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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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第32話 低い橋の一日



(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)


朝。塔の梁に下げた札が四つ、微かに触れ合って鳴った。セラ、ルゥ、ダン、ウラ――昨日まで砂に書いていた名が、今日は布札になって揺れている。名は重さになる。重さは橋脚になる。揺れても、倒れない。


「本日の段取り、発表しまーす!」


よっしーが両手を拡げる。昭和の集会のおっちゃんみたいな張りのいい声が、塔の中庭に飛んでいく。


「A班は紙道の継ぎ目の再調整。ユウキ、あーさん、ニーヤ、クリフの四人。B班は耳舟の棟と砂舟の調律、エレオノーラとキリア、セラは見学。C班は物資搬送組、ワイが相棒ハチロクで行くわ。ルゥとダンは塔の少女と留守番、粉の袋見張っとき」


「粉袋の見張りは責任重大にございますよ」


あーさんがやわらかく笑う。掌の水が朝の光を掬って、薄く揺れた。ニーヤは爪先で鈴を撫で、クリフさんは矢羽根を整える。


「行くぞ」


旗を肩にかける。布目が今日の温度を覚え、指先に家の拍子が戻ってくる。


継ぎ目のささくれ


紙道の入口。昨日は眠らせておいた継ぎ目が、夜の間に少し“ささくれて”いた。黴ではない。紙同士が乾きすぎて擦れ、角が立ったのだ。角は、耳を切る。耳が切れると、道が怒る。


「躊躇を増やしましょう」


あーさんが掌に水を受け、角へ薄く触れる。水は“ためらい”を作り、角は丸みを思い出す。ニーヤが風の筋を一本、継ぎ目の“裏”へ通し、俺は布で〈囁き手〉を押し込む。クリフさんは足で“戻る拍”の重さを紙に渡す。


きしみは鳴らなかった。鳴らない代わりに、紙道の匂いがわずかに甘くなる。箱の道から家の道へ、半拍だけ寄る匂いだ。


「奥にも一本、細いのが走っています」


ニーヤの耳がぴんと立つ。鼻先で示す先に、髪の毛よりも細いひびの“線”。第三の糸が撒いた“乾き”……乾かし過ぎて紙の“目”を割る罠だ。


「粉、くださいませ」


あーさんが俺を見る。塔の少女が練ってくれた紙止めの粉の小袋を渡す。あーさんはひびの“始まり”と“終わり”に、ちょん、と置いた。始まりと終わりは、間違えると増える。正しく止めれば、眠る。


「――ふぅ」


あーさんの息が、ほうっと落ちる。掌の中で水が鳴り、ひびがほどけていく。


「……ユウキ」


クリフさんが肩で合図した。紙道の陰、影になって見えにくい場所に、黒い“房”。乾き黴の房が、ひびの上にぶら下がっていた。粉の匂いに寄ってきたのだろう。


「一息で」


俺は旗の裾を持ち上げ、紙針の“背”で房の付け根を撫でる。あーさんが粉を薄く置き、ニーヤが風で房の髭を散らし、クリフさんは短い刃で“空気”だけを切る。直接は斬らない。結び目の勘だけを、半拍ずらす。……房は、ぽとり、と落ちた。地面の砂がそれを受け、ほぐれ、無害な粉塵に変わる。


「行こう」


旗を軽く振る。布の目が今日の最初の“ひと仕事”を気に入ったみたいに、指にやわらかく絡んだ。


風見台の呼び笛


帰り道、砂丘の上に一本の棒。てっぺんに小さな羽根車。風を測る“風見台”に、紙の筒が結んであった。塔で使う呼び笛の代わりだ。中には短い札が入っている。


《耳舟棟に白衣の使い。段主代理より“無風三刻”の申し出。場所は核都外縁“梢の中庭”。》


「交渉やて?」


よっしーに伝えるため、塔へ戻る足を早める。旗の布が肩で鳴り、砂の上で拍子が刻まれる。家の足は速すぎない。けれど、止まらない。


塔に戻ると、B班がちょうど耳舟の鈴座に油を差していた。キリアが顔を上げる。「白衣?」


「赤じゃない。白外套――文律官の色や」


エレオノーラが言った。段の“法律”を運ぶ人間。首を切る剣よりも、紙で首を締める手を持つ。


「行くべきや」


よっしーが短く言った。「罠やとしても、家は席を空にしとくと損する。席についたまま、足を砂につける。それが家の欠伸あくびや」


「欠伸」


あーさんがくすっと笑う。「よく眠るための知恵、ということにございますね」


「よし。行ってくる」


俺、よっしー、あーさん、ニーヤ、エレオノーラ、クリフ、キリア。塔の少女は留守を預かり、ルゥとダンは粉袋の番。セラは布札に自分の名を縫い付ける練習を続けるという。家は、動く班と留まる班で一つになる。


梢の中庭


核都の外縁、背の低い木々が円形に植えられた場所。風除けのすだれが四方に垂れ、上は空。風を遮るから“無風三刻”なのだろう。真ん中に石の台。段の交渉は、いつも“中心”を用意する。中心は、責任の場所。だから、座らない。


白外套が二人、先に立っていた。袖口に薄い銀の刺繍。目はよく乾いて、よく眠っている目。片方が一歩、前に出る。


「文律官補、レオール。段主代理の書面を持参した」


レオールは、紙を一枚、台に置く。風がないから、紙は動かない。よっしーが「風鈴でも吊るしたくなるな」とこぼし、ニーヤが「無風は耳に悪いニャ」と帽子の上のブラックを撫でる。あーさんが一歩、前に出て、紙の角を水で少し丸めた。紙が“怒らない”ための、小さな手当て。


「提案は一つ。祈堂“母柱”の硬さを、半拍、ほどいてほしい。第三の糸が祈堂の隙を食い荒らし始めた。祈りを守るため、硬さを減じたい。……対価は三つ。記録庫から“箱の民”百二十名の解放、耳舟棟の解錠、そして――写官キリアの安全の保障」


レオールの声は、砂の上でもよく通る。彼の眼差しは真っ直ぐで、乾いてはいるが、虚飾がない。段の人間の中にも、そういう目を持つ者がいる。俺は紙から目を外さず、あーさんと視線を合わせた。彼女の瞳が穏やかに揺れる。掌の中の水が、紙の角で光った。


「条件は、家の利益になる。……けど、穴もある」


よっしーが肘で俺の脇をつつく。「母柱をいじるのは、段の心臓に触るのと同じや。戻し方を知らん者は、心臓を破る」


「戻し方は、こちらが案じる」


別の声がした。赤の裾――段主代理その人ではない。代理の“影”でもない。祈堂の“司書長”の印を胸に付けた女。髪は短く、目は強い。肩に小さな包帯。乾いた血の色。


「司書長、ミラ。段主代理の妹だ」


レオールが紹介する。ミラは一歩、前に出て、俺たちを順に見た。刺すような目ではない。仕事を見極める目。職人に似た目だ。


「第三の糸は、祈堂の“呼吸”を止めようとしている。硬すぎる柱は、呼吸を殺す。柔らかすぎる柱は、祈りを散らす。……半拍。半拍でいい。祈りが呼吸できるように」


「あかん。あんたら、ええこと言うてるけど、空気が固い」


よっしーがぼそっと言った。昭和の大阪弁は、空気を針で突く。ミラの口角が、わずかに揺れた。


「硬くなるのが、段の癖だ」


「柔らかくするのが、家の癖や」


俺は旗を握り直す。交渉は、言葉を交わす。けれど、言葉だけでは足りない。拍子を合わせ、場を“家寄り”にしてから、紙に触れるべきだ。――そのとき、梢の外側から、砂のざわめき。黒い房が、風もないのにいっせいに揺れた。


乾き黴の説法


黒外套。第三の糸の布教者が木陰から歩み出た。彼は笑わず、泣かず、乾いている。指先に、細い砂の糸。砂は水を吸う。水は祈りを運ぶ。砂で祈りの道を止めるつもりだ。


「話は、聞いた。美しい理屈だ。……だが、祈りは管理しにくい」


「またそれか」


よっしーが舌打ちしかけ、あーさんが袖を軽く引く。ミラの肩がわずかに上がる。レオールの手が紙から離れる。エレオノーラとクリフさんの踵が砂の上で“間”を作る。ニーヤは鈴を布で包み、帽子のブラックが小さく鳴いた。


「――下げろ」


布教者の指がわずかに動いた。黒い房がいっせいに落ちる。砂が立つ。無風の中庭に、粉塵の幕。祈りの石に砂がかかり、紙の角に砂が貼り付く。砂は音を殺す。黙詩を死なせる。……悪い手だ。よく考えてある。


「よっしゃ、相棒、盾になれ!」


よっしーが叫ぶと同時に、虚空庫からハチロクが現れた。低い鼻先、広いボンネット。相棒は砂の幕に頭を突っ込み、フロントで風を作る。風は弱い。けれど、ある。無風の場に、風の筋が一本、生まれた。俺は旗をその筋に沿わせ、布目で“道”をなぞる。あーさんが掌の水をその“道”に薄く載せ、ニーヤが鈴を布越しに鳴らして、粉の落ちる角度を一つだけ変える。エレオノーラが矢を粉塵の“渦”の縁に打ち、クリフさんは短い刃で砂の“足”を切る。レオールが白外套を肩で押さえ、ミラは石の台を背で支えた。


「――退いとけ!」


よっしーがハンドルを切る。相棒の後ろ脚が砂を巻き、ボンネットが黒い房の落下線を断つ。昭和の鉄の直線が、乾き黴の曲線をへし折る。砂の幕が割れ、風が細く通る。俺は旗でその細い風を“家寄り”に曲げ、あーさんの水をその上に“ためらわせ”、ニーヤが風に“鈴音”を混ぜ、エレオノーラの矢が“音の橋”を固定する。クリフさんの足が拍子を刻み、ミラとレオールが背で石を守り、キリアが息の速度を調整する。――一陣。


布教者は、笑わなかった。指の砂糸を一度巻き取って、もう一度、静かに落とす。落ちる角度が違う。さっきの橋を避ける角度。ここで、もう一本の橋が要る。


「低い橋を、重ねる」


俺は旗の裾をまた上げ、今度は相棒の後輪の後ろに布を差し入れる。車体の下は風が生まれやすい。よっしーが半クラッチで“呼吸”を作る。あーさんは掌の水を布の目に掬って渡し、ニーヤは鈴を二度、布で擦る。エレオノーラは矢を一度、砂に突き立て、クリフさんはその矢に刃の背を当てた。――橋は、低い。低いが、強い。相棒の鉄と布の目と水の皮膜と鈴の音が、黒い砂糸の“食べどころ”をひとつずつ潰していく。


「退く」


布教者は乾いた声でつぶやき、影の中へ退いた。砂はゆっくりと落ち、無風の中庭に、かすかな風が残る。相棒のボンネットに砂が薄く積もり、よっしーが指で二本、線を引いた。線は、残る。昭和の鉄の背に、家の橋の線が二本、残った。


司書長の地図


砂が落ちきる前に、ミラが懐から薄い布包みを取り出し、台の上に広げた。羊皮紙に細い糸で線が刺してある。“縫い地図”。紙に描けば砂で消えるから、布に縫うのだ。祈堂“母柱”の断面と、祈りの“呼吸孔ブリージング”、第三の糸の“潜り道”。


「入口は三つ。どれも見張られてる。けれど、祈りの呼吸孔は“見張れない”。見張れば、祈りが弱るから。……ここだ」


ミラは一本の細い刺繍を指先で撫でた。核都の北、祈堂の壁に穿たれた細い隙間。“静脈階じょうみゃくがい”。祈りの蒸気を逃がすための細階段。段の子でも、そこから入った者は少ない。


「ここから入って、“母柱”の芯に紙針の背を触れる。半拍、ほどく。その間、祈りを逃がさないために、外で風の“堰”を見てほしい。――君たちの風と水と鈴と旗が要る」


「代わりに?」


よっしーが訊く。ミラは頷く。


「記録庫の鍵を三つ、白外套が持っている。――レオール」


レオールが白外套の内ポケットから、細い鈴付きの鍵束を出した。鈴は鳴らない。鳴らないように糸で縫い止めてある。彼は鍵束をミラに渡し、ミラはそれを俺に差し出した。


「責任の重さは、鍵の重さだ」


鍵は軽かった。けれど、冷たい。旗の布目がその冷たさを嫌がる。冷たさを嫌がる布は、温めればいい。布は温めるほど、強くなる。


「受け取る」


俺は鍵束を旗の裾に縫い付けた。布の目が、軽い鈴の重みを覚える。家の拍子が、鈴を“家寄り”にする。


準備――唄う棹を貸し戻す


塔に戻ると、カムが耳舟の棟で唄う棹を撫でていた。


「母柱へ? おまえさん、ほんに、えらい難儀なとこへ棹持ってくのぅ」


「棹は預け物。返す先は歌。……歌は、母柱にもある」


「ある。けれど、固い歌や。固い歌には、柔らかい拍子や」


カムは棹の握りの鈴穴に紅の糸をひと巻きし、「戻す道は紅や」と言った。紅は祈堂の色。紅の道を通れば、段の耳に“見慣れた音”として届く。異物にならない。異物でない“ほどき”が、いちばん効く。


キリアは炉から薄い“熱”の瓶を二本、持ってきた。「母柱の芯は冷え固まっている。熱を“皮”にすると、背で撫でやすい」


よっしーは相棒のラジエータに新しい水を満たし、砂舟の耳石を増やした。「静脈階は細い。相棒は外や。けど、出口の風作りは任せとけ」


エレオノーラは矢筒を軽くし、クリフさんは刃を短く換えた。ニーヤは鈴を布で包む回数を数え、あーさんは掌の水を新しく汲む。塔の少女は粉袋を詰め直し、ルゥとダンは札を束ね、セラはその札の端に“祈りの模様”を縫った。家の準備は、静かだ。静かだけれど、遅くない。


静脈階


祈堂の壁の北側。誰も気にしない窪み。砂が溜まり、草が一本、頑張っている。その陰に、薄い隙間。……静脈階。風は少ない。けれど、ないわけではない。祈りの蒸気が息をしている。


「ここから先は、声を置いていきましょう」


あーさんが掌の水で俺の喉を撫でる。喉が“黙る準備”をする。ニーヤが鈴を布で包み、キリアが熱の瓶の栓を半分だけ開ける。エレオノーラとクリフさんは踵の重さを足の裏に落とし、よっしーは外で相棒のエンジンを寝かせた。


階段は狭く、足音は自分の足首に返る。旗の布を膝に巻き、布目で足の重さを少しだけ“遅く”する。遅い足は、音が小さい。遅い足は、疲れにくい。母柱の近くほど、遅い足が要る。


途中、壁の“目”に黒い粉。乾き黴。けれど、眠っている。祈堂の中は乾きすぎて、乾き黴も眠るのだ。あーさんが水で“ためらい”を置き、ニーヤが風で粉を“寝かせ”、俺は布で“見過ごす”。見過ごすのも、仕事。


階段の底、広い空洞。天井は見えない。壁一面に“文字”。線が浮き、凹み、絡み合い、押し合い、重なって、巨大な“文字の海”がうねっている。……これが、祈堂の母柱。祈りの骨。骨は、固く、美しい。固すぎる。だから、息がしにくい。


「息の縫い目を探す」


キリアが目を細める。炉の職人の目は、熱の道を読む。彼女は静かに歩き、指先で文字の“谷”を撫で、熱の瓶の口を文字の“峰”へ近づける。あーさんが掌に水を受け、「冷たい所は、ゆっくり」と囁く。ニーヤは鈴を布越しに一度だけ鳴らし、音のない“目覚まし”をかける。俺は唄う棹を構え、握りの鈴穴に紅の糸の感触を確かめる。


「――ここ」


キリアが示した“谷”。文字の線が、ほんの少しだけ呼吸を忘れていた。そこに棹の背を当てる。先ではない。背。刺さない。撫でる。紅の糸の道を棹に思い出させ、あーさんの水を棹の背に薄く纏わせ、キリアの熱を棹の反対側に置く。ニーヤが風の筋を一本だけ通し、エレオノーラとクリフさんは背後で“見張りの音”を外へ導く。


布の目を心の中で一つ、開く。……〈囁き手〉を、音のない方向へ押し込む。


“風は箱に入らず、家に入る。

家は旗に入り、旗は君に入る。”


棹の背が、文字の“呼吸”に触れた瞬間、祈りの海が――波打たなかった。鳴らない代わりに、空気がすこしだけ軽くなる。あーさんの掌が、ほんのわずかに温かくなり、キリアの熱が“皮”だけで巡る。ニーヤの耳が伏せから立ち、エレオノーラの弓弦が弛み、クリフさんの踵が足に沈む。……半拍。


「もう一つ、奥」


キリアが囁く。母柱は一枚ではない。重ねた紙のように、層がある。奥の層に、もう一つ“呼吸の谷”。棹の背を、もう一度。紅の糸を思い出し、背で撫でる。あーさんの水が“ためらい”を置き、キリアの熱が“皮”をつくり、ニーヤの風が“筋”を引く。……半拍。


「外」


エレオノーラの声。外で風が変わった。よっしーの相棒が作る“風の堰”の音が、祈堂の壁に沿って流れる。段主代理の見張りの足音も、外にいる。レオールとミラが“場”を押さえているのだろう。第三の糸の房が、天井の影で“息”を探している。


「戻る」


半拍は、戻る拍までが半拍だ。置きっぱなしは、ほどきではない。戻す。布の目を閉じ、棹の背を離し、紅の糸を結び直す。あーさんの掌の水が布に移り、キリアの熱が瓶に帰り、ニーヤの鈴が布の中でひとつ、眠る。エレオノーラとクリフさんが“見張りの音”を一段、低く落とし、俺たちは静脈階を登り始めた。


返り風


入口が近づいたとき、外の光が一度だけ暗くなった。誰かが、立った。段主代理――ではない。布教者だ。黒外套の裾が、静脈階の口を覆っている。


「出てきたね」


乾いた声。相棒のエンジンの低い息がその向こうにある。よっしーがクラッチで風を押し、ミラの靴が砂を踏む音が一つ、した。レオールの呼吸は乱れていない。白外套は、息を隠すのが上手い。


「母柱に触れた。祈りは呼吸する」


布教者は首を少し傾けた。「呼吸は、管理しにくい」


「管理しにくいから、生きる」


俺は静脈階の口で立ち、旗を肩にかけ直した。布の目が、砂の光で眩しがる。あーさんが掌の水で旗の端を一度、撫でる。ニーヤが鈴を布で包み、エレオノーラは弓を持たない手で矢羽根を撫で、クリフさんは刃の背で砂をひとすくい、静脈階の段に戻した。


「君は、いつも“半拍”だけ触れる」


布教者は言った。「半拍では、世界は変わらない」


「半拍でしか、世界は変わらない」


よっしーの声が、相棒のボンネット越しに届く。昭和の鉄の前で、昭和の男が笑う。「いっぺんにやろうとするやつは、だいたい道を壊す。ワイは、カーブ手前で一回だけアクセル抜く派や」


布教者は、笑わなかった。彼は静脈階から半歩退き、道を開けた。「……見せてもらう。半拍の道を」


ただいま――そして《E・S:六頁》


塔に戻る道、砂の風が昨日よりもやわらかい。祈堂の母柱が半拍呼吸したぶん、街の隅々に風が回り込む。耳は鳴らず、紙は怒らない。相棒のエンジンはいつも通り低く歌い、砂舟の耳石は満ち足りて鳴らない。家の拍子は、今日も遅く、確かだ。


塔の扉が開く。ルゥとダンが粉袋から顔を上げ、セラが布札に刺繍した自分の名を見せる。塔の少女が両手を叩き、カイが「祈堂の湯気が軽い」と言って笑う。キリアは炉の温度を確かめ、カムは耳舟の棟で唄う棹を抱き、そっと額を棹に当てた。


夜。旗の裾が、するり、と軽くなる。落ちた紙――《E・S:六頁》。


“母と呼ぶ柱は、

子の歌でしか息をしない。

子の歌は、名の橋でしか渡らない。

名の橋は、低く、長く、細く。

そして――戻る拍を忘れるな。”


読み上げると、あーさんが静かに目を閉じ、掌を胸に重ねた。「戻る拍……」


「半拍やと、『行って戻る』で一拍や」


よっしーが頷く。ニーヤが「戻る拍は、いつも主人あるじが先に踏むニャ」と言い、エレオノーラは矢を一本だけ立て、クリフさんは短く「了解」と答えた。キリアは頁を炉の脇に貼り、カムは唄う棹に紅の糸をもう一巻きした。


さざめく便りと、新しい影


翌朝、風見台の呼び笛がまた鳴った。札は二枚。ひとつは段主代理から。“記録庫の解放、手始めに三十。白外套が連れて行く”。もうひとつは――黒外套から。乾いた文字で、ただ一行。


《箱を壊すな。歌を壊すな。君らが橋を架けるなら、我らは“見ている”。》


「見てる、か」


よっしーが鼻で笑う。「見てるやつは、たいてい、手ぇ出す」


「見て、学ぶ者もおります」


あーさんが小さく言う。彼女の言葉は、乾いた紙の角を丸くする。塔の梁の札が揺れ、家の拍子がふっと軽くなる。


「……次、どこだ」


旗の布目をなぞる。布は、人の名と道の匂いを覚える。祈堂の母柱は半拍ほどけた。記録庫の鍵は三つ、旗の裾に縫い付けてある。耳舟の棟は息をしている。砂舟は舳先を北へ向けたがる。塔の粉袋はまだ重い。――低い橋は、まだ足りない。


「“灯台とうだい”」


キリアが口にした。「祈堂の光を遠くへ逃がすための塔。第三の糸は光を嫌う。けれど、灯台は今、暗い。段は『灯りは祈りの内側だけで足りる』と言う。……外へ、光を返したい」


「灯台の上、風が強いとええなぁ」


よっしーが笑う。「相棒、坂は得意や」


「風が強い場所は、橋が短うございます」


あーさんが掌の水を光にかざす。「短い橋は、落ちにくい」


「行こう」


旗を肩にかけ直す。布の目が、今日の道を喜ぶ。ニーヤが鈴を布で包み、エレオノーラが弓を軽く、クリフさんは刃を短く、キリアは熱を薄く、よっしーは相棒を低く唸らせ、あーさんは掌の水を優しく揺らす。塔の少女が粉袋を抱え、ルゥとダンが札を束ね、セラは新しい名の刺繍を一つ、針に通した。


家は出る。

低い橋をもう一本、架けに。


灯台への途上


灯台は、核都の南端、砂の海の縁に立っている。白い石で組まれ、上には風の輪が四つ。祈りの光を風に乗せて散らすための輪だ。今は止まっている。輪は、止まると重い。動き出すと軽い。人間と同じだ。


途中、砂の窪みに、小さな“屋台”。色褪せた布。錆びた鈴。水の壺が三つ。誰かがここで立ち止まって、生きてきた気配。


「占い屋?」


よっしーが腰に手を当てる。布の向こうから、しゃがれた声。


「砂の上に道を描いて売るだけだよ」


布をめくって顔を出したのは、皺だらけの女だった。眼は澄んでいる。歯は三本。手の甲に無数の細い傷跡。砂に道を描く仕事を長いことやってきた手だ。


「道、一本、どうだい。灯台までの“近道”と“遠回り”、どっちもある」


「値段は?」


「名だ」


女はあっさり言った。「名を一つ、置いてけ。道は二つ、やる」


名は重い。けれど、橋脚は増やせる。俺は砂に指で書いた。


――ミラ。


司書長の名。段の中で風穴を求める人間の名。女は目を細めて、その名を読み、頷いた。


「よし。近道は速い。けれど、風が少ない。遠回りは遅い。けれど、風が多い。……今の君らには、遠回りだ」


「理由は?」


「言葉の数が足りない」


女は笑った。歯の隙間から風が抜ける。「灯台は、言葉を風にする場所だ。言葉が少ないまま近道を行けば、風は起きない」


「遠回り、行こか」


よっしーが相棒のボンネットを叩く。相棒は一度だけライトを瞬かせた気がした。遠回りの道は、砂のうねりが多く、風の筋が交差している。旗はその交差を手でなぞり、あーさんは掌の水を薄く連ね、ニーヤは鈴で風の節を揃え、エレオノーラとクリフさんは“見張りの音”を風に乗せ、キリアは熱の瓶の栓を半分だけ開けたり閉じたりした。言葉が増える。拍子が増える。風が起きる。


風の輪


灯台の下に着くと、白い石は熱を持っていた。止まっている風の輪は錆びついている。段は「内側の祈りで足りる」と言って、外への光を止めたのだ。第三の糸は暗いところを好む。灯台が暗ければ、箱の影は伸びる。


「輪に触れる前に、柱に触れる」


キリアが塔の根元に膝をついた。灯台にも“柱”がある。祈堂の母柱ほどではないが、呼吸の“谷”と“峰”がある。俺は棹の背を、軽く、根元の文字に触れた。あーさんの水が皮を作り、ニーヤが風の筋を通す。――半拍。塔の“息”が戻る。輪はまだ動かない。けれど、“動ける”体になる。


「相棒、押し上げや」


よっしーが笑い、相棒を塔の基壇の傍らにつけた。エレオノーラとクリフさんがロープを滑車に掛け、ニーヤが鈴を布越しに鳴らして滑車の“節”を起こす。あーさんは掌の水を滑車の芯に一滴落とし、キリアは熱の瓶で錆の“皮”を温める。俺は旗で風の輪の“縁”を撫で、〈囁き手〉で輪の耳に“拍子”を置く。


「一、二、三――!」


よっしーの合図で、皆が同時に力を合わせる。相棒のエンジンが低く唸り、滑車が鳴らずに回り、輪が――きしり、と鳴らなかった。鳴らない代わりに、空気が軽くなる。輪はゆっくりと回り始め、風が輪を通り、光の道が空に伸びる。祈りの光が外に出る。第三の糸は光を嫌う。箱の影は、少し短くなる。


「よっしゃあ!」


よっしーが拳を握り、ニーヤが尻尾をぴんと立てた。あーさんの頬に風が当たり、彼女は目を細めた。「……気持ちよい風にございます」


灯台の上で風が唄い、下で家が笑う。その時、旗の裾がふっと軽くなった。落ちた紙――《E・S:七頁》ではなかった。半分だけ、刺繍された布片。端に小さく“E”の字。……エス。


“風は見えない。

けれど、旗は見える。

旗が見えるなら、君は一人じゃない。”


短い言葉。短いのに、息が深くなる言葉。あーさんがそれを両手で受け、丁寧に畳んで、旗の裾に縫い付けた。布の目がよろこび、指先に微かな震えが残る。


影の礼拝


灯台を離れ、塔への帰路。砂丘の陰に、昨夜と同じ礼拝堂。祭壇の石の言葉は変わらない。《箱は人をしまうな。歌をしまえ。》……その前に、黒外套の影が立っていた。布教者は相変わらず笑わず、泣かない。彼は祭壇の石に軽く手を置き、短く言った。


「見た」


「何を?」


「輪が回るのを」


彼は石から手を離し、砂を一握り、指の隙間から落とした。


「風は、管理しにくい」


「知ってる」


俺は頷く。「でも、風がないと、歌は死ぬ」


「歌が生きると、管理は難しい」


「管理が難しいと、人は生きる」


よっしーが口をはさみ、あーさんが袖を引く。布教者は、わずかに目を細めた。彼の背の向こうで、礼拝堂の影が長く伸び、灯台の光がその影の端を溶かしている。第三の糸は光を嫌う。けれど、憎んではいないのかもしれない。彼はただ、乾いているだけなのかもしれない。乾きは、水を求める。水は掌からしか渡せない。


「――見ている」


彼はそれだけ言い、影の中へ消えた。


夜の屋根、朝の旗


塔に戻る。皆が「ただいま」と言い、塔が「おかえり」と鳴る。旗の裾に縫い付けた小さな“E”の布片は、風に触れるたび、ほんの少しだけ温かい。エスは祈堂のどこか高いところで刺繍をしているのだろう。段と家の間で、糸を一本ずつ抜いたり足したりしているのだろう。困って、笑って、困っているのだろう。


夜。屋根に出る。星は黙って遠い。相棒は影で眠っている。昭和の鉄の寝息は、小さく、規則正しい。旗を肩にかけ、布目をなぞる。あーさんが後から来て、隣に座る。掌の水が星を受け、生ぬるい夜風が頬を撫でた。


「ユウキさん」


「うん」


「本日、灯台の輪が回った瞬間……胸の奥が、すこしだけ軽うなりました」


「俺も」


「戻る拍を忘れずに、明日も歩みませう」


「歩く」


「はい」


小さな拍子が三度、行き来した。エレオノーラが離れた梁の上で弓を磨き、クリフさんが塔の足元で砂を均し、キリアが炉の火を細め、カムが唄う棹に布を掛け、ルゥとダンが粉袋の上で寝息を立て、セラが布札の名に最後の一針を入れる。


家は眠る。

風は回る。

明日、また“半拍”をほどきに行く。


――


(つづく)

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