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第30話 風の止む都へ



(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)


塔の蔵に朝が落ちて、旗の布目が一つ、明るくなる。地図の余白に、塔の少女が昨夜描いた細い印――“柱都はしらと”。核都のさらに奥、砂と岩の脈が幾重にも重なった地帯に、音も風も吸い込む穴がいくつも穿たれて、そこを貫くように“柱”が立っているという。段主代理の“本当の柱”がある場所。そこをほどけば、核都全体の硬さが半分になる。


「風が通らへん場所やねやろ? ほな相棒の冷却も気ぃつけな」


よっしーは工具箱を片付け、虚空庫から折り畳みのポリタンクをずらりと出す。水は塔の井戸から。ルゥとダンが嬉々として汲みに走り、あーさんが蓋のパッキンを丁寧に拭く。ニーヤは杖でタンクの“水音”を聞き分け、満ち具合を均等に揃えた。エレオノーラは弓弦を張り直し、クリフさんは矢羽根を蒸気で整える。俺は旗の裾に、塔の少女が練ってくれた“紙止めの粉”の小袋を縫い付けた。


「ふたりは、塔で待っててほしい」


ルゥとダンに向き直ると、ふたりは同時に息を呑み、すぐに頷いた。名を取り戻して一晩。それでも耳はもう“番号の耳”ではない。残る勇気も、行く勇気も、同じ重さで量れるようになっている顔だった。


「戻ったら、また“呼び習い”の続きをしませう」


あーさんが微笑む。ルゥは顔を綻ばせ、ダンが「はい」と短く、それでも確かな声で応えた。


塔の旗は軽く鳴った。家の拍子が、今日の行軍の背骨を作る。


風枯れかぜがれのを越えて


柱都へ向かう道は、地図で見るよりも荒れていた。砂は細かく、岩は角が立って、空気はなめらかに見えるのに“重い”。風が通らない土地は、匂いが留まる。遠い火の匂い、古い紙の匂い、鉄と汗と、すこしだけ甘い花の香り。どれも薄いが、消えない。


「水温計、見張っとくで」


よっしーが相棒のボンネットに手を置く。平成元年の鉄は、風があれば長く走るが、無風は苦手だ。ラジエータの前に布を少しだけ立てて、熱の流れを“家寄り”に変える。ニーヤが〈風縫い〉で流路に一本の筋を通し、あーさんが水を掌に薄く張って、蒸発の“拍子”を作る。俺は旗でフロントガラスの内側の反射を抑え、〈地継〉をタイヤに少しだけ渡す。


相棒は砂を噛み、低く歌う。家の歌を知っているみたいに。


「ここから先は“聞こえ”が狂う」


エレオノーラの眉間に皺が寄る。クリフさんは耳を指先で揉んで、肩を回した。風がないということは、音の逃げ道がないということだ。囁きは遠くへ行かず、足音は地面に張り付く。段の“声”も、家の“歌”も、ここでは重くなる。


「それでも、歌う」


旗の布が微かに鳴った。あーさんが頷き、ニーヤが鈴を布越しに撫でた。よっしーはギアを落とし、回転を少し高めに保つ。相棒の針は安定している。砂に窪んだ“息の谷”を渡り、岩が斜めに起き上がった“舌”を避け、俺たちは柱都の外縁にたどり着いた。


柱都はしらとの門


門と呼ぶには簡素すぎる。岩壁にぽっかり開いた楕円の穴。その縁に、細い刻み目がぐるりと刻まれ、まるで“歯車の歯”のように見える。歯は数えられないほど多い。風が吹けば口笛を吹くのだろう。しかし、ここでは鳴らない。風がないからだ。


「“黙詩もくし”で開く」


カイから聞いていた言葉を思い出す。声を出さずに、詩を詠む。息と拍と、触れ。音が消える場所では、別の道具で詩を投げる。


俺は右手で旗の布目を一つずつ撫で、左手で門の縁の歯に、家の拍子を“押し込む”。あーさんが掌に水の円を描き、俺の手の甲に静かに置いた。水は冷たく、やわらかい。ニーヤが杖で空気の層を薄くずらし、よっしーが相棒のエンジンを一瞬だけ止める。エレオノーラは呼吸を最小に、クリフさんは踵の重さを整えて、俺の背のやや後ろに立つ。


声にはしない。けれど、内側で詠む。


風は箱に入らず、家に入る。

家は旗に入り、旗は君に入る。


歯が一枚、わずかに“退いた”。歯車の歯が、ほんの半拍だけ遅れる。門の縁がふっと緩み、楕円の穴がわずかに広がる。俺はさらに布目を撫で、あーさんが水を一滴、門の“角”に落とす。遅れがもう一枚、伝染する。黒い岩の門が、静かに、しかし確かに開いた。


「入るで」


よっしーが相棒のキーをひねる。エンジンはすぐに目を覚ました。平成元年の鉄は、こういうとき頼りになる。相棒は灯りを落とし、ゆっくりと柱都へ滑り込む。


柱の腹


中は思ったより明るかった。天井の高いところに、薄い石の膜が光を通している。風は――ない。音は――落ちると、すぐそばで跳ね返る。歩くたび、靴の底が自分の足首を叩くみたいに感じる。相棒のタイヤが砂を掴む音も、すぐ耳の前で収束して、どこにも行かない。


「ここが“柱”」


最初の柱は、岩ではなかった。紙だった。何千枚もの厚紙が、湿らせられ、重ねられ、圧され、乾かされ、さらに重ねられ……そうしてできた“紙柱”。その表面には、無数の“段”の文型が押し付けられて、押印の跡がうっすらと残る。近づくと、紙の匂いがむっと押し寄せる。新しい紙と、古い紙と、濡れた紙と、焦げた紙の匂い。


「硬い紙は、ほどきにくい」


ニーヤが耳を伏せる。あーさんは掌の水を薄く伸ばして紙柱に触れ、すぐに手を離した。


「……水を吸いすぎると、崩れ落ちてしまいます。ですが、水がなければ、角がほどけませぬ」


「角」


エレオノーラが指先で紙柱の表面を撫で、微細な“エッジ”を確かめる。クリフさんは柱の根元の“継ぎ目”を探す。よっしーは相棒の位置を柱の“息”から半歩外して停めた。相棒にも“拍子”がある。柱のそれと干渉させないのが、長くここに居るコツだ。


「家の綴りを、柱に“混ぜる”。全部は要らない。半拍だけ」


俺は旗の布を紙柱の縁に当て、〈囁き手〉をほどいた。音ではない。布の目の“感触”で柱に触れ、柱の“硬い拍子”の“間”に、家の“遅い拍子”をひとかけらだけ差し込む。あーさんが水で角を丸め、ニーヤが風の筋を一本だけ柱の“中”に通す。エレオノーラは天井の光の膜を矢の先で軽くつついて、光をわずかに散らす。クリフさんは柱の根の“結び目”に紙止めの粉を薄く置いて、戻る道を残す。よっしーは相棒のアイドリングを“寝息”のようにする。全部合わせて、“ほどき綴じ”。


柱は――きしり、と鳴らなかった。鳴らない代わりに、匂いが変わる。湿りの底に、薄い甘さ。昔の箪笥を開けたときのような匂い。……家の箱の匂いだ。


「もうひとつ、奥に“しん”がある」


柱の表面のほどきでは足りない。奥の芯。段の“骨”が通っているところ。そこを半拍だけ緩めたい。


「穴を開けずに、芯に触れる」


紙柱の“帯”の間に、ほんの薄い隙間がある。そこに紙針の“背”を滑り込ませる。針先は使わない。尖りは傷をつけやすい。背で撫でる。家で学んだやり方だ。あーさんの水が針の背に薄く張り、ニーヤの風が針の“震え”を吸い、エレオノーラとクリフさんが“見張りの音”を柱の外へ遠ざける。よっしーは相棒のドアを半ば開き、ラジオの“砂嵐”を最小で流して、柱の耳を眠らせる。


紙針の背が“芯”に触れたとき、紙柱の匂いがもう一段、変わった。少しだけ、甘い。少しだけ、懐かしい。少しだけ、やわらかい。


「……成功だ」


エレオノーラが短く言い、クリフさんが頷く。あーさんの肩から力が抜け、ニーヤが尻尾を上に向ける。よっしーが「ほな次いこか」と相棒に腰をかけた。


柱番はしらばんとの“黙問答”


二本目の柱の前に、灰色の衣の人影が立っていた。顔には布。胸に番号。……箱の民かと思ったが、足の置き方が違う。柱の拍子と揃っている。ここで長く生きてきた人の足。


「『黙詩』の者か」


声ではない。足音。踵と指、膝と腰。細かな“重さの置き換え”で伝えられる問い。柱都の“言語”だ。ここでは、声が通らない。だから、黙って問う。黙って答える。


俺は旗の布を足首に軽く巻き、布の厚みで“拍子”を作る。あーさんが掌で俺の脛をそっと押し、水の重さを一滴だけ乗せてくれる。俺は足で答える。


――家の者。

――柱を壊しに来たのではない。

――硬さを半拍、ほどきに来た。


灰衣は足で問う。


――ほどいた先に、誰が得をする。


俺は足で答える。


――家。

――箱も、少しだけ楽になる。

――黴は、困る。


灰衣はわずかに首を傾げ、足で笑った。音はないが、笑いはわかる。


――よし。ならば、三拍をやれ。


三拍。柱都の“稽古”。足の重さを三度、別の場所へ置き、柱の拍子を半拍ずつ遅らせ、最後に“戻る”拍を自分に返す。間違えば、柱に飲まれる。成功すれば、柱が“家寄り”に傾く。


よっしーが相棒のエンジンを止め、ニーヤが鈴を布でくるむ。エレオノーラとクリフさんは矢を収め、あーさんは俺の足首に“水の糸”を一本巻いた。俺は一拍目を右の土踏まずに、二拍目を左の踵に、三拍目を両膝の間に置いた。どれも、柱の拍子より少しだけ遅く。戻る拍は、旗の布へ。


柱は、鳴らなかった。鳴らない代わりに、二本目の柱の上の光がわずかに柔らかくなった。灰衣が足で笑い、手で“先へ行け”と示す。俺たちは礼を足で返し、三本目の柱へ向かった。


乾きかわきかび


三本目の柱は、紙ではなかった。塩だった。微細な塩の結晶が、水気のない空気の中で成長し、柱の形を作っている。白く、脆く、触れただけで粉が落ちる。乾きすぎて、逆に“水を喰う”柱だ。


「ここに“第三の糸”が寄りやすい」


エレオノーラが弓を握り直す。ニーヤの耳がぴんと立ち、あーさんは掌の水を胸元に隠した。よっしーは相棒の影にポリタンクを運び、布で覆う。クリフさんは矢ではなく短い刃を腰に差した。いつも刃を持たない彼が差す。つまり、近い。


塩柱の表面に、黒い“継ぎ目”が走っていた。紙の黴よりも細い。水を探して、塩を這い、柱の中へ入ろうとしている。水を見つければ、一気に広がる。


「粉を“結び目”に置く」


塔の少女から受け取った小袋を開ける。白い粉は、紙を紙で止める粉。塩に効くかどうかは、まだわからない。けれど、結び目を守ることは、いつも効く。


あーさんが粉を塩の“目”に薄く置き、ニーヤが風で周りの粉塵を払う。俺は紙針の背で黒い継ぎ目の“縁”を持ち上げ、塩の粒を崩さないように“食べどころ”を塞いでいく。よっしーは相棒のラジオをもう一段低くして、空気の“ざらざら”を作る。エレオノーラとクリフさんは黒い継ぎ目の“出入り口”を押さえ、動きを読む。


――そのとき。


塩の柱の奥から、かすかな“湿り”が走った。ここは風がない。けれど、湿りはある。誰かが――泣いている。


「……柱童はしらわらべ


灰衣がいつの間にか背後に来ていて、足で示した。塩柱の中に、小さな空洞がある。その中に、小さな人影。喉に紅の跡。目は乾いて、でも涙の筋だけが塩に刻まれている。


「水をやれば、黴が寄る。水をやらねば、声が枯れる」


この都の残酷な“均衡”。段主代理が設けたのか、黴の布教者が持ち込んだのか。どちらにせよ、家にとっては地獄だ。


「……あーさん」


呼ぶ前に、彼女は進み出ていた。掌の水を、一滴。触れない。空気の上に一滴を浮かべ、柱の“目”に沿って、童の唇の上へそっと落とす。水は塩を吸い、塩は水を吸い、黒い継ぎ目が騒ぐ。俺は旗を布ごと持ち上げ、黒い継ぎ目に布の“温度”を押しつけた。黴は温度が苦手だ。熱でも冷でもなく、“体温”。家の体温は、黴にとって“居心地が悪い”。


ニーヤが鈴を布越しに二度鳴らす。乾いた塩は、音に“ずれる”。エレオノーラとクリフさんが塩の“目”を矢と刃でそっと撫で、継ぎ目の進行を遅らせる。よっしーは相棒のヘッドライトを反射させ、光で童の瞳に“帰る道”を描く。


童の唇が、わずかに動いた。声は出ない。けれど、喉の奥で“名の形”が震える。――名前がある。なら、橋は作れる。


「呼び習い」


俺は塩柱に掌を当て、童のこめかみの方向へ旗の裾を伸ばした。あーさんが掌を重ね、ニーヤが鈴をもう一度だけ鳴らす。俺は囁き手を、内側だけで回す。


“あなたは、あなた。”


童の喉が震え、目の奥で何かが灯る。唇がもう一度動く。――音は出ないが、形が見える。


「……セ、ラ」


セラ。名が橋を渡る。塩柱の内側で、セラの涙がもう一筋、塩に刻まれた。黒い継ぎ目が“食べどころ”を見失い、少しだけ退く。あーさんが掌の水をもう一滴、セラの舌先へ。ニーヤが風で黒い粉塵を払う。俺は布で黒い継ぎ目を押さえ、紙針の背で“縁”をなぞり続けた。


「――退き綴じ」


エレオノーラの目が合図する。ここで長居はできない。結び目を残し、戻る道を確かめ、塩の“目”を丸くして、柱の“芯”に半拍だけ家を残す。セラは目を閉じ、頷いたように見えた。塩の隙間がすこし広がる。いつか、戻る。ここから、出す。その“いつか”のために、今日の“半拍”を残す。


柱主はしらぬし


四本目の柱――岩と紙と塩が層になって立つ柱――の前に、赤の裾が現れた。段主代理。昨日、写音炉で対峙した、笑わぬ声。彼の目は、今日も乾いている。けれど、乾きが少しだけ“重い”。たぶん、彼も“第三の糸”の粛清に手を焼いているのだ。


「柱に触れたな」


声は小さく、よく通る。風がなくても、よく通るように作られた声だ。


「半拍だけ」


俺は言う。旗の布を握り、目を逸らさない。あーさんは少し後ろで掌に水を持ち、ニーヤは鈴を布で包む。エレオノーラとクリフさんは弓と刃を下げ、よっしーは相棒のキーを指で回す。灰衣は柱の影で身じろぎしない。


「柱は“秩序”。君は“混沌”を持ち込む」


段主代理の言葉は、段の文型そのものだ。俺は首を振る。


「家は“秩序”。箱のための秩序じゃない。息を合わせる秩序だ」


「息は乱れる」


「乱れるから、生きてる」


彼の目が、ほんのわずかに細くなる。怒りではない。評価のための“焦点”。俺は旗を上げ、布目をひとつだけ開いた。あーさんが水を薄くその上に落とし、ニーヤが風の“筋”を一本だけ通す。柱の匂いが、ほんの少しだけ、変わる。


「……君は、君の家を守れ」


段主代理が言った。不可解な“譲歩”。彼は赤の裾を翻し、柱の奥へ消えた。残ったのは、乾いた匂いと、わずかな“余裕”。柱主は、敵であり、そして、“家を持つ敵”なのかもしれない。家を持つ敵は厄介だ。嫌いではない。


退路と“第四頁よんページ


柱都からの帰路は、行きよりも静かだった。風はない。けれど、俺たちの胸の中には、家の風が通っている。無音の門を黙詩で閉じ、砂の上へ戻る。相棒は水温を保ち、砂を噛み、平成元年の歌を低く続ける。


紙道の入口で、あーさんが通行詩を掌の中でそっと撫でた。紙の扉が開き、白い道が口を広げる。俺たちは滑り込み、塔の蔵へ戻った。


夜。旗の裾から、また一枚、紙が落ちた。《E・S:四頁》。


“柱は立つ。

立つものは、影を作る。

影は冷たい。

冷たいものは、水でほどける。

ほどいた跡に、名を書け。”


読み上げると、あーさんが胸の前で掌を重ねた。よっしーは「水、積んできてよかったな」と笑い、ニーヤは尻尾をていねいに舐めた。エレオノーラとクリフさんは黙って目を閉じ、灰衣は柱都の“黙問答”のまま、足で礼を返したように見えた。


さざめく報せ


翌朝、塔の階段を駆け下りてくる足音。カイが紙束を抱え、息を切らしている。後ろに塔の少女。二人の顔に、いつもの“仕事の焦り”ではない別の緊張。


「キリアが――写官のキリアが、行方をくらました」


カイの言葉が、塔の布をひやりとさせる。祈堂の職人。炉を壊さず、家を生かすと笑った女が、消えた。


「段主代理の命じゃないんか?」


よっしーが眉を跳ね上げる。塔の少女が首を振る。


「赤の中でも、意見が割れてる。『ほどき』を『裏切り』と呼ぶ派と、『必要な按摩あんま』と呼ぶ派。その狭間で、第三の糸が、誰かの足を掬う」


「第三の糸……」


エレオノーラが矢羽根を撫でる。クリフさんは弓の握りを確かめる。あーさんは掌の水を薄く伸ばし、ニーヤは帽子の鈴をそっと押さえた。俺は旗の裾を握った。布目は、今日も整っている。


「行く」


言ったのは俺ではなく、あーさんだった。明治の乙女の瞳に、静かな炎。


「キリア殿は、炉を守る職人にござります。職人は、家の中にも外にもおりませぬ。どちらにも属さぬ者の“橋”を外されれば、家も箱も崩れましょう」


「せやな。職人が折れたら、世界は音を失う」


よっしーがうなずく。ニーヤは「鈴は、職人の指でいちばん上手に鳴るニャ」と呟き、エレオノーラは「借りを返す」と弦を撫でた。クリフさんは短く「恩」と言い、背負い革をきゅっと締める。


「場所は」


カイが紙を広げる。核都の外、砂丘の陰、古い“紙焼きかみやきがま”。工匠が紙を硬くするために火と塩で焼きを入れる施設。今は使われていない。そこに“赤の影”が出入りしているという噂。……影は赤くない。黒くもない。乾いて、薄い色。


「柱都の“風のない拍子”を、まだ身体が覚えているうちに」


俺は旗を肩に回し、相棒のボンネットに手を置いた。平成元年の鉄は、今日も歌う。家の歌を、低く、しぶとく。


紙焼き窯にて


窯は砂丘の腹の中にあった。入口は低く、天井は低く、風はもちろん、ない。火の匂いはする。けれど、煙の匂いはしない。昔の火の残り香だけが、壁に薄く残っている。床には踏み跡。軽い足。重い足。引きずる足。……そして、運ばれる足。


「中ほどに、耳の“堰”」


ニーヤが囁く。鈴は鳴らさない。あーさんが掌の水で耳の“角”を丸くし、俺は旗の布で“黙詩”を押し込む。よっしーは相棒を入口の陰に隠し、エレオノーラとクリフさんは両脇の陰へ滑る。灰衣が小石を足で押し、拍子をずらす。


窯の奥に、赤の裾が見えた。……赤ではない。赤の布を粗く縫い合わせた“偽の裾”。細い体。早い呼吸。――キリアだ。手は縛られていない。けれど、喉に細い紅の符。箱の民に貼られるものとは違う。“段の沈黙符”。彼女は職人。段は“職人の声”を怖れる。


「……来たのね」


キリアの唇が、声にならない声で言った。俺は旗で彼女の目の合図に答える。段主代理の影は――ない。かわりに、天井に黒い継ぎ目。第三の糸が窯の“目”に根を張って、紅の符に触れようとしている。


「符を剥がす。黴に喰わせない」


俺は旗の裾を紅の符の縁に滑り込ませ、布の“温度”を一点に押し当てた。あーさんが掌の水を一滴、符の角に置き、ニーヤが風で黒い継ぎ目の“食べどころ”を撫でる。エレオノーラは矢で天井の黒糸を“節”で打ち、クリフさんは足音を窯の外へ“運ぶ”。よっしーはラジオを逆相にして、窯の“耳”を眠らせる。


紅の符が、ふ、と剥がれた。キリアの喉が動き、声が戻る。


「……ありがとう。――でも、まだ」


彼女の目が奥を見た。窯の底、焼き床の向こうに、薄い影。黒い外套の男。第三の糸の布教者。彼は笑っていない。泣いてもいない。乾いている。


「職人は、邪魔だ」


彼は言う。「段にとっても、箱にとっても。君たちは“ほどく”。ほどかれたものは、管理しにくい」


「管理しやすいものだけを残すのは、墓でやってくれ」


よっしーが吐き捨てる。男は首をすこし傾けた。


「墓は、管理が楽だ」


「生きてる間に墓を作る趣味はない」


俺は旗を握り、布目を開く。キリアが炉のダイヤルに触れるように、窯の壁の“熱の記憶”に指を当てた。職人の指は、世界の“癖”を見つける。彼女は目を細め、囁く。


「この窯、息をしてる。昔の火で」


「息を使う」


あーさんが頷く。掌の水を壁に薄く広げ、乾く拍子で窯の“呼吸”を呼び覚ます。ニーヤが風の筋を一本だけ通し、エレオノーラが矢で“拍”を打ち、クリフさんが足で“間”を置く。よっしーは相棒のキーを一度だけ“カチ”と鳴らした。窯の奥の空気が、すこしだけ膨らむ。


黒い外套の男の目が、わずかに細くなった。乾き黴は、息を嫌う。塩柱で見たとおり。窯の息が戻れば、黒い継ぎ目は“食べどころ”を見失う。


「――退く」


男は淡々と言い、背を向けた。追えば、罠。追わなければ、去る。俺たちは追わない。職人を連れ、窯の息を少し残し、結び目を置き、塔への道を戻る。


名を書け


塔に戻る道、砂の上。風は少しだけ戻っていた。柱都でほどいた“半拍”が、遠くまで伝わっているのかもしれない。相棒は軽く歌い、旗は軽く鳴る。家の拍子は、今日も正しく、少しだけ遅い。


キリアは喉に残った赤の痕を指で撫で、短く笑った。


「段は怒ってる。『ほどき』は“秩序”を乱すから。――でも、炉は回ってる。怒ってても回すのが、段の矛盾」


「矛盾を泳ぐのが、職人の仕事や」


よっしーが言って、キリアが頷いた。彼女は俺の旗の裾に視線を落とし、小さく目を見開く。


「“四頁”。……読んだ?」


「読んだ。『ほどいた跡に、名を書け』」


「書いた?」


まだ、だ。俺は旗の裾から針を抜き、砂の上に膝をついた。あーさんが掌の水を差し出す。ニーヤが風で砂の“目”を揃える。エレオノーラとクリフさんは背を向け、見張りの音を遠くへ追いやる。よっしーは相棒のボンネットに腰かけ、空を見上げる。キリアは少し離れて、職人の目で、俺の手元を見ている。


俺は、砂の上に、塩柱の童の名を書いた。


――セラ。


そして、柱都で足で笑った灰衣に、名を尋ねるように、砂を打った。灰衣は足で答え、俺はそれを砂に書いた。


――ウラ。


ルゥとダンの名も、小さく。塔の梁の旗の切れ端に結んだ工匠の祈りの名も、小さく。書いて、吹いて、砂を少しだけ固める。雨が降れば消える。風が吹けば消える。けれど、今日の風は優しい。家の風は、名前を一日ぶん、守ってくれる。


「ありがとう」


キリアが言った。職人の礼は、短くて、重い。


明日の綴り


夜。塔の蔵の火が小さくなり、みんなが眠りはじめたころ、旗の裾がほんのすこしだけ重くなった。手を伸ばすと、紙は落ちない。代わりに、布目が一つ、増えている。音は出ない。けれど、布が“嬉しい”ときの手触りがある。


「エス」


呼んでも、返事はない。柱都の影で、彼はまだ橋の上に立っているのだろう。段と家と箱のあいだで、刺繍の糸を一本ずつ抜いたり足したりしているのだろう。困って、笑って、困っているだろう。


「ユウキさん」


背中から、あーさんの声。眠りに落ちるまえの、柔らかい声。


「柱都で、呼び習いをなさったとき……ユウキさんの手は、たいそう温うございました」


「怖かったから」


「わたくしも、怖うございました。……けれど、その怖さが、歌を覚えさせてくれるのだと、今は思えます」


「うん」


「明日も、歌いませう」


「歌う」


「――はい」


小さな拍子が、ふたりの間で三度、行き来した。


火がぱちりと鳴り、塔の外の風が、ほんの少しだけ強くなった。柱都へ向かう前よりも、風は確かに、通っている。半拍。半拍ずつで、十分だ。


家で眠る。

明日、また行く。

“ほどく”ために。

“書く”ために。

“呼ぶ”ために。


――


(つづく)

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