-地底探検の章- 黒糸回廊・決戦(前編)
広間全体が、低く唸った。
黒糸の“根”が地脈のように脈動し、その頂でエルダー・バジリスクが金火の眼を細める。背の影からは、紅玉の双眸を持つ“人影”――吸血公の本体が、扉の向こうから半身をのぞかせていた。
「鍵と扉……」
あーさんが二鈴を胸もとで重ね、静かに言う。
「鐘を鳴らさず進むには、まず“蝶番”を外します。鍵に通る三つの要――冠骨・喉下・尾根。そこを撓め、黒糸を切り離すのです」
「要は三つ、了解だ」
クリフが短く応じる。弓と剣、両方を握り直す。
「主人殿、目は絶対合わせないのですニャ。合図したら逸らす、そして踏み出すです」
ニーヤの声は震えていなかった。耳はぴんと立ち、尻尾は緊張の弧を描く。
紅玉の眸が、わずかに笑ったように見えた。吸血公の影が淡く囁く。
『名を寄越せ。孤独も、渇きも、わたしが呑み潰してやろう』
胸の奥の古傷が、ぬらりと疼く。
――氷河期。履歴書の束。沈黙の面接室。
だが、ユウキは首を振った。
「……いらない。今の俺には、仲間がいる」
広間の空気が一段冷たくなった。
エルダーが首をもたげ、視線が走る。床石がきしみ、黒糸がピンと張る。
「散開!」
クリフの号令で、一行は同時に動いた。
⸻
最初の衝突は“音”だった。
あーさんの二鈴が逆位相を刻み、黒糸の囁きを撓める。
その薄い隙間を、リンクが“颯のリング”の風を纏って滑り込んだ。低い姿勢から、二段目の跳躍。踵が冠骨へ向けて弧を描く。
同瞬、クリフの矢が冠の継ぎ目に吸い込まれ――弾けた血煙のわずかな“間”に、リンクの踵が落ちた。
甲高いひび割れ音。冠骨に亀裂が走る。
「一角、撓み!」
クリフが次の矢を番えるより早く、エルダーの尾が鞭のようにうなった。
リンクは風で滑るように退き、尾は祭壇を横薙ぎに破砕する。砕片が雨のように降り注ぐ。
「うわっ、あかん! 目ぇ逸らせ!」
よっしーが袋を抱え、しゃがみ込む。
「“ほんのすこしまぶしいやつ”は――今日は温存や。まだ“もっとまぶしいやつ”が残ってる」
「やめろ!」
ユウキとクリフが同時に止めた。
エルダーの喉が膨らむ。
石化の気配――来る。
ニーヤが叫ぶ。「いま、逸らすですニャ!」
ニーヤの両掌に紅と蒼。
フレイム・グレイズ/フロスト・エッジが交差し、光の刃が眼窩の前で閃光の雨を作る。
エルダーのまぶたが反射で閉じる、その一瞬。
「今だ!」
ユウキは足を踏み出した。喉下――二つ目の要。
怖い。けれど、足は前へ。“背中”が並んでいるからだ。
喉下に滑り込み、斜めに刃を入れる――はずだった。
尾が走る。視界の端が黒くちぎれた。
「主人殿、しゃがむです!」
ニーヤの声に、腰が勝手に落ちる。尾の風圧が頭上を掠め、髪が逆立つ。
とっさにユウキは、腰の黒糸断ちの短剣を逆手に取った。
剣よりも短い、それでも“糸”に通る刃。咄嗟に喉の継ぎ目へ滑り込ませる。
ぎ、と鈍い手応え――黒糸が一筋、切れた。
エルダーがのけぞる。喉の奥で金火が揺らぎ、吸血公の影が苛立ったようにざわめいた。
『鍵を外すな』
「外すよ」
ユウキは歯を食いしばる。短剣を引き抜き、退く。
ノクティアが入れ替わりに踏み込み、槍の石突で喉下を打ち止めた。
「祈りはここに。――封撓!」
槍先が喉の内壁に“楔”を打つ。
エルダーの首が一瞬沈み、喉下の“蝶番”が外れた。
「二角、外し!」
クリフの声が鋭い。
その刹那、広間の“扉”側――吸血公の影が一歩、強く踏み出した。
見えない手が伸び、黒糸が一斉にうねる。
冷気が、ユウキの胸に指を差し込む。
名を奪う手。
――ユウキ。いや、俺は。俺は……誰だ?
「あらぬ方を見てはなりませぬ」
澄んだ二鈴の音が、胸の中央を小さく叩いた。あーさんの声が、遠く近くで重なる。
「名は此方に在り。呼び戻します――撓鈴」
絡みつく冷気が、薄皮のように剥がれる。
ユウキは息を吸い、拳を握った。
(俺は、ユウキだ。ここで――この仲間と、立っている)
吸血公の影が鼻を鳴らしたように見えた。
黒糸が再び張り詰め、エルダーの尾根が持ち上がる。
「三つ目、尾根――オレが行く!」
ユウキは駆けた。
正面からは間に合わない。
そこへ、影が風を作る。
「キュイ!」
リンクが側壁を蹴り、斜面を駆け上がってユウキの肩に軽く足を載せる。
軽い。疾風の圧が背に乗る。
「跳べ!」
ユウキは跳んだ。
自分ひとりの脚では届かない高さへ。
視界が開く。尾根の付け根――黒糸の束が“蝶番”のように密集しているのが見えた。
ユウキは構えを崩した。綺麗な型は要らない。
代わりに、短剣を全力で引き裂く軌道へ持っていく。
「うおおおおっ!!」
黒糸が、裂けた。
刃が通り、束がほどける。
エルダーの尾が、重力を思い出したように落ちる。
同時に、紅玉の眸がひときわ強く明滅した。
『鍵、外れたか』
「外した!」
ユウキは着地で膝をつき、肺が焼けるほど息を吐く。
エルダーの三つの“蝶番”は、冠・喉下・尾根で全部外れた。
巨体はなお強い。だが、黒糸で扉に繋がれてはいない。
「仕上げる」
クリフの声が低い。
弓を掲げ、彼は息を一段沈めた。
矢羽が震え、次の瞬間、指が自然に離れる。
矢が二条――いいや、三条。
後から放った二本が、最初の矢の気流に吸い込まれ、一点へ合流する。
「……双牙、連鎖」
喉奥で言葉がこぼれるのと、矢が喉核を撃ち抜くのは同時だった。
エルダーが崩れた。
黒糸の根がほどけ、広間の床に墨のような液がしみ込んでいく。
――静寂。
いや、違う。
扉の向こうが、目を覚ました。
⸻
黒糸の“根”が、扉の縁で束になって立ち上がる。
外套の影が一段濃くなり、吸血公の本体が、足を踏み出した。
紅玉の眸が、こちらを一瞥する。
その視線ひとつで、広間の温度が数度落ちた気さえした。
「ようやく、邪魔な鍵が外れたか」
影は笑んだ。
「ならば、改めて招こう。名を。心を。血を」
「胸糞悪い招待状やな」
よっしーが袋を握り直し、顔をしかめる。
「受け取り拒否や。なぁ、ダー……いや、ご主人のご主人」
「言い直すな」
ユウキは苦笑しつつ、立ち上がる。
膝が震える。けれど、立てる。ここには背中を並べる仲間がいる。
「ノクティ殿」
クリフが視線だけで合図する。
ノクティアは小さく頷き、羽衣を肩にかけ直した。
深く一礼し、静かな声音で告げる。
「わたしは、あなたの下僕ではない。光に仕える僧として、ここに立つ」
槍の柄が床を払う。祈りの文言が、短く、鋭く重なる。
「結界:聖環」
広間に薄い輪が生まれ、黒糸の囁きを一段下げる。
吸血公の紅玉がわずかに細められた。
「……裏切りか。だが、影から生まれたものは影に還る」
黒糸が両袖から伸び、地を走る蛇のように蠢く。
床石の隙間から“手”が生え、足首に絡みつこうとした――
「させないのですニャ!」
ニーヤが両掌を前に突き出す。
炎と氷――反発する二つの属性を、猫の勘で縫い合わせるように重ねた。
熱冷の曇りが床に走り、黒糸の手が霜ごと砕け散る。
「上、来る」
リンクの短い警告。
天井の黒糸が“滴”になって落ちてくる。
ブラックが翼を広げ、風圧で散らす。
「……カァ」
ユウキは呼吸を整え、掌を見た。
イシュタムの熱は、また弱く灯る。
完璧な一撃なんて、きっと撃てない。
だが、届く一撃なら――皆の作る“間”に差し込む一打なら、撃てる。
「主人殿」
ニーヤが横に並んだ。瞳はまっすぐ、尻尾は高い。
「わたしは、主人殿を見捨てないです。なんどでも立たせるですニャ」
「ああ。……ありがとな」
ユウキは頷く。
怖い。でも、踏み出せる。
氷河期の冷たい部屋では、こんな風に声をかけてくれる誰かはいなかった。
今は――いる。
「作戦はシンプルだ」
クリフの声が低く響く。
「ノクティア殿の聖環で奴の“名喰い”を弱め、あーさんの鈴で糸を撓める。ニーヤが視線を封じ、リンクとブラックで顔面を押さえる。俺は糸の結節を斬る。ユウキ――」
「俺は、届く一撃を通す。黒糸の心臓へ」
吸血公の紅玉が、わずかに笑んだ。
「ならば、踊ろう」
黒糸が一斉に立ち上がり、影の群れが波のように押し寄せる。
ノクティアの祈りが輪を広げ、ニーヤの閃光が視線を弾き、リンクの足が風の筋を描く。
あーさんの鈴が拍を刻み、クリフの刃が結節を切り分ける。
ユウキは、皆の作る“間”へ踏み込んだ。
拳に、拙い熱。
黒糸断ちの短剣を手甲のように握り、紅玉の影が胸に抱える“核”へ向けて、ただ一直線に――
その瞬間、広間の奥で鐘が鳴りかけた。
嫌な高音。
黒糸が硬化し、扉の蝶番が“鳴る”直前の音。
「鳴らせませぬ!」
あーさんの声がはじけ、二鈴が強く打ち合う。
逆位相の響きが鐘の音を呑み、黒糸の“拍”が一瞬ほどける。
「今だ、ユウキ!」
クリフの声が届く。
ニーヤの光が瞼を縫い、リンクとブラックが左右から頬を押さえ、ノクティアの聖環が名喰いを押し返す。
ユウキは飛び込んだ。
短剣の刃が、紅玉の影の核へ――
――触れた。
刹那、広間の温度が一段下がった。
紅玉の眸が、ほんのわずかに見開かれる。
黒糸が悲鳴のように軋んだ。
「……届いた」
言葉が漏れた、その直後だった。
ユウキの足元で、別の黒糸が逆流し、足首を絡め取った。
扉の縁、石の継ぎ目に潜んでいた細い“逆蝶番”――
「ユウキ!」
仲間の声が雪崩れる。
紅玉の影が低く笑い、引き寄せる。
「ならばまず、一人」
視界が傾ぎ、黒へ滑る。
その黒の縁を、派手な白が横から割った。
「――眩しなぁぁぁぁい!!」
よっしーの絶叫と同時に、もっとまぶしいやつが炸裂した。
白光が紅玉を焼き、黒糸が一瞬だけ脱力する。
ユウキの足首から糸がほどけ、体が自由を取り戻す。
「よっしー! それ、今だけはグッジョブだ!」
「せやろ!!」
「……次は無しでお願いします」
あーさんが小声でため息をついた。
ユウキは転がるように距離を取り、肺の空気を吐ききった。
達した一撃は届いた。だが、まだ倒れてはいない。
吸血公の影は静かに首を傾げ、紅玉の眸を細めた。
「面白い。ならばこちらも、本気で相手をしよう」
黒糸の根がもう一段、太く立ち上がる。
広間の空間が収縮し、照明の炎が揺れて小さくなる。
空気が重い。石が鳴る。
――最終拍が、来る。
「体勢、整えろ!」
クリフが剣を構え直す。
ノクティアが祈りを重ね、ニーヤが火と氷を両手に燃やす。
リンクが低く身を沈め、ブラックが円を描くように舞い上がる。
あーさんの二鈴が、最後の“間”を刻む。
ユウキは拳を握った。不器用な熱が、手のひらを焼く。
心はまだ震える。だが、背中は並んでいる。
「行こう」
彼は言った。
「鍵は外れた。次は――扉だ」
紅玉の眸が微笑む。
黒糸の影が、牙を剥いた。
決戦、開幕。
(つづく)




