-地底探検の章- 黒糸回廊・決戦(後編)
紅玉の双眸が細く笑い、黒糸の“根”がひとつの躯を編み上げていく。
外套は影、骨は糸、血潮は闇。胸許に蠢く黒い核が、規則正しく拍を刻む。
「形を取った……!」
クリフが剣を半身に構える。
「名を、寄越せ」
吸血公は囁いた。声は低く、しかし耳の裏に直接滲むように響く。
黒糸が床を這い、靴の縁、指の隙間、視線の端……“人が弱いところ”ばかりを狙って伸びてくる。
「結界:聖環」
ノクティアが祈りの輪をもう一段、厚くした。薄金の光が仲間を包み、黒糸が焼けて跳ねる。
が――影はすぐに別の経路を選ぶ。
壁面の古い刻印。天井の亀裂。祭壇の角。
名を奪う糸が避け道を見つけ、輪郭の外からじわじわと滲み入ってくる。
「撓めまする」
あーさんの二鈴が、黒糸の拍に逆位相で噛み込む。
直線だった拍が、波打って歪む。結び目が緩み、間が生まれた。
「今!」
ニーヤの紅と蒼が交差する。「フレイム・グレイズ/フロスト・エッジ!」
光の網が視線を縫い、紅玉の瞼がひと呼吸だけ閉じる。
「右から入る! リンク、上を!」
クリフの矢が結節を穿ち、続けざまに剣が横切る。
リンクは颯のリングで風を掴み、二段目の跳躍で顔面へ回し蹴り。
ブラックの風刃が同時に頬を打ち、紅玉の光が一瞬だけ滲む。
ユウキは、皆が拓いた“間”へ身を投じた。
黒糸断ちの短剣を手甲のように握り、胸の核へ――
届く、と確信した瞬間、足首を冷たいものが掠めた。
黒糸。
先ほど逃した“逆蝶番”の兄弟が、石の継ぎ目に潜んでいた。
「あるじ殿!」
ニーヤの悲鳴。ユウキの足がもつれ、刃の角度が鈍る。
短剣は核を掠めただけで、外套の影に弾かれた。
「――遅い」
吸血公の囁きが、胸骨の裏側で凍り付く。
黒糸が腕に絡み、肘の可動を奪い、肩を締め上げる。
視界の端に、過去が滲んだ。
書類の束。返ってこない電話。
「欠員は埋まった」と、事務的な声。
椅子に座っているだけで、内側から体温が抜けていく。
――また、何もできない。
――ここでも、誰の役にも立てない。
喉が詰まり、呼吸が浅くなった。膝が床石に触れる。
紅玉が間近まで迫り、黒い息が頬を撫でる。
「名を、寄越せ」
かすかな鈴が、耳の奥で鳴った。
あーさんの音色。
次いで、がさつな声。「立て、ユウキ!」
クリフだ。
あの短い叱咤の中に、見捨てないという意味が全て入っている。
続けざまに、猫の舌打ち。「あるじ殿、下を見ないのですニャ!」
ユウキは、顔を上げた。
視界の手前に、仲間の背が並ぶ。
輪の光。矢羽の震え。槍の呼吸。火と氷の煌めき。風の線。
――ここに、俺の“在りか”がある。
「……名は渡さない」
絞るように言った。
黒糸がさらに締まる。息が途切れそうになる。
その瞬間、黒糸の一筋がぱちん、と弾けた。
「今です!」
ノクティアの祈りが、輪から線へと変わった。
光の縄がユウキの腕に沿って走り、食い込んだ糸を内側から焼く。
続けてニーヤの反射が糸鈴の響きを跳ね返し、あーさんの二鈴が拍を逆撓めにする。
ユウキの肩が、ひとつ外れた。
呼吸が戻る。足首の糸はまだ残るが、膝が立つ。
「行け!」
クリフの矢が、紅玉の下まぶたをかすめ、視界を一拍止める。
リンクの踵がこめかみに刻みを付け、ブラックの風が顔を押さえる。
ユウキは、短剣を握り直した。
綺麗な型はできない。
でも、届く一撃なら――仲間の作ってくれた一拍に差し込めるはずだ。
踏み込む。
核の前に、影の袖が垂直に降りる。咄嗟に肘で受け、骨が震える。
視界が白む。
それでも、たった半歩。
短剣の切っ先が、黒い鼓動のすぐ手前に入る。
「っ……おおおお!!」
押し込む力は弱い。角度も、胸を張れるほど上手くない。
だが、刃は核に触れた。
手に、嫌な冷たさが逆流する。指が痺れ、肩が凍る。
――負ける。
内側から、そんな声がまた立ち上がりかけた時。
「双牙・連鎖!」
クリフの声と共に、二条の矢が“刃の延長”になって飛び込んだ。
短剣の外側で、矢が黒糸を縫い止め、刃がさらに半指押し込まれる。
「キュイッ!」
リンクの踵が核の際を掠め、わずかな波紋を起こす。
ブラックの風がその波紋にかぶせ、ノクティアの槍が楔を打つ。
あーさんの二鈴が鐘の音を抑え込み、ニーヤが最後の閃光で視線を閉じさせる。
ユウキは、叫んだ。
「――割れろっ!!」
黒い核に、ひびが入った。
蜘蛛の巣のような細いひびが、拍に合わせて広がっていく。
紅玉の眸が、初めて露骨に見開かれた。
「……ほう。届くのか」
吸血公の声に、低い愉悦が混じる。
「では――これはどうだ」
黒糸の根が、広間の四隅から柱のように立ち上がった。
天井の亀裂が開き、古い鐘楼のような構造が姿を見せる。
見えない鐘が、鳴ろうとしている。
「鳴らせませぬ!」
あーさんが駆ける。二鈴が打ち合い、逆位相が鐘の縁に食い込む。
しかし今度の鐘は、厚い。音の芯が重く、撓めきれない。
「足りぬ……!」
あーさんの額に汗がにじむ。音が重なり、腕が震える。
「わたくしが支える!」
ノクティアが祈りを輪から柱へと変え、二鈴に重ねる。
抵抗が一段、強くなる。
が、黒糸の柱はさらに分厚く、鐘の音はぬかるみの奥から這い出すように濁っている。
「よっしー!」
ユウキが振り返る。
「“まぶしいやつ”――全部だ!」
「ま、まじで行くんか!?」
よっしーの顔が真剣に硬くなる。
「了解や。――目ぇつむれ!!」
白光が連続で弾けた。
広間が昼になり、次の瞬間には夜に戻る。
紅玉の視線が跳ね、黒糸の柱が一拍だけ緩む。
その一拍に、ニーヤが火と氷を重ねて投げ込む。
熱と冷の衝撃で鐘の倍音が乱れ、あーさんの逆位相が芯へ届いた。
「今なら……いけまする!」
あーさんの声が震え、鈴が澄み切った音をくぐらせる。
鐘の鳴りかけた音が、ほどけた。
吸血公の紅玉が細くなる。「小賢しい」
黒糸が鞭のようにしなり、こちらへ殺到する。
クリフの刃が結節を斬り、リンクの風が線を曲げ、ブラックの水が糸を重たく鈍らせる。
ノクティアの柱が名喰いを押し返し、ニーヤの閃光が視線を閉じさせる。
ユウキの前に、また一拍。
核のひびはまだ浅い。だが、広がる道筋は見えた。
「あるじ殿」
ニーヤが横に並ぶ。
「ここはわたしが押さえるです。――行くのですニャ」
彼女の掌に灯る紅と蒼は、さっきよりも整っている。
猫の感覚が、拮抗する属性を縫い合わせる点を見つけ出したのだ。
光が一条となって、核のひびに糸のように滑り込む。
ユウキは、短剣を握り直した。
呼吸は乱れ、腕は重い。
だが、背中は並んでいる。
「行くぞ!」
踏み込み。
逆手に取った短剣を、ひびの中心へ押す。
綺麗な突きではない。ただ、全てをそこへ寄せる。
肩、肘、手首――うまく揃わない動きを、気持ちで無理やり束ねる。
「おおおおおお!!」
刃が、ひびの中へ落ちた。
核の内部で、黒い拍が一瞬だけ躓く。
その隙を、クリフの矢が楔に変える。
リンクの踵が槌になる。
ブラックの風が押棒になる。
ノクティアの祈りが封になる。
あーさんの鈴が拍を止める。
そして、ニーヤの光が縫い、
ユウキの短剣が、割った。
砕けた。
紅玉の光が、はじめて揺らいだ。
吸血公の影が半歩、後ずさる。
黒糸の根がぎしりと軋み、床の上で何本も、へたり込む。
「……やるな」
声が今度は、乾いた音になっていた。
「ならば――扉ごと、閉じよう」
広間の外縁で、黒糸が円を描いた。
その円が、重く沈む。
床がわずかに下がり、壁が狭まる。
――閉鎖。
戦場そのものを、敵の手で“鍵”に変える術式。
「まずい!」
クリフの顔が険しくなる。
「長期戦に持ち込まれれば、こちらが削られる!」
「では、短く終わらせるのですニャ!」
ニーヤが尻尾を高く掲げ、目を細める。
「あるじ殿、最後の一拍、わたしが作るです。――信じるのですニャ!」
彼女は深く息を吸い、掌を合わせた。
紅と蒼が混じり、今度は白に近い光が生まれる。
熱も、冷も、名喰いの囁きの“外”から落ちてくる、ただの光。
その光が核の“穴”に注ぎ込まれるのと同時に、あーさんの鈴が最後の逆位相を打ち込み、ノクティアの柱が名喰いの咢をこじ開け、リンクとブラックが顔面を押さえ、クリフの矢が結節を縫い止めた。
「ユウキ!」
皆の声が、一つになって届く。
ユウキは、踏み出した。
不器用な足で。震える膝で。
それでも、皆のつくった道の真ん中を、まっすぐ。
「――これで終わりだ!」
短剣が核へ走る。
刃は、もう迷わない。
黒い拍が、止まる。
紅玉の光が、はじめて露骨に揺らいだ。
その瞬間、吸血公の影が、横合いから逆手を打った。
床下の逆蝶番――最後の一本。
誰も見ていない角度から、ユウキの足首へ黒糸が走る。
「危ない!!」
飛び込んだのは、よっしーだった。
旅人袋で黒糸を叩き、自分の足に絡ませる。
「わ、わいが引き受ける!! ダー――ご主人! 最後、任せたで!!」
「よっしー!」
ユウキは振り返らない。
彼が作った、一瞬の身代わりが、最後の半指を押し込む時間をくれた。
短剣が、沈む。
黒い核が、裂ける。
吸血公の影が、無音で口を開いた。
広間の音が、一度すべて消えた。
そして――
黒糸の根が、崩れた。
影がひゅうと細り、紅玉の光が天井へ散った。
床の円がほどけ、閉鎖の術式が解ける。
鈴が二度、小さく鳴って、静けさが戻った。
ユウキは、肩で大きく息をした。
膝が笑う。手が震える。
それでも、まっすぐ立っていられる。
「……終わった、のか?」
クリフが周囲を見渡す。
ノクティアは胸に手を当て、目を閉じて祈りをひとつ。
ニーヤはユウキの袖をつつき、尻尾でぽんと背中を叩いた。
「あるじ殿、よくやったのですニャ」
あーさんが二鈴を重ね、微笑む。
「鐘は鳴らさせませなんだ。蝶番は、外れました」
「よっしゃああああ!!」
よっしーがその場にへたり込みながら両手を上げた。
「わい、足つってるけど勝利の立役者やろ!?」
「間違いなくな」
ユウキは笑って、手を差し伸べた。
よっしーは照れくさそうにその手を掴む。
広間の奥で、古い石がずれて宝箱がひとつ、姿を見せる。
同時に、壁面の文様がゆっくりと別の方向を指し示した。
天ではない。地でもない。
――脇道。
黒糸の残滓が、どこか塔のほうへ向かっている。
「まだ、続いているのですね」
ノクティアが羽衣を整え、静かに言う。
「戻ろう。休息と報告だ」
クリフが宝箱へ歩み寄り、鍵を確かめる。
「学園に一度戻って、ミカに“塔筋の糸”を解析してもらう」
「それと――」
ユウキは仲間を見回し、頷いた。
「ノクティアの歓迎会の第2部、まだやってない。……それから、次の旅でガガを呼ぶ話も、進めよう」
「やったですニャ!」
ニーヤが尻尾を高く掲げ、リンクが「キュイ」と跳ねる。
ブラックが短く鳴き、よっしーは「わいの“もっとまぶしいやつ”は当分封印や」と宣言した。
ユウキは、ゆっくりと灯りを掲げた。
氷河期の冷たい部屋の影は、まだ胸のどこかにいる。
でも、その影の輪郭は、皆の声で薄くなっていく。
――俺は、一人じゃない。
黒糸回廊に、足音が戻る。
次の拍を刻むのは、もう鐘ではない。
仲間と歩く、前へ進む音だ。
(次章:地底探検の章・完結──帰還と報告、そして塔への糸 に続く)




