第十六章 乱入者
吊り棚を覆う黒い靄が、とうとう“形”を結びかけていた。
異形の四肢が、岩盤を突き破って現れる。幹部の身体はもはやただの依代、背後から伸びた闇の影が、彼を食い破るように膨れ上がっていた。
オルタの剣はなおも光を宿していたが、その肩からは血が滴り、呼吸は荒い。
クリフも盾を構えていたが、全身は裂傷だらけ。
ニーヤの氷壁はひび割れ、よっしーは汗だくで工具を握り締めていた。
ユウキも胸の奥にイシュタムの声を感じながら、もう一歩を踏み出す力を必死に探していた。
――その時。
空気が弾けた。
吊り棚の上空、雲を裂くように白光が差し込んだ。
ただの光ではない。笑い声が、伴っていた。
無邪気で、真っ直ぐで、嵐のように強引な声。
「聞こえるかーッ! ダーリン! そっちに行くぞーっ!」
仲間たちの顔が、一斉に上を向いた。
黒雲を蹴散らし、金色の髪が太陽を映すように輝いている。
腕をぶんと振り回しながら、ひとりの少女が真っ逆さまに落ちてきた。
着地の瞬間、吊り棚ぜんたいがどん、と揺れた。
その衝撃に、顕現しかけた魔王眷属さえも、一瞬動きを止めた。
「お、お前は……!」
ユウキが思わず叫ぶ。
金色の瞳がこちらを見据え、満面の笑みを浮かべる。
「やっと来たぞ! ダーリンっ!」
次の瞬間、ルフィはよっしーに飛びついていた。
完全に戦場の空気を無視して。
「うわっ!? ちょ、やめろ! こんな時に!?」
よっしーが慌てて手足をばたつかせる。
「やめんかゴボウ男!」
ユウキが怒鳴った。
「馬顔男!」
クリフが続けて叫ぶ。
「……お前なぁ、空気読めよな……」
よっしーが半ば呆れながらぼやく。
そのぼやきに、ルフィはきらきらした笑顔で即答した。
「空気は読むもんじゃなく、吸うもんだろーっ!!」
言い切って胸を張る。
場違いなまでの明るさに、仲間たちは一瞬言葉を失った。
そして次の瞬間、顕現の黒腕が再び振り下ろされる。
「危ない!」
ユウキが叫ぶよりも早く、ルフィはよっしーを抱えたまま片腕を突き上げた。
ずんっと空気が震え、黒腕が弾き飛ばされる。
オルタもクリフも、ただ目を見開いていた。
少女は笑う。
「ダーリンを守るのは、わたしだ!」
黒祭壇から伸びる闇の腕が、吊り棚じゅうを薙ぎ払おうと振り下ろされる。
その軌跡だけで岩板が軋み、鎖が悲鳴を上げた。
だが、ルフィは笑っていた。
よっしーを小脇に抱えたまま、まるで重さなど感じていない。
彼女が一歩、前に踏み込むと――空気が爆ぜた。
「おらぁっ!」
振り下ろされた黒腕が、掌の一撃だけで粉砕された。
破片のように散った靄が渦巻き、空へと逃げる。
その光景に、クリフが唖然とした。
「な、なんだ……力が違いすぎる……!」
オルタでさえ目を見開き、握る剣の力が一瞬緩んだ。
水竜王の加護を得てなお必死に押し返していた相手を、この少女は笑いながら片手で弾き飛ばしているのだ。
「ダーリン、怖がるな! 大丈夫だ、全部わたしがぶっ飛ばすからな!」
「お、俺は別に怖がってねーし!」
よっしーが顔を赤くしながらもがく。
だがルフィは気に留めない。むしろさらに抱き寄せて胸を張る。
「うわぁぁぁ……」
ニーヤが尻尾を膨らませ、半ば引き笑いしながら呟いた。
「アレ、もはや規模が……ですニャ……」
顕現の影は、なおも巨大化を続けていた。
腕を砕かれようが胴を裂かれようが、背後の幹部を依代に、無尽蔵に形を取り戻す。
吊り棚の下からは別の呻き声までが這い上がってきている。
「ルフィ! これはただの魔物じゃない、祭壇を媒介にした――」
ユウキが叫ぶ。
「そんなの関係ない!」
ルフィは即答した。
「敵はぶっ飛ばす! ダーリンを守る! それだけだ!」
彼女の声に、誰も言葉を返せなかった。
――あまりに直情的で、けれどあまりに揺るぎない。
ユウキの胸で、イシュタムの声が一拍だけ沈黙したのも、その力強さを認めたからだろう。
黒い顕現体が再度、太い脚を吊り棚へ突き立てる。
その一撃で岩盤が砕け、地盤ごと傾きかける。
仲間たちが踏ん張った瞬間――
「せいやぁぁっ!」
ルフィがよっしーを軽々と後方へ放り投げ、自らは跳躍した。
二段、三段と空気を蹴るように舞い上がり、顕現の顔らしき部分に拳を叩き込む。
轟音。
黒祭壇全体が揺さぶられ、吊り棚が震えた。
顕現の顔面がひしゃげ、靄が吹き飛ぶ。
「キュイッ!」
リンクがその隙を逃さず、疾風脚を連続で叩き込む。
裂けた靄の裂け目に、ニーヤのアイスランスが突き刺さった。
クリフも斬り込み、オルタも剣を重ねる。
――戦局が、一瞬で変わった。
「やるじゃねぇか……」
クリフが剣を振るいながら呟く。
「でも、よっしーを抱えて暴れるな!」
「ダーリンはお姫さま抱っこが似合うからな!」
ルフィは笑って、再びよっしーを引き寄せる。
その腕力はもはや理不尽の域だ。
よっしーは抵抗しながらも叫んだ。
「お、お前なぁ……ほんと空気読めよな!」
その瞬間、ルフィの顔がぱっと輝いた。
「空気は読むもんじゃなく――吸うもんだぁぁぁっ!!」
拳を振り抜きながら、全力で叫んだ。
その一撃で顕現の片翼が霧散する。
仲間たちが同時に吹き出しそうになるのを、必死で堪えた。
顕現の片翼が吹き飛び、吊り棚じゅうに黒い霧が散った。
それでも異形は崩れなかった。
むしろ失った箇所を埋めるように、下から這い上がる靄が絡みつき、さらに巨大な影を形作り始める。
「再生してやがる……!」
クリフが歯を食いしばる。
「これ、どこまで……」
「ダーリンの仲間、弱気になるな!」
ルフィは笑った。
「でっかくなったら、もっとぶっ飛ばせばいい!」
その気迫に、ユウキは思わず苦笑する。
(本当に……空気を吸うだけで、場をひっくり返すな……)
しかし顕現の力は侮れなかった。
失われた片翼の代わりに、幹部の身体がさらに歪み、巨大な角を生やす。
吊り棚の鎖がきしみ、板が裂ける。
オルタが前へ躍り出る。
「ここからは俺も加勢する!」
蒼い刃が水竜王の力を帯び、顕現の足元を薙ぐ。
だが衝撃は凄まじく、彼の剣腕に痺れが走った。
「オルタ殿!」
ニーヤが即座にアイスバリアを差し込み、彼を支える。
「これ以上は単独では危険ですニャ!」
ルフィはにやりと笑い、片手を差し出した。
「よっしー! ちょっとだけ預けてやる!」
ダーリンを仲間へ放り投げ、両手を空けた瞬間、彼女の周囲の空気が震えた。
「さあ、本気でやるぞ!」
顕現の黒い拳が振り下ろされる。
ルフィは両手でそれを受け止め――止めた。
吊り棚が軋み、空気が震える。
だが彼女の足は微動だにしない。
「な、なんだこの馬鹿力は……!」
クリフが絶句する。
「馬鹿力じゃない、ただの“力”だ!」
ルフィが笑う。
「空気を吸って、思いきり出す。それだけだ!」
黒い拳を振り払うと、顕現の体がぐらりと傾いた。
その隙を、リンクが天空裂跳で追撃。
ニーヤのフロストランスが割れ目に突き刺さり、クリフの斬撃が火花を散らす。
オルタも体勢を立て直し、刃を重ねる。
「ユウキ!」
イシュタムの声が胸に響いた。
――まだだ、祭壇そのものを断て。
黒い靄は依代を越え、壇そのものと結びついている。
「みんな! 祭壇の蝶番をもうひとつ、外すんだ!」
ユウキが叫ぶ。
あーさんが二鈴を振り、やさしい声を重ねる。
「ここがかなめです。鐘を鳴らさず、扉を外すのです」
よっしーが息を切らしながら、再び1989ボックスを開く。
「……よっしゃ、まだネタはあるで!」
取り出したのは、チョークラインと古びた定規。
「水平取ってやる! ここが継ぎ目や!」
クリフが頷き、剣を継ぎ目へ叩き込む。
ニーヤの魔法が角度を補正し、リンクが最後の蹴りで支点を外す。
祭壇全体が悲鳴のような音を立て、蝶番の一部が砕けた。
だがその時。
顕現の影が突如、形を変えた。
幹部の体を覆い尽くし、その背後にさらに巨大なシルエットが立ち上がる。
複数の声が折り重なり、響いた。
「我らは門。ここに至りし者は、すべて贄とする」
吊り棚の空気が一気に凍り付く。
誰もが本能で理解した。これはまだ“本体”ではない。
だが、次の段階へ移ろうとしている。
「おいおい……まだ終わらんのか……」
よっしーが青ざめる。
「安心しろ、ダーリン!」
ルフィが振り向き、満面の笑みで拳を握った。
「わたしがいる。どんだけ出てきても――ぶっ飛ばすだけだ!」
その声は、嵐のように吊り棚全体を震わせた。
黒い靄が逆巻き、第二の顕現が立ち上がる。
仲間たちは武器を握り直し、次の衝突に備える。
だが、全員の胸に――ほんの少しの安心が芽生えていた。
空気は、もう淀んでいなかった。
吸い込めば、力になる。
ルフィの無邪気さが、戦場を支えていた。




