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風の塔から、石の都へ



(主人公・相良ユウキ=“綴” の視点)


夜を二つ越え、碑の原の東端に、石を積み上げた都が見えた。渦のように環を描く外壁――“渦都うずとエルネス”。赤衣の鉄書院が一つの核だとすれば、この都は“段”の実験場なのだとエレオノーラは言った。


「でも、風の塔の印も少しあるニャ。完全に赤のものでもないニャ」


ニーヤの鼻がぴくりと動く。たしかに城壁の上、風見の板が等間隔に取り付けられている。紙守の“糸口”がある。


「潜るより、入る口を選ぼう。――祭日さいじつだ」


城門前の広場は賑わっていた。紙人形を掲げた行列、歌う子ども、香草の湯気。赤衣の姿は目立たず、代わりに灰色の作業服――工匠たちの列が主役を張っていた。黒印工房群から運ばれた“新型の押し型”の披露会だという。


「堂々と入るのが、一番目立たへん」


よっしーがハンドルを握りしめる。ハチロクは今回、布で覆って荷車に偽装した。俺たちは工匠の行列の後ろに並び、入城検めの列につく。門の上から見下ろす兵の視線は鋭いが、祈り札の“鉄書式”が門の内側にだけ貼られているのが分かる。外には貼らない。外の風を嫌っている証だ。


「偽印、いけるか?」


旗の端に縫い込んだタリアの“風紋”を指先で撫でる。紙針で糸を一目だけ起こし、門の札にそっと触れさせた。祈り札が一瞬だけ“くすぐったそう”に揺れ、門の段の歯が半拍、抜ける。


「通ってよし!」


上から声が落ち、列が動く。俺たちは渦都へ入った。石畳は螺旋で、中心へ向かって細くなる。風の通りは悪い。だからこそ、どこかの角に必ず風の抜け道がある。紙守が昔、掘った細い穴。俺の〈探索〉の糸は、そんな“隙”を見つけるためにある。


「まずは“風のくら”だ。塔の出張所があるはず」


渦の二の環、裏路地の一番奥に、貧相な戸があった。ドアに小さく釘一本。叩き方は“旗一拍、間一拍、旗二拍”。老人の塔で教わった通りに叩くと、戸がわずかに開いて、紙の匂いが漏れた。


「旗の人」


痩せた青年が顔を出し、俺たちを見ると安堵の笑みを浮かべる。頬に煤の痕があり、指に紙の切り傷。工匠上がりの紙守だ。


「僕はカイ。渦都の“風の蔵”の留守番。――君たちの詩、もう街で囁かれてるよ」


壁に貼られた詩をちらりと見る。《箱は歌わず、家が歌う》――タリアの友の筆致に、カイの癖が混じっている。詩は増殖する。音は止められない。


「赤衣の“エス”に繋がる縁を探してる」


俺が札袋から“E・S”の名片を示すと、カイは目を細めた。「それ、街の“堂書どうがき”に似てる。赤衣たちは“人前の段”を堂で読み上げる。その控えが“堂書”。署名に針傷が入る癖が、二人いる。ひとりは痣の男。もうひとりは……“エス”。」


「やっぱり、エス、か」


「正式の名は、誰も知らない。ただ、堂の厨房くりやで働く女将が、昔の呼び名を一度口にした。“エスフォリオ”。紙のフォリオ(対開)。赤衣の中では珍しく、本の言葉を名に持つ」


胸が跳ねた。名は力だ。欠けていた骨格に肉が乗る。呼べる。だが、呼べばこちらも“見られる”。


「夜、堂書が読み上げられる“演段えんだん”がある。今日の祭の締めだよ」


カイは地図を出して、俺たちに回した。「ここ。渦の一の環の中央“渦堂うずどう”。赤衣は必ず姿を見せる。たぶん“エスフォリオ”も。……ただし罠だ。君たちが街に入ったのは、向こうも知ってる」


「罠なら、罠ごと“綴じ直す”」


エレオノーラが短く言い、クリフさんが頷く。よっしーは「せやけど、逃げ道は確保しとこ」と相棒の布を一枚めくった。ハチロクの目がちらりと覗く。


あーさんがカイに頭を下げた。「お水と、紙の切れ端を少し。……詩を、少し読ませてくださいませ」


カイは嬉しそうに頷き、紙束を渡した。あーさんは指の腹で一枚ずつ撫で、紙の“重さ”を測る。水を混ぜ、糊を少し作る。小さな仕込みの時間。彼女が紙の声を聴いている間、俺は旗の“綴”を撫で、胸の舟を整えた。


渦堂の演段


日の暮れ、渦堂には人が集まっていた。広間の床に渦の模様。壁に一面の石。天井からは短い鐘。中央の壇に赤い布。黒帽子が二列で脇を固め、後ろには灰色の工匠――この街の半分は工匠でできている。


「“段”の朗読に、工匠を呼ぶ。……自分たちの手で打った釘の正しさを、声でもって共有させるためか」


エレオノーラが低く言う。俺は壇の端――十字の小さな台座に紙針の意識を寄せた。どの堂にも同じ“段の核”がある。そこに針を入れれば“演段”の流れを曲げられる。


「始めよう」


痣の男が先に壇に立った。洗いざらしの赤。顔の古傷は既に癒えている。彼の声は乾いているが、熱がある。工匠はこの声で“働くことの正しさ”を確認するのだろう。


「次――“エスフォリオ”」


痣の男が下がり、もう一人が壇に上がる。薄い笑み。灰のついていない裾。彼だ。エスフォリオ。声は滑らかで、乾いていない。だが、どこかで“誰かの声”を真似している違和感。写音炉の匂いがする。


「本日の“堂書”、第七項――“箱責はこせき”について」


口が段の言葉を紡ぎ始めた瞬間、あーさんが俺の袖を引いた。彼女の掌に、細かな紙片が十枚。糊で薄く折り目を付けた“風のすずめ”。


「ユウキさん。飛ばします」


頷く。俺は人々の頭の上を通る薄い“風の裾”に〈風縫い〉を渡した。あーさんが一枚、二枚、紙雀を放る。紙雀は堂の渦に沿って滑空し、壇上の周りでくるりと輪を作る。


「――?」


赤衣の目がほんの少しだけ紙を追う。そこへ俺は紙針を台座の“段”に差した。逆撚り。飛沫拾い。祠返し。布の旗はあえて鳴らさない。空気をあまり撹乱させない。段の読み上げがほんの一文字だけ噛んだ。


「“箱責は、箱——”」


言葉が引っかかる。工匠たちが瞬き、黒帽子の片方が足を半歩ずらす。あーさんの紙雀が二枚、エスフォリオの裾に触れ、紙粉をほんの少し付けた。彼はそれを払わず、笑みを崩さず、言葉を続けた。


「箱責は、箱の数に応じて、責を課すのがあいだ。――ただし、箱が“歌う時”、責は“家”に移る」


ざわめき。俺とあーさんが目を合わせる。今の言葉は、段の文法にはない。“家”という語を、赤衣が口にした。堂書にそんな語は使われないはずだ。


「“家”は、旗の下にあり、旗は風の下にある。ゆえに、風が止む時、箱は歌わない」


……挑発だ。旗の存在を逆手に取る。彼の視線は壇上からまっすぐこちらに落ちてくる。俺は胸の名片“E・S”にそっと触れ、唇を動かさずに、〈囁き手〉で呼んだ。


――エスフォリオ。


壇の上の彼の瞼が、ほんのわずかに震えた。声が半拍、素に戻りかける。その隙に、紙雀が彼の肩で静かにほどけ、“薄い糊”が赤布に移った。次の瞬間――よっしーが外の広場で短くクラクションを鳴らした。渦堂の天井がその音を増幅し、鐘が一つ勝手に鳴った。


「合図や」


俺は紙針を深く入れ、台座の“段”を逆撚りで折り返す。段の朗読の“韻”が、家の拍子へ滑る。工匠の一団の誰かが、思わず歌い出しそうになって口を手で押さえた。エスフォリオの笑みは崩れない。だが、裾の内側――刺繍された“名の骨”が、呼吸をした。


「――“綴”」


彼は俺を名で呼んだ。堂の空気が冷える。黒帽子が一斉に前へ。痣の男が短く合図。工匠たちが退く。渦堂が“舞台”になる。


「君は、名を拾った」


エスフォリオの声は、もはや演段の声ではない。彼自身の素に近い声。薄い疲れが滲む。


「なら、こちらも礼を返す。“君の家”を見せてみろ」


挑発ではなく、要求だ。俺は旗を握り、渦堂の床の渦へ布の端をそっと置いた。布が鳴る。家の音が、渦に入る。紙針が台座と渦を繋ぎ、〈地継〉が床の重心を浅く返す。あーさんの水糸が柱の汗を拭い、ニーヤの〈風縫い〉が人の息を滑らかにする。よっしーの相棒は外で低く歌い、エレオノーラとクリフさんは左右の列の間に薄い陰を作る。


「家は、ここにある」


俺の声は大きくない。だが、布の音がそれを増幅した。渦堂の渦が一瞬だけ“家の渦”になった。工匠の列の中で、誰かの肩が震え、誰かが唇を噛み、誰かが布を結び直す。エスフォリオの瞼が、また震えた。


「やめろ」


痣の男が段を踏もうと前へ出た瞬間、渦堂の天井の梁が“きしんだ”。段に逆流。俺は紙針を引き、布を抱え、渦堂から跳んだ。黒帽子が追う。渦堂の外は祭の終わりで雑踏。よっしーの相棒が路地の隙間に鼻を出す。


「乗れ!」


全員が躍り込む。相棒が一拍で唸り、渦の路地を駆け上がる。石の狭さは承知の上。〈地継〉でタイヤの面圧を変え、〈風縫い〉で鼻先を軽く押す。石段を一段飛ばし、梁の下をくぐり、裏門へ。門の札は――“風紋”でくすぐる。歯が抜ける。門が開く。


「外へ!」


石の外、砂の手前で、赤い影が一つ、石の上に止まった。エスフォリオだ。追わない。笑っていない。彼の裾から、紙片が一枚、風に乗って飛んだ。旗の布がそれを拾い、俺の膝の上に落ちる。


《“E・S:一頁いちページ

 ――“石は歌わない。だから、我らは石を積む”》


彼の手になる詩だ。嘲りには見えない。宣誓にも見えない。矛盾の自覚。俺は紙片を旗の内側に縫い、布の鳴る音で返事をした。


追っ手と“螺旋斜塔”


渦都の外縁を走る。夜の砂は冷たい。だが背中に“視線”がある。黒帽子の一群が遠巻きに追い、赤衣は――来ない。代わりに、渦都から延びる“段の縄”が砂の上を滑ってくる。地面が微かに固くなる。走る道自体が“段”になっている。走る者の“韻”を奪う仕組み。


「相棒の歌、食われるで」


よっしーが舌打ち。俺は〈囁き手〉を極細にし、タイヤの“音”を紙針で拾って祠へ返す。輪を奪われても、家の拍子で返す。ニーヤが窓から身を乗り出して〈風縫い〉で縄の節を滑らせ、あーさんが水糸で砂に“打ち水”の薄膜をひく。エレオノーラとクリフさんは後方の影を監視。


「前に“塔”。傾いてる」


エレオノーラが指差す。夜の砂の向こう、傾いた石塔――“螺旋斜塔”。風の塔の古い型だが、赤衣が封じて放置した。中空の階段が露出し、側面に風の“綴じ目”が残る。


「そこに入る。段縄は塔に弱い」


俺たちは相棒を塔の根に突っ込ませ、布で覆い隠した。黒帽子が遠巻きに輪を狭める。赤衣はまだ来ない。代わりに――渦都側から“鉄の虫”の音。あの台車だ。砂の上でも走る改造版。早い。


「上へ」


螺旋の階段を駆け上がる。塔は風を覚えている。〈風縫い〉が良く効く。〈地継〉は軽く。紙針で“祈り札”の古い端を撫で、薄く道をつなぎ直す。途中の踊り場に、石の机。上に、誰かの遺した日記の破れ端。


《“塔は風を集め、風は詩を集める。詩は箱を嫌う”》


タリアか、塔の古い守か。読む暇はない。上へ。塔の頂上は風が強く、空が近い。傾いている分、屋根が空へ開いていて、星が圧倒的だ。


「ここで“響き”を作る。段縄を切る」


俺は旗を塔の支柱に渡し、布を風の流線に沿わせ、〈囁き手〉を布の縁に通す。よっしーは階段の踊り場間隔を測り、エレオノーラが下の影に矢の“音”を落とす。クリフさんは登ってくる黒帽子の足を読む。あーさんは水の糸で塔の古い継ぎ目を湿らせ、ニーヤは尻尾で風の節を叩く。猫の打楽器。


「いくよ」


布が鳴った。塔が答える。風の塔は風を返す。段縄の節が乾いた音を立て、砂の上で“解ける”。鉄の虫の音が一瞬だけよろめく。黒帽子が下で叫ぶ。赤衣の――笑い声は、しない。まだ来ない。


「今のうちに塔の腹から“紙の道”を引く。外へ」


俺は紙針で塔の古い祈り札の裏に綴じ目を作り、塔の影から砂の凹みへ細い紙道を引いた。落ちる糸ではなく、這う道。旗を通し、家を引っぱる。下へ。塔の踊り場を駆け降りる。途中、石机の上の日記の破れが風に舞って、俺の肩に触れた。


《“赤衣エスフォリオは、かつて塔で学んだ”》


足が止まりかけた。あーさんが背を押す。「後で」


「……うん」


外へ出ると、相棒は布の下で息を殺していた。よっしーが合図し、皆が滑り込む。相棒は砂の紙道に乗り、一気に東へ。黒帽子の輪は崩れ、鉄の虫は塔の根で回転して空回りしている。段縄は風に切られ、渦都の赤衣は――月の下で黙っていた。


塔の蔵で拾った過去


風見の塔の出張蔵に戻るころには、夜は薄く、東が白んでいた。カイが眠そうな目で迎え、「無事だった」と笑った。あーさんが肩で息をし、ニーヤが帽子の上で伸びをする。よっしーはボンネットを撫で、エレオノーラは弓を外し、クリフさんは水を飲む。


「拾い物がある」


俺は螺旋斜塔で見た日記の断片――いや、正確には、塔の踊り場の机の引き出しに隠れていた紙束から、一枚だけ抜いた“学籍簿の欠片”をテーブルに置いた。角に“風紋”。塔の生徒の出欠と、進級印。そして、名前。


《“塔生徒簿:第七期/エス・フォリオ(本名欠落)

 師:アスレイ・ノック(風紋師)/備考:綴字優、風紋可、段文書優”》


カイが口を覆う。「……やっぱり、エスは塔で学んでた」


「塔を出て、赤になった」


エレオノーラが紙に指を添える。「理由は?」


「塔の“追放記録”が別にあるはず」


カイが棚を漁り、埃のたまった綴じ帳を出す。紙は古いが、糊がまだ生きている。あーさんが水で糊を少し起こし、ページを開いた。


《“追放記:第七期/エス・フォリオ

 事由:書板の改竄、祠の“逆綴じ”/審問官:風紋師三名

 結語:“風を段に変えようとする者、塔より去れ””》


「……逆や」


よっしーが髪をかく。「今は赤が風を段にしてるのに、塔がそれを禁じて、彼を追い出した」


「塔も塔で、昔は“純粋すぎた”のね」


エレオノーラが乾いた笑いを一つ。「皮肉だ」


俺は頁の端に書かれた小さな注記に目を凝らした。墨が滲んで薄いが、確かにある。


《“備考:エス、夜にこっそり旗を縫う。家の詩を集める。

 彼の旗は“綴”が多すぎて、塔の柱から嫌われる”》


胸のどこかが、静かに痛んだ。塔で学び、家を集め、綴じすぎて、追われた。彼は塔の詩を背負って赤になった。段と詩の両方を知っているから、笑う。だから、笑わない時は深い。


「……名を返すべき理由が、もうひとつ増えた」


俺は旗の内側の“E・S:一頁”を指でなぞり、布の鳴る音を聴いた。家は拡がる。詩は負けない。段に負けない。


列車(くろがねの蛇)と砂丘の橋


三日後。渦都の北で、鉄の列車が走るという噂を掴んだ。黒印工房群から鉄書院へ“耳石”と“釘”を運ぶ、新設の路。砂丘の間に架かった細い鉄橋――“砂橋”。夜にだけ走り、朝には鉄橋を風で隠すという。


「ここを落とせば、街の“耳”が鈍る」


クリフさんの言葉に、よっしーが頷く。「橋を落とすんやない。列車の“耳”をほどくんやな?」


「うん。橋は砂の住人の道でもある。壊したら戻らない」


エレオノーラが地図を指し示し、俺は旗を畳んで相棒のダッシュボードに乗せた。あーさんは布袋に水と紙を詰め、ニーヤは杖の先に小さな鈴を結ぶ。カイは風の塔経由で別の塔へ走り、詩を運んでくれる。タリアからは短い手紙――“師匠、少し歌った。君たちのおかげ”。胸が温かい。


砂橋のたもとに夜明け前に着くと、風が止んだ。音がよく通る。遠くで低い振動。鉄の蛇が近づく。俺たちは橋の下――砂のアーチの陰に身を潜め、紙針を鉄橋の“継ぎ目”にそっと差す。祈り札は使われていない。かわりに、鉄に打ち込んだ“印字”。黒印の文法。紙とは違うが、“継ぎ”はある。


「列車の頭、見えたニャ」


ニーヤが瞳を狭める。黒い機関。前照灯は小さく、祈りの装飾はない。純粋な鉄。――だから、紙の“継ぎ”を嫌う。


「嫌がるなら、好きにさせる」


俺は紙針を逆手に持ち替え、鉄橋の“継ぎ”に“偽印”を当てた。タリアの風紋。風は鉄を冷やす。継ぎ目が“一拍だけ”柔らかくなる。そこへ〈地継〉を落とす。橋が沈むのではない。音を吸う。列車の“耳”が、自分の音を聞き取れない一瞬を作る。あーさんの水糸が薄く橋の表面を湿らせ、エレオノーラの矢が機関の脇に“音”を打つ。クリフさんは後尾の護衛台車の車輪に小さな石を正確に挟む。よっしーは――橋の影の砂に相棒のタイヤの跡を一筆書きで描き、逃げ道の“軌条”を作る。


「今!」


列車が橋の真ん中に差しかかった瞬間、俺は旗を一拍だけ鳴らし、紙針で機関の“耳”――煤よけの裏に貼られた“鉄書式の札”に触れた。まさかの紙。黒印と赤衣は最後の最後に“紙”で耳を仕上げる。そこを剥がす。機関が一瞬だけ“音を見失い”、速度が落ちる。後尾の台車が揺れ、橋の“継ぎ目”で小さく跳ねる。護衛が叫び、黒帽子が外を見ようと身を乗り出す。エレオノーラの矢がその視線の先に“音”を置き、彼の耳をそちらに引き付ける。


「積荷、今!」


よっしーが相棒を橋の下から疾走させ、俺は橋桁の間から身を滑らせ、後尾台車の金具に紙針を差し込んだ。箱。見覚えのある十字。――だが、中身は耳石ではない。布。白い布。巻いた旗。箱の蓋の裏に小さく、風紋。


「塔の旗?」


あーさんが目を丸くする。黒印は塔の旗を回収しているのか、それとも塔の誰かが旗を送っているのか。考える暇はない。箱の札を剥がし、布を一巻きだけ抜いて相棒へ放る。よっしーが片手で受け、虚空庫へ飲ませる。


「撤収!」


列車はすぐに“耳”を取り戻し、速度を上げた。護衛の黒帽子が後尾から矢を放ち、砂に刺さる。相棒は砂の道を跳ね、一拍で橋の影を抜けた。旗は鳴らさない。風がない。――だが、旗の内側で“新しい布”がきしきしと鳴る。塔の旗だ。家の親戚。


赤衣の“家”と、こちらの家


渦都から離れて、風の塔の中継所で旗の布を広げた。新しく加わった塔の旗は、古い風の匂いがした。糸の撚りが太く、綴じ目が粗い。だが強い。


「これ、どこの塔のや」


よっしーが指でつまむ。カイが鼻を近づけて匂い、「“北斜塔きたはすのとう”の布」と言った。「塔の中でも強情で知られてる。……赤に押収されていたのか」


旗と旗が結ばれると、家の音が一段深くなった。布の鳴りに低音が混ざる。俺の胸の“綴”が応え、あーさんの水糸が微かに震え、ニーヤの尻尾が勝手に一拍打った。よっしーが「相棒もトルク増えた気がする」と意味の分からないことを言い、エレオノーラとクリフさんは無言だが口元がわずかに緩んだ。


「……で、赤は黙ってへんよな」


よっしーの言葉に、カイが表の道を窓から覗く。「うん。――来てる」


紙の隙間から覗くと、渦都の方角に赤い旗。エスフォリオか、その部下か。こちらの旗は増えた。向こうの旗も、たぶん増えている。


「決めよう」


エレオノーラが卓上に矢羽根を置く。「“核”を壊す戦いに入るのか、“名”を取り返す戦いに入るのか」


「両方は、いまは難しい」


クリフさんが短く付け足す。「戦場が違う」


俺は旗の内側の“E・S:一頁”を指で押し、紙針の先を覗き込む。札は熱を持っていない。誰かが“呼びたい”と願うとき、名札は温かくなる。いまは――静かだ。


「なら、“名”から。彼が塔で学び、旗を縫い、追放されたのなら、彼自身が“家”を知っている。名を返せば、段が彼の足を束ねなくなる」


「戦いは減らないわよ」


エレオノーラが言う。「でも、段の“言い訳”は減る」


「それで十分や」


よっしーがにやりと笑う。「言い訳が減ったら、殴り合いがちょっと正直になる」


「殴り合いは減らして」


あーさんが小さく咳払い。ニーヤが“にゃーい”と間延びした同意の声を出す。


「どうやって返す?」


カイが真剣な目で問う。俺は旗の“綴”を撫で、答えた。


「“家の詩”で呼ぶ。――塔の旗、風の塔、紙祠、工匠の歌、俺たちの布。全部を一本に綴じて、“エスフォリオ”を“人の名前”として呼ぶ」


「場所は?」


「螺旋斜塔の天。彼が塔生徒だった“証”のある場所。風が正直に返事をする」


「赤も来る」


エレオノーラの目は細い。俺は頷いた。「だから旗を増やした。塔に頼む。……カイ、風の塔の塔主に、詩で連絡してくれ」


「もちろん。――“家の詩”、任せて」


カイは胸を叩き、走った。俺たちは短くうなずき合って、準備に散る。よっしーは相棒のベルトを張り、エレオノーラは弦を張り替え、クリフさんは翼のように薄い板を背に結ぶ。砂丘滑空用の板だ。あーさんは水と紙と糊を整え、ニーヤは鈴を磨いて気合を入れる。


風の合唱コーラス


夕刻。螺旋斜塔の天。塔の周りに、風の塔の旗が三本。北斜塔の布が一枚。紙祠の小さな祈り札が束で用意され、工匠の歌い手二人――タリアの友が来てくれていた。塔の老人は遠いが、詩は来る。塔の旗は、風の通りを知っている。布が置かれた位置で、風は歌う。


「“家の詩”は、言葉ではない」


カイが息を吸う。「布の鳴り、水の揺れ、風の縫い、地の返し。……全部が、合わさった“家の合唱”だ」


「猫の鈴も入るニャ?」


「もちろん」


塔主代理の少女が笑った。彼女の肩には風紋の刺繍。年は若いが、目が塔だ。


「来るぞ」


エレオノーラが塔の下の方を見た。赤の旗が二本。痣の男と、もう一隊。エスフォリオの旗は――一本。彼は来る。


「始めよう」


俺は旗を塔の支柱に渡し、布を風の流線に沿わせ、紙針の先で祈り札を一枚、軽く綴る。あーさんが水の皿を掲げ、糸を縁にかける。タリアの友が低く調子を取る。よっしーは相棒のボンネットを軽く叩き、一拍だけエンジンを鳴らす。エレオノーラとクリフさんは塔の風下で影を作り、ニーヤは鈴を一度鳴らす。塔の少女が風紋を指で描く。布が鳴った。水が揺れた。風が縫われ、地が返った。


「――エスフォリオ」


俺は呼んだ。〈囁き手〉ではなく、布の鳴りで。名片“E・S”が胸で熱くなり、塔の上の空が一拍、深くなる。下で赤の隊列が止まる。痣の男が段を踏む構えをし、エスフォリオの旗がふわりと揺れた。


「来い」


塔が呼び、風が呼び、布が呼ぶ。段は呼ばない。呼ぶのは家。エスフォリオの足が一歩、塔へ。痣の男が腕を伸ばす。彼は振り払う。赤の旗が揺れ、彼は塔の踊り場まで上がってきた。顔は――笑っていない。


「綴」


彼は俺の名を口にした。声は乾いていない。素の声だ。塔の少女が布を軽く振り、風が彼の裾を捲る。刺繍の“名の骨”が露わになり、〈囁き手〉の糸がそれに触れた。名の骨は“塔の綴り”。彼はやはり塔の子だ。


「返す」


俺は旗の内側の“E・S:一頁”を取り出し、紙針で彼の刺繍の“骨”に重ねる。糸はまだ全部は揃っていない。だが、一本通れば、布は鳴る。塔が息をする。風が頷く。


「――“エス・フォリオ”」


俺はゆっくりと、ひとつずつ、彼の名を呼んだ。エス。フォ。リオ。対開。紙の単位。彼の呼吸がひとつ深くなる。痣の男が下で叫ぶ。「やめろ!」


「やめなくていい」


エスフォリオの目が俺を見る。涙はない。けれど、乾いていない。「私は、名を捨てた。捨てざるを得なかった。……塔に追われ、段に拾われたから」


「拾い直すのは、いつでもできる」


「できない時もある」


「旗があれば、できる」


言葉は短い。針は正確に。紙針が“E・S:一頁”と刺繍の骨を糸一目で留め、あーさんの水糸がその結び目をそっと湿らせる。タリアの友の歌が低く絡み、塔の少女の風紋が輪を描く。よっしーの相棒が一拍だけ歌い、ニーヤの鈴が二度、鳴る。エレオノーラとクリフさんが、下から上がる赤の影を抑える。


「――エス、帰れ」


カイの声が、若いのに深い。「家に」


「家は、どこだ」


エスフォリオの声には、自嘲が半分、希いが半分。「塔は私を追った。赤は私を拾った。箱は私に“言葉”を与え、段は私に“統べる術”を教えた。家は、どこだ」


俺は旗の布を彼の肩に触れさせ、布の鳴る音を彼の胸の上で小さく響かせた。「ここだ。……旗が触れたところ全部」


彼は目を閉じ、一度だけ深く息を吸い、吐いた。名の骨が、塔の風で一拍だけ鳴る。――その瞬間、塔の下で段が三段、連続で踏まれた。痣の男の“段の壁”。塔の風を殺すための大技。塔の少女が一歩よろめく。布が乱れる。


「止めろ!」


エレオノーラが矢を三本連射し、痣の男の足元に“音”を打つ。クリフさんが砂板で斜面を滑空して彼の脇に突っ込み、肩をぶつける。よっしーが相棒のヘッドライトを一瞬だけ点け、段の拍子をずらす。カイが祠の札をいくつも空へ投げ、紙針がそれを縫う。あーさんが水の糸で布の縁を整え、ニーヤが鈴を本気で鳴らす。猫の鈴は意外と怖い。


塔の風が、戻る。エスフォリオの肩で旗が鳴る。名の骨が“塔の綴り”を思い出す。――その瞬間、彼の裾の刺繍の一部が、赤の糸から“風紋の藍”に変わった。


「……見事だ」


彼は笑った。初めて見た、本当の笑いだった。笑った次の瞬間、彼の背後から一本の黒い釘が飛び、彼の肩に突き立った。痣の男ではない。赤の隊列の後ろ――“誰か”。矢ではない、釘。段を越える速度。


「エス!」


叫んだのは俺ではない。痣の男だ。彼は目を見開き、段を踏まず、走った。赤衣の中でも、彼は彼の家を持っている。エスフォリオは唇の端で「やれやれ」と言い、肩の釘を自分で引き抜いた。血は少ない。釘は細い。毒は――紙の毒。札の粉を練り固めたやつ。塔の少女が駆け寄り、水紋で血を止める。


「大丈夫だ。慣れてる」


エスフォリオは軽く言い、こちらを見た。「綴。名は、半分返った。残りは、君が“核”を壊すまで取っておいてくれ」


「壊す」


「なら、次は、私が邪魔する。――段の都合で」


薄い笑み。だが、笑っていない。彼は踵を返し、痣の男に肩を貸されながら塔を降りた。赤の隊列は一度だけこちらに刃を向け、すぐに収まった。誰が釘を投げたのか、分からない。赤の中にも“段を超える”者がいる。


塔の上で、風が鳴る。旗が鳴り、家が答える。塔の少女がほっと息を吐き、カイが座り込み、タリアの友が肩を回す。よっしーは相棒のボンネットを撫で、「心臓に悪いわ」と笑う。エレオノーラは矢を一本、空へ射って音だけを聴き、クリフさんは砂板を立てかけて空を見上げた。あーさんは俺の袖をそっと引き、「ユウキさん」と呼んだ。


「うん、あーさん」


「……良かった、です」


「半分だけどね」


「はい。半分でも、“家”の半分。……“綴”」


胸の舟が軽く波を越えた。旗が鳴る。風が答える。家は、まだ立っている。


あとがき風の余白


塔を降りる前、塔の少女が薄い紙を一枚くれた。風の塔の“通行詩”。旗を見せ、詩を一行唱えれば、塔の下に作られた紙道が一夜だけ開く。碑の原の深部――“核”へ近づくための鍵だ。


《“風は箱に入らず、家に入る。

  家は旗に入り、旗は君に入る。”》


次は“核”だ。鉄書の綻びを大きくし、輪を“家の輪”に綴じ直す。エスフォリオは来る。邪魔をしに、そしてたぶん、見届けに。痣の男は敵だが、家を持っている。敵にも家がある。だから、俺たちは“家の詩”で進む。


よっしーの相棒は今日も歌い、エレオノーラの弦は乾き、クリフさんの矢は正確で、ニーヤの鈴はうるさく、あーさんの水は優しい。旗は鳴る。俺たちは、まだ歩ける。


――風は今日も、背中を押した。

“風の糸”は、旗の結びを確かめ、核の方角へ――さらに深く。

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