表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

128/368

骸竜、二十万の喉を噛む――ジギー単騎、戦場へ

【前書き】


――接近するもの


 風が、変わった。


 ルーデンス聖教国・本軍二十万。

 そのうち先頭を行く一万の行軍列の中で、

 若い槍兵レオルドは、何度目か分からないあくびを噛み殺した。


「……眠ぃ」


 前を歩く同郷の友が振り返る。


「おい、レオ。起きろよ。

 もうすぐだぞ。ユーゲンティアラの国境越えたら、

 あとは略奪し放題って、隊長がさっき言ってただろ」


「分かってるよ。……分かってるけどさ」


 レオルドは肩の槍を持ち直し、

 遠くかすむ山並みを見やった。


「なんか……やな風だなって」


「またそれかよ。

 霧の森んときも、お前それ言ってただろ。

 “やな風がする”って」


 友は笑い飛ばす。


「あの里の連中は、たしかに厄介だったけどよ。

 でも、あれは所詮、先行の一隊が油断しただけだ。

 こっちは二十万。本隊だぜ?

 王もいる。大神官もいる。聖騎士団も勢揃いだ。

 負ける要素なんかあるかよ」


 隊列の前方では、

 馬上の貴族たちが楽しげに杯を掲げていた。

 輿の中では、絹をまとった姫君が捕虜の行列を思い浮かべてくすりと笑い、

 聖職者たちは「亜人どもを神の御もとに導く聖なる行軍」と唱えている。


「ユーゲンティアラを屈服させれば、

 奴らの山も鉱山も、ぜんぶ我らのものだ。

 この行軍が終わったら、

 お前も永代の俸給をもらえるかもしれんぞ」


 隊長が振り返り、

 励ましとも、高圧ともつかぬ声で兵士たちに言う。


「神は我らと共にあられる!

 恐れるものなど、何もない!!」


「おお――!」


 合唱が起こる。

 鐘片ベルフラグメントが、腰でからりと鳴った。


 ただ、その音に、

 ほんの一瞬だけ“別の震え”が混じったのを、

 レオルドは聞き逃さなかった。


「……今の、聞こえたか?」


「何が?」


「鐘の……音。なんか、

 違う拍が混ざったような……」


「軍楽隊だろ。気のせいだ、気のせい」


 友は肩をすくめる。

 しかし、その直後。


 ――風が、止んだ。


 旗が、ぴたりと動きを失う。

 馬の耳がそろって立ち、鼻を鳴らした。


「……?」


 空気の重さが変わる。

 遠く、山並みと空の境い目に、

 黒い“何か”が浮かんでいた。


「……雲?」


 誰かが呟く。

 だがそれは、雲にしては低すぎた。

 しかも、ゆっくりと、確実にこちらへ近づいてくる。


「鳥の群れ……?

 いや、違う。あれは――」


 先頭を行く騎士の一人が、

 目を細めて叫んだ。


「ドラゴンだ!!」


 軍列がざわめきに揺れる。

 黒い影は、どんどん大きくなる。


 それは、たしかに“ドラゴン”の形をしていた。

 ただし、その身に肉はなく。

 翼は黒い霧をまとい、

 眼窩には不気味な緑の光が灯っている。


「が、骸骨……!?

 骸骨の竜だと……!」


 聖職者たちが慌てて祈祷を始める。

 鐘片が一斉に震え、行軍拍とは異なる、

 不規則な拍が空気に滲み出す。


「皆、隊列を崩すな!

 聖騎士団、前へ!!」


 号令が飛ぶ。

 しかし、その声を嘲笑うかのように、

 黒い影は、

 ――一気に高度を落とした。


 骸竜スカルドラゴン。


 その背に立つ、黒衣の女がいた。


 長い白髪を乱暴に束ね、

 片手に酒瓶、片手に杖。

 口元には、ひどく不機嫌そうな笑み。


 ジョージア・フォン・ギルバート伯爵。

 別名――ジギー。


「……さて。

 “戦争”の帳尻、

 付けに来たぞ、外道ども」


 誰かの喉が、ごくりと鳴った。


 レオルドは、その瞬間、

 自分の足が小刻みに震え始めていることに気づいた。


(やな風、どころじゃねぇ……)


(これは――)


(“死”の匂いだ)


 空の上で、

 ジギーの杖先に、毒々しい緑光が集まっていく。


 骸竜の眼窩が、

 同じ色に揺らめいた。




【本編】


――蹂躙のはじまり


 ジギーは、

 スカルドラゴンの頭蓋を足下で軽く蹴った。


「行くぞ、相棒。

 今日はたくさん食わせてやる」


 骸竜が、喉の奥でゴリゴリと骨を鳴らす。

 翼骨が大きく広がり、

 腐った風をまといながら急降下を始めた。


「弓隊!! 撃て――撃てぇ!!」


 将軍の叫びに従って、

 雲のような矢が空へと舞い上がる。


 だが、そのどれも、

 ジギーにも、骸竜にも届かなかった。


「甘い」


 短く吐き捨てて、

 ジギーは杖を地面に向ける。


 詠唱などいらない。

 彼女の中で、毒と死霊の術式は呼吸と同じだ。


 杖先から、

 緑黒の霧が、一本の線となって落ちる。


「《毒霧連環ドクム・ヴェイル》」


 霧は地面に触れた瞬間、

 爆ぜるように輪を広げた。


「な、なんだこれは――!」


 霧を吸い込んだ兵士が、

 その場で膝をつく。


 喉が焼けつくように痛み、

 肺が逆さにひっくり返ったような苦しさが走る。


「げほっ、げほ……っ!」


「い、息が……でき、な……」


 毒霧は、目には見えにくい。

 だが、嗅いだ者の神経と血をじわじわと焼く。


「祈祷で中和しろ!!

 聖句を、聖句を唱えろ!!」


 僧兵たちが必死に聖句を唱える。

 だが、いつものようにきれいなハーモニーにはならない。


 拍が、合わないのだ。


 鐘片が、バラバラのタイミングで鳴る。

 行軍で鍛えた“合わせるためのリズム”が、

 毒霧の中でことごとく乱されていく。


「何だ……音が、ずれる……?」


「声が……合わない……!」


 ジギーは、その様子を見下ろして鼻で笑う。


「祈祷ってのはよ。

 “同じ譜面で揃う”から意味があるんだ。

 ――毒の拍は、

 お前らの歌と相性が悪いらしいな?」


 骸竜が、

 腐肉のような息を吐いた。


 彼女は杖をもう一度振る。


「《屍脈起動ネクロ・ライン》」


 戦場の地面に、

 蜘蛛の巣のような黒い線が走る。


「《毒属死兵ポイズン・リーチ》」


 線の交点から、

 青黒い手が、一本、また一本と伸びてきた。


「ひ、ひぃっ……!」


 倒れていた兵士の死体が、

 軋むような音を立てて起き上がる。


 白目を剥いたまま、

 口から紫の泡を垂らし、

 隣にいるまだ生きた兵士の足首へ噛みついた。


「や、やめっ……!」


 肉が千切れる。

 毒が、その傷口から逆流するように入り込んでいく。


 数十秒後――

 同じ兵士が、

 同じ青黒い皮膚になって立ち上がった。


「な、なんだこいつらは!!

 死んで、動いて、また……!」


「死霊!? 死霊術だと!?

 そんなもの、神が許すはず――」


「神様がどうとかは、

 あいつらに聞け」


 ジギーは顎をしゃくってみせる。

 毒ゾンビたちが、

 祈祷官の列へ一直線に走り出す。


「来るな! 来るなぁ!!」


 祈祷官の一人が、

 慌てて聖水を振りかけた。


 ――じゅっ。


 かえって、

 毒がその場で霧散した。


「え……?」


 聖水はたしかに効いている。

 だが、毒の濃度が高すぎて、

 ただ“場所を変えただけ”になっていた。


 浄化しきれない“余剰”が、

 その場にいた者全員の喉と肺を削る。


「うぐっ、あ、あぁああ……!」


「十字の印を――ぐ、手が、うごか……っ!」


 崩れ落ちる祈祷官たちを、

 毒ゾンビが踏み越える。


 その頭上を、

 骸竜の影が駆け抜けた。


     ◇


「騎士団、整列!! 迎撃陣を組め!!」


 黄金の鎧をまとった聖騎士団が前に出る。

 盾を掲げ、槍を構え、

 巨竜に対する防壁を築く。


「怯むな! あれはただの死骸だ!

 魂なき器にすぎん!!」


 勇ましい声が響く。

 だが、その声は、

 すぐに別の音にかき消された。


 ――ゴオオオオッ!!


 骸竜が、

 骨の喉から“吐いた”。


 それは火ではない。

 爆ぜるような熱に、

 焼け付く毒と、

霧のような死霊の粒子が混ざったブレスだった。


「盾を構えろ!!」


 前列の騎士たちが叫ぶ。

 だが、その盾が、一瞬で溶けた。


「なっ――!」


 金属が、

 “泡”になった。


 鍛えに鍛えた聖騎士の装甲が、

 岩に注いだ酸のようにじゅうじゅうと音を立てて消えていく。


「うああああああ!!」


 肌に触れた部分から、

 皮膚が紫に染まり、

 筋肉が痙攣を起こす。


 一瞬後、

 彼らは“燃えた”。


 火ではない。

 毒が、内部から神経を焼き切っていく。

 外見はそのままなのに、

 中身だけが“灰”になる。


 騎士団の列が、

 たった一度のブレスで破綻した。


「聖騎士団が……!」


「嘘だろ……最強の防壁が……!」


 兵士たちの心が、

 音を立てて折れる。


 ジギーは、

 骸竜の頭蓋に腰を下ろし、

 酒瓶から一口だけ喉を湿らせた。


「二十万、ねぇ。

 ずいぶん連れてきたじゃねぇか。

 そんなに死に急ぎたいのか、お前ら」


「おのれぇええ!!」


 別方向から、

 祈祷剣を構えた聖戦士団が突撃してくる。


 ジギーは片眉を上げた。


「まだいんのか、英雄気取り」


 彼女は杖を軽く振る。


「《死縫いの鎖グールズ・ステッチ》」


 地面から飛び出したのは、

 黒い鎖だった。


 鎖は聖戦士たちの足首に絡みつく。


「なっ……!」


「鎖ごときぃ――!」


 剣で叩き切ろうとした瞬間、

 鎖が“抜けた”。


 足元の土と一緒に。


「ぎゃああああああ!!」


 足場が崩れ、

 彼らは地中の毒溜まりへと落ちた。


 そこに、骸竜の尾骨が落ちる。


 ――ドン。


 大地ごと、

 深く抉れた。


     ◇


 戦場は、

 もはや地獄絵図だった。


 前線は毒と死霊で崩れ、

 中衛は逃げ惑う兵でごった返し、

 後衛の貴族と聖職者たちの顔からは、

 血の気という血の気が消えている。


「何をしている!!

 整列しろ!! 陣形を――」


 指揮官が叫ぶ。

 その背後から、

 一本の毒矢が飛んできた。


 矢は指揮官の肩に刺さる。

 次の瞬間、彼は痙攣し、その場に崩れ落ちた。


 毒矢を放ったのは、

 さっきまで“普通の槍兵”に見えていた男――


 その瞳は、既に濁っていた。


「ま、待て……お前、仲間だろ……?」


「さぁ……どうだろうな」


 男の口元がゆっくりと裂け、笑みの形に変わる。


 毒ゾンビ化した兵士は、

 誰が敵で誰が味方かの区別を失っていた。


 ジギーは、

 上空からそれを一瞥する。


「自分で撒いた種くらい、

 収穫くらいまではしてから死ねよ?」


 地平線の向こうまで続いていた“整然とした行軍列”は、

 いまやぐちゃぐちゃに折り重なった瓦礫のような人の群れになっていた。


     ◇


 どれくらい時間が経ったか。


 レオルドには、もう分からなかった。


 いつの間にか槍は手から滑り落ち、

 盾はどこかに消え、

 膝まで泥と血と得体の知れない液体に浸かっている。


「……いやだ……」


 さっきまで隣にいたはずの友は、

 顔の半分を溶かされた状態で地面に伏していた。


「帰りたい……」


 そう口にした瞬間、

 自分が何を言っているのか分からなくなる。


 どこへ?

 “帰る”場所など、自分にあったのか。


 そのとき。


「おーい」


 頭上から、

 ひどく軽い声が降ってきた。


 レオルドが顔を上げると、

 骸竜の頭蓋の上から、

 ジギーが片手をひらひら振っていた。


「まだ死んでねぇのか、お前」


「……ひっ……!」


 全身が凍りつく。

 声も出ない。


 ジギーは片膝をつき、

 彼をまじまじと見下ろした。


「お前らさ。

 村を燃やして、

 女を殺して、

 子どもを攫って、

 それで“正義”って言ってんだよな?」


 レオルドは、

 震える唇でなんとか言葉を絞り出す。


「お、おれは……命令に……っ」


「そうだよなぁ」


 ジギーは、あっさり頷いた。


「命令って便利だよな。

 頭止めて、手だけ動かしてりゃいいんだから」


 彼女の目が、

 一瞬だけ笑いを失う。


「――でもな」


 杖の先端が、

 レオルドの胸元に触れた。


「“命令したやつ”が、

 もうここにいねぇんだよ」


 振り返る。


 後衛の貴族の馬車列は、

 さっき骸竜のブレスで跡形もなく吹き飛ばされていた。

 豪奢な馬車も、

 絹の幕も、

 王侯も、

 大神官も。


 誰一人として、

 まともな形で残っていない。


「だから帳尻は、

 生き残ったお前らが払え」


 ジギーは、杖を軽く押した。


 レオルドは、

 死を覚悟して目を閉じた。


 ――しかし、痛みは来なかった。


 胸を貫くはずの杖先は、

 ほんの少しだけ衣を押しただけだった。


「……え?」


「命まで全部持ってったら、

 こっちも寝覚めが悪ぃ」


 ジギーは立ち上がる。


「このまま、

 二度と剣も槍も持てないくらいにはしてやる。

 戦場に戻れないくらいにはな」


 彼女の足下から、

 薄い毒の線が伸びていく。


 レオルドの全身を、

 じわりと痺れが走った。


「……あ……」


 手が、震えたまま動かなくなる。

 脚にも力が入らない。

 だが、呼吸はできる。

 心臓も、まだ動いている。


「生きて、見とけ」


 ジギーは、

 戦場の方を顎で示した。


「お前が“正義”だと思って参加した行軍が、

 どういう有様になったか。

 どういう終わり方をしたか。

 どういう目で見られるようになるか」


 骸竜の翼骨が、

 大きく音を立てて広がる。


「それ全部、抱えて生きろ。

 それが――」


 彼女は空へ跳び上がりながら、言った。


「戦争に参加した奴の“罰”だよ」


     ◇


 骸竜が、

 毒霧を吸い込むようにして上空へ舞い上がる。


 戦場に満ちていた緑黒の霧が、

 少しずつ、薄くなっていく。


 その下には、

 動けなくなった兵士の山と、

 気絶したままの聖職者たちと、

 うめき声すら出せない負傷者だけが残っていた。


 ゾンビたちは、

 ジギーの指先ひとつで動きを止め、

 黒い煙となって消えていく。


「死人は、これ以上いらねぇ。

 ……あいつらの相手、する時間も惜しいしな」


 骸竜の頭蓋に腰をかけ、

 ジギーは最後に一度だけ、

 崩壊した軍列を振り返った。


「おい、ルーデンス。

 これが、お前らの“正義”の行軍の果てだ」


 誰も、答えない。


 答えられる者が、

 もうどこにもいなかったからだ。


「――鐘は、鳴らさせねぇよ」


 小さく呟き、

 ジギーと骸竜は、

 ユーゲンティアラ側の空へと消えていった。


 残されたのは、

 二十万を誇った大軍の“残骸”と、

 とても戦場とは呼べない、

 静かすぎる平野だけだった。


 その静けさを、

 誰かが“勝利”と呼ぶには、

 あまりにも苦く、

 重すぎるものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ