沈黙市の綴
――
夜更けの路地で拾った少年は、宿の二階の一番奥、小さな個室の寝台で眠っている。擦り傷にあざ、薄いあばら。あーさんが水に薬草を溶き、そっと額に布を当ててくれていた。
「熱は少し下がりました。……でも、心がひどく怯えております」
「あーさん、ありがと。俺は下で聞き込みしてくる。ニーヤ、頼む」
「任せるニャ。我が主人、彼の夢の中に“恐れ”が紛れ込まぬよう、〈眠りの紡ぎ〉を薄く」
ニーヤが掌をふわりとかざすと、窓辺のカーテンが自ずと落ち、部屋は安らかな闇に包まれた。
階下の広間では、音楽の合間に低い噂話が渦を巻く。俺とクリフさんは離れて椅子に腰掛け、耳を澄ませる。よっしーはカウンターで酒場の親父に甘い酒を注いでもらいながら、関西弁で世間話を投げ込むのに忙しい。
「……最近、裏路地から子どもが消えるって?」
「おいおい声を落とせ。聖務局の耳は長い」
親父がカウンター越しに肘で示した先、フードの影から目だけを出す客がちらりとこちらを伺って、すぐにグラスへ視線を戻す。
「行方不明は“夜鐘”の三つ鳴ったあとが多い。痩せた子、孤児、旅人の子。気づいたら影も形もねぇ。門番に訴えても“噂だ”で追い返される」
「犯人は?」
「分かってりゃ苦労はしねえ。だが――」
親父は洗ったジョッキを拭う手を止め、背後の壁に据え付けられた古い地図の、町の北端を示した。「干上がった“旧水路”の網目が、最近、真夜中にだけ湿っておる。誰かが下を通っとる」
「地下か……」
クリフさんが低く呟いた。「聖教国の都市は、地下に“祈りの管”を通す。正規の礼拝と……運びに」
あーさんが上から降りてきた。手を洗い、静かに俺の椅子の隣に座る。「ユウキさん、彼は目を覚ましたらしいです。……でも、震えて、言葉が途切れ途切れで」
「行こう」
俺たちは階段を上がる。小部屋の扉を開けると、少年が半身を起こして、枕を握りしめていた。目は赤い。けれど、俺たちを見ると、懸命に声を絞る。
「姉さんが……“夜市”に……持っていかれたんだ……!」
「夜市?」
「人を……“品物”みたいに並べる市場ニャ」
ニーヤの髭がぴくりと動く。「聖務局の赤衣と、北の黒帽子が裏で手を組む時に開く“沈黙市”。箱や“黙し”で音を殺して開くニャ」
少年の手から落ちかけた銀のペンダントをあーさんが拾い、柔らかい布で汚れを拭った。細い鎖の先に、祈りの十字に似せた草花の刻印。周縁に微かな傷。“箱”の蓋が擦ったような跡。
「姉の名は?」
「……マリナ」
少年はそう言って、力尽きたように意識を手放した。薄い肩が俺の胸に刺さる。拳を握る。ここでの“綴”の仕事は明白だ。
「――夜市を見つける。箱をほどく。マリナさんと、連れてかれた子らを取り戻す」
「賛成」
クリフさんの声は短く、鋼の芯が通っていた。
「しゃあない。ハチロクの出番やな」
よっしーが口角を上げる。「旧水路の格子、壊せへんほど新しないはずや」
「でも音が出ます」
あーさんが心配そうに俺を見る。俺は指輪を撫で、頷いた。「音は必要だ。けど、出すところと殺すところを選ぶ」
俺たちは夜の町へ出た。〈探索〉で薄緑の糸を伸ばし、旧水路の入口を探る。錆びた柵、湿った石壁、藻の臭い。三箇所目で、足元の石が“軽い”のが分かった。下が空洞。薄い“黙し”の布が張られている。
「ここや」
よっしーが虚空庫に腕を突っ込み、懐かしい鍵をそっと鳴らした。「起きるで、相棒」
路地に白と黒のツートンが滲み出る。ヘッドライトは消したまま、よっしーはゆっくりと車体を石段に沿わせ、鼻面を錆びた格子に向ける。
「“車輪縫”」
俺は膝の〈地継〉を車輪へ繋ぎ、“重心返し”で石段の重みを車体の前輪に預ける。エレキギターの最初の一弦みたいに、空気を震わす最低限の回転数。鉄と石の接吻。錆びた格子は最初こそ踏ん張ったが、〈共振破り〉の薄い楔に耐えられず、鈍い音を一つ立てて外れた。
「静かに行こ」
俺は〈空結び〉の柱を立て、“黙し”の膜を逆に利用して、こちらの足音を薄める。石の喉元へ潜る。夜の腹の中は涼しい。
旧水路は、背を丸めれば歩ける高さ。ところどころに光る青い苔が、魚の骨のように交互に灯っていた。俺は先頭で“紙針”を指に挟み、道の壁に貼られた“祈りの札”の結びをほどいて行く。声が漏れないように、飛び散る“名の飛沫”を針で拾い、胸の“綴”に留める。一枚、二枚。ほどくほどに、薄い息づかいが近づいてくる。
「……聞こえる?」
あーさんが囁き、俺は頷く。先の方で、水が“怒らない”音。人の群れの擦れ声。金属と革の匂い。その上に、偽の香油の香り――聖務局の祭具。
「ここから二手に分かれよう。俺とエレオノーラ(彼女は紙祠で合流し、短弓を貸してくれた)は裏から“箱”を。よっしーとクリフさんは“踊り場”側へ。ニーヤはあーさんと共に子どもたちの拘束を解く。合図は――」
「旗の結び」
あーさんが微笑む。「分かりました」
俺は旗の小さな“綴”の刺繍に触れ、糸を一本引いた。音にならない音が仲間の胸を打つ。“家の拍子”。
水路は広い空間へと開けた。レンガの天井を支える柱の間に、布を垂らしてつくった即席の“屋台”。その上に、箱。十字の段は二重。赤衣が二、黒帽子が三、脇に“買い手”と思しき影が四、五。真ん中の石段に、麻袋に入った人の影が積まれている。……“夜市”。
「始めよう」
痣のない赤衣が、薄く笑う。「“沈黙”の祝祭を」
俺は心の中で深く息を吸い、吐く。指輪の内側が鳴る。紙針を掲げる。
「――“綴”、開ける」
紙針が走る。十字の段の“結び目”を逆撚りでほどき、飛ぶ“名”を拾って祠の紙へ送る。エレオノーラの矢が黒帽子の鎖の起点を射抜き、よっしーのエンジン音が低く唸って“黙し”の膜に楔を打つ。クリフさんが石柱の陰から現れ、手短に二人を肘で落とした。ニーヤが〈水煙〉で視界を白くし、あーさんの水糸が麻袋の口を静かにほどいていく。
「やめろ」
痣のない赤衣が十字の段を踏み込む。空気が重くなる。だが、昨夜手に入れた“土の記”と“紙針”が、俺の指先の精度を上げる。結びはほどけ、箱の蓋は半ば開いた。中から、すすり泣きの“音”、呼びかけ、笑い――生きた音が漏れ出る。それを紙が受け止め、道へ返す。
「我が主人、左三つ目の麻袋、動きがあるニャ!」
ニーヤの叫び。あーさんが飛び込み、袋を裂く。中から、細い手が這い出した。煤で汚れた頬の少女。少年の“マリナ”と呼んだ姉――その目はまだ“黙し”の薄膜に覆われている。
「あーさん!」
「はい!」
あーさんの水糸が彼女のこめかみに触れ、薄い膜を湿らせて剥がす。彼女の瞼が震え、瞳が“音”を映した。震える唇から、最初の音がこぼれる。
「……弟……」
「よく頑張った。もう大丈夫だ」
俺は祈り札を一枚剥がしては紙針で綴じ、箱から漏れる“名”を拾い、あーさんの背に風を送る。黒帽子の一人が背後に回り、鎖鎌を振る。エレオノーラがカウンターのように柱を蹴って体勢を変え、鎖の鎌頭を剣で弾いた。火花。よっしーのハチロクが低く吠え、柱の影から姿を晒してライトを一燈だけ点ける。眩しさではなく、“場所の印”。黒帽子が一瞬、視線を引かれた隙に、クリフさんの短い一撃が肋骨に沈む。
「車を水路に持ち込むやつ、初めて見た」
エレオノーラが半笑いで言う。よっしーは白い歯を見せる。「関西やと普通や」
「普通じゃない」
俺とエレオノーラの声がハモった。
痣のない赤衣は、薄笑いを崩さない。だが、額に薄い汗。「君は面倒な“針”を持った」
「お前は、面倒な“箱”を持った」
言葉の刃を交換しながら、紙針は箱の縁の“古い結び目”に滑り込む。そこは十字より古い“封”。帝国の黒帽子の印に近い。糸の走りが異質だ。俺は一度呼吸を整え、紙針の向きを、ほんの一度変えた。指輪の内側が、低く鳴る。
《“綴”ボーナス:異系結びの読解(微)/成功率+小》
古い結びは、最後に自分からほどけた。箱の蓋が開く。――音があふれる。足音、笑い声、子守歌、呼びかけ、泣き声、怒鳴り声。生の音は、空気を満たし、“夜市”の布を裂く。買い手たちの顔色が変わる。赤衣の片方が短剣を抜き――その手を、石柱の隙間から飛び出した小さな影が噛んだ。
「離せ!」
小さな牙。少年だ。俺たちの宿のベッドのはずの彼が、ここにいる。あーさんが必死に追い縋るも、少年は歯をむき出して叫んだ。「姉さんを返せ!」
「来るな!」
黒帽子が少年へ鎖を伸ばす。俺は身体が勝手に動いた。〈地継〉で足場の重みを奪い、〈風縫い〉で自分の体を柱から柱へ“縫って”跳ぶ。少年を抱きかかえ、鎖を背で受け――よっしーのクラクションが鳴った。わざと一瞬、音を大きく。黙しの残滓が砕け、鎖の軌道が僅かに狂う。鎖は俺の背中を浅く裂き、石床に噛み付いた。
「綴!」
あーさんの声。俺は「大丈夫」と返し、少年の頭を撫でる。「よく来た。姉さんは――」
「ここに」
あーさんに支えられたマリナが、震える膝で立っていた。目に涙。弟と姉の視線が重なり、“音”にならない音が二人の間を満たす。胸が痛い。これが“家”の鋲だ。
「退くぞ!」
エレオノーラの合図。俺たちは子どもたちを抱え、麻袋から解かれた者たちを引き連れ、水路の奥――来た道とは別の“紙の裂け目”へ向かった。赤衣の合図で黒帽子が追う。痣のない赤衣が十字の段を一段踏み込む。空気が固くなる。俺は旗を掲げ、〈空結び〉を柱へ通し、祠へ繫ぐ。紙の裂け目が風で膨らみ、通路が開く。
「ハチロク、行けるか?」
「任せとき!」
よっしーはアクセルをほんの一撫で、タイヤを唸らせずに回し、車体を紙の裂け目ぎりぎりに滑り込ませる。俺は子どもたちを次々に後席へ押し込み、クリフさんとエレオノーラが後方を押さえる。ニーヤが〈眠りの紡ぎ〉を傷ついた者へ薄くかけ、あーさんが一人ひとりに水を含ませる。
「止めろ」
痣のない赤衣が呟くように言い、袖の内で十字の釘を二本、指で弾いた。空気に目に見えない針が飛ぶ。紙がきしむ。俺は“紙針”でその針を逆に縫い留め、祠の壁へ固定した。針は紙に飲み込まれ、赤衣の頬がわずかに強張る。
「君は本当に厄介だ」
「お互い様だ」
俺は紙の裂け目に最後に身を滑り込ませ、旗を掴んだ。布が手の中で鳴る。家の音。紙の裂け目が閉じる直前、痣のない赤衣の裾の内側に、またも薄い“土の埃”を見た。碑の原。やはり奴は、あそこを通る。
――
祠の中で、子どもたちが泣きながら抱き合う。マリナは弟の頭を両手で包み、あーさんの肩へ顔を埋めた。あーさんは背中を優しく撫でる。「よう頑張られました……もう大丈夫」
「礼なら外に出てからでええ。今は休め」
よっしーが乱暴に見える優しさで毛布を被せる。ニーヤは毛並みを整えながら猫のゴロゴロで空気を温め、クリフさんは祠の入口に立って周囲の気配を読む。エレオノーラは矢羽根を整えながら、さっきの赤衣の“段”を頭の中で再装填している顔だった。
俺の背中の血は、シャツにじわりと広がっていた。あーさんが気づいて駆け寄る。「ユウキさん!」
「かすり傷。……大丈夫」
「大丈夫ではありません」
あーさんはきっぱりと言い、傷に水糸を通す。沁みる。だが、すぐに冷たい“静けさ”が傷を縫い、痛みは引いた。彼女は指先を震わせながらも、最後まで丁寧に処置してくれた。
「ありがとう、あーさん」
「……いえ」
頬が少し赤い。よっしーが横で「青春やなぁ」を小声で二回言って、エレオノーラに足を踏まれた。
祠の管理人――紙の匂いのする老人が、奥から包みを持ってきた。「ここは長く留まれない。だが、これを。道を一本、東へ伸ばしておいた。君たちの“旗”なら、通れる」
包みの中には、薄い紙の板に描かれた地図。紙の道の“隠し継ぎ”だ。俺はそれを受け取り、旗の“綴”の刺繍に軽く触れた。布が小さく鳴く。
「みんなを地上へ戻し、安全な宿へ」
「うん。そのあと――」
俺たち五人は目を合わせた。“夜市”の元を断つ必要がある。箱を供給している“口”。痣のない赤衣が合図に使っていた“段”。そして、黒帽子が使っていた古い釘の印。
「旧水路のさらに下、“祈りの管”の基底に“倉”があるはずだ。そこに“箱”と“札”が積まれている」
クリフさんが地図に指を置いた。彼は聖教国の内臓を知っている。
「なら、今度は“踊り場”の正規の入口からじゃなく、倉の裏から“糸”で入ろう」
俺は紙針を持ち直し、エレオノーラが頷く。「君の“綴じ”が要だ」
よっしーが間延びした声で手を挙げた。「そんじゃあ、相棒は燃料補給して待機やな。……って、ガソリンここに売ってへんやろ!」
「アルコール燃料、混ぜたら走るニャ?」
「キャブのジェットいじらなアカンやんけ!」
「お湯なら沸かせます」
あーさんが真剣に言い、場が微妙に和む。よっしーは頭を抱えたが、最後には「なんとかする」と笑った。虚空庫の底には、平成元年の缶がいくつか眠っているらしい。
――
子どもたちを紙の道で別の祠へ送り、紙守に託すと、俺たちは再び地下へ戻った。今度は祠の裏手、石の裂け目――風と紙が擦れてできた“細い道”を使う。〈探索〉の糸が、薄い金属の匂いを拾った。――釘。古い。黒帽子の“倉”。
「ここや」
ルゥがいないのが心許ないが、代わりにエレオノーラの足音は砂の上で消える。俺は紙針で封をほどき、“名の飛沫”を祠へ返しながら進む。〈囁き手〉の雑音耐性は“綴”で少し上がっている。耳が焼けない。
倉は狭く、天井が低い。箱が積まれ、札が束で括られ、釘が並ぶ。誰もいない――いや、一人。倉番。中年の男。黒い帽子は被っていない。だが、手は黒い釘の臭いが染み付いている。俺たちを見ると、彼は最初に驚き、次に肩を落とし、最後に笑った。悲しい笑い。
「鍵は、そこだ」
彼は壁の出っ張りを顎で示した。「持っていけ。……俺はもう、疲れた」
「どうして」
あーさんが問いかける。男は壁にもたれて目を閉じた。「俺の息子も連れて行かれた。……“仕事”で得た金で、息子を買い戻せると思った。笑えるだろ?」
笑えない。胸が痛い。よっしーが帽子を脱ぎ、黙って頭を下げた。クリフさんは倉の入口へ身を寄せ、警戒を怠らない。エレオノーラは男の指の動きを見張る。
「釘は、帝国の“黒印工房”で打たれる。赤衣はそこに注文を出す。……この町の“仲買”は、北門の近くの“灰屋”だ」
男は瞼の裏から言葉を絞る。「俺は、もうやめる。やめても、やめられないだろうけど」
「やめさせる」
俺は紙針で倉の封を解き、箱の札束を祠の紙に飲ませる。名の飛沫が俺の胸の“綴”に刺さって温かい。あーさんが男の名を尋ね、彼は小さく答えた。俺はその名を紙に“結び”、祠に返した。ここから逃がす、という約束の代わりに。
「行こう。“灰屋”を焼く」
エレオノーラが弓を背負い直す。「“箱”は紙が飲む。札は君がほどく。釘は――」
「私が折る」
クリフさんが黒い釘を一本、両手でへし折った。筋と骨の訓練が、あの正確な矢を生む。そして、簡単には折れない釘を折る。彼の眼は静かだが、怒っている。
地上に出ると、夜明け前の空が薄かった。朝の鐘の一つ目が鳴り、露店の準備が始まりつつある。北門へ歩く。よっしーはハチロクのボンネットに手を置き、低く囁く。「もうちょいしたら走らすからな」
北門脇の“灰屋”は、文字通り灰色の壁。表向きは灰と炭を扱う店だが、奥の“灰樽”が地下への蓋だ。店主は眠たそうな目。だが、目の下に黒い粉。指先に“札”の紙粉。俺は紙針を袖の中で回す。
「灰を一樽」
よっしーが関西の商人みたいな顔で言う。店主が倉庫のほうへ半歩下がった瞬間、クリフさんが入口に立ち、エレオノーラが背に回る。ニーヤがカウンターに飛び乗っていたずら猫の顔をし、あーさんが柔らかく微笑み――俺が紙針で“灰樽”の封をほどく。
「お客さん、何を――」
店主の言葉は続かなかった。灰樽の中から、薄い“黙し”の布の端が覗いてしまったからだ。彼は悟った。俺たちも悟っていた。時間をかけるわけにはいかない。
「ごめん」
俺は短く言い、紙針で布の芯を抜いた。灰屋の奥に開いた階段から、薄い“箱の匂い”。俺たちは音もなく降り、黒い釘の束を布で包んで祠に飲ませ、札の束も飲ませ、箱は――紙針でほどきながら空にする。音の飛沫が朝の地下に散り、鳥の声の下で薄く鳴る。あーさんの目が潤んでいた。俺も同じ。
「燃やすか?」
よっしーが小声で聞く。俺は頷き、〈風縁〉と〈地継〉で空気の流れを制御し、〈火輪〉――イシュタムの“火の糸”を一本だけ、紙針の先に灯す。灰屋の地下の残滓に火が移り、静かに燃える。上の店主は、抵抗しなかった。床に膝をつき、顔を覆った。あーさんは彼の肩に手を置き、「終わりました」とだけ言った。
――
宿へ戻ると、マリナと弟は窓辺で小さく寄り添って座っていた。朝の陽で、二人の横顔が幼い鳥の影みたいに壁に落ちている。
「……助けてくれて、ありがとう」
マリナはそう言うと、深く礼をした。「でも、これで終わりじゃない。町には、まだ“夜市”の噂が残る」
「噂じゃなく、“習慣”や。なら、壊して回る」
よっしーが拳を握る。クリフさんが頷き、エレオノーラが地図を広げ、俺は旗を広げた。中央の小さな“綴”が、朝の光で浮かぶ。
「マリナ、君たちは“紙祠”にしばらく匿ってもらえる。そこは紙が守る。紙は管理を嫌う。だから、君たちが“名”を取り戻すのに向いている」
あーさんがゆっくりと説明する。マリナはうなずき、弟の頭を撫でた。「行って。あなたたちは、あなたたちの戦いを」
「もちろんや。――それと」
よっしーが虚空庫から、小さな包みを出した。中にはアメ玉と、古いけどまだ使える絆創膏。平成元年の絵柄のまま。「これ、平成の味や。元気出ぇへんとき舐め」
弟の目がまるくなり、次の瞬間、涙がぽろりと落ちた。よっしーは焦って「泣かんでええ、甘いだけや!」と慌て、皆で笑った。空気が軽くなる。こういう軽さが、俺たちの“家”を支えている。
――
昼前。俺たちは広場に旗を掲げた。布は新しい風を飲み、結びは朝の日で温まる。広場の片隅には、紙守が張った小さな掲示板。そこに、昨夜俺たちが紙針で“綴じ”直した名の断片が、匿名の詩の形で貼られていた。
《夜の底で、封はほどけ、音は帰る。
箱は歌わず、家が歌う。
だから――呼べ。名を。あなたを。》
「詩やのうて、報告書やな」
よっしーがニヤリとし、エレオノーラが「詩であり報告であるのが、紙守の流儀」と肩をすくめた。クリフさんは辺りの兵の配置を見、あーさんは広場の井戸で水をくみながら、子どもに笑いかける。ニーヤは旗の影で尻尾を揺らし、鼻を上げる。「魚の匂いニャ」
「……さて。次は“灰屋”の上流、“黒印工房”に向かうべきだ」
クリフさんの指が地図の北を指す。「赤衣は箱を求め、黒帽子は釘を打つ。二本の線を片方で切っても、もう片方が結び直す。なら、結び目そのものを“綴じ直す”しかない」
「黒印工房は、帝国領の縁。“砂鯨”の背骨のさらに向こう」
エレオノーラが空を見上げる。「車と紙の道、二つを使い分けよう」
「車の歌も、紙のささやきも、両方ええ声やからな」
よっしーが満足げにハンドルを撫でる。「燃料も、紙守が少し分けてくれたアルコールで調合したら、なんとか回せたで。昭和の知恵でなんとでもなるわ」
「平成元年だろ」
「細かいことはええねん!」
俺は笑い、旗の“綴”を撫でた。紙針は指に馴染み、膝の“地継”は歩幅に馴染んだ。胸の中の“綴”が、家の拍子で静かに鳴る。
「あーさん」
「はい、ユウキさん」
「怖くなったら、呼んで。俺も、呼ぶ」
「もちろんでございます。……“綴”」
彼女が小さく呼ぶ。俺の胸の“舟”が、軽く波を越える。旗が鳴る。家の音だ。
――
出立の前、マリナと弟が広場の端で手を振っていた。彼らの背後には紙祠の垂れ幕。紙は白い。だが、そこに刻まれた“綴”の印は、確かに色を持っている。風の色。家の色。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
短い言葉の交換に、たくさんの意味が詰まっていた。俺たちはうなずき、旗を掲げる。よっしーのハチロクが、陽を受けて低く歌い始める。紙の道は、石の影から静かに口を開ける。
赤と黒の影は、これからもっと濃くなる。けれど、俺たちの結び目もまた太くなる。箱をほどき、釘を折り、札を綴じ、名を呼ぶ。やることは変わらない。
砂が光っていた。遠い空の端で、雲が薄く縫われる。風は今日も、背中を押す。
“風の糸”は、旗の結びを確かめ、東へ――次の結び目へ――歩き出した。




