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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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黒い継ぎ目の向こう側



(主人公・相良ユウキ=“綴” の視点)


夜明けの砂は、冷んやりとして気持ちがいい。塔の蔵の前で、俺たちは黙って風を聞いていた。布の鳴りを小さく一度。家の拍子が整う。昨夜に垣間見た“第三の糸”――紙を喰うかびの継ぎ目は、風が吹くたび、砂の下へと潜っていく。塔の少女から渡された“紙止めの粉”の袋は、あーさんの小袋に。彼女の細い指が、確かに握っているのが視界の端でわかった。


「朝飯にしよか。腹減ったら、ええ綴じもできへん」


よっしーが虚空庫から取り出したのは、缶詰と分厚い食パン、そして――カリカリに焼いたベーコン。相棒のボンネットの上に鉄板を敷き、じゅう、と音が立つ。


「懐かしい匂いだな」


クリフさんが笑い、エレオノーラがほんの少しだけ口元を緩める。ニーヤは鼻をぴくぴくさせながら、「脂は鈴に跳ねるから遠慮するニャ」と言いつつも、結局ひと切れもらって尻尾が真上。ブラックはいつも通り、俺の膝で香箱になり、目だけがベーコンを追う。


朝食を終えると、塔の蔵の扉が軋んで開いた。カイが紙束を抱えて出てくる。


「“核都”の裏手に、もうひとつの入口がある。工匠たちは“反響井戸はんきょういど”と呼んでる。声が落ちると十倍になって返ってくる古い井戸穴。底は写音炉に繋がっているらしいけど……今は塞がれてる」


「塞がれた壁を“ほどく”のが、旗の仕事だろ?」


俺が言うと、カイは少しだけ微笑んだ。


「……ただ、あそこは“第三の糸”がうろつく。塔の粉だけじゃ心許ない。案内人を立てる。――ルゥ!」


奥から駆けてきたのは、灰色の工服の小柄な少女だった。年の頃は、十を少し超えたくらい。首元に残る薄い紅の痕。“箱の民”の紅符の名残だろう。それでも瞳は芯が強い。耳の上に、紙で編んだ小さな飾りが留めてある。ひらりと揺れる。


「ルゥです。反響井戸の下で働いていました。耳が……ちょっと、いいんです」


「よろしく。俺はユウキ、こっちはよっしー、エレオノーラ、クリフさん、ニーヤ、ブラック……それから、あーさん」


いつものように呼ぶと、あーさんが小さく頷き、裾を揃えてルゥに会釈した。ルゥは目を丸くし、そのあと、ふっと花のように笑った。


「“あーさん”。やさしい音」


彼女の言葉に、あーさんの頬が紅に染まる。明治の乙女の柔らかさが、ひとつ、場を明るくする。


「行こか。相棒も、耳を澄ます準備しとくわ」


よっしーがキーをひらりと指で回し、相棒のボンネットを軽くノックした。昭和の鉄は、今日も機嫌がいい。


反響井戸はんきょういど


塔から北へ半刻。砂丘の間にぽっかりと口を開けたほらが現れた。近づくほどに、喉の奥が変にざわつく。“空気の重なり”が耳の中で鳴る。ルゥが足元の石を拾い、井戸の外縁からそっと落とした。


――からん。

――――からん。

――――――――から、から、からん。


反響が折り重なり、音の輪郭が増殖する。俺は旗を握り、布の目を一目ずつ撫でて“過剰な反射”を和らげた。紙針の先で、井戸の内側に縫われた薄い祈り札の境目を確認する。古い。塔の紋ではない。工匠たちが“段”の型紙を真似て貼り、音の逃げ道をせき止めた痕跡。


「塞がってる“蓋”は、三重。外は工匠の札、中は赤衣の段。いちばん奥は……“かびの膜”」


ルゥの声は小さいが、はっきりしている。耳が本当にいいのだ。エレオノーラが矢尻で井戸の内側を軽く叩き、クリフさんが“響きの遅れ”を測る。ニーヤは杖の先で空気の脈動を探り、あーさんは紙止めの粉の袋を握り直した。


「順にほどく。外から内へ。戻る道は、必ず残す」


俺は旗の布を井戸の内側にふわりと触れさせ、〈囁き手〉を薄く通す。布が鳴らず、空気の“裏側”だけが震えるように。祈り札の一枚が、ふっと眠り、剥がれた。続けて二枚、三枚。やがて、外側の“蓋”が外れ、井戸の奥から冷たい気配が吹き上がる。


第二層――赤衣の段。文字の骨が細かく刻まれていて、触るだけで“命令文が脳に刺さる”。家の詩で慣らした胸が一瞬、硬くなる。ダメだ。これは“言葉の罠”だ。


「あーさん」


俺が呼ぶと、彼女はもう動いていた。水の薄膜を指にまとわせ、段の文字の“角”を一つずつ丸めていく。丸い水が、角張った命令を“ためらわせる”。命令がためらえば、段は弱い。よっしーが相棒のオーディオから古いラジオの砂嵐ノイズを小さく流し、ニーヤが鈴を布越しに一度だけ鳴らした。段の拍子が乱れ、二層目の“蓋”がほどける。


最後の層――黴の膜。黒くて、光を吸い、匂いは土と紙と、わずかな鉄。塔の少女の粉を、あーさんが小さな刷毛で“結び目の上だけ”塗っていく。粉は膜を避け、紙に馴染む。黴は結び目に取りつけず、膜の縁をぐるぐる回る。そこへニーヤの〈風縫い〉を“点”で落とす。風の針は黴の中心を嫌う。その嫌悪の“孔”を、紙針で糸一本ぶん、少しだけ広げる。


「開いた」


ルゥの囁き。井戸の奥から、湿った涼風が吹き上がる。音はさっきより澄んでいた。――降りよう。


「相棒は、外で待機や。落石したらシャレにならん」


よっしーの言葉に、相棒はヘッドライトを二度、瞬いた(ように見えた)。ロープを結び、矢筒を背負い、旗を肩に、俺たちは交代で井戸を降りた。ルゥは一番軽い。彼女の耳が道を選ぶ。


井戸の底は狭いが、四方に細い横穴が開いている。風は右から。水は左から。黴の匂いは……前から。俺は前を選んだ。逃げるなら、真っ直ぐ。追うなら、匂いの元へ。


黴の工房こうぼう


横穴の先は、想像よりも広かった。天井の梁に黒い糸が絡みつき、床のあちこちに紙束が積まれ、その間を、灰色の影が音もなく動いている。人だ。顔に薄布。胸に番号。――箱の民。彼らは黙々と“紙を濡らし、黒い液を刷り込み、干す”。黒い液は、黴の胞子をすり潰して作ったインクのようなもの。紙に刷り込めば、塔の札や旗の布の“継ぎ目”に忍び込み、内側からほどくのだ。


「“黴印ばいいん工房”……」


エレオノーラが矢の羽根を撫でながら呟いた。ルゥの肩が強ばる。彼女はここで働かされていたのかもしれない。あーさんがそっと彼女の背に掌を当て、息を合わせる。


奥で、黒い外套の男が背を向けたまま喋った。声は乾いて、皮肉が混じる。


「塔の粉は、腹の腸までは届かない。届かないうちに、内側から喰えばいい」


袖の縫い目に黒い糸――渦都で釘を投げた影だ。赤衣でも黒印でもない、“第三の糸”。黴の布教者。名札はない。あるのは“番号”だけ。彼は振り向かないまま、続けた。


「旗は家を守る。家は名を守る。名は人を守る。だから、その順に喰えばいい」


「名前を喰ってどうするんだ」


俺の声に、男は肩をすくめた。


「箱に入れ直す。箱は管理しやすい。管理は楽だ。楽は善だ」


「“楽”のために、歌を殺すのか」


あーさんの声が、細く強く響いた。男はようやくこちらを見た。顔の下半分が薄布で隠され、目は乾いた黒。そこに、怒りも喜びもない。あるのは“諦めの快楽”。俺は旗を握り、布の目を指で押した。


「黴は、役に立つ」


男は淡々と言う。「紙を生かし、紙を殺す。――箱は、黴を愛でる。赤衣は、黴を恐れる。塔は、黴を嫌う。君は?」


「俺は、家を守る」


「家は黴に弱い」


「だから粉をもらった。鈴も鳴らす。風も縫う」


「鈴は一度だけだ」


言い終える前に、天井の黒糸が一斉にうねった。床の“紙干し台”がひっくり返り、黒い粉が宙に舞う。ニーヤが鈴を鳴らしかけるのを、俺は手で制した。ここで鳴らせば、反響井戸が暴れ、工房全体が“音の塊”になる。


「音は……“糸でほどく”」


あーさんが息を吸い、掌を胸に、ゆっくりと吐いた。明治の女学校で習ったという“息の座り”。水の糸が空中の粉の流れを撫で、舞う方向を変える。エレオノーラが矢を三本、素早く天井の黒糸の“節”に打ち、クリフさんが床の干し台を元に戻す。ルゥが走り、濡れた紙束の端をすくい上げ、粉の黒が染み込むのを防ぐ。よっしーは相棒のバッテリーから細いコードを引き出し、携帯ラジオの“フェーズ”を逆相にして、粉の“塊”をほどく微細音を出す。


男は一歩引いた。目が笑っていない。布の下の口角が、怒っても喜んでもいない。


「箱の民。止めろ」


彼の命令に、灰の影が一斉に手を止めた。ルゥが一瞬、身を固くする。ここで彼女が“番号”に戻ってしまえば、負けだ。俺は旗を高く掲げ、声を投げた。


「番号ではなく、名前で呼ぶ。――君は?」


最前列の少年が、びくりと肩を震わせた。声は出ない。喉に紅の痕。あーさんが彼のこめかみに指を当て、静かに囁く。


「名は……心のどこかに、眠っております。思い出すまで、わたくしたちが“呼び習い”ましょう」


彼女の指に、水の糸が一本、細く光った。少年の目の奥に、何かが灯る。


「……ルゥ?」


彼がこぼした名前に、ルゥの動きが止まり、次の瞬間、目に涙が溢れた。


「ダン!」


彼女は走り寄り、少年の手を握った。ふたりの指の間を、水の糸がつなぐ。名が橋を渡る。男の肩が、初めてわずかに上下した。怒りか、苛立ちか。彼は黒い布を払って、一歩踏み出した。


「名前は、箱の邪魔だ」


「箱のための箱なら、そうだろう」


俺は布の目を打ち、足を前に出した。「――でも、“家の中の箱”は、違う」


「家の中の箱?」


「母さんが仕舞う裁縫箱、父さんが置く工具箱。開けるたび、誰かの手の温度が残ってる箱。……それは“歌をしまう箱”だ」


男の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。乾いた黒の底に、色の欠片が落ちて消える。


「くだらない」


彼は踵を返し、天井の黒糸に手を伸ばした。糸が音もなくほどけ、一本の“槍”になって落ちる。俺が避けるより早く、クリフさんが肩で俺を突き飛ばした。槍は床に突き刺さり、紙束を貫いた。黒い粉が舞う。エレオノーラの矢が男の袖を裂き、ニーヤの〈風縫い〉が粉の渦を押し返す。よっしーはラジオを最大にし、アナログの“ジリジリ”で粉の粒を分散させる。


「退き綴じ!」


俺の声に、皆が同じ方向を向いた。退くときは、一筆書き。“戻る道の結び目”をひとつずつ確かめる。あーさんが粉の結び目に薄く水を置き、ルゥとダンが背を合わせ、クリフさんとエレオノーラが最後尾、ニーヤが鈴を一度だけ鳴らし、俺は旗を背で風に当てる。黒い男は追ってこなかった。追えば、彼自身が粉を吸う。彼は、己の“効率”を壊さない。


井戸へ戻り、ロープを登る。地上の白光に目が眩んだ。相棒が待っている。よっしーが運転席でハンドルを撫でながら、口角を上げた。


「新入り、乗りや。ルゥと……ダン君やな」


「はい!」


ルゥもダンも、まだ体が震えている。相棒の後部座席は狭いが、いまは温かい。ブラックが膝の上に乗り、ニーヤが帽子を少し傾けて場所を空ける。あーさんが座席の背を布で拭き、エレオノーラとクリフさんは外周の警戒に走った。


砂の蛇行だこう


黒い継ぎ目は、すでに地表に四筋伸びていた。方向は、核都へ。塔の粉をまいても、糸は“腹をすかせた獣”みたいに進むのをやめない。よっしーがシフトを入れ、相棒が砂に牙を立てる。


「紙道使うと、黴まで滑り込んでまう。今回は“砂”でいくで」


車体は軽い。エンジンはよく回る。平成元年の鉄が、黄昏の砂を蹴る。俺は旗の布でフロントガラスの内側の反射を押さえ、〈地継〉をほのかにタイヤへ。あーさんは後部座席で粉の袋を押さえ、ニーヤは窓の外の風を縫う。ルゥは耳を澄ませ、前方の“音の谷”を指差す。ダンは彼女の指の動きに合わせて、短く合図を出す。息が合っている。家の拍子は、早くもひとつ増えた。


「来るぞ!」


砂丘の陰から、黒印の“鉄の虫”が現れた。核都の改造台車。キャタピラに吸音の布。後部に“粉のほう”。その後ろに、赤衣の隊列。……そして、最後尾に、黒い外套の男。第三の糸は、核都の“両者”に寄生しているのだ。


「前、砂の“梁”。飛ぶ」


エレオノーラの声に、よっしーが「任せろや」と笑う。相棒は二速、三速、四速。エンジンが吠え、砂丘の“背骨”に乗ってひと跳び。粉の一発目が空を切り、砂の上に黒い花が咲く。ニーヤが鈴を二度、短く鳴らし、粉の塊がほどけて空に消える。あーさんの水糸が窓の隙間を塞ぎ、ルゥが耳で“次の谷”を読む。ダンはそれを指で“地図”に変える。小さな掌の上に、砂丘の線が浮かび上がる。


「よっしゃ、右!」


よっしーがハンドルを切り、相棒は右へ滑る。後方の鉄の虫は重い。粉の砲が二発目を撃ち、黒い花が相棒の通り道のすぐ後ろに落ちた。赤衣の隊列は段を踏み、砂の“硬さ”を一瞬だけ上げてくる。タイヤのグリップが突如強くなり、相棒が“つんのめる”。


「持っていかせへん!」


俺は〈地継〉を反転し、砂の“柔らかさ”を取り戻した。旗の布が鳴り、家の拍子が相棒に乗る。エンジンが喜ぶ。平成の鉄は、家の歌に弱い。弱い、というのは、よく効くということだ。


「核都、北門の手前に“耳のせき”がある」


クリフさんが前方を射抜くように見て言う。堰は耳石で作られている。通り過ぎる音をすべて拾い、写音炉へ送る“耳の壁”。通れば、“誰が通ったか”が“段に写る”。


「詩で抜ける」


俺は胸の通行詩を探し、あーさんに目で合図した。彼女は短く頷き、窓を少しだけ開けた。砂の風が入り、彼女の髪を撫でる。明治のかんざしが光る。彼女は息を整え、静かに詠んだ。


風は箱に入らず、家に入る。

家は旗に入り、旗は君に入る。


耳の堰が、一拍だけ“ためらった”。ためらいは、壁の“隙”だ。相棒が滑り込み、堰の向こうへ抜けた。鉄の虫は重く、躊躇の間に足を取られる。赤衣の段は耳の堰を怒らせる。堰は怒りを知らない。ただ、ためらう。


「北門の内側、左に逸れて。工匠の廃庫に逃げ場」


ルゥの耳が、核都の内部の“空洞”を捉えていた。彼女はかつて、ここで働いていた。耳は場所を覚える。よっしーがハンドルを切り、相棒は黒印の工房群の古い路地へ。赤衣の足音が背後で乱れ、鉄の虫が堰をこじ開ける音が遅れて届く。


廃庫の扉は錆びていたが、祈り札は古く、塔の粉で眠る。俺が紙針で一目だけ綴じ目をほどき、相棒が滑り込む。扉が閉まる寸前、外で黒い外套が立ち止まり、こちらを見た。目は乾いて、笑っていない。彼は扉を押さなかった。効率が悪いから。彼は波のように身を翻し、赤衣と黒印の間へ戻っていった。


廃庫の祈り(いのり)


廃庫は広く、薄暗く、冷たい。天井の梁に古い旗の切れ端が引っかかり、床の隅に工匠の工具箱がひとつ、ひっそりと置かれている。蓋を開けると、針金、木槌、ちいさな鋸、そして、紙の包み。


包みを開くと、薄い巻紙に墨で書かれた一行が出てきた。


《箱は人をしまうな。歌をしまえ。》


工匠の祈りだ。黒印は“箱”の技で生きる。しかし、工匠は“家の箱”を知っている。箱で人をしまい始めたとき、彼らの心はいつもどこかで軋む。だから、こうして、自分だけの祈りを残す。


「これも……歌や」


よっしーが巻紙に息を吹きかける。埃が舞い、窓の隙間から差す光にきらめいた。ルゥが巻紙を胸に抱き、ダンがそれに手を添える。あーさんが二人の背にそっと手を置き、エレオノーラとクリフさんは扉の向こうの音を聞く。ニーヤは梁の旗の切れ端を杖で引き下ろし、布の目をひとつだけ撫でた。旗は鳴らない。けれど、その鳴らなさは、静かな返事だ。


「ここで、一度“綴り直す”。核都に“結び目”を置く」


俺は旗を広げ、床の真ん中に布の端を落とした。紙針で床板の継ぎ目に小さな“家の綴り”をひとつ。あーさんが水でそれを湿らせ、ニーヤが風で乾かし、よっしーが相棒のタイヤで“軽く”踏む。エレオノーラが上から一拍、矢の“音”を落とし、クリフさんが外で“見張りの音”を釘に移す。ルゥとダンは、工匠の祈りを巻き直し、梁の旗の切れ端に結びつけた。


「帰る場所の印。……次、迷わん」


ルゥの声は少し震えていたが、はっきりしている。彼女の耳は、もう“番号”の耳ではない。名を呼ばれる耳になった。


紅の影


廃庫を出ようとしたとき、扉の向こうの影がそっと動いた。赤衣が一人。裾は短く、足取りに迷いがない。祈堂の写官――キリアだ。彼女は息を詰め、こちらを見た。


「……無事でよかった」


「炉は?」


「回ってる。ほどきは“ばれて”叱られたけど、止められてない。――段主代理は“別の用事”に行った」


「別の用事?」


「“黴印工房”の粛清。……赤でさえ、黒でさえない糸は、段にとっても危険だから」


彼女の目に、疲れと、わずかな安堵と、揺らぎが混じっていた。職人は、世界の真ん中で揺れる。俺は深く頷いた。


「ありがとう」


「礼は“仕事で”返して。……炉を壊さず、家を生かす。それが、わたしの仕事だから」


彼女は赤衣でありながら、赤の言葉で自分を縛らない。職人の言葉は、自分の仕事で縛る。強い。


「“第三の糸”――あれは、“段に寄生する”。段が硬ければ硬いほど、喰いつきやすい。だから、君たちの“ほどき”は、彼らにとっても邪魔。……気をつけて」


そう言って、キリアは廃庫の壁に手を当て、薄く身を隠すようにして去った。彼女の裾の刺繍に、細い“揺らぎ”が混じっているのが見えた。炉で吸った“家の息”が、糸に少し移ったのだ。……それだけで十分だと思った。


“名の橋”の稽古


核都の腹の中で、俺たちは小さな稽古をした。ルゥとダンに“名前の橋の渡し方”を教える。あーさんが手本を見せる。掌を相手のこめかみに、軽く当てる。息を合わせる。水の糸を一本、薄く渡す。相手の口元が“最初に動く音”を待つ。促さない。急がない。


「……ダ」


ダンがルゥの名を呼ぶ。ルゥがダンの名を呼ぶ。呼び習い。名前は、橋。二人の指の間に、細い結び目ができた。ニーヤが鈴を一度だけ鳴らす。結び目は、音で締まる。


エレオノーラとクリフさんにも、形だけ稽古を頼んだ。二人は顔を見合わせ、少しだけ照れたように笑い、互いのこめかみに指を当てて名前を呼んだ。声は低いが、揺れない。戦場の人の名乗りは、いつも短く正確だ。よっしーは「ワイらもやる?」とニヤつき、俺は「あーさん」と呼ぶ。あーさんは「ユウキさん」と返す。どちらも、いつも通りの呼び方だ。いつも通りが、こんなにも救いになるとは。


核の縫い目に針を


廃庫で息を整え、再び核都の“中心”へ向かった。写音炉の裏庭――昨日ほどき綴じをした場所だ。今日は“核の縫い目”に紙針を入れる。核都の拍子を、半拍だけ“家寄り”にする。その微かなずれが、数日のうちに“第三の糸”の喰いつきを難しくする。段が硬ければ硬いほど、喰いつきやすい。ならば、柔らかくすればいい。


「ほどきの位置、三ヶ所。炉の耳の根元、祈堂の床の交点、黒印工房の押し型の隙」


キリアが事前に紙切れで示してくれた。彼女は直接手伝えない。けれど、職人は“位置”で助ける。位置は命だ。


耳の根元――昨日の“眠り”をもう一度薄く。祈堂の床の交点――段の線の“角”を丸める。押し型の隙――鋳型の“冷え”を少し遅らせる。あーさんの水、ニーヤの風、エレオノーラとクリフさんの“音”、よっしーの相棒の“等速でない呼吸”、ルゥとダンの“名の橋”。全部を一筆で結ぶ。


紙針が“核の縫い目”に入ったとき、胸の“綴”が熱くなった。旗の内側の《E・S:二頁》が、微かに震える。――呼んでいる。


「……エス?」


囁いた瞬間、祈堂の高みから薄い影が降りてきた。赤衣でも黒印でもない。裾の刺繍は、半分が藍。エスフォリオ。彼は柱の陰に立った。


「段主代理は、まだ“第三の糸”の粛清にかかりきりだ。今なら、核に針を刺せる」


「分かってる」


「刺したあとは、逃げろ。――君はまだ、全部を背負うな」


「全部を背負ってるのは、あんたのほうだろ」


口に出してから、少しだけ後悔した。けれど、エスフォリオは笑わなかったが、怒りもしなかった。ただ、短く頷いた。


「……二頁、読んだか」


「読んだ。“困るのは誰か”」


「君は、困るほうを選ぶ」


「家は、いつも困ってる」


「だから、家は強い」


彼は柱から半歩離れ、裾の刺繍の“赤い糸”を一本、指で引き抜いた。その指先は震えていない。糸は空気に触れて、すぐに黒くなり、砂になって落ちた。赤は、いつでも黒に近い。だから、柔らかさを混ぜ続けないと、すぐ硬くなる。


「――刺せ」


エスフォリオの声が、炉の音の上を滑った。俺は紙針を核の縫い目に、そっと、しかしためらわずに差した。布の目が一つ、内側から開く。家の拍子が核都の心臓に、半拍だけ移る。炉は壊れない。段は怒らない。……怒るとしたら、“第三の糸”だ。


黒い雨


予想通り、来た。天井の黒糸が“雨”になって降り始めた。粉ではない。糸の微細な細片。皮膚で息をする。触れれば、紙の繊維に入り込み、内側から”水”を喰う。あーさんの手から、水の温度がすっと落ちた。ニーヤの鈴が布越しに鳴る。よっしーが相棒のドアを開け、車内の古い紙袋を引っ張り出し、広げて俺たちの頭上に“紙の天幕”を作る。エレオノーラとクリフさんは矢を放たない。ただ、長い布を鞘から抜き、風に泳がせて糸の雨を“滑らせる”。


「結び目の上に粉!」


あーさんの声に、ルゥとダンが走った。二人の手は小さいが、早い。粉は結び目を守り、黒い糸は“食べどころ”を見失う。エスフォリオは裾の刺繍の藍の部分を外へ見せ、わざと雨を受け、糸の雨に“自分の匂い”を混ぜた。赤と藍と黒。匂いが乱れ、糸の雨の“縫い目”が狂う。


「退く!」


核の縫い目に針を刺し終えた俺たちは、祈堂の裏の暗い廊下へ飛び込んだ。黒い雨は後ろでまだ降っている。段主代理の影は見えない。代わりに、痣の男が廊下の端で立ち止まり、こちらを見た。彼は俺たちではなく、エスフォリオを見た。二人の目が合う。なにも言わない。けれど、二人の間に“橋”が、薄く、確かに渡った。


逃げ水


無音の橋は逆から渡ると、すこし違う顔になる。吸音が“追っ手の足音”を手前に引きつけ、こちらの足音を後ろへ流す。よっしーは相棒を呼び、俺は旗で橋の欄干を撫で、ニーヤは風で足元の砂を“滑らせ”る。あーさんは後部座席でルゥとダンの手を握って、「大丈夫」と言った。彼女が言うと、大抵のことは大丈夫になる。


北門を抜ける直前、赤衣の列の陰から、キリアが顔を出し、目だけで“無事だ”と伝えた。炉は回っている。ほどきは、効いている。段は、不便になっている。――それでいい。


耳の堰を、あーさんの詩で一度だけ眠らせ、相棒は砂の上へ飛び出した。黒印の鉄の虫は追ってこない。吸音布が砂を噛むのに苦戦している。黒い外套の男は、堰の向こうで立ち止まり、こちらを見た。彼の目は乾いて、笑っていない。けれど、ほんの少しだけ、光の屈折が違って見えた。雨に濡れた石が、乾き始める瞬間みたいに。


「さあ、戻ろか」


よっしーが笑い、相棒が砂を蹴った。紙道の入口は“今日も”開いた。通行詩は、まだ一度ぶん効く。あーさんが詠み、扉が開き、白い道が口を広げた。俺たちは滑り込み、紙の涼しさに包まれた。


帰還と“第三頁さんページ


塔の蔵に帰ると、カイが嬉し泣きし、塔の少女が俺たちの服についた黒い粉を“粉の粉”で丁寧に払ってくれた。工匠の祈りの巻紙は、梁の高いところに結び直し、ルゥとダンの名を小さな札に書いてぶらさげた。名は、見えるところに置く。


夜、旗の裾から、紙が一枚、するりと落ちた。拾い上げる前に分かった。《E・S:三頁》。


“炉は回る。

回るものは、ほどける。

ほどけるものは、生きる。

生きるものは、困る。

困るものは、歌う。”


声に出して読むと、あーさんが胸の前で掌を重ね、小さく頷いた。よっしーは「ええやん」と笑い、ニーヤは尻尾をふわりと揺らす。エレオノーラとクリフさんは目を閉じ、カイは詩を写し、塔の少女は布の目を一つだけ増やした。――家は、増える。


余白の夜語り(よがたり)


火を囲み、短い夜語り。ルゥとダンの昔話。黙るしかなかった日々。番号で呼ばれた日々。耳を塞がれた日々。――そして、今日、名前で呼ばれたこと。ルゥは途中から泣き笑いで、ダンは言葉を探しながら、でも、確かに語った。語るたび、家の綴りが一目ずつ増える。


「ユウキさん」


夜がふけ、火の赤が小さくなったころ、あーさんが声をかけてきた。いつもより、少し近い。彼女の手の甲には、粉の白と、煤の黒が薄く残っている。


「わたくし……この世界へ来てから、“名乗る”ということの重さを、何度も思い知りました。女学校では、名乗れば道が通ることがありました。けれど、ここは逆でございます。名を奪われると、道が消える」


「うん」


「だから、ユウキさんが“呼び習い”を教えてくださって、わたくし……嬉しゅうて」


彼女は言葉を探して、やがて、静かに笑った。


「ユウキさん。……あーさん、と、呼んでくださることが、嬉しいのです」


「俺も、そう呼ぶのが、好きだよ」


「――はい」


小さな沈黙。火のぱち、という音。旗の布が、夜風に鳴った。


風の約束


翌朝、塔の少女が地図の余白に細い印を描いた。核都のさらに奥――“柱都はしらと”と呼ばれる場所。そこに、段主代理の“本当の柱”がある。柱をほどけば、核都の“硬さ”は半分になる。……けれど、柱都は“風が通らない”。


「風が通らない場所で、どうやって旗を鳴らす?」


よっしーが腕を組む。ニーヤは耳を伏せ、ブラックはしっぽを足に巻き付ける。エレオノーラは黙って弓を磨き、クリフさんは空を見上げる。あーさんは、袖を正した。


「わたくしが、水を運びます。風の代わりに。……風は箱に入らず、家に入る。家は旗に入り、旗は君に入る。で、ございますので」


彼女の声は柔らかいが、揺れない。俺は頷いた。柱は硬い。硬いものは、ほどけない。――そう教えられてきた。けれど、硬いものは、水で“時間をかければ”ほどける。布の目は、水で育つ。旗は、風と水で鳴る。


「よっしゃ。相棒の水温計、ちゃんと動いてる。水、積めるだけ積んどこ」


よっしーが笑い、虚空庫から折り畳みのポリタンクをずらりと出した。昭和の家庭用品は、異世界でも強い。ルゥとダンが嬉々として水を汲みに走り、カイが塔の詩を束ね、塔の少女が粉を新しく練る。


風は今日も、背中を押す。

旗は今日も、鳴る。

家は今日も、歩く。


そして俺の膝の上で、《E・S:三頁》が乾いた。


次の頁は――“柱”。

硬いほど、ほどきがいがある。

待ってろ、柱都。俺たちの家の歌を、通す。

――


(つづく)

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