幕間 トレイの名を持つ者(後編)
小序──
名は鈴。
鳴らさずとも、形でひとの胸を震わせる。
ひとつの名が村を覆えば、それは鈴ではなく、鐘の影。
ならば、鳴る前に撓め、返すまで。
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I 少年だけが「トレイ」
夕暮れ。集落の外れ、畑と畦の間に小さな祠が立っている。
あーさんが二すずを胸の前に、少年と向き合った。
少年は視線を落としたまま、唇だけ動かす。
「……ぼくは、トレイ」
りんくがそっと「座」を広げる。薄い膜が足元から満ち、空気が一段やわらぐ。
「呼吸を合わせよう」ゆうきが膝を折る。
「息をゆっくり──吸って、吐く。そう、半拍遅れで」
「キュイ」リンクが短く鳴く。
膜の輪郭が微かにゆれ、少年の肩がひとつ、降りた。
「名を思い出せますか」あーさんの声は水面のように静かだ。
少年の喉が詰まって、また同じ言葉が出かける。
「……ぼ、ぼくは……」
「急かすでないですニャ」ニーヤが尾をゆらして遮った。「名は糸。強く引けば切れるだけですニャ」
よっしーがアイテムボックスを探り、紙コースターとねり消し、洗濯ばさみを一握り取り出す。
「昭和と平成の合わせ技、もうちょいで出番や」
ブラックは祠の屋根に跳び、わずかに首を傾けた。
耳を立てたその瞬間、りんくの座がピリ、と波立つ。
「……聞こえる?」ゆうきが眉を寄せる。
「名の“余韻”、上から降りてる」りんくの囁きに、クリフが空を見上げた。
祠の軒に吊るされた風鈴──透きとおった硝子玉。
その縁に、削られた文字があった。
TREI。
「鍵穴じゃなく蝶番へ」クリフの声は短い。「風鈴が“蝶番”。風が鍵穴だ」
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II 風鈴の網
祠の周囲、軒ごとに風鈴が下がっていた。
形は少しずつ違う。金属・硝子・貝殻。
だがどれも、細く刻まれた同じ四文字を持つ。
TREI。TREI。TREI。
「あ、これ、村中やな」よっしーが首筋をかく。「そら名が引っ張られるわけや」
「毎朝、祈りを込めて鳴らしていたのでしょう」あーさんが二すずを伏せ持つ。「善意の名付けが、いつの間にか網になった」
「鳴らさず、撓めるですニャ」ニーヤが一歩、前へ。「座で受け、逆相で返すですニャ」
「キュイ」リンクが応える。
座が円を広げ、風鈴の列をゆっくり包む。
ゆうきの指のリングがぬくく、半拍遅れで心臓へ合図を返す。
「逆相、合わせます」あーさんが二すずをほんの少し鳴らした。
ちりん──
音はかすかに、だが祠の軒木が震えて波を吸い、風鈴の鳴りが“遅れた”。
「今や」よっしーが走る。
洗濯ばさみで短冊の角を噛ませ、紙コースターを鈴の口に一枚ずつ挟む。
「一時的なダンパー! やりすぎず“ほどほど”! ほな、ラミ札掲出っと──『調律中につき静粛』」
ブラックが屋根から降り、無音の高周波を薄く散らす。
鐘のような余韻が、砂に水が吸われるみたいに座へ落ちた。
「……ぼくは」
少年の喉の筋がふるえる。
「ぼくは、ヨアン」
あーさんの肩が、ほっと撓んだ。
「よく言えました」
「けど、終わりやないですニャ」ニーヤがふり返る。「網は“風鈴”だけではないですニャ」
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III 名が歩く
夕闇が落ち、村の通りに灯りが入る。
人々はそれぞれの本当の名を取り戻し、胸に手を当て合っていた。
「ユルゲンだ」「マーヤよ」「リスのララだ」
それぞれの名は、鈴の音のように軽い。
ただ、ひとつ。
通りのはずれに立つ道標が、風のたびにきしり、刻字がわずかに滲む。
TREI──と読める気が、した。
「看板も“名”ですニャ」ニーヤが瞳を細める。「目に入る名は、呼ばれる名ですニャ」
「りんく、座で看板の“鳴り”を拾える?」ゆうき。
「やってみる」
リンクが息を合わせ、「キュイ」と低く鳴いた。
座が道標を包むと、木目の奥から微かな“さざめき”が立ちのぼる。
「……古い刻み直し。何度も上書きされてる」
「名の塗り直しで、人の名も上書きされた。なるほど、やることは決まった」クリフが頷く。
「鍵穴じゃなく蝶番へ。看板の柱の“根”を整える」
よっしーがスコップを借り、道標の根元を少し掘る。
「うわ、鉄片混ざっとる。鈴の破片みたいなんが束に……これ、地中の“共鳴片”や」
「抜いて捨てれば早いけれど」あーさんが首を振る。「捨てた先で鳴るやもしれません」
「撓めて眠らせる、ですニャ」
リンクの座が深く潜る。
ブラックの無音の波がゆっくり重なり、地中に埋められた金属の記憶を“冷まして”いく。
あーさんの二すずは鳴らない。
鳴らさず、ただ形だけで、場を整える。
「キュイ」
合図に、少年──ヨアンが一歩前へ出た。
「ぼくが、名前を言ってもいい?」
ゆうきが目を細める。「もちろん」
少年は道標に向かって、はっきりと言った。
「ここは、ハウクの三叉だ」
村人たちが息を呑む。
木目のさざめきが、すっと消えた。
道標の刻字は、ゆっくり元の地名へ戻っていく。
「できたね」あーさんが微笑む。
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IV “嘘”の芽
今夜は広場に小さな鍋。
よっしーが紙コースターをコト置きにして配り、子どもたちが“座あそび”のルールを思い出しながら笑っている。
リンクは輪の外に座り、呼吸の拍を合わせ続けていた。
ブラックは入口の横で瞼を細め、通りの余韻を吸い取っている。
「それで、ヨアン」ゆうきが少年と向き合う。「どうして“トレイ”と名乗った?」
少年は唇を噛み、躊躇したあと、ぽつり。
「……カッコよかったから。みんながそう呼ばれてて、ぼくもそうなれるって、思った」
「嘘は、鐘を呼ぶこともあるですニャ」ニーヤが穏やかに告げる。「ほんとは、誰かに振り向いてほしかっただけですニャ?」
「うん……」
あーさんが二すずをひらりと見せる。
「嘘と真は、どちらも声。大事なのは、息が続くこと。
あなたの本当の名は、苦しい時ほどあなたを助けるものですよ」
クリフが鍋のふちを指でとん、と鳴らした。
「鐘は鳴らさない。けれど、鍋の縁を叩いて仲間を呼ぶくらいならいい。小さな合図で十分だ」
「キュイ」リンクが短く相槌を打つ。
座が輪のように暖まり、風の音に混じるTREIの残響は、もう聞こえない。
ただ、その時。
広場に遅れて入ってきた旅人風の男が、ふいに名乗った。
「……俺は、トレイ」
会話が止まる。
ゆうきのリングが微熱を帯びる。
男は戸惑った顔をして、すぐ首を振った。
「違う、ちがう……俺は、ウルリヒ、だった」
あーさんは二すずを鳴らさない。
鳴らさず、目だけで頷く。
「網は、まだ遠くで生きている。ですが、息の届く範囲では、座が勝ちます」
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V 夜番と明け方
その夜、見回りは軽く。
風鈴の短冊には洗濯ばさみの“ほどほどダンパー”、口には紙コースターの“仮封”。
ラミ札が軒に光り、『調律中につき静粛』 の文字が風に揺れる。
リンクは広場から通りへ、通りから祠へ、そして道標へと「座」を渡した。
ブラックはときおり微かな周波を広げ、夜気の端に残る“名の鳴り”を拾っては飲み込む。
ニーヤは角灯を手に、猫のような足取りで影を渡る。「焦らぬことですニャ。名は急がず戻るですニャ」
明け方。
第一声の鶏が鳴く。
ヨアンは祠の前に立ち、胸に手を当てた。
「ぼくは、ヨアンです」
その声は鈴のように軽く、風鈴は鳴らなかった。
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VI 鍵と蝶番の引き継ぎ
昼、集落の年寄り会と簡易の寄り合い。
よっしーは風鈴の“仮封”を説明し、「勝手に外さない」「外す前に深呼吸」「名前を呼びあってから外す」 の三つをラミ札にして掲げた。
クリフは道標の柱に油を差し、「根の揺れ」を座で抑える手順を兵と共有する。
あーさんは子ども会で名の遊びを教える。「自分の名を言ってから、相手の名を呼ぶ」。
ニーヤは笑って締める。「名は鈴ですニャ。鳴らさずとも、形で効くですニャ」
リンクは最後に、座の端をそっと畳んだ。
「自分たちで呼吸を合わせられるように」
「キュイ」
ゆうきのリングは、もう熱くない。
「ここは大丈夫だね」
「だが、網は続く」クリフが地図を折る。「次の村、次の道標。鍵穴じゃなく蝶番へ を、粛々と」
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VII 余韻──見えない放送
見送られて集落を離れると、風が変わった。
雲の切れ間に、昼の月が白く残っている。
道の脇で、乾いた草がさわさわと擦れた。
ふと、よっしーが耳をすます。
「……ラジオ、やないよな?」
音はどこにもない。けれど、どこからでも聞こえる気がした。
“短い呼びかけ”が、空気の中を走ったのだ。
TREI。
瞬きほどの、幽かな残響。
リンクの座は広がりかけて、すぐに静まった。
ブラックが微かに首を振る。
「今のは遠い。ここまで届かない」
ニーヤが尾を揺らして空を仰ぐ。「名付けの網は“放送”にも似ているですニャ。
届きうる形が整えば、いつでも人は“呼ばれる”ですニャ。
だからこそ、息を持ち、人を呼び、人に呼ばれ、自分の名を自分で鳴らさぬ術を持つのですニャ」
あーさんが二すずを胸に寄せた。
鳴らさず、ただ形で。
「次の蝶番へ参りましょう」
ゆうきが頷く。
「鐘は鳴らさない」
「非致死・ほどほど」
「鍵穴じゃなく、蝶番へ」
リンクが短く、「キュイ」。
座の輪郭が、旅の道すがらに薄く残った。
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後書き(しるし)
•トレイ同一名現象(後編):
風鈴(名の“蝶番”)と道標(見落としがちな“根”)を 撓め、名を本人へ返しました。
破壊ではなく、ラミ札+紙コースター+洗濯ばさみ+座+逆相+微弱高周波 の“ほどほど工事”。
•少年の名=ヨアンが戻ったことで、「嘘=鐘を呼ぶ」 の芽を“息”に変換。
•ただし、“遠くの放送”として網は続いています。今後の幕間で追跡。
•方針の再確認:鐘は鳴らさない/非致死・ほどほど/鍵穴じゃなく蝶番へ。
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用語ミニ解説
•名の蝶番
個人名や地名が“装置”として共鳴を運ぶ媒体化した状態。看板・風鈴・札など、誰もが触れやすいものほど危うい。
•ほどほどダンパー
洗濯ばさみ+紙コースターで一時的に鳴りを遅らせる昭和・平成の合わせ技。外す前の深呼吸が肝。
•見えない放送
どこにも送信機がないのに「呼ばれる」現象。座の外縁に薄く触れる残響。急いで追わず、息の範囲を広げて受け流す。




