市の後始末
小話 相沢千鶴の視座にて
市街に朝の光が差し込む。
昨夜の撓鈴と二鈴による封緘を終えたとはいえ、わたくしの胸は未だ張り詰めておりました。鐘を鳴らさぬと誓った以上、この市を「静けさ」で包み直さねばなりませぬ。
瓦礫を片付ける人夫らの間を、よっしー殿が妙なる札を配り歩く。「ラミネート」とやら、透明な膜を掛けたお知らせ札──これがまた丈夫で雨にも強いとか。わたくしの時代にあれば、学府の掲示にどれほど役立ったことでしょう。
彼が冗談めかして「これ平成初期の技術や」と笑えば、子らが「へーせい?」と首を傾げる。市が少し和みました。
クリフ殿は真顔にて衛兵らへ事情を整理し、ユウキ殿は半拍のごとき眼差しで路地の影を探っている。
わたくしは、ただ二鈴を胸許に合わせ、すれ違う者へ「ご安心召され」と一礼するのみ。二鈴は、鳴らさずともその形で人を鎮める力を帯びておると信じております。
──ふと路地裏から黒き残党を捕らえたとの報が入りました。
ニーヤ殿と忍び衆が迅速に制したとのこと。ユウキ殿が「非致死・ほどほど」と声を飛ばし、皆の手が寸止めに収まったのは、わたくしにとって何よりの救い。鐘を鳴らさぬ誓いが、このように仲間に浸透しておるとは。
夕べ、宿に戻りて二鈴を鳴らす。
ちりん──と一度。
「本日の市の後始末、ここまで」と告げるは、わたくしの小さな役目。
二鈴は、ただ音を響かせるためのものにあらず。
人の心を“折”でなく“撓”で受け止め、繋ぎ直す蝶番のしるしにございます。
小序──
前夜、二鈴と撓鈴にて姫君の内より邪を分離して封緘し終えたり。姫は静養に入りぬ。
今宵はただ一事──「鐘だけは鳴らさせぬ」こと。
⸻
1 薄明の市
朝の気温は、指先で数えられるほどの涼しさに戻っていた。
屋台の帆布がまだ湿っている。木箱の角が泥にめりこみ、倒れた荷車の車輪だけが空を切って回っていた。昨日の混乱が、影になって石畳の隙間に残っている。
「おはようさん。こっち、ロープで囲うで」
よっしーが腕まくりして、1989年の笑みを浮かべる。アイテムボックスから取り出したのは、見慣れない透明の板。角には小さな穴、紐を通せるように加工済み。
「ラミネート加工済み・掲示札、数量……えーと、多い。『立入ご遠慮』『崩落注意』『搬出待ち』、文字バリエも用意しといたわ」
衛兵隊長が二度見する。
「……か、硬い。雨でも滲まぬのか」
「平成初期の力、なめたらあかん」
ユウキは、まだ細い朝の光の方へ半歩出た。指先にはめたリングが、ぬくい。半拍遅れて胸が鳴る。
(残滓は、北側路地にまだいる)
リングの熱が教えるのは、恐怖ではなく合図だった。
クリフは兵舎前に立ち、短く通る声で手順を刻む。
「被害届は区画ごとに。『蝶番へ』の原則で。鍵穴ばかり見張るな、扉が噛む音を探せ」
兵士たちが頷く。言葉はもう仲間だけのものではなく、市全体の合言葉になりつつあった。
二鈴が胸元で静かに揺れた。
「ご安心召され。まずはお怪我の見立てから」
アーサンは明治の礼を忘れない。若い母親の手首に包帯を巻き、子どもに温い茶を渡す。ちょっとだけ鈴を傾けて、鳴らさずに見せる。形だけで、呼吸が整う。
黒は小首をかしげ、微小な高周波で老人の耳鳴りを和らげる。「キュイ」と短く鳴いて、子どもに額を差し出す。撫でられると、さらに周波数が整う。
リンクは空の広場に「座」を張った。薄膜のような気配が地面に広がり、子どもたちの足取りがふわりと軽くなる。
「ここは安全圏だよ。親御さんは片付けに、子らはここで遊んでて」
白い紐で緩く区切られた円。入ると息が深くなる。出るとまた現実に戻る。往復できる「座」は、今日の市に必要な蝶番だ。
ニーヤは、背の曲がった猫背のまま、古語でぼそり。
「撓めて受け、折らずして返すが肝要ぞ」
「ニーヤ姐さん、それ毎回聞くだけで落ち着くんよ」とよっしー。
「うむ。言葉は鈴に似る。鳴らさずとも形で効く」
耳栓を配るよっしーの前で、屋台の親父が札を手に唸った。
「『立入ご遠慮』……これ、何度でも使えるのか?」
「いける。角穴に紐通して、雨が来てもへっちゃらや」
「便利なもんだなあ。昭和にも欲しかったぜ」
「せやろ? 平成と昭和の橋渡し、任せとき」
ユウキは片膝をつき、石畳の黒ずみを指で擦った。灰ではない。油だ。
(北側の路地、もう一押し)
2 裏路地の軋み
「クリフ、ちょっと行ってくる」
「二人つける。過不足なしで」
エリン(忍)が靴音を殺し、影から影へ。ニーヤも尾を引く影のように続く。
路地に入ると、匂いが変わった。湿った麻袋、古酒、鉄。
ユウキは指輪に意識を沿わせ、半拍先を読む。
角の先、二つの気配。軽い。逃げ脚だ。
「非致死・ほどほど、で行く」
「承知」
ニーヤが墨色の帯をひゅっと投げ、足首だけを縫いとめる。転んだ影が反射でナイフを出すが、エリンの掌打が手首をはたき、刃は遠くへ滑った。
「痛っ……! 殺す気か!」
「殺さぬために痛むのだ。畳に落ちるより軽いと知れ」
二人を壁に預け、よっしーが遅れて到着。肩で息をしつつ、アイテムボックスから白い帯を出す。
「タイラップ。逃走防止。はい両手こっち」
「な、なんだその簡便な枷は……」
「平成の蝶番や。締めすぎたら危ないから、ほどほどで止めるんやで」
尋問は、アーサンの前に座らせて行うのがよい。怒鳴っても意味はない。
「名を。嘘をつくれば、鈴がわかります」
二鈴を軽く傾けると、男の喉がごくりと鳴った。
「……トレイ。教会の、ええと、支れの運び役」
「どこへ運ぶ?」
「鐘の底……黒鐘の穴倉。でも俺は場所までは──」
アーサンは男の袖口の汚れに目を落とした。微細な黒粉、煤ではない。
「石炭ではござらぬ。墨と鯨油……灯りは蒸留室。路地の北に蒸留壺がある」
「そこ、だね」ユウキが頷く。
「処分は?」とクリフ。
「蝶番へ。壊さずに閉める」
3 蒸留室──壺の底に灯るもの
路地裏の木戸は表向き、壊れていた。蝶番は生きている。鍵穴は死んでいる。
「鍵穴じゃなく蝶番へ、の見本市やな」よっしーが指で蝶番をなでる。「ほら、ここ油が新しい。毎日、回されてる」
リンクが手を当てる。「座」の薄膜が、木戸の内側まで伸びていく。
「中の怒り、少し落ち着いた。今なら“ほどほど”で済む」
エリンが戸を押す。軋みはしない。
中は狭い。大きな壺が二つ。管が天井を這って、壁の向こうに消えている。
暗がりの床に、墨と油の痕が「く」の字を描いていた。
「出でよ、と言う前に退路を塞ぐが礼儀ぞ」ニーヤが笑う。
黒が「キュイ」と鳴いて高周波を一閃。天井裏に潜んでいた影が耳を押さえ、ばらばらと落ちてきた。
よっしーはその瞬間、使い捨てカメラのフラッシュを焚く。「ぱっ!」
眩しさに目を閉じる隙に、リンクの柔らかな抱え込みが決まる。
「座、内側に転がして」
「了解」
抵抗は短く、流れるように終わった。
「非致死・ほどほど」。
床に寝かされた男の胸が上下している。生きている。それでいい。
「黒鐘の穴倉はどこ」
「……ここだ。壺の底が、鐘につながってる。蒸気で鳴らす計画が……」
ユウキは管に耳を当て、リングの温度を確かめる。
(この先に、鐘)
アーサンが二鈴をそっと鳴らした。
ちりん。
壺の表面で細かな波が生まれる。
「鈴の振動を逆相に。鐘の“鳴り”を吸わせるのです」
「逆相、か」よっしーが頷く。「防振ゴムも巻こう。周波数、合わす」
ゴムを管の要所に噛ませ、チョークラインで「触るな」の印を残す。
「はい、ラミ札も追加。『調律中につき静粛』。平成の札は万能や」
クリフが衛兵を呼び、接収手順を取る。
「ここはもう“蝶番”になった。鍵穴は使えない」
4 昼餉──笑いと息の場所
広場の「座」は賑やかだった。
屋台の親父が即席の汁物を配り、子どもが紙コースターで独自のカード遊びを編み出している。
「これ、昭和のコースター?」
「そや、ロゴは米米クラブの頃の……って言うてもわからんか」
「こめこめ?」
「また今度な」
リンクが低く囁く。「座は午後も持つよ。夕方に一回、張り直す」
黒が尻尾で小刻みに床を叩く。周波数は穏やか。
アーサンは湯気のたつ椀を両手で包んだ。
「味が“撓”んでおりますね。しょっぱくも渋くもなく、よく受け止めて返しておる」
「アーサン、食レポが上品すぎる」ユウキが笑う。
「言葉もまた座です。粗野は、刃に似て人を遠ざけます」
「なあ、ウチらが“謎の集団”として戦に介入するって話、どうする?」とよっしー。
場の端で、ギルドの若者たちが噂していたのだ。ヨロネノーツ側が同盟を固めた、と。
ユウキの喉がつかえる。サンマリノの名が胸に刺さるのを、あえて飲み込む。
アーサンが二鈴に触れ、静かに告げる。
「鐘は鳴り物入りで叩くより、鳴らさぬように支える者が必要。わたくしどもは“座”を広げる側でございましょう」
「蝶番へ」クリフが復唱する。「扉がうまく動けば、戦は起きにくい」
その時、広場を風が抜けた。
「空気は読むものじゃなくて、吸うもの!」
能天気に聞こえるのに、不思議と呼吸が深くなる言葉だった。
よっしーが笑い、子どもたちが真似して胸いっぱいに空気を吸う。「すぅーっ」
5 午後の手直し──見えない“鳴り”を鎮める
午後は、細かい後始末の時間になった。
崩れた看板を外し、蝶番にグリスを差し、石畳の割れ目に砂を詰める。
「目に見えない『鳴り』は、こういうとこから起きるんや」よっしーが膝をつく。
「音は連鎖する。鐘だけが鳴るのではない」クリフが油布を渡す。
アーサンは、老夫婦の店の戸を内側から外して、別の位置へ付け直した。
「風の抜ける筋を変えます。鳴りは、向きで鎮まります」
「そんな工夫で変わるのかねえ」
「扉というものは、蝶番ひとつで人の気も変わるもの。鍵穴より、ずっと」
老夫婦は顔を見合わせて笑った。
「じゃあ、わしらも明日から“座”にお茶を持っていこうかね」
「ぜひ」
リンクが夕方の張り直しをする。
黒が「キュイ」と鳴き、遠巻きの緊張を解く。
ニーヤは軒下で子どもに綾取りを教えている。古語交じりで。
「これを“撓鈴”の型と申す。ほどく時は乱暴に引かぬ。撓め、返すべし」
ユウキはたびたび北の路地を見回った。
(鳴りは下がった。だが、黒鐘の“穴倉”は他にもある)
リングが軽く温む。次の位置を示すように。
6 黄昏の報せ
日が傾き、露店の帆布に橙が宿る頃。
情報屋の少年が走ってきた。頬は煤だらけ、目は獲物を見た犬みたいにまっすぐ。
「兄ちゃん。北門の外に、同じ壺。いや、もっとでかいの。煙突が二本」
よっしーが眉を上げる。「工房やな」
「黒鐘、外へ引っ張り出すつもりだ」クリフが短く言い切る。
アーサンは二鈴を取り上げ、胸の前で半拍だけ揺らした。
「本日の市の後始末は、ここまでにて。以降は夜番へ引き継ぎます」
宿へ戻る道すがら、彼女はユウキの肩に目をやる。
「あなたの胸の鈴、まだ鳴るのでしょう」
「うん。鳴らさせないための、鳴りだ」
「ならば、よろしい」
7 宿の膳──鍋と告げの鈴
宿の広間は、今日の市と同じ匂いがした。人の息と湯気、それから少しの疲れ。
大鍋が運ばれ、具材は質素でも、椀に注げば立派なごちそうだ。
「塔の百四十九階(里区画)で鍋を返す約束、破らんで済んだな」ジギーからの伝言が届いていた。遠くの友は遠いままで、しかし鍋は同じ熱さを持つ。
ゴトリ、と椀を置いて、よっしーが言う。
「“謎の集団”の件、ほんまにやるん?」
「やるとしても、鐘は鳴らさない」ユウキは答える。「表札は出さない。『座』と『蝶番』を置くだけ」
「匿名の善意は、毒にも薬にもなる」とクリフ。「だが、今日くらいの効き目なら、市は飲み込める」
アーサンが二鈴を掌にのせ、鍋の湯気にかざした。
「湯気もまた座でございます。蓋を叩けば鳴る。撓めて受ければ温くなる」
誰かが笑い、誰かが息を吐き、誰かが泣き笑いをして椀を空にした。
黒が「キュ」と短く鳴いて、広間の鳴りをひとつ飲み込んだ。
8 夜番──鐘に先んずる
食後、短い打ち合わせ。
「北門外の工房は、明晩。今夜は“座”の巡回を優先」
クリフが地図にチョークで印を付ける。
「エリン、ニーヤは東と北の境目を。よっしーはラミ札の補充。リンクは座の末端を張り直す。黒は老人街へ」
「任せ」
「承知」
「了解っと」
ユウキは窓の外、夜の輪郭を一度見る。
リングが、また半拍遅れて温い。
(鐘は、鳴る前に息で押さえる)
アーサンは最後に広間の真ん中へ進み、二鈴を胸の高さで合わせた。
「皆さま、本日の市の後始末、ここに完了といたします。鐘は鳴らさず、座を広げ、蝶番を整えました。明日もまた、静けさのために」
ちりん──
小さな音が、音のしない場所を一瞬だけ照らす。
それは、鐘を鳴らさないままに市を閉じる音だった。
人々は散り、夜は静かに鎮まっていく。
息が合う。半拍が揃う。
撓めて、返す。
⸻
後書き(しるし)
本章は「戦いの翌日」を、市の側から見直す回でした。
鐘を止める術は、鐘に触れずに周りの「鳴り」を整えること──鍵穴じゃなく蝶番へ。
壺と管で遠隔的に鳴らそうとする仕掛けは、二鈴の逆相と防振によって“座”へ取り込まれました。
捕えた運び役が示した“黒鐘の穴倉”は、まだ北門外の工房に残っています。次回はそこへ。
※「姫は鎮められ、静養中」。我々は“謎の集団”として名を出さず、“座”と“蝶番”で介入を重ねます。
鐘は鳴らさない/非致死・ほどほど──本編方針の再確認でした。
(了)
◆191話 後書き
「市の後始末」編は、これで一区切りとなります。
仲間たちは鐘を鳴らさぬ術を胸に、市を救い、次なる道へと進む準備を整えました。
しかし旅はまだ続きます。
ここからは新たな章――「天空神の腕輪編」 が開幕します。
市の外、ジャングル、そして天空へ。
未知の出会いと試練が、彼らを待ち受けています。
どうぞこれからも、仲間たちの旅路を見守っていただければ幸いです。




