氷橋砦の黒工房――母型を返し、空喉を座らせる
夜の霜は薄く、吐く息は糸になって切れた。
霜都ロージェンの宿で「反省会」を終えると、俺たちは胸骨の前に二拍。
とん・とん――B0.6。
静けさは扉。
「短く点呼」
「ユウキ」
「よっしーや」
「クリフさん」
「ニーヤですニャ」
「リンク」――「キュイ」
「あーさん、相沢千鶴にございます」
「……カァ(ブラック)」
《蒼角》「ロウル」「ツグリ」/《炎狐》「フェイ」「チトセ」
後詰「ガロット」「セレス」。外縁「ジギー」「サジ」「カエナ」「ゴブリン若者隊」。
セレスが氷地図に印を打つ。
「目標は氷橋砦。黒工房で拍税印の母型を確保。上空は極光天蓋が仮展張、子機三。空喉は冷やされている。
目的は三つ。
一、空喉を倒さず座らせる(舌凧×2+縦抱え帆柱+風幕)。
二、黒工房から母型を返し、印と記録鎖の直結をほどほどに解く。
三、人は返す。非致死、ほどほど」
「湯屋は……?」
「今日は無し」全員。
「なんでや……」よっしーが肩を落とし、すぐ上を向いた。「じゃ飯テロ・オーロラ、第二幕いくで」
「買いすぎニャ」
「要る」
耳飾りがちり。
『A-1〜A-5、白は太く維持。合唱鍵は二重輪“名→拍”で待機。三鈴法は温存』ミカエラ。
黒板の前でリナがチョークを持ち、「今日の名」を一つ空ける仕草をした気がした。
⸻
1)北路、極光の下で
城下の外に出ると、空に薄い緑の帯。極光天蓋はまだ骨組みの段階だが、子機三つがB0.8で微震している。
「喉が冷えてるニャ……膜を二重に」
ニーヤが凍膜で頬を覆い、風幕としてよっしーのブルーシートを半月形に張る。
「買いすぎ——」
「要る言うたやろ。風よけにもなるし雪庇も落とせる」
ロウルが石突でとん・とん。
裏拍で歩幅を揃え、谷の息と胸骨の火を合わせる。
B0.6。
《蒼角》《炎狐》が荷駄の後列で粥キットを温め、チトセが白の小口を点検する。
氷橋砦は、凍った峡谷に跨がる黒石の橋。
上に門楼、脇に黒工房、裏手に吊道、そして天に空喉の枠。
「鍵班は空へ。泥舌班は橋脚へ。寝かせ台班は帆柱を立てて縦抱え。返送班は雪洞で白準備」ガロットが短く配る。
「講話班はアタシが門前に一差し。短くやる」
⸻
2)空喉――舌凧と帆柱、そして風幕
舌凧は二張。
一本は俺とリンク、もう一本はニーヤとブラックが持つ。
縁には似せ印の薄板と、扉縫合の針を仕込んだ小袋。
よっしーが凧糸に砂鉄をすり込み、「喉がざらつくほど鳴かん」とニヤつく。
「あげる」
俺たちはB0.6で二拍、とん・とん。
舌凧が極光の縁を掠め、子機の蝶番にふわと触れる。
あーさんが似せ印を浅く押し、俺が針で角に点。
ブラックの羽衣が高域を熱に落とし、ニーヤが霧膜で喉を温める。
カチ。
一子機、ためらい。
二子機、ためらい。
三子機、ためらう前に逆風。
極光がひゅっとB0.8へ上がる。
「風幕、もう一枚」
よっしーがブルーシートを凧糸に沿わせて送り、喉に毛布を掛けるみたいに覆った。
「買い——」
「要る!」
帆柱(縦寝かせの長柱)をツグリが立て、鎖で抱える。
空の重みを抱え、倒さず座らせる準備が整った。
極光の鳴きは**すう……**に落ちる。
空喉、座る。
「朝ごはん前の一勝や」よっしーが親指を立てた。
⸻
3)門前の講話――地図の三行
門前。
あーさんが板を掲げる。
「講話は短く。
名は輪郭。
輪郭は境界。
境界は——蝶番。
……そして今日の一行を足します。道筋は地図。地図は輪郭の外に描く輪郭。
輪郭が分かれば、扉は開くし、閉められる」
帝国学匠局の白衣が数人、目を瞬いた。
昨夜粥椀を受け取ったチヌスが一歩、ほんの一歩だけ前へ。
「印は片を付けるためにあると思っていた。地図は……戻るためにあるのか」
「朝ごはんを食べてから、戻りましょう」
粥釜の湯気が、凍てた空気に丸い輪をつくる。
門楼の横、黒石の廊から、黒外套の男が現れた。
鷹のような目に金の飾り紐。
「帝国学匠局長アウラント」セレスが囁く。
彼は上を見て、空の毛布を指先でなぞる仕草をした。
「喉に布を被せるとは。野蛮で美しい」
「野蛮はうまいねん」よっしーが焼きそばの湯切りをしながら言った。
アウラントの口角が、ほんの瞬き分だけ動いた。
⸻
4)黒工房――母型はどこだ
黒工房の中は冷たく、油と煤の匂い。
拍税印の母型は「長官机の下」とアーレンは言った。
机の下には箱が二つ。
「こっちが十の刻印、こっちは……押捺台の母板」ニーヤが指でなぞる。
「罠や」よっしーが即答した。「こんな分かりやすい机下に本命は置かん」
工房の壁に工作図。
天蓋の蝶番から印判へ、拍がどう流れるか。
図の端に小さな記号――子機の背骨に母型薄板が挿さっている印。
「本命は空や」セレスが息を飲む。
「子機そのものが母型を抱えている。地上の箱は見せ札」
「取りに登ろう」
「倒すな、座らせる」ガロットが目だけで告げる。
その時、工房の奥で鈴がひとつだけB0.8で鳴った。
黒い灯が増え、灯台のように視界が狭まる。
光の輪から歩み出たのは、緋のマント、肩当てに十の刻印、手には灯火の笏。
「十逆騎士・第四灯ファロ」
声は柔らかいのに、拍は尖っている。
「印は光で押す。名は影で消す」
「ほどほどにしときや」よっしーがスポンジ弾を指で弾いた。
⸻
5)非致死の打ち合い――灯と幕
ファロの笏がぱちぱちと火花を散らす。
光幕が走り、床の拍がB0.9へ跳ねた。
「腹に火を」ロウルがとん・とん。
フェイが杖で裏拍を打ち、ブラックが羽衣で高域を熱に落とす。
ニーヤが霧膜で灯を曇らせ、俺は扉縫合で笏の蝶番に点。
カチ。
笏の光がためらい、拍は痩せる。
「舌袋!」
よっしーが舌短を床の軸に差し、舌袋で叩きを吸う。
ファロの足がぺたっと砂鉄に吸われて膝が落ちる。
リンクが肩輪にちょん。
「……灯は包むもののはずだが」ファロは肩をすくめ、座った。
その背後、工房の天井扉が音もなく開く。
鎖が垂れ、子機が低く降りてくる。
そこに――母型薄板。
「鍵班、上を」
あーさんが似せ印を浅く、俺が針で角に点。
ブラックの羽衣、ニーヤの水膜。
カチ。
母型薄板が緩む。
「落ちる」
ツグリが縦抱えの帆柱を伸ばし、子機を抱え取る。
「よっしゃ——回収」よっしーがガムテで緩衝を巻きながら薄板を外し、虚空庫へぽい。
「買いすぎニャ(ガムテ)」
「要る」
「戻るぞ」ガロット。
⸻
6)門上、局長アウラント
門楼に出ると、アウラントが肘を欄干に置き、空の布を眺めていた。
「母型を返すのか」
「返す」
「返した先で何をする」
「名を返す」
アウラントの瞼が、ほんの一拍、重くなった。
「秩序は記録に宿る。名は記録されて初めて存在になる。
君らは印を剥がし、記録を否定する。——混沌を望むのか」
あーさんが板を掲げる。
「講話は短く。
名は輪郭。
輪郭は境界。
境界は——蝶番。
記録とは蝶番に油を差す手控え。錠前ではない」
「飯は朝に食べるものや」よっしー。
「……例えの質が庶だな」アウラントが苦笑した。「学匠補チヌス、印を撤収して粥を食え。
十逆は……第五氷弦と第四灯を一時引かせる。
君らは去れ。橋は座ったままにしておく」
「名を押しつぶす印を再開するなら、また来る」俺。
「扉は多い。拍は一つ……だろう?」
アウラントは空に目をやり、極光が毛布に包まれて寝息を立てるのを確かめた。
⸻
7)受け渡し――黒板の「今日の名」
雪洞の白が太く開き、収容房からの列が静かに動く。
粉屋マライヤの夫、馬方カルロの弟、黒工房見習いイータの仲間たち。
チトセが竹札に「非致死捕縛/朝粥済」と墨を走らせ、呼び戻し札を配る。
「名を呼んでから渡ってください」
「シェナ」「シェナ」
胸骨の裏に火がぽっ。肩が落ちる。
学園(仮)150階の黒板では、リナが「今日の名」に新しい丸を付けていた。
『一限「名の授業」延長。二限「拍の授業」。三限「地図」。四限「自由研究」』ミカエラ。
「要る」ルフィ。
「二個まで」
「……要る(明日)」
⸻
8)氷橋砦を離れる前に――旗
撤収の列を見送っていた時、遠い橋の端で旗がひるがえった。
金髪の男が、寒風の中でマントを強めに握る。
「偽勇者ヨシキ(本名:吉木良紀)」
神官長ネイザンは後ろに下がり、口を結んでいる。
眼鏡の勇者ナオキが隣で手を上げた。
「撤だ。ここで騒いでも朝ごはんに間に合わん」
ヨシキは唇を噛み、こちらを見た。
俺は短く。
「名は?」
「……吉木良紀」
胸骨の裏に火がぽっ。
彼は小さく頷き、槍を降ろした。
「決闘は……また後だ。膝が笑う」
「ほどほどにな」よっしー。
⸻
9)霜都ロージェンにて――アーレンの“戻り”
城下に戻ると、アーレンが古い梁の下で待っていた。
外套の襟を下ろし、肩の力を抜いている。
「黒工房は?」
「母型を返した。印は撤収が始まる。朝粥がよく効く」
「……すまない」アーレンは深く頭を下げた。「灰夢の茶は、生かすつもりだった。
だが、名を削ることに手を貸したのも事実だ。——学園に来てもいいか」
あーさんが頷く。
「朝ごはんを食べてから、門を叩きなさい」
「要る」
よっしーが袖を引っ張って、小声。
「湯屋のアレは?」
「ほどほどに忘れてあげなさい」あーさん。
「忘れへんけど、ほどほどにはしたる」
⸻
10)学園の夕刻――「扉」と「拍」
150階・学園(仮)。
終礼。黒板の前で、あーさんが三行。
名は輪郭。
輪郭は境界。
境界は——蝶番。
そして小さく一行。
道筋は地図。
子どもたちがB0.6で名を呼び、拍を合わせる。
合唱鍵は二重輪のまま、三鈴法は温存**。
おやつは二個まで。
ルフィは三個目を袖に入れて、ミカエラに無言で見つかり、そっと戻した。
帝国学匠補チヌスが門の影に立ち、呼び戻し札を胸に当てて一礼した。
帝国技官ヴォルクは粥椀を両手で持ち、「苦味は食後でいい」と言った。
「次は?」セレス。
「黒縁のさらに奥。極光天蓋の本体と、印の母型の母がある。
それと——帝国は拍を盗み、聖教は拍で叩く。二つの拍が噛み合う場所がある」ガロット。
耳飾りがちり。
『北縁の氷棚に吊工廠。天蓋の本枠が搬入開始。学匠局の長官アウラント、十逆の別番第七秤バランの印も探知』ミカエラ。
「扉が増える」セレス。
「蝶番に油。非致死、ほどほど。人は返す」俺。
胸骨の前に二拍。
とん・とん。
静けさは扉。
⸻
11)夜――小さな相談
屋上は静かで星が近い。
クリフさんが弓弦を指でとんと弾く。
「従妹テッサは鍛冶を始めるつもりだと。……故郷に戻すにせよ、学園に置くにせよ、拍を崩さない選び方を」
「地図は二枚あっていい。輪郭が変わっても蝶番は同じところにある」あーさん。
「わかるような、わからないような」クリフさんが笑い、B0.6で肩の力を落とす。
よっしーがブルーシートを畳みながら言った。
「風幕は正義。毛布も正義。湯屋は……節度」
「最後が一番難しい」ニーヤ。
「知っとる」
⸻
12)氷橋砦・夜の残響
遠い氷橋で、アウラントが欄干に肘を置いたまま、空の毛布を見ていた。
第四灯ファロは笏を抱え、第五氷弦フィルンは氷糸を巻き取る。
「名を返す学び。印を撤収する秩序。……さて、どちらが長く持つか」
アウラントは笑いも怒りも無い声で言い、背を向けた。
橋の端で、吉木良紀が手を温めながら空を見上げた。
「決闘は朝ごはんの後でいい」
ナオキが「そうだな」とだけ答える。
ネイザンは何も言わなかった。
⸻
13)次の扉へ
合唱鍵は布をかけて眠り、黒板の「今日の名」は白く埋まった。
夜番の子らがとん・とんと板拍子を二度。
B0.6。
静けさは扉。
稽古は続く。
開ける。閉める。そして、返す。
(つづく)




