死霊術師の本懐——死をもって軍を裂く
聖教国本隊――二十万の陣。
夕暮れの軍幕に、荒い足音が飛び込んだ。
「し、失礼します!!
賢王カダール様の部隊が……!」
将軍ネイザン
「どうした、声が震えているぞ。まさか敗走したとでも?」
伝令兵
「はっ……敗走どころではありません!!
“壊滅”です!! 全滅に近い……!!」
軍幕の空気が凍りつく。
別の将
「……まさかユーゲンティアラ軍か?
あるいは“別働隊か?」
伝令兵は首を振った。
「いえ……そ、そうではなく……っ!!
“銀髪の幼い少女”が一人で、賢王軍を……!」
将たち
「少女だと? ふざけるな」
「魔法か?」
「幻術か?」
伝令兵は涙目で叫ぶ。
「素手です!!
全部、素手の打撃で!!!
魔王の眷属か何かだと、皆……!!」
沈黙――
一瞬で軍幕の温度が落ちた。
――毒霧の幕開けと、戦場の拍乱れ
風が、止まった。
いや、止まったように感じただけだ。
本当はまだ、冷たい山風は草を揺らし、旗をはためかせている。
だが二十万の行軍列の中ほどで槍を構えていた一兵士――レオルドには、
自分の心臓の音と、隣の男の荒い息づかい以外、何も聞こえなくなっていた。
「……あと、何刻で王都ですかね」
誰にともなく、前列の男がつぶやく。
返事の代わりに、行軍補助器の鐘が乾いた音で「カン」と鳴った。
号令兵が拍を取る。
B1.0――聖教国の標準拍。
十字の印を繰り返し切るたび、その拍は兵士たちの脚と腕へ染み込んでいく。
(俺たちの前には、奴隷と金が待っている)
(逆らう亜人どもは皆殺し。……正しいことだ)
誰かのそんな考えが、祈祷の歌に混ざり、
「愛と平和」の言葉にくるまれて、隊列を前へ押していく。
前衛には聖騎士団。
中衛の片側には聖堂車と唱導隊。
反対側には雷条砲と器械兵。
後衛には貴族と聖職者、その護衛の騎兵。
二十万の列が、滑らかに蛇のように山裾を進む光景は、
傍から見ればたしかに“文明”の行軍に見えただろう。
レオルドは、自分もその一部であることに、
少しだけ誇らしさを覚えていた。
――その時だった。
空が、裂けた。
◇
最初に気づいたのは、後衛の望楼を兼ねた監視塔だ。
「な、なんだ……? 鳥か?」
兵が目を擦る。
雲の手前を、黒い影が滑ってくる。
だが、形が鳥にしては大きすぎた。
塔ごと飲み込みそうなほどの翼。
胴は細く、骨のような湾曲だけが光を反射している。
「報告! 飛竜……? 飛竜か!? 前線へ伝令――!」
伝令が走り出すより早く、影は高度を落とした。
――音が、ずれた。
B1.0で整えられていた足並みが、
ほんの少しだけ、揺らぐ。
鐘を打つ者の腕が、知らぬ間に半拍ぶん遅れた。
その、拍の綻び目を縫うようにして。
骸竜が、降りてきた。
◇
「な……骸、だと……?」
行軍列を指揮していた将軍が、思わず声を漏らした。
黒く焼け焦げた骨。
まだどこかに、こびりついた肉の破片。
眼窩には炎の代わりに冷たい毒霧が渦を巻き、
翼骨には鎖と札と、意味の分からない印が刻まれている。
その頭蓋骨の上に、ひとりの女が足を組んで座っていた。
黒に近い焦げ茶の髪。
片目で笑い、片目で値踏みするような視線。
肩に掛かった古いマントは、戦場の砂と血で色を失っている。
「……女、だと?」
「何者だ、あれは?」
ざわめきが前列から中衛へ伝播していく。
女は、誰の問いにも答えず、
足下の骨をコンコンと二度、軽く蹴った。
「行くぞ、相棒。
今日は、たっぷり食わせてやる」
骸竜が、喉の奥でゴリゴリと骨を鳴らした。
翼骨が、山風を切り裂く。
急降下が始まる。
「弓隊!! あれを撃ち落とせ! 撃て――撃てぇ!!」
将軍の喉が裂けるほどの号令。
前列の弓兵が一斉に弦を引き絞り、
矢の雲が空へと舞い上がる。
百、二百、五百――
数え切れない矢が、黒い雨のように骸竜へ。
しかし。
一本も、届かなかった。
◇
「甘い」
女――ジギー=ジョージア・フォン・ギルバート伯爵は、
短く吐き捨てると、杖を地面へ向けた。
詠唱はない。
唇は笑っていて、声は冗談のように軽い。
だが、杖の中に組み上がった死霊術式は、
千の祈祷文より正確で、百の護符より冷酷だった。
杖先から、
緑黒の霧が、一本の線となって落ちる。
それは光ではなく、影に近かった。
空と地面をつなぐ、ひと筋の“毒の糸”。
「《毒霧連環ドクム・ヴェイル》」
霧が地面に触れた瞬間――
“音”が変わった。
爆発ではない。
だが、兵士たちの耳には、何かが弾けたように感じられた。
霧が輪になって走る。
草を舐め、土を這い、
列の足元を、するり、と縫う。
「な、なんだこれは――!」
「煙……? いや、匂いが……!」
吸い込んだ者から順に、
喉が焼けついたように痛み、
肺が逆さにひっくり返ったような苦しさが押し寄せる。
「げほっ、げほ……っ!」
「い、息が……でき、な……」
目に見える変化は、最初の数秒にはほとんどない。
血が噴き出すわけでも、肉が腐り落ちるわけでもない。
だが、神経と血管の内側で、
毒が“拍”を狂わせていく。
心臓の鼓動と、肺の動き。
指先、舌、喉、耳。
それぞれのリズムが、ほんの少しずつ、ズレ始める。
「祈祷で中和しろ!!
聖句を、聖句を唱えろ!!」
僧兵たちが慌てて列から前に出た。
胸に下げた小鐘を鳴らし、
口々に聖句を唱え始める。
――だが。
いつものようにきれいな合唱には、ならなかった。
「お……? あれ……?」
ひとりが眉をひそめる。
拍が、合わない。
鐘片が、バラバラのタイミングで鳴った。
いつもならB1.0でピタリと揃うはずの響きが、
B0.9、B1.1、B0.8と、ばらける。
「……声が……揃わん……?」
「歌いにくい……拍が……追えん……」
行軍で鍛え込まれた“合わせるためのリズム”が、
毒霧の中でことごとく乱されていく。
祈祷の効き目は、
“同じ譜面で揃うこと”にこそ宿る。
拍が狂えば、言葉はただの言葉でしかない。
「な……なんだ……音が、ズレる……?」
ジギーは、その様子を上から眺めて、鼻で笑った。
「祈祷ってのはな」
足下の骸竜の骨を、ことん、と軽く蹴る。
「“同じ譜面で揃う”から意味があるんだよ。
――毒の拍はさ」
彼女は唇の端を吊り上げた。
「お前らの歌と、相性が悪ぃらしいな?」
骸竜が、腐肉のような息を吐き出した。
◇
毒霧に倒れた兵士たちの足元で、
もうひとつの“線”が走った。
黒い、蜘蛛の巣のような線だ。
「《屍脈起動ネクロ・ライン》」
ジギーの杖から放たれた術式が、
戦場の地面に縫い込まれていく。
かつてここを歩いた奴隷の血。
数日前に斬り捨てられた亜人の血。
いま倒れていく聖教国兵の血。
それらの「死にかけ」を、一本の脈として束ねる。
「起きろ、腐りきるにはまだ早ぇよ」
地面の下から、何かが答えた。
線の交点から、
青黒い手が一本、また一本と伸びてくる。
「ひ、ひぃっ……!」
倒れていた兵士の死体が、
ぎし、と軋む音を立てて起き上がった。
白目を剥いたまま、
口から紫の泡を垂らし、
まだ息のある隣の兵士の足首へ噛みつく。
「や、やめっ……!」
肉が裂けた。
傷口から、紫黒い筋が逆流するように広がっていく。
「ぐ、ぐあああああ……!」
数十秒後――
同じ兵士が、同じ青黒い皮膚になって立ち上がった。
「な、なんだこいつらは!!
死んで、動いて、また……!」
「死霊……!? 死霊術だと!?
そんなもの、神が許すはず――」
「神様がどうとかはさ」
ジギーは片肘をつき、顎を乗せる。
「――あいつらに聞けよ」
毒ゾンビたちが、
祈祷官の列へ一直線に走り出した。
◇
「来るな! 来るなぁ!!」
祈祷官の一人が、震える手で聖水を振りかける。
――じゅっ。
焼けたのは、ゾンビの皮膚だけではなかった。
その場に満ちていた毒霧の一部も、
聖水に反応して別の形へと弾け飛ぶ。
浄化しきれなかった“余剰”の毒が、
霧となって周囲一帯にまき散る。
「え……?」
一瞬、ゾンビは立ち止まる。
だが次の瞬間には、また歩き始めていた。
毒の濃度が高すぎた。
聖水は、ただ“場所を変えただけ”に過ぎない。
余剰分が、
その場にいた者全員の喉と肺を削り始める。
「うぐっ、あ、あぁああ……!」
「十字の印を――ぐ、手が、うごか……っ!」
崩れ落ちる祈祷官たちを、
毒ゾンビが容赦なく踏み越える。
その頭上を、骸竜の影が駆け抜けた。
◇
「騎士団、整列! 迎撃陣を組め!!」
黄金の鎧をまとった聖騎士団が前へ出る。
盾を掲げ、槍を構え、
巨竜に対する防壁を築いた。
祈祷が歪んだ今も、
彼らの瞳にはまだ“正義”の炎が宿っている。
「怯むな! あれはただの死骸だ!
魂なき器にすぎん!!」
列の中程で、隊長格の聖騎士が叫ぶ。
足元の地面はすでに毒に湿り、
倒れた兵士の呻き声がそこかしこから聞こえていたが、
それでも彼らの足取りは揺るがなかった。
勇ましい声が響く。
だが、その声は――
すぐに別の音にかき消された。
――ゴオオオオオッ!!
骸竜が、骨の喉から“吐いた”。
それは火ではない。
爆ぜるような熱に、焼け付く毒と、
霧のような死霊の粒子が混ざった、
“毒息”としか呼びようのないブレスだった。
「盾を構えろ!!」
前列の騎士たちが叫ぶ。
聖句が刻まれた盾を、壁のように重ねる。
――その盾が、一瞬で溶けた。
「なっ――!」
金属が、“泡”になった。
鍛えに鍛えた聖騎士の装甲が、
岩に注いだ酸のようにじゅうじゅうと音を立てて消えていく。
「うああああああ!!」
肌に触れた部分から、
皮膚が紫に染まり、
筋肉が痙攣を起こす。
一瞬後――
彼らは“燃えた”。
火ではない。
毒が、内部から神経を焼き切っていく。
外見はそのままなのに、
中身だけが“灰”になる。
聖騎士団の列が、
たった一度のブレスで破綻した。
「聖騎士団が……!」
「嘘だろ……最強の防壁が……!」
兵士たちの心が、音を立てて折れた。
◇
ジギーは、骸竜の頭蓋に腰を下ろし、
懐から取り出した小さな酒瓶を一口あおった。
「……二十万、ねぇ」
喉を湿らせ、わずかに肩をすくめる。
「ずいぶん連れてきたじゃねぇか。
そんなに死に急ぎたいのか、お前ら」
骸竜の首筋で、骨がガキガキと鳴る。
それは返事なのか、単なる軋みなのか。
彼女は空を一度だけ仰いだ。
曇りかけた空の向こう、
遠く離れたユーゲンティアラ王都の方向へと、
短く、吐き捨てるように。
「――まあ、こっちも“鐘”は鳴らさせねぇがな」
まだ、その言葉の意味を知る者は、
この戦場にはひとりもいない。
◇
前衛が崩れれば、
その波は中衛へと伝わる。
「し、指揮を立て直せ! 陣形を――!」
行軍母機マーチ・クイーンから怒号が飛ぶ。
指揮台の上で祈祷官が鐘を鳴らし、
補助器械兵が各隊へ拍を送る。
だが、その拍はもう、
兵士たちの足には届いていなかった。
「待て、押すな! 踏むな!!」
「前が死んでる! 進めねぇ!!」
「後ろから押すなと言っているだろう!!」
前へ進めという命令。
死体で埋まった足場。
背後から押し寄せる圧力。
それらが、二十万という数の中で、
あっという間に“混線”した。
誰が命じたわけでもない。
だが、ここに至って初めて――
行軍列は“自壊”を始めた。
毒ゾンビたちが、
その狭間を縫うように走る。
敵味方の区別など、もうない。
噛みつき、引きずり倒し、
またひとりを増やしていく。
「く、来るなぁ!!」
「やめろ! 俺だ、俺だよ、同じ隊の――」
「関係ねぇんだよ、もう」
低く笑う声が混ざる。
それが、どこから来ているのか、もう誰にも分からない。
◇
戦場は、もはや地獄絵図だった。
前線は毒と死霊で崩れ、
中衛は逃げ惑う兵でごった返し、
後衛の貴族と聖職者たちの顔からは、
血の気という血の気がきれいに消えていた。
「何をしている!!
整列しろ!! 陣形を――」
指揮官が怒鳴る。
その背後から、一本の毒矢が飛んできた。
矢は指揮官の肩に突き立つ。
「ぐっ――!」
次の瞬間、彼は痙攣し、その場に崩れ落ちた。
毒矢を放ったのは、
さっきまで“普通の槍兵”に見えていた男だった。
その瞳は、既に濁っている。
「ま、待て……お前、仲間だろ……?」
「さぁ……どうだろうな」
男の口元がゆっくりと裂け、笑みの形になる。
毒ゾンビ化した兵士は、
誰が敵で誰が味方かの区別を、もう失っていた。
骸竜の影が、その上をぐるりと旋回する。
ジギーは、
崩れていく“正義の行軍”を見下ろして、
ひとつ、小さく息を吐いた。
「……さあて」
杖を骨の縁に軽く打ちつける。
「まだ“中枢”が残ってんだろ。
偉い奴らに、ちゃんと見せてやらねぇとな」
骸竜が、大きく翼を広げる。
その軌跡に沿って、毒霧が渦を巻いた。
二十万のうねりの奥――
貴族の馬車列と聖堂車が連なる後衛へと、
骸竜の影が向きを変える。
まだ、この地獄は“途中”なのだ。
真の蹂躙は、これから始まる。
■後書き
今回のエピソードは、
ジギー=ジョージア・フォン・ギルバート伯爵という人物の
「本質のひとつ」を描いた回でした。
彼女は“英雄”でも“正義の味方”でもありません。
ただし――
仲間のため、守るべき土地のために、
必要とあらば地獄の扉を開くことをためらわない人間です。
また、本編中に登場した 毒毒ゾンビ は、
単なるアンデッドではなく、
・毒素を吸い、
・死体を集め、
・進化し、
・群れとして知性を帯びる
という、ジギー独自の“調律”を受けた兵種でもあります。
これらは今後の大規模戦で重要な役割を果たします。
そして、今回の光景を見た聖教国本隊は――
この後、完全に“戦意喪失”へ向かっていきます。
地獄の門が開いた瞬間を、
彼らは二度と忘れられないでしょう。
次回、
いよいよ両軍の戦争パートが決着に向かいます。
また次の章でお会いしましょう。




