、誰かの名を心の中で復唱している。段の人間も、名を数えることがあるのだ。


「うまい」


カムがぽつりと言う。棹を抱いたまま、小さな椀を両手で包む。


「歌が入っとる」


塔の少女が照れて笑い、「粉が良いからです」と答えた。粉は、橋の粉だ。紙を綴る粉。食べる粉。どちらも、家の腹を落ち着かせる。


夜――落ちてきた“頁”ではないもの


日が傾く。梁の札が赤くなる。旗の裾が、ふと重くなり、また軽くなった。落ちたものは紙ではなかった。細い糸。端に小さな結び――“九の結び”。エスがよく使う結び方だ。結びには糸目が七つ。七つ目だけ、ほどけやすい糸。そこに、砂を丸めた小さな“重し”。糸に刺繍で文字がある。短い。けれど、熱い。


“呼び上げる“鐘”が要る。

梁の上で鳴らさずに響く鐘。

鐘は“母柱”の呼吸に合わせて。

つくるのは――鐘師かねし

彼は今、北の採掘小屋。

外された舌を探している。”


「鐘……」


エレオノーラが顔を上げる。「弓の人間は鐘の音で“矢の返り”を知る」


「鐘のクラッパーが外されているのですか」


あーさんの瞳が揺れた。「それは、声を奪われたに等しゅうございます」


「鐘師って、誰なんや」


よっしーが腕を組む。白外套のレオールが、思案げに目を細めた。


「『エリダ』という職人がいる。北の採掘小屋に飛ばされた金工たちの一人。段は『鐘は祈堂の内側だけで足りる』と言って、灯台と梁の鐘を外した。舌も外した。……外した舌を隠したのは、第三の糸かもしれない」


「鐘を戻すのは、橋を一本、空に架けるのと同じや」


カムが棹を抱えたまま言った。「歌の上に鐘を重ねれば、祈りが遠くへ逃げられる」


「行こう」


俺は旗を握りしめる。鍵束の鈴が、縫い止めてあるのに、どこか“鳴りたがって”見えた。あーさんが掌の水を旗の端に一雫、置いた。ニーヤが尻尾を立てて帽子を深くかぶり、エレオノーラは弓を軽く、クリフさんは刃を短く、キリアは熱を薄く、よっしーは相棒のライトを一度だけ瞬かせた気がした。ミラは白外套を畳んで塔の少女に預け、レオールは腰の法文書を締め直した。


北の採掘小屋――響かない穴


夜走り。灯台の風が背を押し、鈴橋が拍子を渡してくれる。砂の上には、ところどころ“乾き”の名残りがある。第三の糸が撒いた乾きの罠。ニーヤが風で“返り”を作り、あーさんが掌の水で角を丸め、俺は旗で道に“躊躇”を置く。よっしーの相棒は砂の道を覚えていて、エレオノーラとクリフさんは遠い影を読む。ミラは沈黙を守り、レオールは数を数え、キリアは熱の瓶を膝で温める。


採掘小屋は、谷の腹に貼り付くように建っていた。木の柱は乾き、屋根は低く、穴は深い。穴の中から、かすかな金属の匂い。金。銅。錫。鐘の舌の匂いが混じる。


「灯り、最低で」


エレオノーラの指示で、ニーヤが火を極小に灯す。あーさんが掌の水で炎の“皮”をつくり、キリアが熱を薄く外に逃がした。俺は旗で風の筋を“寝かせ”、よっしーは相棒を谷の陰に隠した。クリフさんが先に穴へ下り、レオールが“段の耳”を背に回した。


穴の中には、人間が十数人、肩を寄せ合って座っていた。金工たち。手に血豆。喉に紅の痕。――喋りすぎると舌を抜かれる場所だ。


「エリダ?」


ミラが低く囁く。男が顔を上げた。目は若い。手は古い。彼は立ち上がって、一歩、前へ出た。


「鐘の舌を探している。……誰だ」


「鐘の“呼び手”や」


よっしーの口調になってしまう。俺は自分で苦笑して、旗を持ち直した。「祈堂の母柱が半拍だけ息をした。灯台の輪が回り始めた。梁の上で“鳴らさずに響く鐘”が要る。――鐘の舌が必要だ」


「舌は抜かれた。灯台の舌も、梁の舌も。段は『静けさは秩序』と云う。第三の糸は黙って笑う。……だが、舌は“隠した”。壊してはいない」


エリダの指が穴の奥を指した。「“鉄の眠り穴”。古い車輪と一緒に沈めた。車輪は重い。舌は軽い。軽いほうが上に来る」


「車輪?」


よっしーの目が光る。「それ、もしかして――」


いにしえの鉄輪。荷車の輪や。君の“相棒”の祖先だ」


エリダが薄く笑った。「だが、車輪は眠る。舌は、水が嫌いだ。だから、上に逃げる」


「あーさん」


「はい」


あーさんが掌の水を受け、俺は旗で“躊躇”を穴の縁に置く。ニーヤが風で粉塵を寝かせ、エレオノーラとクリフさんが穴の“口”の影を押さえる。キリアは熱の瓶を穴の口に近づけ、温度差で軽いものを浮かせる“皮”をつくる。エリダが古い鎖を引く。底で水がふわりと動く。――金属の鈍い“息”。


「来る」


あーさんの掌が震え、俺は旗の裾で“受け”を用意した。黒ずんだ金属の塊が水面を破る。舌。鐘の舌。歪んでいない。重みは十分。彼はそれを両手で掴み、顔に水を浴び、笑った。笑いは、穴の中で音にならない。けれど、みんなの胸で音になった。


「これで、梁の鐘が“鳴らさずに響く”」


エリダは舌を肩に担いだ。「ただ、鋳座いざやぐらが要る。吊る場がいる」


「塔の梁の上に“静かな櫓”を出そう」


俺は旗を握って言い、よっしーが相棒の屋根を軽く叩いた。「木と鉄の合奏や。昭和の鉄は静かに仕事もできる」


「……行こう」


レオールが短く言い、ミラが頷く。エリダは仲間に「帰ってくる」と目で告げ、三人が立ち上がって彼の肩を叩いた。鐘の舌は重い。けれど、歌の重さは軽い。重いものを軽く持つには、拍子を合わせるのが一番だ。


梁の鐘――鳴らさずに響け


塔へ戻る。夜明け前。空は白んで、灯台の輪はゆっくりと回り続けている。梁の上に、エリダが櫓を組む。手は迷わない。棟木に細い鉄を一本ずつ渡し、布を巻き、あーさんが掌の水で“軋み”を丸める。キリアが熱の瓶で鉄の“皮”を柔らかくし、ニーヤが風で埃を寝かせ、エレオノーラとクリフさんはロープの“返り”を見張る。よっしーは相棒のボンネットに木の道具を広げ、平成の工具と砂の工具を並べて笑った。ミラは白外套を畳んだまま、黙ってエリダの動きを“覚える目”で見ている。レオールは梯子の下で数を数え、塔の少女は粉袋を抱え、セラは布札に“鐘”の刺繍を加えた。


舌が上がる。風は弱い。けれど、ある。舌が降りる。――鳴らない。舌はまだ“声”を知らない。エリダが舌に指を当て、祈るように囁いた。


「舌に“歌”を教えるには、歌で触る」


カムが棹を持って梁に上がる。唄う棹の背を舌にそっと当てる。あーさんの掌の水が舌に皮をつくり、キリアの熱が舌の“芯”を温める。ニーヤが鈴を布越しに擦り、エレオノーラが矢羽根で風の筋に“節”を刻む。クリフさんが短い刃の背で舌の“腹”を撫で、よっしーが相棒のドアを一度だけ開け閉めして“空気の拍”をつくる。ミラは袖の針で舌の根元の布をひと縫いし、レオールは数を止めた。――一拍の“空白”。


「今」


俺は旗で舌の“影”を撫で、〈囁き手〉で梁に“戻る拍”を置いた。舌が――鳴らずに、響いた。音ではない。胸の中で揺れる。骨が共鳴する。灯台の輪の回転がわずかに速くなり、祈堂の母柱が遠くで半拍、息を吸った。


「……聞こえる」


あーさんが胸に掌を当て、目に光を浮かべた。「鳴っておりませぬのに、響いております」


「これが“鳴らさずに響く鐘”や」


エリダが笑って、舌に額を当てた。彼の肩の筋肉がふわりとほどける。ミラの目が細くなり、レオールの白外套の肩も一瞬だけ落ちた。よっしーが「ええ仕事や」とつぶやき、カムが棹の背を舌から離した。ニーヤは帽子の上でブラックを撫で、エレオノーラとクリフさんは目だけで頷き合った。キリアは瓶の栓を閉め、塔の少女は粉袋を抱えたまま泣いた。セラは刺繍の“鐘”に最後のひと針を入れた。


《E・S:八頁》


梁の上で、旗の裾がするりと軽くなった。落ちてきたのは、久しぶりに“頁”だった。薄い紙に、短い行。


“鐘は風に、風は旗に、旗は君に。

君は戻る拍に。

そして――“名”に。

名は、いつも、戻る場所。”


読み上げると、あーさんが静かに目を閉じた。「……戻る場所。はい」


「名を呼んで戻す。戻って呼ぶ。丸や」


よっしーが指で空に円を描く。彼の昭和の手つきは、丸を描くのがうまい。ミラは頁を受け取って袖に挟み、レオールは目を閉じて一度だけ呼吸を深くした。エリダは舌に手を置き、カムは棹の握りの鈴穴を指で撫でた。キリアは頁を炉の脇に貼る準備を思い、エレオノーラとクリフさんは塔の縁から砂の海を見た。ニーヤは尻尾で旗の裾をちょいと触れ、ブラックが小さく鳴いた。


夜半のひそひそ――もう一つの鍵


その夜。皆が寝静まったころ、塔の麓で小さな足音。俺が旗を肩にかけたまま外へ出ると、礼拝堂の影で黒外套が立っていた。彼は相変わらず笑わない。けれど、目の乾きは、少し減っていた。


「鐘が、響いた」


彼はそれだけ言うと、袖の中から小さな金属片を一つ、出した。鍵――ではない。鍵の“舌”だ。舌に、細い穴。そこに赤い糸が一本、通してある。糸は“九の結び”。


「これは?」


「記録庫の“裏口”の舌だ。段は存在を忘れている。……忘れるように、私が仕向けた」


「なぜ、渡す」


「見ているから」


彼は少しだけ目を伏せた。「君たちの橋は、管理しにくい。だから、管理できるように“見取り図”を描く必要がある。君たちがどこに橋を架け、どこに戻る拍を置くのか。……そのために、君たちが『次にどこへ行くか』を、私が手伝う」


「危ない取引きやな」


よっしーの声が頭の中によぎり、俺は苦笑した。「……受け取る。けど、これは“預かる”。返す先は、歌」


「歌は、管理しにくい」


「それが、良い」


黒外套は目だけで笑ったように見えた。彼は踵を返し、礼拝堂の影に消えた。砂が、ほんのわずかに、湿っていた。


朝――次の低い橋へ


朝。梁の鐘が鳴らさずに響く。灯台の輪は揺れずに速い。祈堂の母柱は、半拍で息をし、静脈階の風は薄く歌う。記録庫の“はじめの三十”は塔の土間で眠り、粉の香りに包まれる。エリダは櫓の下で道具を磨き、カムは棹に布をかけ、キリアは炉の火を細く保ち、エレオノーラとクリフさんは砂の上に“巡回の拍子”を刻み、ミラは白外套を畳んだまま、塔の少女と炊事を手伝う。レオールは広場の端で子どもに“数え歌”を教え、ニーヤは帽子の上でブラックを撫で、よっしーは相棒のエンジンに朝の風を入れる。あーさんは掌の水を光にかざし、俺は旗の裾の鍵束を指で確かめた。


鍵は三つ。記録庫の外扉、記名棚、搬出路。――そして、新しい“舌”。裏口の舌。橋は四本。低く、細く、長く。戻る拍は、家の中。


「さあ、今日も一本ずつ、架けよか」


よっしーが笑い、旗が肩で小さく笑った。あーさんが「はい」と言い、掌の水が朝に光った。


家は出る。

低い橋を、また一本。

名が、戻る場所を増やすために。

――


(つづく)

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