黒装束の夜
地下の空気が、唐突に軽くなった。
松明の炎が、ため息みたいに一度だけ伸びる。
そして——
ゴーン。
ゴーン。
二つの鐘。間に息継ぎ一つぶん。
回廊の石が震え、看守が跳ね起き、酒瓶が転がって鈍い音を立てた。
「合図だ——来るぞ!」
見張りが叫ぶより早く、地上から人の怒鳴りと、空気を切り裂く笛の連なり。
続いて、短く乾いた金属音。剣が鞘から吐き出される音だ。
地面が低くうなり、外で何かが爆ぜた。油か、干し藁か、いや——火の粉が階段の影から流れ落ちる。
檻の中に、音が雪崩れ込んだ。
鎖が引き、体がぶつかり、すすり泣きが悲鳴に変わる。
看守が鍵束を掴み、檻の前に立つ。「静まれッ!動くな、#四十二から——」
鍵束を掴んだままの手が、石壁に叩きつけられた。
背後から飛び込んできた影が、看守の顎を肘で跳ね上げる。
黒布のフード、身体にぴったり沿う革の装束。
白刃が一度だけ光り、鍵束が空へ跳ねた。
「走れ!」
影が吐き捨てるように言った。
その顔を覆っていた布が、炎の明滅で一瞬だけずれて、若い目がのぞいた。
クリフだ。
「鍵、取れ!」
投げられた鍵束が、鉄の床で鳴って滑る。よっしーが片手で受け、逆手で回して錠穴へ押し込む。
「回す方向はこっちや」
カチ、と小さく良い音がした。続けて二つめ、三つめ。
檻の錠が開く音は、静脈をつたう脈拍みたいだ。生の鼓動。
ユウキは無意識に喉を鳴らす。
(今だ。走る)
千鶴の手首に残っていた鎖を、よっしーが蹴りでねじ切る。金具が歪み、千鶴の喉元の鉄輪がわずかに緩む。
回廊の奥から、青い火花が散った。
黒装束——レジスタンスの誰かが、火粉を投げ込んだらしい。
炎にあおられた煙が、地を這って押し寄せる。視界が汚れ、咳が出る。
「こっちだ!」
クリフが先に駆け、石段へ導く。
階段の向こうは、夜。
夜の匂いは、火と鉄と血でしかなかったが、それでも地下の湿気よりは自由の味がした。
背後で、老いた看守が這いずった。「止まれ、止まらんか——」
短い鈍音。黒装束の一人が柄で後頭部を叩き、看守は沈黙した。
少年が震える足で檻を出る。初老の学者が、眼鏡を片手で押さえながら、よろける身体を石壁に預ける。
「おっちゃんらはこっちやない」
よっしーが少年と学者を別の列へ押しやり、黒装束の女に託した。
「森の方へ行け。走れるだけ走れ」
「あなたは?」
女が問う。
「まだ仕事がある」
階段の上、甲冑同士がぶつかる乾いた連打がした。
「開けるな!上は封鎖しろ!」
怒鳴り声の尾に、聞き覚えのある濁った笑いが絡みつく。
バーグだ。
クリフが振り向いた。「走れ。ここは俺が押さえる」
「無茶や。お前一人で——」
言いかけたよっしーの前に、影の塊が落ちた。
階段の上から投げ込まれた木箱。油瓶だ。石段で砕け、中身が床に広がる。
続いて落ちる火のついた布。
油が、燃えた。
炎が火舌を伸ばし、回廊は一瞬で赤に染まった。
「下がれ!」クリフが叫び、足で布を踏み消すが追いつかない。
煙が目を刺し、息が詰まる。
その時——
階段の影から、厚い影が躍り出た。
歪んだ笑み。油で汚れた革帯。
剣が、大上段から振り下ろされる。
バーグ。
「てめぇらが……神の選別を壊すかァ!」
火の色を吸った刃が、クリフの肩口に叩きつけられた。
ガツ。
火花。
クリフの片手の剣が受けたが、力が違う。
刃が滑り、斜めに落ちる。
ザクリ。
右脇腹、肋骨の下を、斜めに抉る。
血が、炎に照らされて黒く光った。
「クリフ!」
声が喉から勝手に飛び出した。
考えるより先に、ユウキの足が動いていた。
よっしーが肩を引こうとするのを、振り切る。
(ここで、止まったら——)
(終わる)
バーグが振り向く。
「外れが、吠えるな」
足が、早い。
来る。
剣が横に払われる。
その刹那、視界の端で、何かが青く瞬いた。
——いま。
ユウキは身を低くした。
刃が頭上を掠める。髪が二、三本、燃えた。
腹の底で掴んでいた恐怖を、手放すように吐く。
よっしーが背中を押した。「行け!」
ユウキはバーグの懐に潜り込む。
金具。
腰のベルトの金具。
(外せ——ない。なら、引け)
全身でぶつかる。
バーグの体が半歩泳ぐ。
「小癪な!」
肘が降ってくる。頬骨の上で星が弾けた。
視界が白く散り、膝が笑う。
それでも、手はベルトに食らいついた。
引く、引く、引きちぎれ。
革帯が軋み、油で滑る掌が焼ける。
よっしーの足がバーグの脛を払った。
重い甲冑が、石に乗った瞬間、わずかにバランスを崩す。
ユウキの膝が、膝を打つ。
「ぐっ……!」
バーグの腹筋が収縮し、背が折れる。
「今や!」
よっしーが転がっていた鉄棒(折れた格子の一本)を拾い上げ、渾身で肩口に叩き込んだ。
メリ、と嫌な音。
鎧の継ぎ目が割れ、肩当が外れる。
バーグの腕が落ち、剣先が石を噛んで跳ねた。
千鶴がどこからか拾ったバケツの水を、燃える油に向けて投げた。
ジュウッ、と蒸気が立つ。炎はしぶとく、しかし道が一本だけ開いた。
ユウキはクリフの腕を肩に回した。「行くぞ!」
「……お前」
「喋るな。息を温存しろ」
クリフは、ほんの少しだけ笑った。
背後で、バーグが吠える。「逃がすな! 立てッ、立たんか!」
通路の奥から、鎧の連中が二人、三人。
だが、レジスタンスの黒が横から飛び込み、石床に刃の影を走らせる。
「退け!」
短い怒声。
味方か敵か、判別に足りる時間はない。
(それでも——)
(今は、走る)
階段を上がる。
熱気が背中を押す。
クリフの血が、ユウキの肩を濡らす。
ひと段、ふた段、世界が縦に揺れる。
外。夜。
城の内庭は炎に照らされ、影がめまぐるしく伸び縮みする。
馬が嘶き、荷車がひっくり返り、油壺が割れ、兵士が怒鳴り、誰かが泣き、誰かが笑う。
世界が壊れる音だ。
裏門の方角へ走る。
よっしーが先頭で、倒れた槍を拾っては投げ、転がる盾を滑らせて障害を作る。職人の体は、戦場でも要領がいい。
千鶴は息を切らしながらも、振り返る癖を直さない。
「クリフ様は——」
「生きる!」
ユウキが言い切る。
言い切った言葉が、自分の中に杭みたいに刺さって支えになる。
裏門の木戸は、半分壊れていた。
誰かが内側からこじ開けたのか、外から突かれたのか。
その隙間に、黒い影が集まっている。レジスタンスの一団だ。
「外へ出ろ!森へ!」
女の声が飛ぶ。
「お前たち、そこの三人——」
「わかってる、頼んだ!」
よっしーが短く返し、ユウキたちは門を抜けた。
外気が、やけに冷たかった。
城壁の外は、ゆるやかな斜面で、短い草が月の光に濡れている。
遠くに黒い帯——森の輪郭。
三つの月が、炎に汚れた空を冷たく見下ろしていた。
「走れ」
クリフがかすれた声で言う。
「お前らの……足で……」
「一緒に来い。来られる」
「すぐには無理だ。俺は……ここで」
彼は笑ってみせた。
「隊列を……乱すな。兵士の……基本だ」
よっしーが、ちらと城を見た。「あのクズ、追ってくるで」
「来させる」
ユウキは、クリフの手を一瞬だけ握った。
「また会う。絶対に」
「……鐘が、二つ鳴ったら」
「わかってる」
千鶴が、きちんと頭を下げた。「必ず、お礼を」
「いらん。生きて……くれたら、それで」
彼の目が、満足そうに細くなった。
「行け」
背後で木戸が割れ、甲冑の群れが影になって溢れ出す。
矢が一筋、夜を裂いた。
地面に刺さり、草の根が震える。
息を呑む暇はない。
ユウキは、千鶴の手を引いた。
よっしーが先導し、草の斜面を斜めに駆け下りる。
足首の角度、膝のバネ、呼吸のリズム——生きてきた三十七年のすべてが、ただの走りに集約される。
森の端に、青い光が一度だけ指先みたいに触れた。
音はしない。
ただ、喉の渇きが一瞬だけやわらぐ。
(まただ)
ユウキは、胸の奥で、あの名もない声を思い出す。
——また来る。
誰かがそう言った気がした。
木々の影が深くなる。
草の匂いが濃くなる。
夜の冷たさが骨に染みる。
背後で、怒鳴り声が小さくなっていく。矢の数が減る。
走る。
転ぶ。
起きる。
走る。
やがて、息が喉を焼き切る寸前で、よっしーが手で合図をした。
「いったん、伏せる」
繁った低木の影に身を潜める。
胸が爆ぜるほど波打つ。心臓の音が耳と森の闇を満たす。
千鶴の肩が大きく上下し、言葉にならない息が漏れる。
ユウキは、地面に掌を広げた。土の粒が、指の腹にひとつずつ触れる。
(生きてる)
(まだ、歩ける)
「……彼は」
千鶴が、ようやく声にする。
「生きる」
ユウキは繰り返した。
自分に向けて。夜に向けて。あの青い気配に向けて。
よっしーが、低く笑った。「ほな、信じよ。ほいで、準備しよ。水、食いもん、火——」
「火は、だめ。煙が」
「せやな。せやけど、冷えは敵や。生き残るんは、“ほどほど”がええ」
ほどほど。
殺し切らず、死に切らず。
生と死の間の細い道。
ユウキはその言葉を胸のどこかにしまい込む。
風で枝が擦れ、耳にさざ波を作る。
草むらで小さな虫が跳ね、どこかで夜鳥が一度だけ鳴いた。
遠く、城の方角で、鐘がもう一度だけ鳴る。
今度は一つ。
遅れて、二つ目が、うんと遠くで。
(……聞こえるか)
あの声の余韻に似た響きが、森の葉裏を揺らした。
ユウキは、言葉を持たない祈りを胸に置く。
誰に向ける祈りでもない。
ただ、次の一歩のために。
「行こう」
立ち上がる。
夜が、道を明けた。
彼らの足音が、森の奥へ吸い込まれていく。
遠くで、火の色が空の端をまだ汚していた。
その赤と、葉の上の青白い光が、世界の両端でしぶとく揺れていた。
*つづく*




