-地底探検の章- 深層・黒糸回廊
階段を降り切ると、空気の匂いが変わった。鉄と湿土に、どこか金属を擦るような冷たい匂いが混じっている。壁面の黒糸はここでは“線”ではなく、“根”だった。岩に食い込み、脈動し、時折目の端でうごめいて見える。
「足音、吸い込まれていく……」
リンクが低く呟く。指に嵌めた颯のリングが、かすかに風を走らせる。
「あるじ殿、右壁に隙間――罠の匂いですニャ」
ニーヤの耳がぴんと立つ。尻尾が警戒の合図を刻む。
ユウキは灯りを近づけ、黒糸の“根”に触れそうで触れない距離を保った。
「……引っかけ式の落とし戸か。石目が不自然に浅い。踏板は三枚目」
「よっしゃ、ほな――」
よっしーが袋からチョークを取り出す。「踏んだらアカン印」を描こうとして、手が滑って真ん中に丸を描いた。
「そこが“安全”の印に見えるから紛らわしい!」
ユウキは慌てて二重線を引き、矢印を書き足す。
「こっちを踏め!」
全員がつま先立ちで渡り終えた瞬間、天井からしゃらりと音が降ってきた。黒糸に混じった細線が、蜘蛛の巣のように広がっている。
「糸鈴……触れた者の“名”を絡め取る仕掛けですね」
あーさんが二鈴を重ね、そっと逆位相の音を立てる。
「撓めます。通れまする」
薄膜が揺れ、糸鈴の響きが遠のく。ユウキの胸が少しほどけるのを感じた。
(……オレは不器用だ。けど“見つけて、撓めて、通す”なら、やれる。蝶番を外すのは、きっとこういう積み重ねだ)
通路の先が、ぽっかりと膨らんで広間になっていた。中央に低い祭壇、その周囲を円形の水路が囲んでいる。水面は黒い。揺れない。――いや、揺れているが、表面張力だけで形を保っているような、不気味な静けさだ。
「……聞こえる?」
ノクティアが囁く。
「蛇の擦過音。ひとつではない。……三、いえ、四」
「配置、散るぞ」
クリフが短く指示を出す。
「俺は正面。リンクは右、ブラックは左上から。ノクティア殿は祭壇守り。ニーヤは――」
「後衛支援と反射のタイミング取り、任せるですニャ!」
各々が持ち場へ散る。ユウキは祭壇の手前、よっしーは一歩引いた位置で袋を抱えた。
「よっしー、絶対にその“まぶしいやつ”を無闇に焚かないでくれよ」
「わ、わいかて学んどる! 今日は“少しだけまぶしいやつ”にしとく」
「少しだけって何なんだよ……」
やり取りに、わずかな笑いが生まれた瞬間――水面が割れた。
最初の蛇影が、まるで墨から生えた刃のように飛び出す。二体、三体。
リンクが一歩目で風を溜め、二歩目で空を蹴る。疾風脚が尾根に叩き込まれ、一本が水面に叩き返される。
ブラックの風刃が水平に走り、もう一本の顎を叩き落す。
「もう一本、来るですニャ!」
ニーヤの警告と同時、祭壇の影から一回り大きい影が滑り出る。
ノクティアが石突で床を打ち、短い祈り。
「水鏡、還せ――リフレクト・ドロップ」
黒い水が一瞬だけ“真水”に還り、蛇影の滑走が鈍る。穂先が喉に届いた。
だが――広間の奥、黒糸の束がひときわ大きく脈打った。岩を破って、巨影がゆっくりと首をもたげる。
「……でかい」
ユウキは息を呑んだ。
バジリスク――だが、さっきのものとは質が違う。
鱗に古い符が刻まれ、眼窩の奥に淡い金の火が灯っている。頭冠の骨が一段と発達し、背には退化した羽の名残のような膜が張り付く。
「あれは……上位種。エルダー・バジリスク」
ノクティアが青ざめた顔で言う。
「視線だけでなく“名”を凍らせる。真正面からは危険です」
「ならば角度を作る」
クリフが矢を番える。喉下、関節、眼窩と矢印を描くように三本、続けざま。
一見、鱗に弾かれた――が、微細な亀裂が残った。
「通る。薄い箇所はある」
「あるじ殿、わたしが合図したら目を逸らすですニャ。――いきます!」
ニーヤが両掌に火と氷を同時に呼び、指を鳴らす。
「フレイム・グレイズ/フロスト・エッジ、交錯!」
熱冷の閃光が走り、エルダーの片眼が反射で閉じる。その瞬間――
「今!」
ユウキは踏み込んだ。怖さは消えていない。それでも足は前に出る。
(オレは一人じゃない。支える言葉と、並んで立つ背中がある)
だが、巨体の尾が大蛇の鞭となって走った。
空気がひしゃげ、ユウキの頬をかすめる。
次の瞬間には、尾の先が祭壇を叩き、石が砕け、砂塵が噴き出した。
「あるじ殿!」
ニーヤが腕を引く。ユウキは転がり、砂塵の中で咳き込む。視界が白い。
そこへ、よっしーの手がぐいっと突き出された。
「これ! “ほんのすこしだけまぶしいやつ”や!」
「ほんのすこしって――」
「押すなよ、絶対押すなよ、って言おうと思ったけどやっぱ押せ!!」
「どっちだよ!!」
ユウキは反射でシャッターを切る。
白光が砂塵を透かし、エルダーの眼窩の奥で金火が収縮した。
効いた。完全無効ではないが、一瞬の“間”ができる。
「クリフ!」
「任せろ!」
双牙連撃――矢と剣の二条が光り、先ほどの亀裂へ正確に刺さる。
エルダーが顎を跳ね上げ、怒りの気配に広間が低く唸った。
「押し切れはしません。……でも、通るですニャ。道はあります!」
ニーヤの声が、怖れを越えて響く。
あーさんが二鈴を鳴らし、短く祈りを落とす。
「名は此方に在り――奪わせませぬ」
黒糸のざわめきが一瞬ひるみ、空気が澄む。
ユウキは拳を握り、胸に低く囁いた。
(イシュタム。……今だけでいい。みんなの“間”に、届く一撃を)
拳に熱が灯る。不器用な熱だ。綺麗な型ではない。でも――
「行くぞ!」
ユウキが踏み出す。リンクが右へ回り、ブラックが上から風圧で眼を押さえ、ノクティアが喉下へ釘を打つように槍を差し込む。
全員の動きが、短い“間”に収束する。
――その時。
広間の奥、黒糸の“根”がもう一段階、太く脈打った。
エルダーの背から、影が生えた。
蛇の影――ではない。人の形。
長い外套、冠、そして紅玉の双眸。
吸血公の本体が、影から半身を起こした。
「まずい、繋がれてる!」
ノクティアが顔色を変える。
「エルダーは門。あれは“主”の鍵!」
「鍵なら――」
ユウキは拳を強く握った。
「外せばいい!」
黒糸の唸りが、広間の空気をわずかに押し下げる。
金火の眼と紅玉の双眸が重なり、石肌が冷たく鳴いた。
次の瞬間、二つの影が同時に襲いかかってきた。
――つづく。




