表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

118/360

幕間 風鳴り原の稽古――移動聖堂を“寝かせる”

夜の底がほどけ、草の穂先に灰色の光が溜まっていく。

風鳴り原。

地平の端はまだ冷えているのに、草海はもう音を立て始めていた。ザーという基音に、遠い鉄のきしみが薄く混ざる。B0.8――せっかちな行軍拍。合図兵の石突が、地をガン・ガンと叩くのが風に千切れて届く。


「とん・とん」

ジギー――ジョージア・フォンデリッテ・ギルバート子爵は、胸骨の前で二拍だけ打った。

里の拍はB0.6。

静けさは扉。それを忘れないための合図だ。


彼の左右には、それぞれの“班”が並ぶ。

骸骨騎士スケルトン・ナイトの列――盾と短槍、無駄な飾りのない働く骨。

泥濘隊――竹皮で編んだスノコを抱え、粘土と水袋を担いだ里の若い衆。

笛鈴隊――竹笛と木鈴、結界鈴、小さな沈黙箱ポケットサイズを腰に。

ゴブリンの若者たち――族長グラズの甥グルを先頭に、投げ縄と草鞋。

忍び――エリンが差配し、梁の鼠のように速く静かに動く者たち。

山の稽古で“ほどほど”を覚えたサジとカエナは、今日は竹ではなく草を読む役目だ。


「非致死、縫って止める。人は返す。物は落とす。線は切る」

ジギーが短く復唱すると、全員の喉が小さく鳴った。B0.6。



最初に見えたのは帆柱だった。

移動聖堂モバイル・アプス――鐘の襟を縫い付けた鉄骨の台座が、草海の上をすりと進む。

前に槍兵、横に唱導隊、後ろに行軍補助車が三台。蜂の巣のようなセンサー孔が幌から覗いている。

さらにずっと後方には、聖火砲を曳く班、震掘獣に祈祷ハーネスを繋いだ班。

せっかち拍(B0.8)が列の骨を支え、裏拍は無視されている。


「来た」

サジが草の陰で囁く。

「前はB0.8。後ろは0.1のせき込み。合図兵が焦ってる」

「ほどほどに焦らせとこ」

カエナが竹笛をくわえ、ぴ――ぴ――とB0.6+0.2で薄い“迷い”を置いた。


ジギーは右手を挙げ、泥濘隊に合図した。

「舌を出せ」


泥舌どろべろ

あらかじめ掘っておいた浅い溝へ、水袋を割り、粘土を押し出す。

草の根が水を吸う前に、舌のような帯が、車輪の来る方角へ伸びる。

骸骨騎士が木桟を置いて里側だけ固め、敵側は柔らかく。

非対称は印だ。暴力を技に変える手口。


「投げ縄、準備」

グルが手の内を返し、草の上に輪を描く。

「草鞋は貸す。足跡、残らねえ」

エリンがうなずき、里の若者の足に草鞋を通す。「助かる」


移動聖堂の鼻先が泥舌に触れた瞬間、骨の列がひとつ前へ出た。

押すのではない。触れる。

触れる――座らせる力で。


《合わせよ。歩幅を揃えよ。名を――》

唱導隊の小箱が開き、混ぜ物が囁く。

エリンが沈黙箱を枝管にカチリ。

囁きは痩せ、高域は熱になって消える。

「ひとつ」

「ふたつ」

忍びが次々と箱を黙らせ、骸骨騎士が唱導官の肩に手を置く。

「座れ」

膝が折れ、眠膜がひとしずく。


「聖火砲が動く」

サジの合図。

ジギーは空を見上げた。

骸骨竜スケルトン・ドラゴンの影が、雲の下で薄く反る。

「落とせ」


水袋がばしゃと落ち、火口に泥。

粘土団子が銃口に押し込まれ、油は水に追い出される。

火は跳ねるが、燃え広がらない。

ほどほどに重く、ほどほどに厄介。

火砲班の拍が崩れ、B0.8がB0.6に噛まれる。


「震掘獣は?」

「座ってる。鈴板が効いてる」

カエナが草むらに伏せて笑う。

鈴板――薄板に仕込んだ共鳴の逆鍵。

地面の微震をずらし、獣の拍を合わせなくする。

獣はあくびし、座る。

非致死。


移動聖堂の襟が鳴り、司鐘枢機卿の合唱鍵コーラス・キーが高域で命令を通そうとする。

喉の鍵口に、逆の合言葉を刻んだ薄板が差し込まれた。

誰が差した?

草の上に、白い羽がひらり。

アッシュの置き土産だ。

静けさは扉――逆鍵は喉の角を丸くし、上行を止め、下行を通す。

詠唱は薄く自分に返る。

唱導官が眠い顔をして座った。


「車輪、止まった」

グルの投げ縄が車軸にふわりと絡み、草に埋めた木桟が受け台になる。

ジギーは手を振った。

「寝かせ台、用意」


寝かせ台――丸太を並べ、鎖で束ねた受け床。

倒すのではない。寝かせる。

骸骨竜が鎖をくわえ、骸骨騎士が梃で襟の傾斜を作る。

移動聖堂はゆっくりと体重を移し、丸太の上に寝た。

鐘は鳴らない。

蝶番は軋まない。

静かだ。


「おお……」

里の若い衆が小さく声を上げる。

「倒してない。壊してない。なのに――動けない」


「それが稽古だ」

ジギーは笑った。骨のように静かに。



「押せ! 押し返せ!」

聖闘士ハキドの声が、後方から裂けて飛んでくる。

彼の小隊は山では座らされたが、拍はまだ折れていない。

「せっかち拍を倍で叩け! B0.8で潰せ!」

合図兵が石突で地を三度叩く。

B0.8×2――無茶だ。

走れば足が遅くなる。


サジが草陰から笛でとん・とんを二つ刺す。

裏拍に裏拍を返す。

ハキドの前に骸骨騎士が一歩。

盾が低く滑り、ハキドは肩で受け、踏み込んだ足が泥舌に吸われる。

「退くな!」

彼は吠え、骨の胴を払う。

骨は割れない。

払われた力は地に逃げ、ハキドの膝がひとつ降りた。

網がふわり。

――座る。

副長サムルが前に出て輪を切り、眠膜を払った。

ほどほどの恥が熱になる。

「原で――叩く!」

ハキドは唇の中で繰り返した。

だが原が相手だ。原の拍はB0.6。



戦景は低く厚い。

殺気の角が削がれ、技の面が残る。

叫び声はある。泣き声も。

だが血の匂いは――薄い。

非致死の稽古は、匂いから変える。


受け渡し場が三つ、草の中にひっそり開いた。

非致死捕縛の竹札をつけた者から順に座らせ、水と粥。

腰の小鐘には沈黙箱が噛んでいる。

唱導の箱は袋の底だ。

ゴブリンが縄をゆるめ、骸骨騎士が背中に手を置く。

「座れ」「息、吸って」「吐いて」

拍がB0.6に合う。

人は返せる形になる。


「寝かせ台、固定完了」

エリンが報告する。

移動聖堂は丸太の上で安静。

補助車は泥舌に囚われ、震掘獣は鈴の上であくび。

聖火砲は湿り、詠唱は痩せた。

せっかち拍は散り、裏拍が草に残る。


ジギーは前へ出た。

白い羽がひとつ、足もとで揺れた。

――アッシュ。

彼は言葉を節に乗せ、短く置く。


「殺さない。縫って止める。人は返す。物は落とす。線は切る。――ここで止める」


敵の列から数名が前に出て、剣の柄に手を当てる。

司鐘は眠り、唱導は黙り、火は湿り、獣は座っている。

戦の刃は、もうどこにもない。

あるのは拍だけ。

B0.6とB0.8。

裏拍が勝つ。


「……撤」

低い声が草の中でちぎれた。

誰が言ったのか、誰も見ていない。

だが列が下がる。

丸太の寝かせ台は残る。

泥舌は口を閉じ、鈴は鳴り止む。

風鳴り原の基音だけが続く。



「受け渡しは三刻ごと」

エリンが竹札に印を打ちながら言う。

「粥は薄め。塩は少し。朝には返す」

「朝ごはんは大事だもんな」グルが笑う。

サジが笛を回し、カエナが草蕪を剥く。

「ほどほどに褒められるかな」「リナいないけどね」

「戻ったら名の授業でいっぱい褒めてもらお」

二人は拳をこつん。B0.6。


ジギーは寝かせ台の脇に白墨で線を引いた。

「境界は蝶番」

里側、野側。

蝶番は油が差してある。きしまずに回る。

戻る者は戻る。

止まる者は止まる。

――静けさは扉。


耳飾りがかすかに震え、ミカエラの声が入った。

『A-1〜A-5、安定。第五階層・大鐘、下行固定維持。――返送は太い。呼べば戻る』

「呼ぶ。……ここは呼ばない」

ジギーは小さく笑い、骨に二拍を送った。

とん・とん。

B0.6。



日が上がり切る前に、ギルド長ガロットと副長セレス、Aランクの《蒼角の旗》《炎狐》が風鳴り原の南縁に姿を見せた。

泥で縁取られた合図旗が、裏拍で一度振られる。

蒼角のロウルが槍で地面を指し、「見事だな」と短く言った。

炎狐のフェイは鼻をしかめ、「血の匂いが薄い」と笑った。

ガロットは頷く。

「見つからなかったものは、まだ見つける。リリアーナは――東へ回った線だな」

セレスが帳面を開き、印を打つ。

「赤陶井、巡礼路、風鳴り原――ここまで追った。次は井戸網の外」

ジギーは白い羽を指先で弾いた。

「内応は生きてる。静けさで聞け」


ガロットは肩を回し、蒼角と炎狐に振り返る。

「裏拍で歩くぞ。非致死は――厳守だ」


「任せろ」

ロウルが長い槍を軽く叩き、フェイが杖を回す。

草は拍を覚えている。

B0.6。

とん・とん。



後方。

移動聖堂の寝かせ台の陰で、白布を頭に巻いた唱導官が目を開けた。

粥の碗が差し出され、骸骨騎士が器を支える。

「……殺さないのか」

唱導官は、自分の声が薄いことに驚きながら呟いた。

骸骨は首をかしげ、一語だけ返す。

「稽古」

それから、ほねの指で地に二拍を書いた。

とん・とん。


唱導官の胸の内で、何かがほどけた。

名が輪郭に戻る感覚。

輪郭が境界になる感覚。

境界が――蝶番になる感覚。

彼は粥をすすり、風の音を聞いた。

風鳴り原の基音だけが続いている。



「さて。骨たち、山の片付けもある。原はこれで良し」

ジギーは寝かせ台から離れ、影に足を置いた。

「サジ、カエナ。罠の札を回収。グル、草鞋の道を消してくれ」

「了解!」「ほどほどにね!」

里の笑いが薄く広がり、草に吸われる。


遠くで、鐘が一度だけ鳴った気がした。

内の鐘だ。

塔の学び部屋で、リナが今日の名を一行増やす音だ。

黒板の粉が指に移る音だ。

外と内の拍が、並ぶ。


ジギーは掌を胸骨の前で一つ打った。

「――静けさは扉」

骨が応え、草が頷き、泥が笑い、風が肩を押す。

扉は、また開く。

明けの鐘が、もうすぐだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ