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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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山を越える前に光を ― 鳴らさぬ鐘と写し残すもの ―

山道に入る前というのは、

 いつも少しだけ、足取りが重くなります。


 振り返れば、

 去りゆく町の灯りがあり、

 胸に残る音があります。


 それを抱えたまま進むことは、

 決して悪いことではありません。


 かつての峠は、

 祈りを置いてから越える場所でした。

 名を呼び、息を整え、

 それでも前へ進む。


 時代が変わっても、

 歩くという行いは変わりません。


 足もとを確かめ、

 隣の気配を知り、

 風の冷たさを受け入れる。


 この道行きが、

 何かを得るための旅であるかどうかは、

 まだ分かりません。


 ただ――

 共に歩いた、という事実だけは、

 ここに確かに残っています。




北の山道にて


 ステルネ・ツィフを出立したのは、朝日が山の稜線を越えたばかりの頃だった。

 町の背後には霜を被った針葉樹の森が広がり、白く霞んだ息がゆっくりと空へ昇っていく。

 石橋を渡るたび、靴底の霜が“ぱきっ”と音を立てた。


 「さっむ〜……! 祭りの熱気どこ行ったんや」

 よっしーが肩をすくめる。

 「昨日あれだけ踊ってたのに、よく筋肉痛になりませんでしたね」あーさんが微笑んだ。

 「それが日頃の鍛え……いや、ちゃうな。関西のノリ筋や!」

 「ノリ筋とは新しいですわね」

 軽口に、ニーヤが尻尾をぴんと立てる。「ノリ筋、おいしいですニャ?」

 「食べ物やない!」

 朝霧の道に笑い声が広がる。


 しかし山道に入ると、風の色が変わった。

 岩壁の隙間から吹き抜ける空気は冷たく、どこか湿っている。

 小川が凍りかけ、氷の膜の下で水がゆっくりと動いていた。

 ユウキは足を止め、振り返る。遠くに、もう小さくなった星の町が見えた。

 提灯の残光がまだ薄く揺らいでいるように見えた。


 「……いい町だったな」

 「うむ。おぬしの目に星が宿っておる」ニーヤが尻尾をくねらせる。

 「おいおい、ロマンチック発言やな」よっしーがからかう。

 ユウキは笑いながらも、どこか目を細めていた。

 胸の奥に、昨夜の鐘の響きがまだ残っていたのだ。鳴らさぬ鐘――静かな祈りの余韻。


 前を歩くクリフが、ふと足を止めた。

 「……ユウキ、右足の紐、緩んでるぞ」

 「え、あ……ほんとだ」

 クリフはしゃがみ込み、手早く結び直す。

 「こういう坂道じゃ、一つの結び目が命取りになる。歩くのは速さより安定だ」

 「……うん。ありがとう」

 「気にするな。俺も昔、似たような場所で転んだことがある。師匠にどやされたっけな」

 彼の口調はいつも通り寡黙だが、その横顔にはわずかに懐かしげな笑みがあった。


 風が強くなり、マントの裾がはためく。

 ユウキは小さく呟いた。

 「クリフってさ、なんか兄貴みたいだな」

 「兄貴ならもっと説教くさいさ」

 「十分くさいよ」

 「そうか?」

 二人の会話に、よっしーが笑う。「お、なんや青春してるやん。背中に夕陽しょってるで!」

 「朝だよ、今」ユウキが即座に突っ込み、また笑いが起きた。


 あーさんが微かに二鈴を鳴らした。

 「どうぞお足もと、お気をつけあそばせ。凍結の坂は油断なりませぬ」

 ニーヤが前に出て、猫のような身軽さで先を探る。「霜の先に、風の匂い……何かありますニャ」

 その言葉に、クリフが即座に手を挙げて合図する。

 「止まれ」

 全員が静止した。前方の木々の陰で、枝がざわりと揺れた。

 ユウキの背筋が伸びる。

 しかし、出てきたのは一頭の白い山ヤギだった。

 よっしーが肩を落とす。「脅かすなや、心臓止まるか思たわ」

 「まあ、命は鳴らさぬ鐘で守られたということですわ」あーさんが小さく笑った。


 山道をさらに進むと、谷の向こうで雲が割れ、光が差した。


 太陽が氷の斜面を照らし、

 砕けた光が跳ね返り、万華鏡のような輝きを放つ。


 一行は、思わず足を止めた。


「……この世界って、たまに反則みたいに綺麗だよな」


 ユウキが、息を吐くように呟く。

 言葉は軽いが、目は離れていなかった。


「うむ……」


 クリフが頷く。


「人の世でも、似たような瞬間はある。

 ただ――」


 少し間を置いて、続ける。


「気づくかどうかの違いだ」


 その言葉に、よっしーが鼻を鳴らした。


「せやなぁ……」


 目を細め、斜面の光を眺める。


「ワイの頃やと、

 こんなん見ても『綺麗やな』言う前に、

 “足滑らしたら死ぬな”って思うわ」


「現場人間の発想ですねぇ」


 あーさんが、柔らかく微笑む。


「私の若い頃でしたら……」


 視線を光に向けたまま、静かに言う。


「こうした景色は、

 “拝むもの”でした」


 ユウキが、ちらりと横を見る。


「拝む?」


「ええ。

 理由は分かりませんが……」


 あーさんは、少しだけ懐かしそうに目を細める。


「無事に越えられたこと。

 生きて、ここまで来られたこと。

 そうしたものを、

 まとめて有難がっていたのだと思います」


 よっしーが、軽く肩をすくめた。


「ワイらはなぁ……

 平成元年や。

 景色より、次の現場や」


「今月どう食うか、

 来月どう凌ぐか」


「綺麗なもんは好きやけど、

 立ち止まる余裕は、

 あんまり無かったわ」


 ユウキは、しばらく黙って光を見ていた。


「「……令和二年だとさ」


 ユウキは、肩をすくめる。


「こういうの、

 撮った写真をインスタに上げて“いいね”もらうか、

 Twitterに流してインプレッション見て、

 それで終わりなんだよな」


 一拍。


「……?」


 よっしーが、眉を寄せた。


「イン……なんやて?」


「酒の銘柄か?」


「違う違う」


 ユウキは、苦笑いする。


「写真をな、

 みんなに見せる場所があってさ」


「“ええやん”って数が増えると、

 ちょっと満足した気になるんだ」


 あーさんが、小さく首を傾げる。


「見せるために、撮るのですか?」


「……まぁ、そんな感じ」


「それは……」


 あーさんは少し考え、


「拝む前に、写し取る

 ということでしょうか」


 よっしーが吹き出した。


「なんやそれ、

 落ち着かんな」


「見てるようで、

 ちゃんと見とらん感じや」


 クリフは、しばらく黙ってから言った。


クリフが、静かに言った。


「数で測るのか」


 短い問いだった。


「景色を?」


 ユウキは、何も返せなかった。


 一拍置いて――

 よっしーが、ぽりぽりと頭を掻く。


「……まぁ、なんや」


 照れたように、でも軽く。


「せっかくやし、

 みんなで写真、撮らへんか?」


 一瞬、空気が止まる。


「え?」


 ユウキが、間の抜けた声を出す。


「いや、ほら」


 よっしーは谷の向こうを親指で示す。


「こんなん、

 あとで誰かに見せるためやのうてな」


「今ここにおった、って分かるやつ」


 あーさんが、少し驚いたように目を瞬かせる。


「……記念、ということでしょうか」


「せや」


 よっしーは笑った。


「“映え”とか、

 “数字”とか、

 そんなん要らん」


「あとで見返して、

 『あぁ、寒かったな』って言えたら

 それでええやろ」


 ユウキは、思わず息を吐いた。


「……それ、

 インスタ向きじゃないな」


「向ける気あらへんし」


 即答だった。


 リンクが「キュイ!」と鳴き、

 肩の上で羽を大きく広げる。


 ニーヤは尻尾を揺らし、


「皆で残すなら、

 それは良き写しニャ」


 ブラックは無言で一歩だけ近づいた。

 影が、全員の足元で重なる。


 ユウキはスマホを取り出し、

 一瞬だけ迷ってから――

 画面を、谷と仲間たちに向けた。


 シャッター音が、乾いた空気に溶ける。


 その瞬間、

 風が彼らの背を押した。


 前方には、まだ見ぬ道。


 霜を踏む音が、

 一定のリズムを刻む。


 そして、どこか遠くで――

 鐘の音が、微かに重なった。


 ――鳴らさぬ鐘の祈りは、

 たぶん今も、届いている。


この話は、

 何かが起きる直前の、

 とても静かな時間を描いています。


 町を出ること。

 山に入ること。

 足紐を結び直すこと。

 景色に立ち止まること。


 どれも物語としては小さな出来事です。


 けれど、

 人生の中で後から思い出すのは、

 案外こうした瞬間だったりします。


 時代が違えば、

 景色の受け取り方も違います。

 拝む人もいれば、

 危険を測る人もいて、

 写真に残す人もいる。


 そのどれもが、

 間違いではありません。


 だからこの回では、

 結論を出しません。


 ただ、

 「今ここにいた」という感覚だけを、

 写し残しました。


 鳴らさぬ鐘は、

 祝福でも警告でもありません。

 それでも、

 歩く人の背を、静かに見送っています。


 次の道で何が起きるにせよ、

 この光景が、

 ふとした拍子に思い出されるなら――

 それで十分だと思っています。


 ここまでお読みいただき、

 ありがとうございました。


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