-地底探検の章- 水路の試練(中層・前後編まとめ)
黒い紋様の扉を押し開けた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。湿りを帯びた空気は重く、細い石橋の下では濁流がどす黒くうねっている。壁面の文様が青く脈打ち、天井からは規則正しく滴る水音――そのひとつひとつが、侵入者を拒む鼓動のようだった。
「幅は二人が限界……横並びは無理だな」
クリフが前に出て、剣を抜いた。背には弓。彼の足取りは、狭い橋でもまるで迷いがない。
「あるじ殿、足元に気を付けるのですニャ。苔がぬるぬるするです」
ニーヤが尻尾を低く構え、耳を伏せる。瞳の奥に微かな火が宿る。
「……ああ」
ユウキは自分の掌を握り直し、深く息を吸った。胸はまだざわつく。だが、そのざわめきの向こうに、さっきの言葉が残っている。
(お前が振り返れば、もう俺たちがいる――)
(あるじ殿の役目は、蝶番を外す術を考えること――)
不器用な自分の背中を、確かに押してくれる声。灯りを掲げ直し、彼は前へ出た。
「よし、わいは後衛でフォローや。何かあったら呼びや」
よっしーはスカジャンの襟を立て、旅人袋を握り直す。その袋の中は相変わらずカオスだ。
リンクが石橋の縁で軽く膝を弾ませ、風を読む。「キュイ」
ブラックは短く喉を鳴らし、翼をわずかに広げた。「……カァ」
「では進みまする」
あーさんが二鈴を一度だけ鳴らす。澄んだ音が、水音の層に細い筋を通した。
列はクリフ、ユウキ、ニーヤ、ノクティア、リンク、よっしー、あーさん、ブラックの順で細い橋を渡り始める。橋の中ほどまで進んだ、その時だった。
水面が、不自然に盛り上がった。
ざぶり、と鈍い音。濁流の中央が鼓の皮のように膨らみ、次の瞬間、石橋の高さまで水が突き上がる。泡を割って現れたのは、ねっとりと濡れた灰色の肉塊――巨大ワームだ。歯列が螺旋状に並び、口内には石くずと骨片が貼り付いている。
「来るぞ!」
クリフの声とほぼ同時、ワームの顎が斜めに跳ね上がった。石橋の欄干が粉砕され、破片が雨のように降る。
ユウキは身をひねってかわし――ひやり、と足裏が滑った。
苔だ。
橋の縁まで踊るように後退し、彼は反射的に灯りを掲げた。
影が濁流に揺らぎ、その影に重なるかのようにニーヤの詠唱が走る。
「火弾、散弾――ファイア・スキャッター!」
紅い火粒がばら撒かれ、ワームの開口部へ雨霰に降る。どす黒い煙が吹き上がり、肉が焼ける匂いが石の間にこもった。
しかしワームは体をねじり、焼けた表層を水で洗うように潜っては浮かび、蛇のように橋の下を巡った。狙いを定める暇を与えない。
「動きがいやらしい……ならば」
ノクティアが、槍の石突で橋板を一打。ひびの走った石目に短い詠唱を落とす。
「水鏡、凍てて道を守り給え――アイス・フィルム」
橋の両脇に薄く透明な“縁”が伸び、即席の低い欄干ができる。滑りを抑え、落下を防ぐ簡素な術だ。
「助かる!」
ユウキは息を吐く。視界の端で、リンクが軽く頷き、二段跳躍で橋の反対側へひらりと渡った。
正面と側面――挟み込む位置。
「クリフ、頭を上げた瞬間を狙え。俺は――」
ユウキが言いかけるより早く、クリフは矢を番えた。
「言われずとも」
水面がまた盛り上がる。今度は橋の真下から、一直線に。
ドン、と突き上げる衝撃。橋がしなる。ユウキの視界が跳ね、矢が放たれ――ワームの口腔に吸い込まれた。
鈍い手応えとともに、巨体が反り返る。
「今です!」
ノクティアの槍が、顎の付け根に突き刺さった。
しかし貫通にはいたらず、槍はぬめりに阻まれて抜けない。
巨体が振れ、ノクティアの足が浮く。
「ノクティ殿!」
ユウキは反射的に飛び込んだ。槍の柄を抱き込む形で体重をかけ、てこの原理で抜き放つ。
同時に、ワームの尾が鞭のようにしなる。
ばしん、と風を裂く音。ユウキの頬に冷たい汗が流れた。
「あるじ殿、かがむのですニャ!」
ニーヤの叫びに反応し、ユウキは身を落とす。尾は頭上ぎりぎりを掠め、後方の欄干を二つまとめて粉砕した。
「ありがと、ニーヤ!」
「礼は後でいいですニャ!」
そこへ、影が走った。
石壁の隙間から、緑の鱗がぬるりと現れる。槍と盾を持つ人型――リザードマンだ。三体。
ワームの暴れで間合いが崩れた瞬間を狙って、橋に飛び乗ってくる。
「同時とは厄介だな」
クリフが短く呟き、剣へ持ち替える。
先頭の一体が槍を突き出すが、クリフは捻りで受け流し、喉元へ逆袈裟。二体目の盾を蹴り、距離を作る。
「キュイ!」
リンクが“颯のリング”の効果で軽く速度を上げ、側面から急旋回。低い姿勢で踏み込み、踵落としを盾の縁へ。
盾が弾け、リザードマンの体勢が崩れる。そこへブラックの水刃が横一文字に走り、鱗の隙間を切った。
「ようやっと出番やな! ……って、なんや、橋狭っ!」
よっしーが中腰で旅人袋を漁る。
「ほれ見ぃ、“砂かけ玉”や! 昔の忍者映画で――」
「よっしー殿、それは後で拝聴します」
あーさんがすっと前に出て、二鈴を重ねた。
「囁け、鈴の音――撓め、視線。ルール・ロア」
揺らいだ音が、リザードマンたちの眼を鈍らせる。突きのリズムが半拍ズレた。
「たすかる!」
ユウキは隙に滑り込み、盾の内側へ剣の腹を叩きつけた。肘が固まり、槍先が逸れる。
ニーヤの小さな火球が、槍木の要を焼き切った。
三体目が唸りを上げて跳躍する。
が、ノクティアの槍が迎撃。石突きで足首を払って体勢を崩し、穂先で手首を穿つ。武器が落ちる。
ノクティアはそのまま回転の勢いで柄尻を胸板に叩き込み、橋の外へ弾いた。
濁流が、一体を呑み込む。
「……日向で戦うのが、これほど心地よいとは」
ノクティアが短く息をつく。かつて影に縛られた吸血僧の面影は、今や遠い。
「まだ終わってへん!」
よっしーの声に振り向く間もなく、水面がついに裂けた。
巨大ワームが橋幅いっぱいに躍り上がり、真上から覆い被さってくる。
クリフが動いた。
踏み込み、刃を握り直す。眼前で巨体が落ちてくる。
彼は躊躇なく剣を逆手にし、真上へ突き上げた。
「――貫け」
刃は顎の裏を破り、口蓋へ突き立つ。
しかし、重量は止まらない。押し潰される。
「クリフ!」
ユウキは叫び、体が勝手に動いた。
考えるより先に、足が橋の欠け目へ滑る。
滑った――と気づいた瞬間には、もう宙だった。
あ、まずい。
どこか冷静な声が、耳の奥で呟いた。
目の前を、よっしーの旅人袋がひらりと舞う。
中身が飛び出し、銀色の小箱が回転して――ユウキの手に吸い込まれた。
「何それ!?」
「使い捨てカメラや!」
よっしーの声が、どこか誇らしげに響く。
「ボタン押したら“まぶしいやつ”出るやつや!!」
「押せばいいのか!?」
「知らんけど押せ!!」
ユウキは反射的に親指を叩き、同時にワームの口腔の影へ突っ込むように落ちた。
バチッ。
白光が炸裂し、狭い空間が真昼のように照らされる。
焼け付く閃光が、粘膜と網膜を同時に叩いた。
巨体が痙攣し、口を閉じかける。
「今だ、クリフ!」
ユウキの叫びに、クリフが顎裏の刃をさらに押し上げ、捻った。
次の瞬間、リンクが二段目の跳躍で喉奥へ蹴り込み、ブラックの風刃が傷口を抉り広げる。
「押し込むですニャ!」
ニーヤの火弾が喉奥で炸裂し、内部から焼いた。
ノクティアの槍が最後の一撃を顎関節へ。
ばきん、と骨が割れ、巨体ががくりと崩れた。
濁流が荒れ、橋に波が打ちつける。
やがて、動きは止まった。
巨大ワームは、泡を吐きながら沈黙する。
ユウキは膝から崩れ、肩で息をした。
手の中には、カメラの焦げた匂い。
よっしーが駆け寄る。
「おおお、やるやんけ! わいの秘蔵“まぶしいやつ”、ついに火を噴いたな!」
「このタイミングで袋が割れて飛んでくるの、偶然以外の何物でもないだろ……」
クリフが苦笑しながら剣を拭った。
ニーヤが肩に飛びつき、額を軽く小突く。
「あるじ殿、よくやったのです。でも落ちるのはダメですニャ。心臓が止まるかと思ったです」
「……悪い」
ユウキは照れ隠しに顔をそむけ、それでも笑った。
「でも、今の俺は――一人じゃない」
あーさんの二鈴が、ふたつ、澄んだ輪を描く。
「鐘は鳴らさず、蝶番はひとつ外れました。よくぞ」
「さて――」
ノクティアが槍を立て、橋の先を見やる。
「蛇影は、これで終わりではありません。黒い糸が、まだ奥へ流れています」
石橋の先、青白い文様が緩やかに明減を繰り返している。
そこは、さらに狭く、さらに暗い。
「行こう」
ユウキは立ち上がり、灯りを高く掲げた。
胸の奥で、恐れと、それをなぞるような温かな熱が並び立つ。
不器用でもいい。転んでもいい。
仲間がいるなら、また立ち上がれる。
「続くですニャ!」
ニーヤが尻尾を立て、リンクが「キュイ」と跳ねる。
ブラックが短く鳴き、よっしーは袋の口を結び直してうそぶく。
「よっしゃ。次は“もっとまぶしいやつ”も用意しとくわ」
「やめろ」
一行は、青い脈動の奥へと進んだ。
足元の石は冷たく、壁面の糸は黒く脈打つ。
蛇影の気配は遠のいたが、その先で、別の“拍”が確かに待っている。
――黒祭壇。
――そして、天へ伸びるはずの、どこかへ繋がる糸。
水音が、次第に鼓動に似てきた。




