幕間 風鳴り原の稽古――移動聖堂を“寝かせる”
夜の底がほどけ、草の穂先に灰色の光が溜まっていく。
風鳴り原。
地平の端はまだ冷えているのに、草海はもう音を立て始めていた。ザーという基音に、遠い鉄のきしみが薄く混ざる。B0.8――せっかちな行軍拍。合図兵の石突が、地をガン・ガンと叩くのが風に千切れて届く。
「とん・とん」
ジギー――ジョージア・フォンデリッテ・ギルバート子爵は、胸骨の前で二拍だけ打った。
里の拍はB0.6。
静けさは扉。それを忘れないための合図だ。
彼の左右には、それぞれの“班”が並ぶ。
骸骨騎士の列――盾と短槍、無駄な飾りのない働く骨。
泥濘隊――竹皮で編んだスノコを抱え、粘土と水袋を担いだ里の若い衆。
笛鈴隊――竹笛と木鈴、結界鈴、小さな沈黙箱を腰に。
ゴブリンの若者たち――族長グラズの甥グルを先頭に、投げ縄と草鞋。
忍び――エリンが差配し、梁の鼠のように速く静かに動く者たち。
山の稽古で“ほどほど”を覚えたサジとカエナは、今日は竹ではなく草を読む役目だ。
「非致死、縫って止める。人は返す。物は落とす。線は切る」
ジギーが短く復唱すると、全員の喉が小さく鳴った。B0.6。
⸻
最初に見えたのは帆柱だった。
移動聖堂――鐘の襟を縫い付けた鉄骨の台座が、草海の上をすりと進む。
前に槍兵、横に唱導隊、後ろに行軍補助車が三台。蜂の巣のようなセンサー孔が幌から覗いている。
さらにずっと後方には、聖火砲を曳く班、震掘獣に祈祷ハーネスを繋いだ班。
せっかち拍(B0.8)が列の骨を支え、裏拍は無視されている。
「来た」
サジが草の陰で囁く。
「前はB0.8。後ろは0.1のせき込み。合図兵が焦ってる」
「ほどほどに焦らせとこ」
カエナが竹笛をくわえ、ぴ――ぴ――とB0.6+0.2で薄い“迷い”を置いた。
ジギーは右手を挙げ、泥濘隊に合図した。
「舌を出せ」
泥舌。
あらかじめ掘っておいた浅い溝へ、水袋を割り、粘土を押し出す。
草の根が水を吸う前に、舌のような帯が、車輪の来る方角へ伸びる。
骸骨騎士が木桟を置いて里側だけ固め、敵側は柔らかく。
非対称は印だ。暴力を技に変える手口。
「投げ縄、準備」
グルが手の内を返し、草の上に輪を描く。
「草鞋は貸す。足跡、残らねえ」
エリンがうなずき、里の若者の足に草鞋を通す。「助かる」
移動聖堂の鼻先が泥舌に触れた瞬間、骨の列がひとつ前へ出た。
押すのではない。触れる。
触れる――座らせる力で。
《合わせよ。歩幅を揃えよ。名を――》
唱導隊の小箱が開き、混ぜ物が囁く。
エリンが沈黙箱を枝管にカチリ。
囁きは痩せ、高域は熱になって消える。
「ひとつ」
「ふたつ」
忍びが次々と箱を黙らせ、骸骨騎士が唱導官の肩に手を置く。
「座れ」
膝が折れ、眠膜がひとしずく。
「聖火砲が動く」
サジの合図。
ジギーは空を見上げた。
骸骨竜の影が、雲の下で薄く反る。
「落とせ」
水袋がばしゃと落ち、火口に泥。
粘土団子が銃口に押し込まれ、油は水に追い出される。
火は跳ねるが、燃え広がらない。
ほどほどに重く、ほどほどに厄介。
火砲班の拍が崩れ、B0.8がB0.6に噛まれる。
「震掘獣は?」
「座ってる。鈴板が効いてる」
カエナが草むらに伏せて笑う。
鈴板――薄板に仕込んだ共鳴の逆鍵。
地面の微震をずらし、獣の拍を合わせなくする。
獣はあくびし、座る。
非致死。
移動聖堂の襟が鳴り、司鐘枢機卿の合唱鍵が高域で命令を通そうとする。
喉の鍵口に、逆の合言葉を刻んだ薄板が差し込まれた。
誰が差した?
草の上に、白い羽がひらり。
アッシュの置き土産だ。
静けさは扉――逆鍵は喉の角を丸くし、上行を止め、下行を通す。
詠唱は薄く自分に返る。
唱導官が眠い顔をして座った。
「車輪、止まった」
グルの投げ縄が車軸にふわりと絡み、草に埋めた木桟が受け台になる。
ジギーは手を振った。
「寝かせ台、用意」
寝かせ台――丸太を並べ、鎖で束ねた受け床。
倒すのではない。寝かせる。
骸骨竜が鎖をくわえ、骸骨騎士が梃で襟の傾斜を作る。
移動聖堂はゆっくりと体重を移し、丸太の上に寝た。
鐘は鳴らない。
蝶番は軋まない。
静かだ。
「おお……」
里の若い衆が小さく声を上げる。
「倒してない。壊してない。なのに――動けない」
「それが稽古だ」
ジギーは笑った。骨のように静かに。
⸻
「押せ! 押し返せ!」
聖闘士ハキドの声が、後方から裂けて飛んでくる。
彼の小隊は山では座らされたが、拍はまだ折れていない。
「せっかち拍を倍で叩け! B0.8で潰せ!」
合図兵が石突で地を三度叩く。
B0.8×2――無茶だ。
走れば足が遅くなる。
サジが草陰から笛でとん・とんを二つ刺す。
裏拍に裏拍を返す。
ハキドの前に骸骨騎士が一歩。
盾が低く滑り、ハキドは肩で受け、踏み込んだ足が泥舌に吸われる。
「退くな!」
彼は吠え、骨の胴を払う。
骨は割れない。
払われた力は地に逃げ、ハキドの膝がひとつ降りた。
網がふわり。
――座る。
副長サムルが前に出て輪を切り、眠膜を払った。
ほどほどの恥が熱になる。
「原で――叩く!」
ハキドは唇の中で繰り返した。
だが原が相手だ。原の拍はB0.6。
⸻
戦景は低く厚い。
殺気の角が削がれ、技の面が残る。
叫び声はある。泣き声も。
だが血の匂いは――薄い。
非致死の稽古は、匂いから変える。
受け渡し場が三つ、草の中にひっそり開いた。
非致死捕縛の竹札をつけた者から順に座らせ、水と粥。
腰の小鐘には沈黙箱が噛んでいる。
唱導の箱は袋の底だ。
ゴブリンが縄をゆるめ、骸骨騎士が背中に手を置く。
「座れ」「息、吸って」「吐いて」
拍がB0.6に合う。
人は返せる形になる。
「寝かせ台、固定完了」
エリンが報告する。
移動聖堂は丸太の上で安静。
補助車は泥舌に囚われ、震掘獣は鈴の上であくび。
聖火砲は湿り、詠唱は痩せた。
せっかち拍は散り、裏拍が草に残る。
ジギーは前へ出た。
白い羽がひとつ、足もとで揺れた。
――アッシュ。
彼は言葉を節に乗せ、短く置く。
「殺さない。縫って止める。人は返す。物は落とす。線は切る。――ここで止める」
敵の列から数名が前に出て、剣の柄に手を当てる。
司鐘は眠り、唱導は黙り、火は湿り、獣は座っている。
戦の刃は、もうどこにもない。
あるのは拍だけ。
B0.6とB0.8。
裏拍が勝つ。
「……撤」
低い声が草の中でちぎれた。
誰が言ったのか、誰も見ていない。
だが列が下がる。
丸太の寝かせ台は残る。
泥舌は口を閉じ、鈴は鳴り止む。
風鳴り原の基音だけが続く。
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「受け渡しは三刻ごと」
エリンが竹札に印を打ちながら言う。
「粥は薄め。塩は少し。朝には返す」
「朝ごはんは大事だもんな」グルが笑う。
サジが笛を回し、カエナが草蕪を剥く。
「ほどほどに褒められるかな」「リナいないけどね」
「戻ったら名の授業でいっぱい褒めてもらお」
二人は拳をこつん。B0.6。
ジギーは寝かせ台の脇に白墨で線を引いた。
「境界は蝶番」
里側、野側。
蝶番は油が差してある。きしまずに回る。
戻る者は戻る。
止まる者は止まる。
――静けさは扉。
耳飾りがかすかに震え、ミカエラの声が入った。
『A-1〜A-5、安定。第五階層・大鐘、下行固定維持。――返送は太い。呼べば戻る』
「呼ぶ。……ここは呼ばない」
ジギーは小さく笑い、骨に二拍を送った。
とん・とん。
B0.6。
⸻
日が上がり切る前に、ギルド長ガロットと副長セレス、Aランクの《蒼角の旗》《炎狐》が風鳴り原の南縁に姿を見せた。
泥で縁取られた合図旗が、裏拍で一度振られる。
蒼角のロウルが槍で地面を指し、「見事だな」と短く言った。
炎狐のフェイは鼻をしかめ、「血の匂いが薄い」と笑った。
ガロットは頷く。
「見つからなかったものは、まだ見つける。リリアーナは――東へ回った線だな」
セレスが帳面を開き、印を打つ。
「赤陶井、巡礼路、風鳴り原――ここまで追った。次は井戸網の外」
ジギーは白い羽を指先で弾いた。
「内応は生きてる。静けさで聞け」
ガロットは肩を回し、蒼角と炎狐に振り返る。
「裏拍で歩くぞ。非致死は――厳守だ」
「任せろ」
ロウルが長い槍を軽く叩き、フェイが杖を回す。
草は拍を覚えている。
B0.6。
とん・とん。
⸻
後方。
移動聖堂の寝かせ台の陰で、白布を頭に巻いた唱導官が目を開けた。
粥の碗が差し出され、骸骨騎士が器を支える。
「……殺さないのか」
唱導官は、自分の声が薄いことに驚きながら呟いた。
骸骨は首をかしげ、一語だけ返す。
「稽古」
それから、ほねの指で地に二拍を書いた。
とん・とん。
唱導官の胸の内で、何かがほどけた。
名が輪郭に戻る感覚。
輪郭が境界になる感覚。
境界が――蝶番になる感覚。
彼は粥をすすり、風の音を聞いた。
風鳴り原の基音だけが続いている。
⸻
「さて。骨たち、山の片付けもある。原はこれで良し」
ジギーは寝かせ台から離れ、影に足を置いた。
「サジ、カエナ。罠の札を回収。グル、草鞋の道を消してくれ」
「了解!」「ほどほどにね!」
里の笑いが薄く広がり、草に吸われる。
遠くで、鐘が一度だけ鳴った気がした。
内の鐘だ。
塔の学び部屋で、リナが今日の名を一行増やす音だ。
黒板の粉が指に移る音だ。
外と内の拍が、並ぶ。
ジギーは掌を胸骨の前で一つ打った。
「――静けさは扉」
骨が応え、草が頷き、泥が笑い、風が肩を押す。
扉は、また開く。
明けの鐘が、もうすぐだ。




