第31話 名を書き、風を借りる日
(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)
塔の蔵に朝が差す。砂色の光は紙の端だけを温め、布の目はひとつずつ深くなる。昨日、砂に書いた名――セラ、ウラ、ルゥ、ダン――は、塔の梁に結び直され、薄い札になって揺れていた。揺れは小さいが、確かだ。名があると、世界は揺れても倒れない。
「朝飯、いこか。動く前に腹ごしらえや」
よっしーが虚空庫からフライパンと缶詰と食パン、それに四角い銀紙の包みを取り出した。包みはアルミホイル。昭和と平成の匂いが混じる。バターの塊をじゅっと落とした音に、ブラックの耳がぴくりと立ち、ニーヤの尻尾がくいっと上がる。あーさんは手拭いで皿を拭き、エレオノーラは弓弦を柔らかく伸ばし、クリフさんは矢羽根を撫でている。キリアは柱都から帰って以来、塔の蔵の隅で眠っていたが、今朝は目が明るい。
「炉は回ってる。段は怒ってる。けれど、回ってる」
彼女は短く言い、バターの香りにふっと笑った。「それと――ひとつ、頼みがあるの」
「なんや?」
「“耳舟”を借りたい。耳で漕ぐ舟。柱都の外縁でしか使えないけど、風のない谷を渡るには一番静かで早い。けど、舟大工は箱の民にされて、舟は段に没収されたまま」
「舟大工の名は?」
「カム。昔、“唄う棹”を作った人」
名が出た瞬間、旗の裾で布目が一つだけ震えた。家の拍子が「行け」と言った気がした。
耳舟の棟
耳舟の棟は、核都の北西外れ、砂に半分埋もれていた。屋根の梁は低く、壁には楽譜みたいな刻みがあった。読むためではない。鳴らすための刻みだ。風があれば、刻みは笛になり、舟を呼ぶ。けれど、ここはいつも風が薄い。だから、耳で漕ぐ。
棟の扉は祈り札で固められていた。塔の粉を角にだけ置き、あーさんが水で“躊躇い”をつくり、俺が布で黙詩を押し込む。扉は戸惑い、そして開いた。
中は乾いていて、香りは良かった。乾いた木、亜麻の繊維、膠の甘い匂い。奥に、細長い舟が三艘、横たわっている。舟の内側には耳石が埋められ、縁には鈴の座が等間隔に並んでいる。耳で漕ぎ、鈴で舵を切る舟。
「……カム?」
キリアが呼ぶと、壁の陰から影が立った。髭は白く、背は曲がっているのに、足はまだ舟の拍子で動ける足だ。喉には薄い紅の痕。けれど、目は濁っていなかった。
「段の子が、また舟を要るのか」
声は乾いていたが、あざけりはない。職人が職人に向ける声。
「段の“子”ではない。炉の“職人”だよ」
キリアが短く言う。カムは一瞬だけ笑った。目尻に皺が寄る。「なら、聞こう。舟でどこへ?」
「風のない谷をひとつ越え、塩柱の“間”に囚われた童――セラを救い出す。……それと、もうひとつ。“唄う棹”を貸してほしい」
その言葉に、カムの瞳が静かに広がる。彼は歩み寄り、ハチロクの横を通るときにちらりと鉄に目をやり、次の瞬間、舟の舳先を撫でた。
「耳舟は、風の代わりに“名”で進む。棹は“名”を水に書く道具だ。唄う棹は、名を歌にする。……名を書いたか」
「書いた」
俺は頷き、砂に書いた名を思い出した。あーさんが掌に水を受け、ニーヤが鈴を指で押さえる。カムは棚から布に包まれた細長いものを取り出し、そっと解いた。棹は黒檀に似た黒い木で、握りのところに小さな鈴穴が開いている。穴の縁には、細い糸のような銀が巻かれていた。
「棹は借り物じゃない。“預け物”だ。返す先は舟じゃない。“歌”だ」
「預かる」
俺が答えると、カムは頷き、舟の上に手を置いた。「舟の名は“耳鳴り”。鈴は三つまで。一つは“行き”、一つは“戻り”、一つは“もしものため”。鈴を無駄に鳴らすな。鳴らないのが上手い舵だ」
「よっしゃ、任しとき」
よっしーが笑い、けれど、その目は珍しく真剣だった。平成元年の鉄の運転が上手い人間は、舟の舵も上手いのだろう。ハンドルは曲がる前にまっすぐを知る。舵も同じだ。
風のない谷
耳舟を棟から出す。相棒は外で待機。よっしーは舟の後ろに座り、鈴の座に指をかける。俺は棹を立て、舟の前で半歩ずれて“家の拍子”を置く。あーさんは舟の胴の内側に掌を添え、薄く水を渡す。ニーヤは帽子の上にブラックを座らせ、鈴の音を半分、布で包む。エレオノーラとクリフさんは左右の縁に座り、どちらにも傾かないように息を合わせる。キリアは舟首で目を細め、耳で谷の形を読む。
「名で押す」
カムが短く言い、俺は棹の握りの鈴穴に指を通した。唄う棹は、握ると微かに熱い。黒檀の奥に、昔の歌が眠っている。俺は小さく息を吸い、棹の先で谷の床――見えない水の表面――に、名を一つ書いた。
――セラ。
舟は、するり、と前に出た。風はないのに、進んだ。耳で漕ぐ、というのは、こういうことか。名は水の形を変え、舟は音のない波に乗る。よっしーが鈴を一度だけ鳴らし、舟の鼻先をわずかに左へ振る。エレオノーラとクリフさんの呼吸が重なり、舟は傾かない。あーさんの掌の水が舟の内側を滑り、ニーヤの耳が谷の“黙音”を縫う。
谷の壁は近く、天井は低い。柱都ほど硬くはないが、風の道が細い。声を出せば、自分の喉に返ってきて溺れる。黙って、詠む。黙って、舵を切る。
「前方に、耳の堰」
キリアが指で示す。薄い膜のような、音の壁。段が流れを監視するために設けた耳の仕掛けだ。声を出さず、拍子を狂わせず、半拍だけ“ためらい”を作る必要がある。
俺は棹の先で、水に小さな円を描いた。名ではない、形。あーさんが掌の水で円を重ね、ニーヤが鈴を布越しに擦る。よっしーは鈴の座に触れず、舟の重心を背で整えた。……耳の堰が、わずかにためらい、開く。舟は抜ける。
「ええやん……!」
よっしーの小さな独り言。彼の肩の力が、すこし抜けたのがわかった。運転が上手い人間は、道がわかると笑う。
塩柱の間
谷の最奥の間は、塩の匂いに満ちていた。白い結晶が壁から生え、床は霜柱のようにざくざくしている。中央に塩柱。昨日、名を書き、涙の筋を刻んだ童――セラ――が、また目を閉じていた。喉は動いている。息はある。けれど、唇は乾いている。
「来たよ」
キリアが口の形だけで言い、あーさんが舟から降りて塩の“目”を避け、掌の水を一滴、セラの舌に落とした。ニーヤが風で黒い粉塵を払い、エレオノーラとクリフさんが周囲の“出入り口”を押さえる。俺は棹を立て、名を、書いた。
――セラ。
塩の柱の中で、名が響き、涙の筋がひとつ、増える。セラの唇が動く。音は出ない。けれど、形が見える。――“セ”。昨日よりも、すこし柔らかい形だ。
「出入り口の上、黴の房」
エレオノーラが顎で示す。黒い房が塩の“目”にぶら下がり、湿りを待っている。舟に積んだ水も、あーさんの掌の水も、全部“餌”になる。ここで長居はできない。
「綴って、切る」
俺は旗の裾を塩の“目”に当て、紙針の“背”で黒い房の“付け根”を撫でた。直接刺さない。背でなぞる。結び目の“勘”だけをずらす。あーさんが粉を付け根に薄く置き、ニーヤが風で房の“髭”をばらけさせる。エレオノーラの矢が、房に触れる寸前、羽根だけで“息”を当て、クリフさんの刃が、塩に触らず房の“根元”の空気を切った。ほんの数本が、ぽとりと落ちる。塩の床に落ちた房は、水を吸えず、そのまま乾いた。
「セラ、行こ」
キリアが口の形で言い、セラの目が開いた。真っ暗な瞳に、ほんの小さな光。セラは塩の隙間から腕を伸ばし、俺は布でその手首を包んだ。冷たい。けれど、脈はある。あーさんが掌の水で手を温め、ニーヤが鈴を布越しに一度だけ鳴らす。塩柱の“目”が、ほんの一瞬だけ丸くなる。――今だ。
セラを抱き上げる。軽い。驚くほど軽い。よっしーが舟の縁を押さえ、エレオノーラとクリフさんが塩の“目”の上を見張る。キリアは舟首に戻り、耳で谷の“黙音”を読む。
「戻る」
俺が棹を立て、名を書いた。――行きの名と同じ。セラ。行きと帰りは、同じ名でいい。行きで開いた道を、帰りで閉じる。舟は、するり、と後ろへ滑り、よっしーが鈴を一度だけ鳴らして鼻先を揃える。あーさんはセラの背に掌を当て、呼吸の拍子を合わせる。ニーヤは耳を伏せ、帽子の上でブラックが小さく鳴いた。エレオノーラとクリフさんは、矢と刃を下げたまま、目だけで周囲を弾く。
――その時、谷の天井が、静かに“鳴らない”音で震えた。黒い房が、まとめて“息を吸った”のだ。第三の糸が、風のない谷で、息を作ろうとしている。
「鈴はまだ鳴らすな」
よっしーの声が、耳の中で静かに通る。彼の背は揺れない。舟は、不意の流れに寄り添うように進む。俺は棹の先で名をもう一度、丁寧に書いた。――セラ。あーさんが掌の水を薄く伸ばし、セラの喉の上に“呼吸の道”を描く。ニーヤが風で舟の背を押し、キリアが耳で谷の曲がり角を先に“見る”。
黒い房は、降りてこなかった。息を作るのに失敗したのだ。風のない谷で息を作るのは、家の子でも難しい。まして、名を食べるだけの黴には、まだ無理だ。
耳舟、帰港
棟に戻るまで、舟は一度も鈴を無駄に鳴らさなかった。よっしーの背中は“等速”で、カムの言ったとおり、鳴らない舵は上手い舵だった。俺は棹を抱え、舟から降りた。カムが近づき、セラを見る。目が、すこし濡れた。
「名は、呼ばれたか」
「呼ばれた。セラだ」
俺が答えると、カムは舳先を撫で、唄う棹に指を置いた。「棹は、歌に返しとけ」
「返す」
俺は棹の握りを“歌”へ向ける。あーさんが掌に水を受け、ニーヤが鈴を布越しに一度だけ鳴らし、エレオノーラとクリフさんが“間”を置く。よっしーは相棒のボンネットに手を置き、キリアは目を閉じた。唄う棹は、すっと軽くなり、黒檀の奥の熱が、少しだけ小さくなった。歌が、棹へ戻ったのだ。
「ほな、相棒に乗り換えや。セラ連れて塔へ戻るで」
よっしーが笑い、平成元年の鉄がわずかにライトを瞬かせた気がした。セラはあーさんの膝の上で目を閉じ、喉の紅の痕が薄くなる。名を呼ばれると、紅は薄くなるのだ。
反響――そして裂け目
塔へ向かう紙道は開いた。けれど、入口の上に、昨日はなかった“継ぎ目”が一本、細く走っていた。黴ではない。紙が紙を押し返した“ひずみ”。柱都で半拍ほどいた“返り”が、ここまで届いているのだ。
「結び目、二つ残して、一つほどく」
俺は旗の裾を結び目に当て、布の目で“躊躇”を作った。あーさんが水で丸め、ニーヤが風で“返り”を逃がす。エレオノーラが矢で“拍”を落とし、クリフさんが足で“戻る道”の重さを足す。よっしーは相棒のエンジンを止め、紙の耳を静かにする。……継ぎ目は眠り、紙道は口を開いた。
「ただいま」
塔の扉が開き、ルゥとダンが駆けてきた。セラを見て、二人の目が丸くなり、次の瞬間、泣き笑いになった。名で呼ぶ。“セラ”。呼び習いの声は、音にならなくても、目でわかる。塔の梁の札が揺れ、家の拍子がひとつ増える。
その夜、火のそばでセラが小さな声を出した。乾いて、けれど、確かな声だ。
「……セラ、です」
あーさんが掌を重ね、目を潤ませて笑った。「はい。セラ殿」
よっしーは「やったなぁ」と笑い、ニーヤは尻尾を立てた。エレオノーラとクリフさんは目を閉じて小さく頷き、キリアは職人の目で“音程”を確かめるみたいにセラの声を聞いた。カムは舟の棟で灯りを落とし、遠くの砂は今日も冷え始める。
《E・S:五頁》
夜更け。旗の裾がまた、するりと軽くなり、一枚の紙が落ちた。《E・S:五頁》。
“舟は名で進む。
名は呼ばれて進む。
呼ぶ者がいなければ、名は立ちすくむ。
立ちすくむ名に、橋を。
橋は重ねよ。細く、長く、低く。”
紙を読み上げると、あーさんが胸に手を置いた。「橋は、低く」
「高い橋は見栄えがええけど、風に弱いわな」
よっしーが笑い、ニーヤが「低い橋は、猫でも渡れるニャ」と誇らしげに言う。エレオノーラは矢を一本だけ撫で、クリフさんは短く「心得た」と呟いた。キリアは紙を見て、静かに頷く。「炉に貼っておく」
砂の方舟
翌朝。塔の外に、見慣れない影が並んでいた。砂の上を滑る細長い台。耳石を多めに埋めた“砂舟”。乗れば、砂丘を越えて遠くまで行ける。けれど、舵は難しい。耳で聞き、足で押し、鈴で止める。
「段主代理から、半分“内々”に貸し出された。『家の搬送に使え』と」
カイが息を弾ませて言った。段主代理。昨日、柱の前で“譲歩”した男。彼が、家の“搬送”に舟を、と? おかしな話だ。だが、職人の世界では、こういう矛盾が橋になる。
「罠、かも」
エレオノーラが目を細める。クリフさんは黙って弓を背に回し、よっしーは砂舟の底を覗き込み、耳石の配置を見て「おもろ」と笑った。ニーヤは鈴の座に鼻を寄せ、「嫌な匂いはしないニャ」と言う。あーさんは掌に水を受け、舟の縁の“角”を丸くした。
「使わせてもらお。罠でも橋でも、踏んで確かめるんが家や」
よっしーがそう言って、相棒の後ろに砂舟を結んだ。「連結完了。平成元年の鉄と、砂舟のコラボや」
「言葉の組み合わせが、時々、とんでもない」
俺が笑うと、あーさんも小さく笑った。「けれど、頼もしゅうございます」
旅の途上、影の教会
塔から西へ一日。砂丘の陰に、小さな礼拝堂の影が現れた。壁は崩れ、屋根は落ち、祭具は砂に半分埋もれている。祈りの跡だけが、ひんやりと空気を冷やしていた。
「“影の教会”って呼ばれとる場所や。赤でも黒でもなく、誰かが“祈った”だけの場所」
キリアが指で砂をすくいながら言う。祭壇の石に、薄く刻まれた言葉がある。
《箱は人をしまうな。歌をしまえ。》
工匠の祈りと同じ言葉だ。ここにも、誰かが同じ祈りを置いたのだ。
「橋やな」
よっしーが小さく言った。昭和の人は、こういう石が好きだ。俺も好きだ。あーさんは掌で文字を撫で、「墨が薄れても、跡は残ります」と囁いた。ニーヤは鈴を布越しに一度だけ鳴らし、エレオノーラは矢を一本だけ祭壇の脇に立て、クリフさんは帽子を脱いで一礼した。キリアは祭壇の石を抱えるように手を置き、「炉の脈と同じ」と呟いた。
黒い説法
礼拝堂の裏手に、足跡。軽い足。数は多い。引きずった足も混じる。――連れて行かれた跡。俺たちは砂舟を降り、相棒のエンジンを切った。風は弱い。音は、よく通る。
「来訪者だ」
影の中から、黒い外套。第三の糸の布教者。笑わない目。乾いた声。
「また会ったね」
よっしーが毒づきそうになるのを、俺は旗を軽く振って止めた。ここは礼拝堂。祈りの言葉が残る場所。言葉は、選ばないといけない。
「君たちは、また“ほどき”に来た」
「“ほどき”は、呼吸だ」
「呼吸は、管理しにくい」
「管理しやすく死ぬより、管理しにくく生きたい」
男は首をわずかに傾け、礼拝堂の石に近づいた。刻まれた言葉――《箱は人をしまうな。歌をしまえ。》――を指でなぞり、布の下の口角をほんの少しだけ上げた。
「美しい矛盾だ」
「矛盾を怖れないのが、職人や」
キリアが歩み出た。彼女の喉の紅の痕は、もうほとんど消えている。「君は、矛盾を嫌う。だから、歌を嫌う」
「歌は、管理しにくい」
「でも、君は今、その石の言葉を“なぞった”。なぞることは、読むことだ。――君は、歌を読んだ」
男の目が、ほんのわずかに細くなった。乾いた黒に、薄い色が差す。彼は礼拝堂の奥を顎で示した。
「箱の民の列が、北へ向かった。“記録庫”に入れるために」
「ありがとう」
俺が言うと、男は肩をすくめた。「礼は要らない。効率だ。――君たちが彼らを奪えば、段と箱は争う。争いは、管理を難しくする。……それが、私の仕事だ」
「君自身は、どこに帰る」
訊ねると、男は答えなかった。答えの代わりに、影の中へ消えた。乾いた匂いだけが、石に薄く残る。
記録庫へ
記録庫は、北の岩の洞にあった。入口は狭く、奥は広い。壁一面に“札”が差し込まれている。名の札ではない。番号の札。箱の民の“記録”。呼べば、誰かが出てくる。けれど、呼ばなければ、一生出てこない。――箱の墓。
「静かに。ここは“耳”が多い」
キリアが囁き、俺は旗の裾を握り直す。あーさんは掌に水を受け、ニーヤは鈴を布で包む。エレオノーラとクリフさんは影の間を滑り、よっしーは相棒を洞の手前で待機させた。
踵の音を立てない。呼吸を短く。布の目を閉じ、開き、閉じる。札の列に、紅の痕が見えた。喉の紅。箱の民にされた者。列の端に、髭の白い工匠の背が見える。――カム?
「……カム!」
キリアが口の形で呼ぶ。カムは振り向かなかった。番号で呼ばれているからだ。彼の耳は、名の呼び声に慣れていない。俺は札の列の前に回り、砂に書いたように、布で、床に、名を書いた。
――カム。
布の目が床を撫でる。床は砂ではない。冷たい石。けれど、名は石にも入る。あーさんが掌の水で名の形を濡らし、ニーヤが風で“返り”を作る。エレオノーラとクリフさんは札の列の隙間を押さえ、よっしーは洞の外に狙いをつけて待つ。
カムの肩が、びくりと動いた。彼はゆっくりと振り向き、目が“読む目”になった。名は、読むものだ。彼は列から一歩、二歩、出た。紅の痕は濃い。けれど、名は薄くない。
「帰ろか」
キリアが手を伸ばし、カムが頷いた。列から離れる足音が、記録庫の耳に聞こえた。耳は怒らない。耳は聞くだけだ。怒るのは、耳の向こうの“管理者”だ。
「来るぞ」
エレオノーラの声。洞の奥から、赤の裾。段の看守。彼らは速い。段の拍子で走る。俺は旗を上げ、布の目を開き、〈囁き手〉を“耳”の向こうに投げた。声は出さない。拍子だけを投げる。あーさんが掌の水を床に落として“躊躇”を作り、ニーヤが鈴を布越しに一度鳴らして“角”を丸め、エレオノーラが矢で看守の“足音”の前に“間”を置き、クリフさんが短く“退く拍”を地面に刻んだ。よっしーは相棒のドアを開け、出口の影に相棒の鼻先を向ける。
看守は、止まった。止まった瞬間に、拍子が崩れる。段は、止まると弱い。止まらなければ強い。だから、止める。半拍だけ。戻る拍は、家へ。
俺たちは洞を出て、相棒に飛び乗った。砂舟は結んだまま。よっしーがキーをひねり、平成元年の鉄が吠える。エレオノーラとクリフさんが後ろを押さえ、ニーヤが風で砂の“目”を寝かせ、あーさんが掌の水で“滑り”を作る。旗は布で“家の拍子”を相棒に渡した。
砂原の追走
赤の裾の一隊が出てくる。彼らは早い。段の拍子で走る。ただ、砂は段の味方ではない。相棒は砂の上で育った。よっしーは砂の“弱いところ”を踏まない。エレオノーラの矢が砂の“硬いところ”を打ち、クリフさんの刃が風の“筋”を切る。ニーヤは鈴を布越しに鳴らし、あーさんが掌の水でタイヤの“息”を揃える。俺は旗で“耳の堰”の角を丸め、紙道の入口を開き、閉じる。
追手は弱らない。けれど、止まる。半拍ずつ。止めるたび、相棒は前に出る。平成元年の鉄は、息の長い走りをする。俺たちは塔の旗へ向かい、砂舟は後ろで静かに揺れる。カムは後部座席で目を閉じ、キリアが彼の手を握る。セラはあーさんの膝で眠る。ルゥとダンの札が梁で揺れる。家は、増える。
ただいまと、次の頁
塔の蔵に戻ると、カイが安堵でへたり込み、塔の少女がセラを抱き、ルゥとダンがカムの膝に飛び込んだ。礼拝堂の石の祈りと同じ言葉が、塔の壁にも薄く刻まれる。《箱は人をしまうな。歌をしまえ。》刻んだのは誰か。――多分、みんなだ。
夜。旗の裾が、また軽くなった。紙は落ちない。代わりに、布目がまた一つ、増えた。指で撫でると、布が小さく笑った気がした。
「エス」
呼んでも、返事はない。けれど、祈堂の高みに立つ刺繍師の気配は、確かに強くなっている。段主代理の影は、まだ硬い。第三の糸は、まだ乾いている。けれど、家の橋は、低く、細く、長く、重なっていく。
「あーさん」
火の赤の前で、俺はいつものように呼ぶ。彼女は「はい」と返し、掌を胸に当てた。
「ありがとう。今日も、“名”が助かった」
「ユウキさんが“呼んで”くださるからでございます。……それに、みなさまが“待って”いてくださるから」
「うん。呼ぶ者と、待つ者。橋は、その間に落ちるもんな」
「落ちませぬ。――落ちぬように、わたくしたちは、歌を重ねます」
「歌を重ねる」
「はい」
小さな拍子が、火の前で三度、行き来した。外の風は弱いが、塔の中の風は、今日も確かだった。
その夜、塔の屋根で
眠れなくて、ひとりで屋根に出た。砂の夜は冷える。旗の布を肩にかけると、布の目が体温を覚えているのがわかる。相棒は塔の影で静かに眠っている。平成元年の鉄も、眠るときはただの鉄だ。そこがいい。
「ユウキ」
背後から、短い声。エレオノーラだ。彼女は弓を持たず、空を見上げて立っている。隣に、クリフさん。二人とも、言葉少なに星を見ていた。
「星は、音がない」
クリフさんが言った。「けれど、拍子はある」
「拍子があるから、矢は飛ぶ」
エレオノーラが言う。彼女の横顔は硬いが、風に当たると柔らかく見える。俺は旗の裾を握り、布目を爪で一つだけ弾いた。音は出ない。けれど、拍子は伝わる。
「……明日、また行く」
俺が言うと、二人は同時に頷いた。言葉はいらない。拍子で十分だ。
「あーさんが、風邪を召されませんように」
クリフさんが最後に付け加え、俺は笑った。「気をつけるよ。俺が」
星は、黙って遠い。けれど、家の屋根の上では、遠さは、怖くない。
朝、塔の下で
「集合ーっ!」
よっしーの声が塔の下で響く。平成元年の人は、集合の声が大きい。砂舟の耳石が、その大きさを“喜び”として記録した。相棒がライトを一度だけ瞬かせ(たように見え)た。
「今日は“橋の整備”。紙道の継ぎ目、柱都の入口、耳舟の棟、記録庫の前。低い橋を重ねてくで」
よっしーの指示に、みんなが頷く。カムは唄う棹を抱き、キリアは炉から持ってきた薄い“熱”の瓶を揺らし、ルゥとダンは粉の袋を抱えて走る。セラは塔の少女の膝の上で、布切れに自分の名を練習している。あーさんは掌の水を薄く伸ばし、ニーヤは鈴を布越しに撫で、エレオノーラとクリフさんは“見張りの音”を砂に移す。俺は旗を肩にかけ、布目を数える。――今日も、ほどき、綴じ、呼び、書く。
家の拍子で、世界は少しずつ、柔らかくなる。
低く、細く、長く、重ねる橋で。
――
(つづく)




