碑(いしぶみ)の原、石に眠る息
(主人公・相良ユウキの視点)
東へ。草は短く、風は乾いて、地面の下から薄い熱が上がってくる。遠目には平原なんだけど、歩いてみると低い起伏が幾筋も走っていて、背骨みたいな石の帯が地表に顔を出していた。
羊の群れも見えない。代わりに、石。倒れた石、立ってる石、割れた石……“碑”。それらが広い空の下に無数に散らばって、ところどころで群れている。風が当たると碑が鳴る。金属でも木でもない、乾いた石の声だ。
「ここが“碑の原”」
エレオノーラが弓を肩に預ける。「古い文が刻まれた石が、東西に二里。『土の記』がどこかに眠ってる」
「音、違う」
ルゥが耳を澄ます。「北の塊は澄んでる。南の塊はくぐもる。真ん中は……空」
「空?」
俺は〈風読み〉に意識を落とした。空気の針が、真ん中のあたりで逆に引かれる感触。何かが“音を食べている”。“音の市”で嗅いだ“黙し”。嫌な予感が喉の奥で鳴る。
「赤衣、来てるかも」
エレオノーラが短く頷き、「急ごう」と言う。俺たちは“風縁”を軽く結び直し、碑の群の間を縫うように進んだ。
千鶴は、碑の表面を手の平で撫でては、指を水で湿らせて線の上をなぞる。刻まれた文字は、俺には絵みたいにしか見えないけど、彼女には糸のように見えているのかもしれない。よっしーは虚空庫から方位磁石を出しては「ぜんぜん当てにならん」と首をひねり、ニーヤは碑の影から影へと軽く跳んで、匂いと風を嗅いでいる。クリフさんは足跡を拾い、折れた草の向きや砂の擦れで人の通りを読む。ルゥは時々しゃがんで大地に耳を当て、何かを数えていた。
真ん中の“空”に近づくほど、耳鳴りが弱くなる。〈囁き手〉の糸も、少し伸びにくい。代わりに、足の裏が重くなった。地面が、俺たちの重さを測っているみたいだ。
「ここ、地脈の“目”」
ルゥが指で円を描く。「土の息が吹き出してる。……けど、誰かが蓋をしてる」
蓋。俺は指輪を撫でた。〈土渡〉の石が、ぬるく応える。ほどくべき“釘”は土の中にある。
「ユウキ殿、まずは人がいるか確かめよう」
クリフさんが手で合図を送る。〈風縁〉の糸に沿って、それぞれの“息”を少し落とす。碑の影に生き物の気配――小型のトカゲ、砂雀、そして……人。五、六。声を潜めている。息の震えが“迷い”のリズム。赤衣の冷たい直線の呼吸ではない。
「レジスタンス?」
「いや、碑守だ」
エレオノーラが耳で示す。「碑を守る民。土に詳しい。――ただし、外から来た者には厳しい」
厳しいの、想像つく。碑の間から、茶色の布で体を巻いた男女が現れた。肌は日で焼け、目は砂漠の狐みたいに細くて鋭い。先頭に、白髪混じりの女がいた。頬には刻まれたような古い傷。手には短い鍬。鍬の柄には、細い布が巻かれて文様が刺してある。
「旅人。碑に触れた手を、まず見せる」
彼女は俺の手を見て、指輪を見た。ほんの一瞬、目が細くなる。嫌悪ではない。測る目。
「名は」
「相良ユウキ。こっちは――」
「名は、いらない」
女は首を振った。「外の名は碑には重い。ここでの名を、持っている?」
俺は一瞬つまって、それから“家の名”を思い出した。紙片の温度。小護符の震え。
「“風の糸”です」
女の口元が、少しだけ緩んだ。「それなら、まだまし。私はサミヤ。碑を守る者。――ここで何を求める」
「『土の記』」
エレオノーラが真っ直ぐに言う。サミヤは眉をわずかに持ち上げた。
「土は、たやすく貸さない。貸すのは、帰ってくる手にだけ」
「帰す」
俺が前に出た。「返すために、結びに来た。『黙し』をほどいて、風と繋げたい」
サミヤの目が、俺の胸の中のどこかを見たみたいに細くなった。彼女は鍬の柄を指で二度、叩いた。短い合図。周りの碑守たちの肩の力がほんの少しだけ抜ける。
「いい。“試し”を受けなさい」
試しの環、姿なき重み
サミヤは俺たちを“空”の中心に連れていった。碑が円く並んでいる場所。地面は乾いてひび割れているけど、踏むたびに柔らかく沈む。土の下に空洞がある。風鳴りの丘の“風盤”と少し似ている。けど、音は低い。身体の内側の骨に直接鳴る感じだ。
「最初の結びは“重み”。地は重みで形を保つ。重みを、回す」
サミヤが環の外の石をひとつ押した。石が地面にめり込み、反対側の石が少しだけ浮く。土が、まるで呼吸するみたいに上下した。
「三つの石を、同じ呼吸に合わせる。――ただし、触れていいのは“風の糸”だけ」
彼女の視線が俺の指輪に落ちる。俺は頷き、みんなと目を合わせる。よっしーが「力仕事は任せろ」と肩を回し、ルゥが「違う。力じゃない」と釘を刺し、ニーヤが「風と土の喧嘩は、猫が仲裁するニャ」と尻尾を立て、千鶴は呼吸を整え、クリフさんは石の角度を目で測り、エレオノーラは周囲の気配を切らさない。
俺は〈風縁〉と〈土渡〉の結び目をひとつ重ね、“風糸”を環の石に渡す。風が土に触れる瞬間、きいん、と耳鳴りが強くなる。土の側の“嫌がる”感じ。そこに水糸を少し載せる。千鶴が指先でそっと撚りを足す。土が少し柔らかくなる。ルゥの“土に触る目”が細かく頷く。
「右を、わずかに沈める」
ルゥの指示に合わせて、俺は右の石の下の“土の糸”をほんのわずか緩める。地面が、す、と沈む。反対の石がふわりと上がる。上がりすぎないように〈風糸〉をほんの少し引き、重みを分ける。三つ目の石が遅れて呼吸する。千鶴が水糸で“拍子”を足す。――合う。三つの石の呼吸が、ひとつの輪になった。
《“結び目”:地輪/効果:重心の共有(小)、転倒耐性+小/副作用:脚の鈍痛(微)》
ふくらはぎの奥に、ゆっくりした熱。重みを分け合う感覚。俺だけじゃなく、みんなの体に同じ熱が走る。“家”の脚で立つ感じ。よっしーが「おお……膝に来るけど、嫌いじゃない」と笑い、クリフさんが足踏みして「面白い」と呟き、ニーヤは「地面が猫の背中みたい」と目を細めた。
「次」
サミヤが頷く。「二つ目は“沈む声”。――ここで、多くが消えた」
彼女が環の中心を指さす。そこに、薄い砂の円。踏むと、じゅ、と音を飲む感じ。〈囁き手〉の糸が、ここに触れると、すべて吸われる。
「“黙し”の芯。聖務局の箱と同じ“言葉”。――ほどく?」
彼女の目が俺の目に突き刺さる。俺は息を吸い、吐く。胸の中で、紙片の温かさを確かめる。俺は名を使ってほどく。……でも、ここには“名”が、ない。吸われている。
「“黙し”をほどくには、まず“黙る”。――からっぽにして、からっぽで結ぶ」
千鶴の言葉が、背中を押した。彼女の時代の礼法の、静けさ。俺は〈囁き手〉をいったんほどき、〈風縁〉の音も落とし、ただ“地輪”の呼吸に身を合わせた。呼吸だけ。吸う。吐く。吸う。吐く。――空っぽ。
指輪の内側の熱が、静かに沈む。耳鳴りも薄くなる。砂の円の上に、細い“何か”が立つ。糸というより、“柱”。見えないが、確かにある。そこに、結ぶ。名ではなく、呼吸で。
《“結び目”:空結び(からむすび)/効果:結界の“芯”への仮接続(微)、吸音の軽減(微)》
「ユウキ」
エレオノーラの声が遠くで鳴る。「赤衣、来る」
“空結び”の芯がやっと触れた瞬間、碑の外側で、風が逆立った。十字の段の音。冷たい直線の息。裾は、今度は土の上で揺れない。釘が土に打たれる音がする。
サミヤが鍬を構える。碑守たちが影に散る。クリフさんが矢を番え、エレオノーラが低く構え、よっしーは虚空庫に腕を突っ込み、ルゥが石を拾い、ニーヤが杖を抱えて目を細める。千鶴は俺の肩に手を置き、“空結び”に水糸を一筋足した。俺の胸に冷たい柱がもう一本、生えた。
赤衣は三。中心に一人、背が高く、目が笑っていない。右の目の下に小さな痣。左の裾の縁に古い焦げ。十字の段は、釘が深い。背の高い赤衣の後ろに、箱。――“黙しの箱”。俺たちが開けたものとは別。より古い。蓋の金具は十字が二重。
「碑守。器。――戻しに来た」
背の高い赤衣の声は、土に吸われず、空に引っかかった。彼は箱を軽く叩く。「箱は、ここがよく似合う。黙っているものは、黙っているべきだ」
「黙っておるのは、あんたの心や!」
よっしーが食い気味に叫ぶ。サミヤが片手でよっしーを制し、鍬の先で地面の“目”を示す。
「土は黙っていない。あんたらの十字が口を塞いでるだけ」
「塞ぐ?」
赤衣は笑った。薄い笑い。「管理だ」
「ほどく」
俺は立ち上がった。足の裏に“地輪”の熱。胸に“空結び”の柱。指の中に〈土渡〉の石。――やれる。
「お前、名は?」
俺の問いに、赤衣は眉を動かし、「“名はない”」と繰り返そうとした……が、一拍、遅れた。十字の釘の一本が、音もなく外れた。
「あるはずだ」
俺は彼の目の下の痣に目を留めた。「それ、子どもの頃につけられたろ。階段で転んだか、誰かに殴られたか。呼ばれただろ、その時」
「……“エス”」
彼は唇を噛み、吐き捨てるように言った。「古い名だ」
「エス。――その箱、置け」
「できない」
エスの十字の段が強く鳴る。土に釘が打たれ、碑の呼吸がずれる。“地輪”がきしむ。俺は“地輪”に風糸をもう一筋足し、サミヤが鍬で地脈のねじれを小さく打ち直す。千鶴が水で拍子を整える。ニーヤが〈風縫い〉で矢の軌道を逸らし、エレオノーラが短剣で十字の釘を弾き、クリフさんの矢が赤衣の足元を正確になぞる。ルゥの石が箱の角を打ち、十字の金具の片方がわずかに緩む。よっしーが――
「お前らの箱、結構繊細やな!」
――虚空庫から取り出した“輪ゴム”と“木の洗濯ばさみ”で箱の蓋の隙間を固定し、金具が戻らないようにする。赤衣の二人が一瞬、呆気に取られた。器用な悪戯は、管理には弱い。
「今!」
サミヤの声。俺は“空結び”の柱に指をかけ、十字の段の向きを“ほどき”に反転させた。土の下で、釘が自分で抜ける。エスの足元が崩れ、彼ははじめて膝を土につけた。裾が汚れ、目が――人間の色を帯びた。
「エス」
俺は呼ぶ。名は刃ではない。呼び出すための舟。彼の胸が一瞬、揺れる。箱の内側で“声”が微かに鳴る。子どもの呼び声。母の返事。――十字の段が、二段、崩れた。
「退く」
エスが低く言った。後ろの二人が彼を支え、箱を引く。金具は完全には戻らない。洗濯ばさみが、十字の角で滑稽な歯を見せる。……よっしー、ナイス。
「エス!」
俺は最後に一度だけ呼んだ。「また、ほどきに来る。――お前の十字を」
彼は振り向かなかった。けど、裾が風に揺れた。揺れて、土の汚れが一筋、落ちた。
“土の記”、家の脚
赤衣が去って、碑の原に風の音が戻る。サミヤは鍬を下ろし、俺たちのほうを見た。
「“試し”は、合格」
堅い顔が、ほんの少し柔らかくなった。「土は、返る手を覚える。――渡す」
彼女は環の内側に膝をつき、土を両手で掬い上げた。土は乾いているのに、手の中で光る。砂の粒が、糸みたいに繋がって見えた。サミヤが低く古い歌を口ずさむ。土が、歌に合わせて撚られる。薄い“土の紐”が現れ、それが俺の指輪のほうへ、やさしく伸びた。
「受けて」
俺は両手を差し出し、紐に触れた。冷たくも温かくもない。体温のない体温。胸の奥に落ちる。地面の呼吸が、俺の呼吸に揃う。指輪が鳴った。
《魂片取得:“土の記”/現在:三/スキル獲得:“地継”“重心返し”/副作用:鈍重(微)、膝関節への負荷(微)》
膝の中が、じわりと重くなった。けど、不快じゃない。身体が“広くなる”感じ。俺だけの脚じゃなく、“風の糸”の脚で立つ感じだ。
「ありがとう」
俺が頭を下げると、サミヤは「返しに来ること」とだけ言って、背を向けた。碑守たちも静かに散っていく。エレオノーラは空を見上げ、「雲が増えた」と呟いた。クリフさんが「夕立が来る。近くで雨を凌げる場所を」と言い、ルゥが「南東、石の屋根」と短く指した。
「行こ。雨の音、好きや」
よっしーが笑い、ニーヤが「濡れると毛が重いから好きではないニャ」と顔をしかめ、千鶴は「雨は糸を太らせます」と嬉しそうに言った。
石のお堂、雨だれの調べ
南東に低い石のお堂があった。屋根は石板。入口は狭く、奥は思ったより広い。壁には古い碑文の破片がはめ込まれていて、雨だれが石を叩く音が優しい旋律を作っていた。火を小さく起こし、湿った外套を干し、濡れた足を温める。
「膝、大丈夫か?」
よっしーが俺の隣に座り、肘で小突く。「さっきの“地継”、効いてる感じやろ」
「うん、効いてる。自分の脚っていうより、みんなの脚で立ってる感じ」
「ええやん。“家”って感じや」
よっしーは笑って、虚空庫から薄い布を取り出し、千鶴に差し出した。「濡れた髪、これで拭き」
「ありがとうございます」
千鶴は布で髪を押さえ、ほっと息を吐いた。頬にかかった水滴が光る。
彼女は俺の膝のほうをちらと見て、「無理は禁物でございますよ」と微笑む。エレオノーラは弦の水気を拭き、クリフさんは矢羽根の整え直しをして、ルゥは石の破片を並べて模様を作っている。ニーヤは火のそばで毛づくろい。ブラックは出入口の梁にとまり、雨を眺めている。
火が落ち着いた頃、千鶴が少し声を落として言った。
「……ユウキさん。あの、先ほどの“空”の結びで、わたくし、すこし見えました」
「見えた?」
「はい。『黙し』は、ただの沈黙ではありません。誰かの“怖れ”が、そこに重なっておりました。声を上げることの怖れ。名を呼ぶことの怖れ。……わたくしにも、その怖れはあります」
彼女は掌を見つめる。「明治で、わたくしは“家の名”を背負い、呼ばれました。呼ばれることは、選ばれること。選ばれることは、外されることでもある。……でも、いま、ここで、“風の糸”に結ばれて、わたくし、初めて“呼ばれない自由”も、持てるのだと感じました」
「呼ばれない自由?」
「はい。名は、持つもの。持たされるだけではなく、持つ。持たないでいる時間を持ち、持ちたいときに持つ。……わたくしは、そうしたい」
言葉が、雨の音に乗って、静かに胸に落ちた。「うん」としか言えない自分が少し悔しい。でも、うん、と頷くことが正しい気がした。
「わたくし」
彼女は紙片を見る俺の視線を追って、小さく笑った。「ユウキさんの“名の紙”、楽しみにしております」
「プレッシャーかけんなよ……」
苦笑いで返すと、よっしーが「誕生日の寄せ書きや思て書いたらええねん」と横から茶々を入れ、ニーヤが「“ユウキにゃん”でいいニャ」と勝手に決め、エレオノーラが「それはやめて」と真顔で言い、クリフさんが珍しく声を立てて笑った。ルゥは黙っていたが、石の模様を“風の糸”の形に並べて見せた。上手い。
夜の訪問者、砂の子ら
雨は夜半に上がり、空気が一度冷たくなってから、ゆるく温かさを戻した。火を落とし、交代で見張り。二番の見張りのとき、入口の影で小さな気配が動いた。
「……誰」
エレオノーラが低く問うと、影がぴたりと止まった。少しの間を置いて、細い声。
「碑の子」
小さな影が二つ、三つ。布で体を巻いた子どもたち。手には小さな石と、布に包んだ何か。サミヤのところの子らだろう。
「灯のお礼」
いちばん小さな子が布包みを差し出す。開くと、中に温かいパンと、干した果実。石には、子どもが刻んだ不格好な文様。
「“風の糸”。かぜのいと」
字の形はぐにゃぐにゃだけど、確かに読めた。胸の真ん中が、ちょっと痛くなる。俺は石を両手で受け取り、子どもたちの目の高さにしゃがんだ。
「ありがとう。これは、うちの旗の中心に彫る」
「旗!」
子どもたちの目が輝く。よっしーが調子に乗って、「猫の顔も入れるで」と言い、ニーヤが鼻を高くして「当然ニャ」と尻尾を振る。エレオノーラは口元だけで笑い、千鶴は「よろしければ、わたくし、刺繍も」と言った。クリフさんは子どもたちの手の擦り傷に気づいて、薬を塗る。ルゥは子どもの握る石の重みを“測って”、「良い石」と短く褒めた。
子どもたちは、雨の後の空みたいに澄んだ目で俺たちを見て、すぐに暗がりに溶けた。足音は軽い。土の上を知っている足音だ。
朝焼けと“旗”、名の糸
夜が明ける。碑は橙に染まり、影が長く伸びる。空の藍が薄れて、鳥の声が戻ってくる。俺たちは小さなお堂の前で、旗の草案を広げた。
布はトリスから託された薄手の帆布。よっしーが炭で大づかみの形――水平に一本の糸。糸から垂れる小さな結び目。右上に猫の耳。左下に小さな石。下辺に浅い波。エレオノーラが「弓は隠し意匠で」と言って糸の撚りの中に弦を紛れ込ませ、クリフさんが「余白を残せ」と余白を指で示し、ルゥが結び目の位置を微調整し、千鶴が刺繍の目を数えて、ニーヤが「猫の耳はもう少し立てるニャ」と主張する。
旗って、こうやって生まれるんだな。俺は、バランスの悪い炭の線を見つめながら、革袋の“名の紙”に指を滑らせた。紙は、相変わらず、わずかに温かい。
――そろそろ、書く。
昨夜の千鶴の言葉が背中を押す。呼ばれない自由。持つ自由。持たない自由。……俺は、“持つ”。ただし、“家”の中に置くように、軽く。刃としてではなく、舟として。
炭を持つ。手が少し震える。笑ってしまう。よっしーが「いけいけー」と囁き、ニーヤが「にゃー」と変な声を出し、千鶴が静かに息を合わせ、エレオノーラが目を細め、クリフさんが頷き、ルゥが「短いの」と助言する。
紙に、ひと筆。二筆。――
“綴”
書いてみたら、意外にしっくり来た。俺の仕事は“綴る”ことだ。ほどいて、結んで、つなぎ直す。文章でも、糸でも、家でも。俺個人の“名”として、それでいい気がした。大それた英雄の名じゃなくて、手に馴染む道具の名前みたいなもの。指輪の内側が、静かに鳴る。
《“器の名”設定:綴/効果:結び目操作の安定(小→中)、〈囁き手〉の雑音耐性+小/副作用:自己拘束(微)》
胸の奥のどこかが、少し“定まる”。自分で自分を“持つ”感じ。副作用の“自己拘束(微)”が、紙の端の小さな重みみたいに感じられた。……これくらいなら、いい。重すぎたら、家の皆に分けてもらえばいい。
「決まった?」
千鶴が目だけで聞く。俺は頷き、紙をみんなに見せた。よっしーが「ええやん! “綴”! つづる! 続く! 繋ぐ!」と騒ぎ、ニーヤが「“つづりにゃん”」と勝手に余計な尾をつけ、エレオノーラは「いい名だ」と短く褒め、クリフさんは「覚えやすい」と現実的に肯定し、ルゥは石に“綴”の形の傷を入れた。
旗の中央の小さな結び目のところに、千鶴が丁寧に“綴”の字を小さく刺繍した。目が細かい。糸が生きている。風が吹いて、布がわずかに揺れる。家の名前も、俺の名前も、一緒にそこにあった。
砂の鯨、走る丘
「で、次はどこ行くん?」
よっしーが旗をひらひらさせながら言う。エレオノーラが地図を広げ、「北東、丘が走る」と指を置いた。「“砂鯨”が出る。土の記を得たばかりの今なら、足をすくわれにくい」
「鯨?」
「砂の中を泳ぐ。丘が動くように見える」
ルゥが短く付け加えた。「石を食う。碑は食わない。碑の“味”は嫌い」
「へぇ……」
俺は“地輪”の熱を膝に確かめながら、歩き出した。風は乾き、空は高い。碑の原の縁で子どもが手を振り、サミヤが鍬を立てて小さく掲げた。俺たちは旗を掲げて返す。旗はまだ不恰好だ。けれど、風にすぐ馴染んだ。糸は風が好きだ。
丘が走るのは、地図の印どおり、北東の低地だった。砂が緩く盛り上がり、遠目には波。近づくと、その波の腹が、ぐう、と内側から押し上げられる。地面が生きている。音は低い。腹の底で鳴る太鼓。足を取られる。――取られないように、“地輪”。
「“地継”、回す」
ルゥが指で拍子を打つ。俺は“地輪”の結びをひとつ増し、重心を前へ後ろへと少しずつ送る。よっしーが「サーフィンみたいや」と叫び、千鶴が「さーふぃん……」と口の内で転がし、ニーヤが「猫は水が嫌いニャ」と関係ないことを言い、クリフさんが笑いを飲み込み、エレオノーラは目だけで笑った。
砂の丘の腹が、突然、大きく盛り上がった。鯨が呼吸するみたいに、砂が噴き出し、細かい石が雨のように降る。旗が弾かれ、糸が震える。
「来る!」
エレオノーラの声。砂が割れ、灰色の頭が覗いた。口はない。目もない。……けど、“食べて”いる。石と砂を。肌は細かい鱗。鱗の隙間に、古い釘や金属片が挟まって鈍く光る。背には“誰か”の矢が折れて刺さったまま。
「狙うのは、背の“古傷”。――そこ、柔らかい」
クリフさんが矢をつがえ、息を沈める。ニーヤが〈土縫い〉で砂の流れを縛り、俺は“重心返し”で砂の下の重みを鯨の反対側に送る。鯨の体勢が一瞬、崩れる。矢が、刺さった古い矢の根元に吸い込まれ、金属と鱗の隙間にぴたりと収まった。鯨の体が震え、砂の波がひっくり返る。よっしーが思わず「デッカ!」と叫び、千鶴が裾をたくして踏ん張る。ルゥが砂の硬い場所を瞬時に見つけ、エレオノーラがそこへみんなを誘導する。
鯨は、体を半分だけ地上に出して、背を激しく打ちつけた。碑の原の石に比べれば柔いが、それでも十分に固い砂地が波のように揺れる。俺は“地輪”をもう一度回し、重みを旗の糸に預ける。旗がぐっと引き、布がうなり、結び目がほどけずに持ち堪えた。……旗、役に立つな。
「退く!」
エレオノーラの合図で、俺たちは砂の丘をスライドするように後退した。鯨は追わない。砂に潜り、別の丘に流れる。背の折れた矢が一瞬だけ顔を出し、また沈む。
「“石喰い”は、音を食べない。石だけ。――黙しとは違う」
ルゥが砂を手で握って、ぽろぽろ落とした。「でも、誰かが背に釘を打った」
「十字の釘か?」
エレオノーラが拾い上げた金属片を指で弾く。音は鈍い。十字ではない。古い、別の形。――帝国の“黒帽子”の釘かもしれない。赤衣だけが敵じゃない、ってことだ。
「ここは通過。荒事はしない。……鯨は“道”を教えてくれた」
クリフさんが砂の流れを読む。「北東の縁に、固い層。そこを行けば沈まない」
俺たちは“家の脚”で砂の丘を越え、固い層を拾いながら進んだ。風は砂を運んで肌を刺す。旗はそれでも揺れて、糸は切れなかった。俺は、何度も“綴”という自分の名を胸の内で撫でて、息を合わせた。名は刃じゃない。舟だ。家の中で、舟を繋ぐ“綴じ”。
遥かな灯り、重なる敵影
砂の丘を抜けた先で、地面は再び石の帯に変わった。遠く、薄い緑。小さなオアシスかもしれない。空には白い鳥が混じり、風は少し湿った。夕陽が低く、長い影が道を覆う。旗の布が赤く染まる。
「見張りを一人増やす」
エレオノーラの声に、みんなが頷く。赤衣も黒帽子も、ここまで追ってきてもおかしくない。俺は〈風縁〉で糸を一度結び直し、〈囁き手〉の雑音耐性が少し上がったのを確かめる。“綴”の効果だ。耳鳴りはある。けど、怖くない。
「ユウキ……いや、“綴”」
千鶴が、初めて俺の新しい名で呼んだ。胸が温かくなる。
「はい」
「この先でも、わたくしたちは“ほどき”、そして“結ぶ”。……きっと、そのたびに、誰かが“怖れ”ます。わたくしも、何度も。だから、その時は、どうか――」
「呼ぶ」
言葉が重なる。千鶴が笑った。よっしーが「チーム名呼んでもええで。“風の糸”!」と不意に叫び、ニーヤが「にゃー!」と応じ、エレオノーラが「静かに」と釘を刺し、クリフさんが咳払いし、ルゥが石を投げてよっしーの頭に当てた。いつもの騒がしさ。いつもの家の音。
オアシスの縁に近づくほど、空気はやわらぎ、草の匂いが濃くなる。水の反射が木の葉の裏に踊り、鳥の羽ばたきが水面を撫でる。――その美しい絵に、違和感がひとつ。
「音、少ない」
ルゥが眉をひそめる。「鳥の声が……薄い」
「“黙し”の薄い膜が、ここにもある」
エレオノーラが矢を少し持ち上げる。俺は“空結び”の柱を胸の中に立て、糸を伸ばした。薄い。けれど、確かにある。水の上に、透明な布が掛けられているみたい。
「箱は?」
クリフさんが周囲を見回す。――いた。木陰。赤い裾。黒い帽子。両方。赤衣が二、黒帽子が三。互いに距離を取りながら、同じ一点――オアシスの中央の石の島――を見ている。そこに、古い石の祠。蓋がある。……箱を入れる穴。あるいは、箱を出す穴。
「ここから、箱を沈めるつもりだ」
エレオノーラの声が、低く鋭くなる。「水に“黙し”を広げる」
「許されへん」
よっしーが拳を握る。ニーヤが目を細め、「猫の水は静かでいいけど、音は欲しいニャ」と小声で言う。千鶴が袖をたくし、指に水糸を巻く。ルゥが“固い足場”を目で拾い、クリフさんは風下に回る。俺は旗を握り、結び目を確かめ、胸の“綴”を撫でる。
「――行こう、“風の糸”」
呼ぶと、風が背を押した。旗が鳴る。石が応える。水が頷く。俺たちは、オアシスの縁へ、静かに――でも迷いなく、踏み出した。
(つづく)




