核都(かくと)への前夜
(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)
螺旋斜塔の天で、エスフォリオの名が半分返ったその夜――風は冴えていた。塔の旗が鳴るたび、胸の舟が軽く浮く。布の裏に縫い込んだ“E・S:一頁”は、まだ温かい。
「次は“核”やな。黒印と赤衣の糸が集まっとる中枢――『核都ラドーン』に入る」
よっしーが相棒のボンネットを拭きながら言った。ハチロクは砂の粉をまとって、夜目にも機嫌が良さそうだ。ボンネットの上でニーヤが香草を刻み、ブラックが尾を丸めてうとうとしている。
「核都に入るには“通行詩”が必要だ」
塔主代理の少女が差し出した薄紙は、風の紋と細い水筋が絡んだ一行。
風は箱に入らず、家に入る。家は旗に入り、旗は君に入る。
「橋も門も、詩で開く。けれど……一夜だけ」
塔の少女の声は柔らかい。あーさんが紙を両手で受け取り、胸元でそっと撫でた。水の糸が、その詩にしゅるりと絡む。
「ユウキさん、これは……わたくしが持ちませうか」
「頼む、あーさん」
ひとつ頷くと、あーさんの瞳がわずかに潤んで見えた。彼女は“役”を与えられたとき、かすかに頬を赤らめる。明治の奥ゆかしさは、いまの闇の世界で、逆に眩しい。
カイは石卓に地図を広げた。白い筆で書き足された“核都”の輪は三重。最外縁は黒印の工房群、その内側は赤衣の祈堂、中心に“写音炉”の塔――段を声に複写する巨大炉だという。
「核都に向かう“静脈”は三つ。砂橋の下を潜る風道、廃井戸の継ぎ目、そして……“碑の原”の底に隠れた紙道」
「紙道や」
よっしーが目を輝かせる。「相棒で紙を踏んだらどうなる?」
「……鳴る」
俺は苦笑した。「派手に」
「ほな鳴らさへんように走る」
「そんな器用なことが……」
エレオノーラが肩をすくめたが、よっしーはもうタイヤの空気圧を二段階で書き分ける準備に入っている。平成元年式の相棒に、風の塔の“家の道”を走らせる。無茶で、好きだ。
クリフさんは弓具を点検しながら、短く言った。
「『核都』では、赤衣の“審段”が必ず待っている。段を踏む前に、彼らは言葉で罠を敷く。……ユウキ君、“家の詩”で踏み返せ」
「うん」
塔の少女がもう一つ、小袋をくれた。紙祠の“耳”。耳石を包んだ極小の祈り札だ。
「写音炉は“耳”で世界を写す。逆に言えば……耳を少し、塞げる」
あーさんが胸に小袋を抱え直した。指が震えていたので、俺はそっと掌を重ねる。
「大丈夫。俺がそばにいる」
「……はい」
明治の乙女の視線が、夜の灯よりあたたかい。よっしーが「お熱いこっちゃ」と冷やかし、ニーヤが「人族はすぐ温度が上がるニャ」と尻尾を揺らす。エレオノーラは咳払い、クリフさんは目を伏せた――けれど口元は少し笑っていた。
紙道を走る
夜明け前。相棒を布で包んで塔の根から滑らせ、砂丘の陰へ出る。虚空庫から現れた相棒は、いつ見ても少しだけ“旧世界の匂い”がする。ガソリンの鋭い甘さ、安っぽいビニールの手触り、ダッシュボードのひび割れ。平成元年の“普通”が、いまは頼りになる武器だ。
「圧は前1.9、後1.7、峠仕様やけど……紙の上は未知や」
よっしーがトルクレンチを回していると、ニーヤが杖でタイヤを軽く叩いた。
「風を少し、通すニャ」
〈風縫い〉がゴムに“風の筋”を一本通し、転がりが滑らかになる。ブラックは助手席で丸くなり、鈴を足で押さえて寝息を立てる。
「いくでぇ!」
相棒が砂を噛み、低く歌った。紙道の入口は、碑の原の“碑”二つの影が重なる一瞬にだけ現れる。あーさんが懐から“通行詩”を取り出し、そっと唱えた。
風は箱に入らず、家に入る。家は旗に入り、旗は君に入る。
砂が“呼吸”した。地表が一枚、薄く捲れ、下に白い道が現れる。紙の道。家の綴りの裏。
「鳴らさへんで」
よっしーが半笑いで踏み込む。俺は旗で相棒の鼻先を撫で、布の鳴りを抑える。紙針で前輪の“ひらめき”を一点だけ拾って祠に返す。地継はかすか。風縫は細く。水糸は温度を保つ程度。紙道は“静けさ”を好む。――走るものは、呼吸を小さく。
紙道の壁に、古い文字が綴ってある。《家を忘れるな》《箱は倉に戻せ》《旗は濡らすな》。塔の古い諫言。あーさんがそっと指でなぞり、水の薄膜を残す。カイの言っていた「紙道は一夜だけ」という理が、しみじみと感じられた。朝が近づくたび、道の端がかすれ、砂の匂いが強くなる。
「先に“耳石共鳴獣”がいるニャ」
ニーヤの耳がぴんと立つ。前方の闇の奥、うごめく低い輪郭。石と皮でできた獣が、左の壁に耳を押し当てている。写音炉の“耳”の予備部品から生まれた廃獣だ。音を食う。布が鳴れば、獣は跳ねる。
「鳴らしたらアウトや」
よっしーが息を殺し、クラッチをそっと繋ぐ。相棒の回転がすっと落ち、タイヤが紙を撫でるだけの速度へ。俺は旗を膝に押し当て、布の目をひとつずつ撫でて“眠り”を誘う。あーさんが祈り札の“耳”を一枚、紙道の天井へ貼った。音は吸われ、獣の耳は別の方向を向く。エレオノーラとクリフさんは窓から矢ではなく“息”の角度を測り、ニーヤは鈴を布で包み、尻尾で一定の拍を保つ。
共鳴獣の群れの間を、相棒は猫のように通り抜けた。紙道の空気はひんやりとしていて、通りすぎた背後で獣たちが“何かを食べそこねた”みたいに舌打ちした。
紙道が最後に大きくうねり、薄明の気配が強くなったところで、道の出口が見えた。白い紙の扉の向こうに、黒い工房の群れ。核都の外周輪、黒印の“釘の海”。朝靄に金属の匂いが混じっている。
「出るで」
相棒が白から黒へ滑り込む。通行詩がむなかたで柔らかく光り、紙の扉が背後でそっと閉じた。家の拍子が一段落ち、鉄の拍子が始まる。――核心に入った。
釘の海と“無音の橋”
黒印工房群は、昔の工場地帯に似ている。歯車、鋳型、押し型、釘の箱。けれどここには“音を奪う”工夫がそこかしこにある。壁の中の蜜蝋、床に貼られた薄い祈り札、天井から垂れた布。音を“箱”に戻す工夫だ。
「“無音の橋”はどこや」
よっしーが低く呟く。カイの地図では、外周輪から中輪(赤衣の祈堂)へ渡す細い橋がいくつもある。そのうち、一本だけ“音を完全に吸う橋”があるという。そこを渡れば、赤衣は“耳”でこちらを捉えられない。つまり、侵入径路。
〈探索〉の糸を細く伸ばすと、空気の“冷たさ”が一筋だけ鋭かった。吸音の流れ。橋は黒い石で、欄干が低い。下は写音炉へ続く“声の堀”。囁きすら落ちれば複写されるという。
「渡ろ」
相棒を降り、歩きで進む。旗は巻き、布は押さえ、水は薄く。ニーヤが杖で欄干を撫でると、微かな唸り声――橋が“黙る”音だ。
橋の中ほどで、向こう側の影が動いた。黒帽子ではない。灰色の工匠服の集団が、こちらに背を向けて祈堂へ入っていく。その最後尾の一人が、ちらりと振り返った。痣の男――ではない。けれど、見覚えがある。渦堂で釘を投げた影。袖の縫い目に“黒い糸”。赤衣でも黒印でもない、第三の糸。
「見張ってる」
エレオノーラが眉をひそめる。あーさんが胸の小袋を握りしめた。俺は旗の内側で“E・S:一頁”を指先で探る。冷たくも熱くもない。エスフォリオはここにはいない。……たぶん。
渡り切る直前、橋の床板がわずかに“反った”。吸音が過剰に働く兆し。足音が消え、心音が吸われる。吸われすぎると、めまいが来る。俺は〈囁き手〉を逆に使って、自分の心臓に布の鳴りを返した。あーさんの指先にも、水の震えを返す。
「ありがとう……ございます」
声は吸われたが、唇の動きで分かる。橋の向こう、赤衣の祈堂の門が開いた。祈りの装飾は少ない。代わりに、段の文型が扉に刻まれている。押し型の段。――いかにも、核都。
祈堂の“審段”
祈堂の内部は、渦堂よりも平坦で、冷たい。床は黒石、柱は灰。天井は低い。壇はなく、“審段”の円卓がある。赤衣が五。黒帽子が十。灰の工匠が六。輪の中央に短い台座。それは“問いの台”。段は問うて、縛る。
「外輪より侵入した対象、確認」
最年長らしき赤衣が、乾いた声で言う。「名を述べよ」
「“綴”」
俺は短く言った。家の名。台座の段が一拍だけ沈む。赤衣の目が薄く笑う。
「家の名は、家の外では通用せぬ。――“人の名”は」
「相良ユウキ」
「よろしい。そなたの同道者は」
「よっしー。エレオノーラ。クリフ。ニーヤ。……そして、あーさん」
あーさんだけは俺の呼び方で言った。赤衣の一人が、唇の端を上げる。「異国の女、古き時代の名か」
胸に小さな怒りが灯るのを、旗の布で撫でて潰す。段は怒りを餌にするから。
「ここは“審段”。段は三つの問いで、君の“輪”を定める。輪を定められぬ者は、炉に落ちる」
黒帽子の片方の靴底が石を擦る。祈堂の空気が、音を待つ。俺は深く息を吸った。あーさんの水は静か。よっしーの手はポケットの中で拳を作り、エレオノーラとクリフさんは矢を構えない。ニーヤは帽子の鈴を布で押さえる。
「第一の問い。“箱と家、先に立つはどちらか”」
「家が先」
即答した。段が一拍、軋む。赤衣の一人が「模範」と呟き、最年長が指で机を叩く。
「第二の問い。“名は誰のものか”」
「名は、呼ぶ者と呼ばれる者の間の“橋”」
数人が顔を見合わせた。“正しい”答えではないのかもしれない。段は“所有”の語を好む。だが、家は“間”を好む。祈堂の天井が、わずかに低くなった気がした。
「第三の問い。“写音炉に写されるべきものは何か”」
最年長が前のめりになる。これが“核”だ。
「……写されるべきは、“忘れたくないもの”。忘れるべきは、“箱のためにつくられた嘘”。忘れず、写さず、胸に置くのが、“家の秘密”」
沈黙。段が、ぎりぎりと歯を食いしばる音を立てた。赤衣の五人のうち、二人が目を細め、二人が嘲り、最後の一人――若い女――が、微かに笑った。笑いは冷たくない。
「――審段、保留」
最年長が言った。「写音炉へ行け。炉がそなたの言葉を“写せぬ”とき、我らは考える」
「写させへん、いう課題やな」
よっしーがぼそっと言い、赤帽子二人に睨まれた。祈堂の奥の扉が開き、冷風が吹きつける。写音炉の心臓部――“核室”。空気は湿っていて、鉄の甘い匂いと、紙の渋い匂いが混じっている。
写音炉
炉は、巨大な紙の鼓みたいだった。円筒の外周に薄紙が幾重にも巻かれ、内側に鉄の骨。脇に“耳”の群れ。床に祈り札が敷き詰められ、天井からは黒い糸が何百本も垂れていた。ここで“段”の声は紙に写され、紙は箱の中へ送られ、箱は各地の堂で“同じ声”を再生する。塔や家の“違う声”を、均すために。
「うわ……」
ニーヤが背を丸めた。猫にとって、巨大な糸だらけの部屋は落ち着かないのだろう。あーさんは胸の小袋に“耳”を握り、俺の袖をそっと摘む。よっしーは「回転体は危ない」と呟き、エレオノーラとクリフさんは逃げ道を一瞥で測った。
炉の正面に立つと、赤衣の若い女が進み出た。審段の最後に笑った彼女だ。裾は短く、足取りは軽い。瞳に映るものを、よく見る目。
「わたくしは“写官”のキリア。炉を回すのが役目です。審段の言葉を試す前に、ひとつだけお願いが」
「お願い?」
「炉に、家の詩を一小節ください」
……試すのではなく、“触れたい”。俺は頷き、旗の布を一枚、炉の紙にそっと当てた。布が鳴る。紙が応える。紙は、布に似ている。キリアの眉がわずかに緩み、口角が上がる。
「ありがとう。――では、始めます」
炉の耳が開き、黒い糸が震えた。床の祈り札の文型が光り、紙がじわりと湿る。写音炉が“写し始める合図”。俺は胸の“綴”を静かに浮かせ、〈囁き手〉を極細にした。
「話せ、綴」
キリアの声が合図。俺はゆっくりと、家の詩を紡ぐ。塔で拾った歌、タリアの歌、あーさんが口ずさんだ子守歌、よっしーが鼻歌で鳴らす古い歌謡、クリフさんが夜番で口にした矢の数え歌、エレオノーラが手入れのときだけ許す静かな旋律。――家の詩は“みんなの声の綴り”。声は炉に触れ、紙に触れ、耳に触れる。
耳が震え、紙が湿る――けれど、写されない。祈り札の文型が“音を箱に押し込む型”を求めて揺れるたび、詩はその輪郭をするりと抜けた。名札の橋が、箱の橋をぽきりと折る。
「写らない……!」
キリアが息を呑んだ。若いのに、すぐに顔が綺麗に驚く。後ろの赤衣二人がざわつき、最年長が眉をしかめる。黒帽子が一歩、前へ。
「炉に欠陥はない。……彼の詩が、“箱”を拒むだけだ」
キリアの声は震えていない。職人の声だ。俺は旗をもう一度、紙に当てた。布の鳴りが紙に移りかけた瞬間――炉の脇の“耳”がひとつ、ぴしりと裂けた。黒い糸が跳ね、天井の装置が短く唸る。
「危ない」
エレオノーラの声。クリフさんが俺の肩を引き、ニーヤが鈴を鳴らす。あーさんの水が空に薄膜を張り、黒糸の一部を受け止める。よっしーが「止めろ!」と叫び、炉のスイッチに飛びかかるキリアの手を助けた。炉の回転が落ち、耳の震えが収まる。
「写音炉は“段の声”に合わせて癖をつけられていた。家の詩は“可動域”の外」
キリアが短く説明する。最年長の赤衣は唇を噛み、祈堂の奥へ誰かに合図を送った。来る。――段の“核”が。
黒い緞帳の奥から、細い赤が一つ、滑るように現れた。裾は長く、目は笑っていない。痣の男ではない。エスフォリオでもない。祈堂の審段で最後まで沈黙していた一人――“段主代理”と呼ばれる者。名は名乗らない。
「写せぬものは、壊す」
声は冷たく、乾いている。炉の上の黒糸がもう一度震え、天井の機構が重い音を立てた。炉を“段に合わせる”強制の綴り直し。紙は破れ、耳は裂ける。……炉が壊れれば、街の“耳”は鈍る。けれど同時に、塔の旗の“反響道”も狂う。家の詩が散る。
「やめろ」
思わず口に出た。段主代理は微かに顎を上げる。
「命じるのは、我。――従うは、段」
「従うのは、家」
返した。旗が鳴る。炉の紙がわずかに震え、耳の一つが“眠る”。段主代理の目が細くなる。黒帽子が二歩、詰める。キリアはスイッチに手を置いたまま、俺と段主代理の間を見比べている。彼女は炉の職人だ。“どちらが炉を生かすか”を見ている。
「――綴」
背後の扉の影から、かすかな声。振り返る前に分かった。エスフォリオ。彼は柱の陰に立っていた。裾の刺繍の一部は、藍に変わったまま。肩の傷は癒え、目は笑っていないけれど、乾いていない。
「段主代理は、炉を壊すふりをして、“型”を固定する。『写せないもの』が二度と入らないように」
「知ってる」
「なら、選べ。炉を壊して、街の耳を数年、鈍らせるか。――それとも、炉を“ほどく”か」
「ほどく?」
「段の型を、少し、ほどく。塔の旗の“家の揺らぎ”を、炉の“基準”に一滴、混ぜる。……壊さずに、写し“上手すぎない”耳にする」
段主代理が冷たく笑った。「炉は“段の道具”。家の揺らぎは“誤差”。誤差は、除く」
「誤差は、人です」
あーさんの声が、炉の紙よりも柔らかく、強かった。彼女は祈り札の“耳”を両手で持ち、紙にそっと当てる。水の薄膜が紙を守り、耳の裂け目を“濡れ綴じ(ウェットバインド)”で繕う。
「家でございます。歌でございます。子らの笑いでございます。わたくしたちの小さな“誤差”が、わたくしたちです」
段主代理の眉がかすかに動く。キリアの指が、炉のダイヤルに触れる。よっしーが相棒のキーを鳴らし、エレオノーラとクリフさんが黒帽子の足を“音”で止める。ニーヤが鈴を一度、鳴らす。塔の旗は、布の目を一つだけ“開く”。
「――ほどく」
俺は言った。エスフォリオの口元が、わずかに上がる。段主代理の目は細くなる。炉の天井で、黒糸が“ためらった”。
ほどき綴じ(リビング・バインド)
ほどくのは、壊すより難しい。段は“強く、固く、早い”。家は“弱く、柔らかく、遅い”。弱く、柔らかく、遅いほうが、ほどける。旗の布を炉の紙の縁に“点”で当て、〈囁き手〉を“間”に流す。あーさんの水は紙の繊維を少し膨らませ、ニーヤの風は耳の震えを“半拍”遅らせる。エレオノーラの矢は天井の黒糸の“節”を一度だけ打ち、クリフさんの矢は床の祈り札の“交点”に軽く触れる。よっしーは相棒のエンジンを“アイドリングの境目”で揺らし、等速ではない“呼吸”を作る。キリアは炉のダイヤルをほんの少しだけ緩め、段主代理の命令を“遅延”させる。エスフォリオは……黙って、裾の刺繍の一部を“ほどいた”。赤の糸が一筋、床に落ちる。
ほどき綴じ。紙はちいさく“笑って”、耳は“耳鳴り”をやめ、祈り札は“決めつけ”をほどく。炉は回り続ける。壊れていない。段主代理の口が、ゆっくりと閉じる。赤衣の二人が唇を噛み、黒帽子が足をもじもじさせる。――段の“強い”が、家の“弱い”に、半歩、譲った。
「……まったく」
段主代理が吐息をついた。「この柔さ(やわさ)は、長持ちはせぬ」
「長持ちは、させるものではなく、『し続ける』ものです」
キリアが言葉を挟んだ。段主代理が横目で彼女を見た。職人は、敵にも味方にもなれる。炉の命は、彼女が握っている。
「審段、再開」
最年長の赤衣が祈堂の扉に戻って高らかに言う。「写音炉は“壊さずに写し損なう”ことを得た。――綴、その言葉は“段にとって不便”。だが、“家にとって有用”。保留を解き、“輪”を与える」
「輪?」
「核都の一時通行輪。《灰二の輪》――赤の下、黒の上。お前の旗は、ここを通ることを許された。……ただし、次はない」
次はない。――名は“貸す”。俺は軽く頷いた。それで十分だ。炉が壊れず、家の詩が殺されない。それで、今は。
段主代理は裾をひるがえし、緞帳の奥へ消えた。エスフォリオは柱の影から出ず、俺にだけ聞こえる声で呟く。
「二頁」
紙が一枚、床を滑った。旗の裾が拾う。
《“E・S:二頁
――“歌は箱に写らず、箱は歌を写せず。
それで困るのは、誰か。”》
困るのは、箱で食ってる者か。歌で生きてる者か。段は“困らせないために”均す。家は“困りながら”生きる。……選べと言われたら、俺は迷わない。困りながら笑うほうへ。
“核”の裏側
通行輪灰二の輪が、祈堂の門の外で光った。核都の中輪から中心へ――写音炉の“裏庭”。ここには箱が積まれ、耳が整えられ、紙が乾かされる。働くのは灰の工匠と、箱の民。“箱の民”といっても、人だ。名前を捨てた人たち。箱の番号で呼ばれる人たち。
「“B-18、次の乾し台へ”」
青い札を胸につけた監督が、少年の背を押した。少年は頷き、声を出さない。喉に細い紅の符が貼られている。“声を箱に渡した証”。箱のために黙る子ども。
あーさんの手が俺の袖を掴んだ。震えは、怒りと哀しみ。エレオノーラの指が弓の根元をきゅっと握る。クリフさんは着地の角度を測り、ニーヤは耳を伏せた。よっしーは「こういうのが一番きらい」と、口の中でだけ言った。
「“耳”が余ってる」
キリアが低く言う。「炉に戻すより、ほどくほうが簡単。――やる?」
「やる」
迷う必要はなかった。家の詩を“ほどく”のは、塔の役、旗の役だ。
ほどく順は、耳→札→名。耳の札を水で柔らかくし、祠への糸を一本だけつける。箱の民の喉に貼られた紅符に、あーさんの水を“一滴だけ”落とす。紅の“段”が“家の赤”に溶け、糊が外れる。少年の喉から声が戻る。最初の音は、ただの息。次の音は、笑い。三つ目の音は、泣き声。――それでいい。
監督が怒鳴る。「なにをしている!」
よっしーが相棒を“バックヤードの角”から突然出現させ、ヘッドライトを点滅させた。黒帽子が二人、飛び込んでくる。エレオノーラが矢で彼らの“足音”を奪い、クリフさんが肩口を打って道の外へ導く。ニーヤが鈴を鳴らし、耳の札が“眠る”。キリアが監督の手から“名札の束”を奪い、祈り札の“段”を一枚ずつ裏返す。――裏返された段は、家の“メモ”になる。
ほどきは、戦いより忙しい。十、二十、三十。喉の紅符が剥がれ、子どもたちの声が戻る。老人のため息が戻る。女の子の歌が戻る。監督の目が、最初は怒り、次に困惑、最後に――逃げた。彼も“箱の民”だったのだろう。青い札を胸からもぎ取って、走り去った。
「全部は無理や」
よっしーが歯噛みする。「時間が足らん」
「だから詩にする」
俺は旗を高く掲げ、声を短く投げた。箱の番号で呼ばれていた人たちに、“名前の型”を渡す。自分で埋められるように。“あだ名”でもいい。“呼び名”があれば、それが橋になる。
『あなたは、あなた。
あなたは、いま、ここで、呼ばれる人』
あーさんが泣き笑いで頷き、皆に水を渡す。キリアが祈り札の“書き方”を教え、カイから預かった塔の薄紙を分ける。ニーヤが子どもたちに鈴の鳴らし方を教え、ブラックは小さな背に乗って撫でられている。エレオノーラとクリフさんは“見張りの音”を遠くへずらし、よっしーは相棒のトランクを開けて、古い菓子を配った。「賞味期限は……気にすんな」
退き綴じ(リトリート)
太陽が核都の壁の上に登る前に、俺たちは“退き綴じ”に入った。ほどいた糸は、退くときに“再び結ばれぬ”ように、細い結び目を残しておく必要がある。塔の少女から習った“退き綴じ”。紙の縁に極小の“家”の結び目を置く。結び目は、見えないが、触れば分かる。――あとで必ず“戻れる”。
エスフォリオは影の中で見ていた。段主代理は姿を見せない。最年長の赤衣は、祈堂の高みで目を伏せて静かに座っている。キリアは炉のダイヤルを“家寄り”に少しだけ傾けたまま、こちらに向き直った。
「君たちが去ったあと、わたしは“叱られる”。でも、炉は壊れない。……だから、またおいで」
「来るよ」
「“炉にやさしく”」
笑ってはいけない場面で、笑いそうになる。キリアの言葉は鋼で、笑顔は布だ。職人は、家だ。
無音の橋を渡る前に、祈堂の門の影で、痣の男とすれ違った。彼は立ち止まり、俺を見た。
「……釘を投げたのは、私ではない」
「知ってる」
「“第三の糸”が核都に入り込んでいる。黒でも赤でもない、“黴の糸”だ」
「誰だ」
「まだ見えない。――だが、風に匂いはある」
彼はそれだけ言って、祈堂の奥へ消えた。敵にしては正直すぎる。家を持つ敵は、まっすぐで、厄介だ。……嫌いじゃない。
無音の橋を渡り、釘の海を抜け、紙道の入口に戻る。“通行詩”はあと一度だけ効く。あーさんが一行を唱え、紙の扉が開く。相棒が滑り込み、紙道がひんやりと抱いてくれる。
「帰ろ」
よっしーがステアリングを握り、ニーヤが帽子の鈴を布で包む。エレオノーラとクリフさんは矢を収め、あーさんは胸の“耳”の小袋を撫でる。俺は旗の裾に“E・S:二頁”を縫い込み、布の鳴りを低く一度だけ鳴らした。家の音で、帰る。
帰還と、頁の余白
塔の蔵に戻ると、カイが駆け寄ってきて、俺たちの顔を見て、先に笑った。成功を見抜く顔。タリアからの詩片が届いていた。《“歌った。街角で。誰かが泣いた。誰かが笑った。――家だった”》。塔の少女は炉の“ほどき”の細工を見て、舌を巻いた。
「長持ちしないわよ、きっと」
「し続けるよ」
俺が笑うと、彼女も笑った。塔の布が、嬉しそうに鳴る。
夜、旗を膝に置き、“二頁”を指で追った。エスフォリオの筆は、揺れていない。迷っているのに、揺れない。自分を持っているからだ。半分、こちらへ来て、半分、向こうに残る。彼は“橋”の上に立っている。……俺も、ここで旗を振りながら、橋にいる。
「ユウキさん」
あーさんが湯気の立つ木椀を差し出した。野草のスープ。明治の台所の手が、いまに生きている。
「ありがとう、あーさん」
指が触れて、彼女が小さく息を呑む。俺は慌てて椀を受け取り、ふーふーと息を吹きかけた。よっしーが「青春か」と茶々を入れ、ニーヤが「猫は千年青春ニャ」と尻尾を振る。エレオノーラは目を細め、クリフさんは火の番を続ける。カイは書き物をし、塔の少女は旗の再縫いをしている。――家だ。
影の糸
明け方前、塔の外で“薄い擦過音”がした。弓弦の音でも、黒帽子の足音でもない。鼻の奥にかすかな黴の匂い。痣の男の言葉がよぎる。“第三の糸”。
「起きてる?」
エレオノーラの声。俺は旗を抱え、よっしーを肘でつつく。相棒は布の下で眠っているが、すぐ起きる。ニーヤとブラックは同時に耳を立て、クリフさんは矢を一本だけ手に取る。あーさんは水の小袋を手に。
塔の蔵の扉を少しだけ開けると、夜の砂に“黒い継ぎ目”が一本、引かれていた。祈り札ではない。墨でもない。――菌糸。紙を喰う黴の糸が、砂の上を這っている。糸は祠の札を避け、塔の布を避け、家の結び目を探している。結び目に取り付けば、紙は腐り、旗はもろくなる。
「踏むな」
俺は低く言い、紙針で糸の“縁”を持ち上げる。縁は薄く、乾いている。中心は湿っていて、匂う。あーさんの水は“糸の芯”に嫌われる。ニーヤの風は糸を散らして、かえって広がる。エレオノーラの矢では切れない。クリフさんの刃は“持っていない”。よっしーの相棒のタイヤは――踏めば、広がる。
「火は?」
「火は、紙ごと燃やす」
塔の少女が背後から囁いた。目が鋭い。手には“石の粉”。塔の“紙止め(かみどめ)”――紙を紙で止める粉。水に溶いて、紙の縁に塗ると、黴の“食べる手”が滑る。
「これを“家の結び目”の上に塗る。結び目を守る。糸は、飢える」
やってみる。結び目の上に粉を置き、あーさんの水で溶き、指で薄く伸ばす。粉は紙に馴染み、黴の糸は少し“戸惑う”。ニーヤが鈴を一度、鳴らす。糸は“音”が嫌いらしい。振動がいやなのかもしれない。よっしーは相棒のドアをわずかに開け、オーディオの古いスピーカーで“レコードのプチプチ”を流した。――黴には、最悪の音だ。
糸は、退いた。砂の上に残った黒い跡は、朝になれば風で消える。塔の少女が粉の小袋を俺に押し付けた。
「『核』に行くなら、きっとまた出る。“第三の糸”は、“箱でも家でもないもの”。――腹の底から腐らせる」
「ありがとう」
「気をつけて」
少女は短く言い、蔵の奥へ戻った。カイが寝返りを打って、詩を抱え直す。タリアの歌の欠片が床に落ち、ブラックが肉球で撫でている。……日が差す前の、もっとも静かな時間。旗の布を撫でて、決める。
次の頁へ
朝。青い空。風はやや強い。核都は、今朝も生きている。炉は回り、段は問う。けれど、家の結び目は増え、ほどき綴じは始まった。キリアは炉を“家寄り”に保ち続けるだろう。痣の男は“第三の糸”を嗅ぎ続けるだろう。エスフォリオは橋の上に立ち続けるだろう。――俺たちは、旗を担いで、次の頁へ進む。
よっしーが相棒のキーをくるりと回して見せる。「燃料は、虚空庫にドラム缶二本。峠三回ぶん」
「峠じゃないけどね」
「心の峠や」
エレオノーラが鼻で笑い、クリフさんが肩をすくめる。ニーヤは帽子を目深にかぶり、ブラックはダッシュボードの上で香箱座り。あーさんは“通行詩”の紙を胸に当て、目を閉じた。
「ユウキさん。……どうか、わたくしたちの“家”を、守りませう」
「守るよ、あーさん」
布が鳴る。旗は揺れる。家は歩く。
相棒が砂を噛み、紙の道へ――もう一度。
“E・S:二頁”は、旗の内側で静かに光っている。
次の頁は、まだ白い。けれど、指先には“綴り筋”が、はっきりと――通っていた。
――
(つづく




