風鳴りの丘、結び目の試練(前半)―レザーを羽織る夜―
風が、うねっていた。
草原の波が丘の背をなぞるように起ち上がり、崩れて、また起ち上がる。天は浅い青で、雲は紙を引き延ばしたみたいに薄い。太陽はもう西へ傾きはじめていて、草の穂先ごとに白い火花みたいな光を散らしている。
先頭をいくルゥが、短い脚で傾斜をとんとん登りながら、足元の石を杖で軽く叩いた。
「ここ、音がいい」
金属とも石ともつかない澄んだ音が、地面の下へ吸い込まれていく。
「“風鳴りの丘”は町の風車に風を送る背骨みたいな場所だ。地下に空洞があって、そこに風が走る。だから鳴く」
エレオノーラが指さした先には、古い風車塔がいくつも稜線に沿って立っていた。白い帆布は継ぎ当てだらけ、軸はきしんでいるのに、ちゃんと回っている。風が帆を掴むたび、塔の芯から低い唸りがして、それが丘の身体に伝わり、地面に埋まった誰かが笑っているように震えた。
「ここ、好きかもしれへん」
よっしーは風に髪をばさばささせながら、胸いっぱいに空気を吸い込む。「大阪の埋立地で夜風に当たる感じに似とる。海はないけど」
「わたくしは……風琴の音色を思い出します。鹿鳴館で聴いた、胸の奥が少し痛くなるような……」
千鶴が目を細め、ニーヤは帽子をぐっと押し下げて「音が耳の後ろから入ってくるニャ」と耳を半分たたんだ。ブラックは鳴かない。風に乗って高度をとり、見張りの輪を広く描いている。
指輪は――熱くはならなかった。ただ、風の中に紛れて、いつもの無機質な声が混ざる。
《魂片:遠鳴り/導路あり/危険:中》
「危険:中って、ゲームかなにか?」
思わず小声で突っ込んで、誰も気づいてないふうを装う。と、その時だった。
風が一段強くなって、空気がひやっと変わる。草がざざっと逆なでされ、エレオノーラの首に巻いていたスカーフがぱっと翻った。思ったより冷たい風だったらしく、彼女は一瞬だけ肩をすくめる――ほんの、いつもなら見せないくらいの女のひとっぽい動き。
それを見逃す男が一人いた。
「おーいエレオノーラ、寒いんちゃう?」
よっしーが、借景の一部みたいに自然な動きで虚空庫に手を突っ込む。何が出てくるのかと思えば、黒に近いこげ茶のレザージャケット。襟が立てられて、ジッパーは斜め、腰でベルトを締めるタイプ。まさにさっき描いてたイラストのそれだ。あれをこの世界で取り出すな。
「コレ着とき! ここ風きついで。上でじっと見張りするんやろ?」
「……これはあなたの装備でしょう? あなたが着ておきなさい」
「予備やて。難波で ’89 に買ったやつやから、こういう風ん中で着たら映えるんや。冒険者スチームぎみの場所でこそ本領発揮するやつや」
「’89って言われてもわかりませんわ」
エレオノーラはちょっと困った笑いをしていたが、風がまたひゅっと首筋を撫でる。レザーの重みが目の前に差し出される。彼女は一拍だけ迷ってから、素直に受け取った。袖を通すと、肩口と腕周りがびっくりするくらいぴったりだ。
「……サイズ、合ってる」
「せやろ? アラフォー日本人男性向けやけど、こっちの世界の剣士女子にもなぜか合う魔法のジャケットなんや」
「魔法ってあなた……」
呆れつつも、エレオノーラはジッパーを上げ、腰のベルトをきゅっと締める。革が風をはじき、彼女の金髪と瞳の色を逆に際立たせる。あの“探検隊っぽい”雰囲気が一段階上がった。ルゥが「似合ってる」と短く言い、千鶴が「素敵でございます」と微笑み、ニーヤは「主人の仲間は見栄えも大事ニャ」としっぽを振る。
「……ありがとう、よっしー」
「おっしゃー、今日のオレの仕事終わり。あとはクリフさんよろしくー」
「いやまだ始まってもいないが」
クリフさんが苦笑で受け流し、ようやく本来の目的に視線を戻す。
俺たちは草をかき分け、丘の側面にある「地面が少しだけ沈んでいる場所」に出た。草が円を描いて倒れ、中心に暗がり。踏むと、ふわりと地面が沈む。穴……というほどはっきりはしていないが、確かに空洞の上だ。
エレオノーラが膝をつき、レザージャケットの襟を立てたまま耳を当てる。革越しに地面の冷えを遮断できるので、さっきより楽そうだ。
「地下に空洞。ここからは……二筋、音がする。右は乾いた息、左は湿った息。乾いたほうが“鳴り”の本体。湿ったほうは水脈と合流している。湿ったほうは崩れやすい」
ルゥがすぐさま三脚状の枠を取り出し、地面に突き立て、滑車を組み、丈夫な麻縄を通す。よっしーが「重み分配器具があると楽やなぁ」と関西工業高校出身みたいなことを言って、ルゥが得意満面で顎を上げる。
「今日は先に“鳴り”の穴を覗く。夜は危ない。日が沈む前に入口の枠だけ作って、印を置く」
「賛成」
俺たちは手分けして周囲の草を刈り、枠組みを設置する。よっしーがどこからか鎌を出して草を刈り、千鶴が刈った草を束ねて湿らせて積み、ニーヤが土を固めて足場を作る。俺は指輪をかざして、導路の光がどの辺に流れているかを探った。
《導路:北偏東二度/深度:三丈半/鍵:結び目の試み》
「結び目の……試み?」
「ユウキ殿、何か出たのか」
クリフさんに問われ、俺は素直に伝える。「“結び目”を使えって。たぶん名を結ぶやつだ」
「練習するなら今だな。大きな危険の前に手順を身につける」
クリフさんは腰の小袋から古い皮紐を取り出して俺の掌に載せた。ルゥが寄ってきて「結ぶなら“真結び”がいい」と言い、ニーヤが「猫は解けないように爪で固めるニャ」と口をはさみ、よっしーが「ワイは蝶々結びなら最強や」と自慢する。
「“結び目”は術の名。物理の結びと響き合うなら、実際に結んでおくのは理にかなってる」
エレオノーラのレザーの襟が風でわずかに鳴る。俺はその言葉に背中を押されて、皮紐の両端を持った。試すなら最初は眷属だろう。俺はニーヤの名を心で呼び、基本の結び――本結びを作る。
《“結び目”発動:対象=ニーヤ・ゲシュタッド/効果:魔力伝達の損失低減(小)、動作同期(微)/時間:小半刻》
「おお……いま、主人の呼吸が胸に入ってくる感じがしたニャ」
ニーヤの耳がぴん、と立つ。俺の視界の端に、ニーヤの杖の重さがちらりと混じる。よっしーが「ワイともやってみてくれ」と身を乗り出し、「お前と同期したら食欲まで上がりそう」と返すと「ええことやん」と笑い、空気がゆるむ。
千鶴は「糸と糸を結べば布になる。人と人が結べば道になる」と静かに言った。クリフさんは「試しすぎて消耗するなよ。今日は入口の整備だけだ」と締める。
そうしているうちに、太陽は西へ寄り、影が長く伸びてきた。俺たちはいったん作業を切り上げ、丘の中腹の風車塔の影で休むことにした。
塔の基礎は石造りで、中に螺旋階段。塔守らしき老人が軸の油をさしていた。エレオノーラが手短に挨拶し、塔の陰を借りる許可をもらう。
「塔守さん、この丘で変なこと、ありませんでした?」
何気なく聞いた俺の問いに、老人は眉を上げ、声を潜めた。
「昨夜だな。赤衣が二人、夜明け前に丘を見上げておった。風は北から来ておったが、やつらの裾は揺れん。……足が、地を踏んでいない」
背筋に冷たい汗が伝う。エレオノーラが銀貨を肩に載せて礼を言う。
「今夜は扉を固く閉じて、朝までは開かないでください。鳴ったら鐘を三度」
老人はこくりと頷いた。
夕暮れは早い。俺たちは手早く食事――よっしーの虚空庫から出てきた揚げパンと豆のスープ、ルゥが切ってくれたチーズ――を済ませ、塔の基礎の裏に寝床を作った。交代で見張り。最初の番はクリフさんとエレオノーラ、次に俺と千鶴。
夜になると風の音は変わる。昼のうねりが鋭い口笛になり、帆布が泣き、草が擦れる。そのすべてが、耳の後ろで鳴る。
「……ユウキさん」
千鶴が小声で呼ぶ。俺は槍の石突きを土に立て直し、彼女を振り向いた。
さっきの“結び”で気持ちがほどけたのか、彼女は少しだけ自分の話をした。名を呼ばれるのが怖かったこと。家の名と一緒に呼ばれてきたこと。呼ばれることが縛られることだと思っていたこと。俺も、期待されるのが怖かったと打ち明ける。彼女は「ではひと結びお願いします」と手を差し出した。
《“結び目”発動:対象=相沢千鶴/効果:精神安定(小)、水糸の撚り強度増(微)》
「胸が静かになりました。ありがとうございます」
そうして夜が深くなったころ――音が変わった。
風の笛に細い金属音が混じる。キン、キン、と乾いた歯車の、階段を一段ずつ降りる音。昼の塔守が話した音だ。
「来た。塔の上を見て」
エレオノーラに肩を揺すられ、俺は塔の陰からそっと覗いた。風車の帆の向こう、塔の上に、赤い裾が二つ、月明かりに浮かんでいる。裾は風に揺れていない。足は床に触れていない。空気に刻まれた十字の術式の階段を、音もなく降りてくる。
「やべぇ……」
よっしーが喉の奥で呟き、ニーヤは息を殺し、クリフさんは矢を番えたが、エレオノーラが「早い」と首を振った。赤衣は扉に白い手を置き、塔守の夢に指を差し入れるみたいにして扉を開ける。老人の目から涙が一筋こぼれ、また止まる。
「……あいつら、人の夢に入る」
エレオノーラが吐き捨てた。「“聖務局”の“夢吏”。少数だけど厄介」
やりすごすしかない。俺たちは息を潜め、赤衣が塔を調べ、また十字の階段で戻っていくのをじっと見送った。裾は最後まで揺れなかった。
風が戻る。帆布が泣き、草が擦れた。
「今夜は塔守を守る。明けたらすぐ穴に降りる。あいつらが何を探してるかは、そこでわかる」
「今夜は塔守を守る。明けたらすぐ穴に降りる。あいつらが何を探してるかは、そこでわかる」
エレオノーラがそう決めて、全員がうなずいた。風車塔の影は夜気で冷えてきて、帆布の泣く音だけが高くなっていく。
そこでよっしーが、いつもの調子で虚空庫に手を突っ込んだ。
「ほな、ちょっとだけBGM足しとこか。風ん中、これが一番よう響くねん」
取り出したのは角ばった黒いラジカセ。カセットを押し込んで再生をポンと押すと、テープのヒスのあとに、80sなシンセのパッドがふわっと広がった。軽いスネアとキラキラしたアルペジオ。どこか港町の夜を思わせるコード進行。
「“Midnight Coastline”っていうねん。’88くらいの。こういう風鳴ってるとこで聴くとええ感じやろ」
ラジカセの音量は小さい。塔守を起こさない程度、赤衣に気づかれない程度。でも、丘を渡る風の音と混ざると、どっちがこっちの世界の音で、どっちがよっしーの時代の音なのかわからなくなる。
レザージャケットを羽織ったエレオノーラも、その音にほんの少しだけ肩を落として耳を傾けた。風が革の襟を撫で、カセットのメロディがその上をすべっていく。
――そうして俺たちは、風と小さな音楽を聞きながら、夜明けまでの番を分けることにした。




