第十五章 顕現:吊り棚の黒祭壇(後半)
「オルタよ、剣を納めよ……その者たちを連れて参れ」
雷鳴にも似た呼び声が、吊り棚ぜんたいの空気を震わせた。ほんの一拍、誰もが息を止める。
だが顕現は待ってはくれない。依代から溢れた黒い靄が、背後にもうひとつの肢体を象ろうとしていた。
石柱に貼られた符がぱちぱちと火花を散らし、裂け目から赤黒い筋がのたうつ。吊り橋の縄は悲鳴を上げ、足場の板は細かい震えを溜め込んでいる。
「退け。ここは私が受ける。――儀式を止めろ」
オルタは蒼い外套を翻し、剣を肩口で受ける角度に僅かに傾けた。黒い腕が振り下ろされ、刃と刃でないものが正面衝突する。鈍い衝撃が走り、足裏に伝うきしみを膝で殺す。
水竜王の加護が脈打つたび、蒼光が刃をうっすらと包む。戦闘能力はたしかに引き上げられている――だが押し返すので精一杯だ。
「わたしが前列の防御を補いますニャ!」
ニーヤが杖を払う。
「アイスシールド、層をずらして反発角を合わせるですニャ!」
薄氷が三重に重なって前面に生まれ、黒い腕の衝撃を擦るように逸らしていく。
「ええか、だいたいやな……“真正面”はあかん! 支点をいじったら、でかいもんでも止まるんや!」
よっしーは1989ボックスからタイラップとカセットテープのケース、さらに古びたマイナスドライバーを引っ張り出した。
「儀式具の軸……あった! ねじ山、死んどるやないか!」
テープケースの蓋で光を返し、継ぎ目を照らし、ドライバーでこじる。
がきん、と嫌な手応え。軸が半回転して、祭壇の歯車がわずかに噛み外れた。
「よっしー、右手の器具も!」
クリフが叫び、左の鎖を断ち切る。火花。
「鎖の根元――そこが“蝶番”だ!」
鎖の“要”を斬るたび、依代を伝う黒い脈動が目に見えて弱まる。
あーさんが二鈴を鳴らし、静かに言葉を添えた。
「かねをならさずとも、ちょうつがいをはずせば、とびらは外れます。みなさま、どうかあわてず、ささえを断ち切りましょう」
柔らかな音色が、焦りで荒ぶる息を整えてくれる。
リンクが「キュイ!」と高く鳴き、二段跳躍で石柱の上へ。
ふわりと浮いた次の瞬間、座で重心を一気に落とし込む――疾風脚。
鈍い衝撃が柱の節目だけを狙い撃ち、貼られていた符が一斉に剥がれ落ちる。
「キュイッ!」
返す蹴りで吊り橋の支えに絡んだ呪縄を弾くと、魔力の流れがひとつ、ぷつりと途切れた。
「その調子ですニャ! “筋”が切れたところは再接続まで三呼吸、隙が生まれるですニャ!」
ニーヤがその間隙へファイアウォールを薄く差し込み、逆位相で結界の“響き”を乱す。
幹部が咆哮した。
「よくも……儀式を、乱すなああああ!」
黒い靄が渦を巻き、無数の腕となって襲いかかる。
「オルタ、受け流す!」
「承知」
オルタは半歩だけ引き、刃の角度を蝶番のように回す。正面で受けない。肩と肘で逃がしつつ受ける。
それでも衝撃は骨に響いた。手甲の内側が痺れる。血の味が口に滲む。
「アイスミラー!」
ニーヤの鏡が黒腕の軌道を映し、ズレを可視化する。
「あそこ、二鈴の音に反応して共鳴してますニャ!」
あーさんが短く会釈し、ちりりと高さの違う音を重ねる。
黒腕の動きがほんの一瞬、鈍った。
「今!」
クリフが踏み込み、鎖のカシメを斬撃で断った。
「よっしー!」
「まかしとき!」
よっしーはタイラップで、儀式の導線束をぐるぐると括る。
「通電りにくなるだけでも効く。ほら、揺れた!」
依代を包む靄が、かすかに薄くなる。
その隙を、リンクの天空裂跳が突き刺した。
「キュイッ!」
残像の連脚が一点に圧を集め、靄の装甲にひびが走る。
「……通る!」
クリフの眼が強くなる。
「ユウキ、蝶番の“次”を示してくれ!」
ユウキの胸で、イシュタムが囁く。
――正面を打つな、要を断て。
視線が自然と導かれる。石像の足元、焦げ跡の輪。そこが流れの結節点だ。
「あそこだ。輪の“切れ目”を外す!」
「了解!」
ニーヤがウォータースライスで輪の切れ目に水刃を滑り込ませ、微細な砂と灰を洗い流す。
露出した留め金が月光のようにきらりと光った。
「クリフ!」
「任せろ!」
剣が留め金を撫で――ぱきん。
音は小さい。けれど祭壇全体がわずかに沈黙した。
「……いま、鐘が鳴らなかったの、わかった?」
あーさんが鈴をおさめ、やわらかく微笑む。
「ささえを外せば、音は上がりません」
だが幹部は、なおも吠える。
「器は満ちた……我は依代……もっと深いものが来る!」
黒い靄が突然、吊り棚の下へ向かって伸びた。雲海の底から、別の応答が這い上がる。
空が、ぐらりと傾いた。
「まだくるのか……!」
クリフが歯を食いしばる。
「ニーヤ、持つか!」
「持ちますニャ……! スノウバリア、二重展開ですニャ!」
淡く光る雪の層が風を孕み、破片と衝撃をやわらげた。
「ええか! だいたいやな――って、うわ、足場!」
よっしーの下で板が裂ける。
「キュイ!」
リンクが即座に飛び、二段目で彼の襟首をくわえるように掴み、座で釣り上げる。
「助かった……心臓、落ちるとこやった……!」
オルタは蒼刃を支点に、黒腕の連打を角度でいなす。
受けるな。逃がす。
それでも一撃、硬いのが混じった。肩口が裂け、あたたかい血が半月を描く。
呻きは飲み込み、息だけ吐く。
「まだ――立てる」
「オルタ殿!」
ニーヤがアイスミラーを彼の前に滑らせる。
「衝撃の節がここですニャ! この角度で合わせれば、負荷が半分に散るですニャ!」
「恩に着る」
オルタは鏡面の角度をなぞり、次の衝撃を受け流した。足場の軋みが、さっきより小さい。
「よっしー、右の歯車列もいける?」
「いけるいける、こう見えて器用やねん!」
よっしーはチョークで目印をつけ、カセットテープの蓋で光を跳ねさせ、ドライバーで止め輪を外す。
ころん、と小さな輪が転がり落ち――背後でごうっと風が変わった。
「流れ、変わったで!」
「ナイス!」クリフが親指を立てる。
幹部の詠唱が途切れた。代わりに別の声が混じる。
雲の底から這い上がる、笑っているようで笑っていない多重の声。
黒い靄の背で、もっと大きな輪郭が生まれつつあった。
あーさんが、ゆっくりと一同を見渡す。
「ここまで整えました。あとは――おとを立てず、とびらを閉じてしまいましょう」
「つまり、最後の“蝶番”だな」
ユウキが頷く。胸の奥でイシュタムが再度囁く。
――正面を打つな。繋ぎ目を断て。
「場所はわたしが押さえますニャ」
ニーヤが杖を床へ。フロストラインが細い氷の筋となって地面を走り、黒祭壇の底部を一周して戻ってくる。
「つなぎ目はここ。三本ありますニャ。右から二番目がいちばん弱い」
「了解」
クリフが構えを低くし、呼吸を一度捨てる。
その瞬間、黒の靄が逆巻いた。
幹部の身体から角が伸びかけ、吊り棚の影が一段階、濃くなる。
「くるぞ!」
オルタが一歩、前に出る。蒼刃が線になって黒腕を受け止め――火花。
うなり声。押し返す。押し返される。
踏みとどまる。
「今しかない!」
ユウキが叫ぶ。
「あーさん!」
「はい」
二鈴が、ひとつ高く、ひとつ低く鳴った。
響きが空間の骨格をやさしく撫で、要が“ここだ”と誰の耳にも分かる形で浮き上がる。
「リンク!」
「キュイッ!」
二段跳躍――天空裂跳。
足裏が空気を二度蹴り、最後に座を落とす。
どん。
黒い装甲に裂け目が走る。
「クリフ、いまだ!」
「――はぁっ!」
剣が裂け目を通る。
狙いは本体ではなく、繋ぎ目。
金属ではない、骨でもない、しかし“機能”を成す何かが――外れた。
黒祭壇が沈黙した。
鐘は鳴らない。
代わりに、見えない蝶番がぽとりと床へ落ちた気配がした。
「……よし――」
安堵の息が、誰かの喉から零れかける。
そのとき、雲海の奥から笑い声が上がった。
無邪気で、強く、風を割る声。
黒い雲を蹴散らすように、光の筋が一本、こちらへ一直線に伸びてくる。
「聞こえるかーッ! ダーリン、そっちに行くぞーっ!」
どこまでも朗らかで、どこまでも暴風のような声が、戦場に差し込んだ。
吊り棚の誰もが思わず空を仰ぐ。
オルタが息を吐き、剣を握り直す。
「――間に合ったか」
黒の巨影が最後の形を結ぼうとする刹那、
光と笑い声が、真上から乱入してきた。
(つづく)




