霧中三巨頭陥落 ― エリン十拍
霧が止まった。
エリンの一言だけで、
森そのものが息をひそめたように感じられた。
「……私の知っている“あの方”の勇気は、
こんなものではありませんのよ」
聖戦士パク・ジェイフンの眉が、ぴくりと跳ねた。
「“あの方”? 誰のことだ」
エリンは答えない。
代わりに、ひとつだけ深く息を吸い込んだ。
――十拍あれば十分。
つま先が、霧の地面を軽く叩いた。
一拍目。
「行きますわ」
彼女が、消えた。
◆
ジェイフンの視界から、
エリンの輪郭だけがふっと消えた。
「左──!」
訓練で磨き上げた勘が叫ぶより早く、
腕に衝撃が走る。
彼の剣が、あり得ない角度で跳ね上げられていた。
(バカな──踏み込みの始動を読んだ……!?)
エリンの右手は、パクの手首の上。
ほんの指二本ぶんの接触だけ。
だが、そのわずかな触れが、
彼の重い剣筋の“芯”を外していた。
二拍目。
エリンの左足が、ジェイフンの膝裏に軽く触れた。
「……っ!」
視界が裏返る。
地面が、彼の背に近づいてきていた。
三拍目。
パク・ジェイフン、背面から地面に叩き付けられる。
骨が軋んだ。肺から空気が全部抜ける。
(今のが……投げ……?
重さごと、ひっくり返された……!?)
エリンは、地面に転がる聖戦士を一瞥し、
「ひとり」
とだけ数えた。
◆
「ふざけるなァ!!」
ハギドが吠えた。
地面に掌を当てる。祈祷陣が走る。
「地ごと焼き尽くしてやる!!」
土の中に火が走り、霧が熱気で震えた。
四拍目。
エリンはあえて、火線の真正面へ躍り出た。
ラキが悲鳴に近い声を上げる。
「姐さん!! さすがにそれは──!」
エリンの靴先が土を鳴らした。
「拍が雑ですこと」
熱線が走るより一瞬早く、
彼女は地面を前蹴りで抉る。
砂と土の塊が、
ハギドの視界と祈祷陣の中心点をまとめて覆った。
火の線が逸れる。
霧の中で、爆ぜた炎が横にそれ、
祈祷兵たちの盾の列にぶつかった。
「ぐわあああ!!」
「なにを──ハギド様!!」
「黙れっ!」
ハギドは慌てて詠唱を中断する。
その喉元に、柔らかい感触。
エリンの手刀が、そっと添えられていた。
「詠唱中、喉は無防備ですわね」
「……な……」
五拍目。
軽く、トン、と叩かれただけだった。
だが、その一撃に祈祷の気が逆流し、
ハギドの意識がふっと遠のく。
彼は崩れ落ちた。
焼けただれた地面に顔から倒れ込む。
白目をむいて、ぴくりとも動かない。
「ふたり目」
エリンは熱で揺らぐ空気を軽く払った。
◆
「……ふざけているのか」
最強の聖騎士エチュールが呟いた。
彼だけは、まだ微動だにしていない。
黄金の槍が、静かに構えられる。
「聖戦士と聖闘士を、
数えるように倒すとは」
エチュールの一歩は、
まるで山がひとつ動いたかのような重さだった。
重装甲。
分厚い盾。
祈祷で補強された鎧の継ぎ目。
ザインは、後ろからその姿を見て悟っていた。
(あれは……刺しても、斬っても、折れねぇ。
俺たちの“急所狙い”って武器が、通じない)
エチュールは槍を構えたまま、
一歩、また一歩とエリンとの距離を詰める。
「婦女子よ。
投降するなら、命までは取らぬ。
今なら体面を保ったまま連行してやろう」
エリンは、きょとんと首を傾げた。
「……どこに、ですの?」
「ルーデンス聖教国の大聖堂だ」
「ふふ……結構ですわ」
六拍目。
エチュールの槍が閃いた。
重さと速度が矛盾する一突き。
人馬一体の騎兵が全力で突撃してきたような、
一点突破の質量。
ラセツが目を疑う。
(速さも……重さも……
どれも“最高位”だ……!)
エリンは、半歩だけ踏み込んだ。
槍の穂先が鼻先をかすめる。
髪が、一本だけ宙に舞った。
七拍目。
彼女の右手が槍の柄を撫で、
左足がエチュールのつま先を踏む。
ほんの、それだけ。
「っ……!」
エチュールの重心が前に落ちた。
八拍目。
その瞬間、エリンの身体がくるりと回転する。
背中をエチュールの胸板に預けるように滑り込み、
腰を切り、両手で槍の柄を抱え上げた。
巨山が、浮いた。
「お、おおおおおお……!?」
最強の聖騎士の足が地を離れる。
そのまま、天秤のようにぐるりと回転し──
ドンッ!!
地面に、その巨体が叩き付けられた。
地が震えた。
重装甲の鎧が、くぐもった悲鳴を上げる。
「槍はよく斬れ、よく刺さりますけれど……
同じくらい、“よく振られる”のですわ。
こうして」
エリンは、槍をテコにして、
エチュールの腕関節を極めた。
九拍目。
関節の悲鳴が、金属越しに伝わる。
「う、ぐ……っ……!!」
鎧越しでも分かるほど、
エチュールの全身が硬直する。
エリンはそこで“止めた”。
ひねり切らない。
折らない。
ただ、“動けなくなる一点”だけを正確に押さえ込んで。
「これで、さんにん目」
エチュールの指から、槍がこぼれ落ちた。
◆
霧の中に、沈黙が落ちた。
聖戦士パク・ジェイフンは仰向けのまま気絶し、
聖闘士ハギドは自分の火で焼けた地面の上に沈み、
最強の聖騎士エチュールは、
見事な形で関節技に極められたまま微動だにできない。
わずか──十拍。
剣も。
火も。
槍も。
一人の女の体術の前に、
ことごとく“無力”へ変えられた。
祈祷兵たちの喉が、一斉に鳴る。
「な……なんだ……? 何が……起きた……?」
「聖戦士様が……」
「聖闘士様まで……」
「最強の……はずの……」
誰も、状況を言葉にできない。
ラキが、木の上からぽかんと口を開けた。
「……姐さん。
マジで、なんなん?」
ラセツは、冷や汗で濡れた額を拭いもしないまま、
ただ呟く。
「これが……格の差、ってやつか……
というか……なんだ……あの重さを、
あんな軽々と……」
アッシュは、帽子のつばを少しだけ押し上げた。
(……やっぱり、この人の背後には “あの方” がいるんだ)
エリンは、まだ押さえ込んだままのエチュールの肩越しに、
聖教国の兵たちを見渡した。
「さて。
まだ戦いますの? それとも──」
彼女は、少しだけ視線を落とし、
遠い誰かの背中を思い出すような目をした。
「……私の知っている“あの方”の勇気は、
こんなものではありませんのよ。
あの方なら──もっとずっと、静かに、
もっとずっと穏やかに、
それでも絶対に、踏みとどまってみせる」
兵たちの足が、がくりとすくんだ。
ジェイフンもハギドもエチュールも、
立てない。
動けない。
指揮を執る者が、誰ひとりとして声を上げられない。
「ここから先、
あなた方を通すつもりはありませんわ」
エリンは淡々と言った。
「この森は、
あの方と──お館様と、
それからあの子たちの“家”ですもの」
祈祷兵の一団が、
音もなく武具を落とした。
「ひ、退け……!」
「これ以上は……無理だ……!」
「ここは……地獄だ……!」
蜘蛛の子を散らすように、
聖教国の兵が濃霧の森を逃げ出していく。
作りかけの祈祷陣、投げ捨てられた盾。
中途半端な讃歌の切れ端。
その全部を、霧が静かに呑み込んだ。
◆
やがて、
森には忍びたちと、倒れた三巨頭だけが残った。
エリンは、エチュールの腕からそっと力を抜き、
立ち上がる。
「……これ以上は、折ってしまいますもの」
ふう、と小さく息を吐いて、
膝を軽く払う。
「さて、皆さま。
“影の仕事”は、ここまででよろしいかしら」
ラキが真っ先に木から飛び降りた。
「よろしいもなにも、
姐さんが全部持ってったやんけ……」
ザインも苦笑しながら近づいてくる。
「おかげで命拾いしたのは、
間違いなくこっちですけどね」
ラセツは軽く一礼した。
「助かりました。
正直、 詰み だと思っていましたので」
アッシュはわずかに微笑む。
「“あの方”に顔向けできますね。
エリンさま」
エリンは、少しだけ目を伏せた。
「……そうですわね。
あの方に叱られない程度には、
頑張れたかと存じます」
霧が、ようやく流れを取り戻す。
ただ、さっきまでのような不気味な静寂ではなかった。
木々のざわめきと、かすかな鳥の囀り。
森に、本来の音が戻りつつある。
「さ、戻りましょう。
まだ、やることがたくさんありますもの」
エリンは振り返る。
その視線の先には──
里で待つ子どもたちの笑顔と、
どこかで笑いながらワインを飲んでいるであろう杖の勇者の姿が、
確かに、見えていた。
濃霧の森の戦いは、
こうしてひとつの区切りを迎えた。
だが、戦はまだ終わらない──。
そのことを、この場にいる全員が知っていた。
だからこそ、今だけは。
ほんのひとときだけ、
この静けさを味わうことを、
誰もが自分に許したのだった。




