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地下の取引



 地下は、夜も朝もなく湿っていた。

 松明の火はときどき小さく跳ね、煤が漂って、鼻の奥に苦い膜をつくる。鉄格子は薄く汗をかき、鎖は体温を奪う。時間がわからないかわりに、看守の足音と粥の配給が、ここでの一日を区切っていた。


 最初の配給は、鉄杓で打つ三回の音から始まる。

 「一、二、三——起きろ、汚ぇ鳥ども」

 看守の声が回廊を渡る。桶の中身は薄い灰色の粥。米粒は数える方が早い。隣の檻の初老の学者が、眼鏡をずらして今日も礼儀正しく受け取る。若い少年はそのあとで、器を両手で抱えてすする。

 「……ありがとう」

 彼は小声でそう言うのが癖になった。誰に言っているのか自分でもわからないまま、毎回そう言う。言葉を一つ吐くたびに、自分がまだ人間であることを確かめているのかもしれない。


 ユウキは、器の底に沈んだ小さな米粒を舌で探りながら、鎖の抜け止め金を親指の腹で撫でた。昨日も撫でたし、きっと明日も撫でる。この鉄は、どの角が甘いのか、どこが少し開いているのか、指は学んでいく。

 (道具があれば、外せる……かもしれない)

 道具はない。だけど、目と耳はある。


 よっしーが、空っぽの器で喉を湿らせる仕草をしながら苦笑した。

 「うまいまずいの話とちゃうな。……“生き物用の水”や、これは」

 ユウキは器を返し、肩で笑う。「家賃四万の台所で食ったインスタント味噌汁のほうが、ずっとごちそうだったな」

 「四万は安いんか、高いんか、もうわからんわ」

 「わたくしの家は——」

 千鶴が言いかけて、言葉を飲み込んだ。「いいえ、よしましょう。ここでは、過去ばかりが温かくなるものですから」

 彼女はまだ、ここでの立ち居振る舞いに戸惑っている。膝を崩すことにも躊躇い、和服の裾を整える指が震える。けれど目は、昨日よりもよく周りを見ていた。看守がどの檻に長く留まるか。どの鍵穴が渋いか。誰が声を上げると手が飛ぶか——。


 「点呼だ」

 看守が木板を打ち鳴らすと、檻ごとに番号が読み上げられた。「一、三、七、十一——」

 ユウキの首輪に刻印された刻み目は、四十二。よっしーは四十三。千鶴は四十四。少年は四十八で、学者は五十一だった。番号は増えていくのに、戻ってくる者の番号はない。

 「昨日の“四十六”は?」

 隣の檻の女が聞いた。

 「アレクサルに回した」

 短い返事。アレクサル。収容施設。鉱山。——どれも名詞なのに、意味は動詞みたいに人を動かす。恐怖という動詞。


 午前の終わりごろ、重い足音が回廊に満ちた。鉄の拍子が揃っている。上官が来るときの足音だ。

 看守が背筋を伸ばす。「兵士長!」

 来たのは、昨夜、広間で下品に笑っていた男だった。鎧は磨き上げられているが、腹の革帯だけが油じみている。頬には荒い髭、口元に曲がった笑い。バーグ。

 彼の後ろに、まだあどけなさの残る若い兵士が続く。クリフ。

 「聞こえるか?」とよっしーが小声でユウキに肩を寄せる。

 「聞こえる」

 檻の奥、石の影に耳を澄ませる。二人は少し離れた横通路に入り、声を落として話し始めた。だが、この回廊は声をためる。湿った石は、秘密の方が好きだ。


 「……で、奴隷商の奴は何時に来る?」

 バーグの声。

「日暮れ前に。隊商の印章を通関所で受け取るそうです」

「金は?」

「銀百五十。若いのが多いから、と」

「足らん。昨夜の騒ぎで一人減った。あの切れ者め、手間をかけさせやがる」

「殺したのは——」

「黙れ、若造。上は“神罰だ”と言っておけ。あの大臣の言葉は金になる」

「……神の御名を、そんなふうに」

「神が飯を食わせてくれるのか? 食わせてくれるのは銀貨だ。銀が足らんのなら、増やせばいい。老人は“素材”に回せ。若いのは印を打って奴隷商へ。祝いの席は勇者だけでたくさんだ」

 クリフが小さく息を呑む音がした。

 「兵士長、あなたは——」

 「お前は“兵士長”を呼び捨てにできる身分か?」

 乾いた打音。甲冑の小手で、若い頬を弾いたのだろう。

 クリフは黙った。沈黙の中には、痛みだけが正直に立っている。


 よっしーが舌打ちを飲み込む。「クズやな」

 「……俺たちは売られる」

 ユウキは、昨日から曖昧に知っていたことを、いま言葉にして自分の中に置いた。

 千鶴は唇を固く結ぶ。「“素材”とは、何でしょう」

 「考えんほうがええ。考えたら、戻れんやつもある」

 よっしーの声は、いつもより一段低かった。


 やがて二人は去った。足音が遠ざかる。代わりに、帳簿をめくる紙の音が近づいた。看守が人数と刻印の管理を始める。

 「番号、四十二から四十九、出ろ。鎖をつなぎ直す」

 鉄格子が開き、鎖の房が鳴る。ユウキたちは列になって檻を出た。首輪の輪と輪を繋ぐ金具は、昨日よりも一つ増え、自由は五歩から三歩になった。

 「目ぇ閉じたら、歩きにくいで」

 よっしーがぼそりと言い、千鶴は瞬きを減らした。

 回廊の角を曲がると、開いた扉の向こうに短い階段が見えた。そこから、光が落ちている。

 光。

 それは眩しくはない。眩しくないのに胸が締め付けられる。光は、自由の思い出みたいに、心を痛くする。

 「止まるな!」

 槍の石突が背中を押し、列はふらついた。

 階段の手前で、別の鎖列が合流する。

 そこに、クリフがいた。

 彼は視線を落とし、足元の鉄輪を見ていたが、ユウキたちの列が近づくと、ほんの一瞬だけ顔を上げた。

 その目は、昨日の若さのままだった。

 わずかに唇が動く。声にならない。

 「……明日」

 それだけが、たしかに届いた。

 (明日?)

 ユウキが目で問い返すと、クリフは視線をわずかに扉の外へ滑らせ、それから上へ、城の方角へと上げた。

 (——上で、何かが起きる。たぶん)

 彼はすぐに表情を消し、持ち場へ戻っていった。


 列は階段を上がらず、手前で留められた。

 「今日は点検だけだ。荷札を打ち直す」

 看守が焼き印の板を持ち、番号を皮帯に押し付ける。焦げた臭いが立ち上る。

 「痛っ……」少年が顔をしかめると、よっしーが身体を寄せ、肩で視界を遮った。「見るな。見たら余計に痛い」

 千鶴は息を整えて、少年の手をそっと握った。「大丈夫、すぐ終わります」

 「お嬢はん、強いな」

 「いいえ。震えております。手を、貸してください」

 千鶴の指は冷えていたが、握り返す力は穏やかで、確かな重みがあった。


 点検が終わると、再び檻に戻された。階段の光は、背中の影になって消えた。

 看守は鍵を過剰に回し、わざと大きな音を立てて嗤った。「明日は忙しいぞ。寝ろ。泣くな。喚くな。喉を潰すと値が下がる」

 「値——ですって」

 千鶴が吐き出すように言った言葉は、石に吸われて、誰の耳にも届かなかった。


 昼と夜の境目のない時間が過ぎる。

 松明の炎が、時々、青くなる。油の質が悪いのだろう。

 初老の学者は、石に数字を書いては、手で消し、また書いた。

 少年は膝を抱えて眠り、眠りの底で小さくうなされた。

 よっしーは鎖の音を最小限に抑え、体の重さを分散させる姿勢を探す。職人の身体が、音を立てない合理を選ぶ。

 ユウキは、眠れない。眠り方を忘れた。ベッドのスプリングの鳴る音も、冷蔵庫のブーンという唸りも、ここにはない。

 あるのは、湿った石と、遠い笑い声と、誰かのすすり泣き。


 やがて、音がすべて沈んだ瞬間が来た。

 それは夜というよりも、音のない穴だ。

 穴の向こうから、ユウキは**“気配”**を感じた。空気が、ほんの少しだけ甘くなる。金属の匂いが後退し、冷たい井戸の水を最初に口に含んだときの、あの清潔な冷えが近づいてくる。

 (——誰か、いる)

 目を開けても、石と鉄しかない。

 けれど、耳のどこでもないところに、声が触れた。


 「……聞こえるか」


 それは、囁きよりも静かで、鐘の余韻よりも長い声だった。

 男とも女ともつかない。若くも老いてもいない。

 ただ、乾いた心の表面に水が落ちるみたいに、ユウキの内側へ染みてくる。


 「呼んだのは——お前か」


 ユウキは喉で息を止めた。

 (誰だ、お前は)

 声はすぐには答えない。

 代わりに、目に見えない指が、鎖の芯をそっと叩くみたいな気配があった。

 金属が、内側から一度だけ鳴った。

 ——チン。

 誰も気づかないほど小さい、しかし確かな音。


 「名を、まだ持たぬ者よ」

 声が言った。

 「お前の名は、お前の外にばかり貼られてきた。番号、給料、雇用形態、適性、非該当。

  だが、内に置く名は、これから選べる。

  この鎖の名も、選べる」


 (俺は——)

 ユウキは、何かを言いかけた。

 その瞬間、遠くで現実の足音が響いた。

 看守の罵声、鍵の束がぶつかる音、酒瓶の転がる音。

 声は、初めからそこにいなかったみたいに薄れていく。

 「また、来る」

 最後にそう言って、静けさは何もなかった顔をして戻ってきた。


 ユウキは、手のひらを握り、開いた。

 汗で滑る。鼓動が速い。

 (夢じゃない。……誰かが、いた)

 よっしーが壁にもたれた姿勢のまま、片目だけ開けた。「大丈夫か」

 「うん。……ちょっと、水の夢を見た」

 「ええ夢や」

 言って、よっしーはまた目を閉じた。


 千鶴は眠れずにいた。瞼の下で目が動く。

 「わたくし、明日、どうなるのでしょう」

 「売られる」

 ユウキは意地悪に言ったわけではない。

 言葉にして、言葉の形に自分たちを押し込め、やっと考えられることがある。

 「売られて、そのあと——逃げる」

 千鶴が顔を上げた。

「逃げる、……のですか」

 「うん」

 「できるでしょうか」

 「わからない。でも、逃げない理由がない」

 「理由なら——怖いから、でございます」

 「怖いから逃げるんだよ」

 千鶴は少しだけ黙って、それから、かすかに笑った。「ごもっともです」

 笑いはすぐに消えたが、頬にはきれいな血の気が戻った。


 どれくらい眠ったかわからない。

 あるいは眠っていないのかもしれない。

 だが、次の足音が来たとき、地下は明らかに朝の顔をしていた。

 松明が新しくなり、看守の悪態が太い。鉄の音が忙しい。

 「起きろ、運ぶぞ! 列を作れ、番号順だ!」

 檻が開き、鎖がまとめられる。

 地上の扉が開けられ、光が縞になって床に落ちる。

 ユウキは目を細め、歩き出した。鎖が重い。

 (来る。——来るなら、来い)

 階段の上。王城の影。城門の方角。

 どこかで、兵の合図笛が短く鳴った。


 クリフが、列の端に歩み寄ってきた。

 彼は誰の耳にも届かない高さで、囁いた。

 「——今夜、鐘が二つ、続けて鳴ったら。走れ」

 それだけ言って、離れていく。

 ユウキはわずかにうなずいた。

 鐘は、まだ鳴っていない。

 けれど、胸のどこかで、小さな音が先に鳴った。

 ——チン。

 誰にも聞こえないほど小さな、しかし確かな音。


 列は光へ踏み出す。

 石段の上、薄い風が頬を撫でた。

 初めて吸うこの国の空気は、鉄と酒と焼けた肉の匂いがして、それでも、少しだけ草の匂いが混ざっていた。


 昼が始まる。

 そして、夜が、来る。

 鐘が、二つ。

 あの声が、また。


 ユウキは前へ出た。

 鎖が鳴り、誰かの足音が重なった。

 外の光が、檻の残像をゆっくりと薄めていった。


*つづく*

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