幕間 山の稽古――“せっかち拍”は竹に飲まれる
聖教国を出て数時間。
雪代を孕んだ川音が遠くでくぐもり、山岳地帯の裾が闇から立ち上がる。
行軍の列はB0.8――せっかちな拍を刻み、合図兵が石突で地をガン・ガンと叩く。
梢でフクロウが一声、とん・とん(B0.6)と返すように鳴いた。
「前を詰めろ。拍を崩すな」
「はいっ!」
竹林に入った途端、白い層が足もとから立ちのぼった。
涙煙――松脂と辛粉を練ったものを低い風に乗せ、膝から下へ流す工夫。
目線の高さは澄んでいる。澄ませようとすれば、の話だ。
「なっ……なんだ、どうした――目が……!」
「盾、前! 走るな、歩幅で合わせろ!」
B0.8があわてて速くなる。
そこで、裏からそっとB0.6が差し込まれる。
竹の節に隠した迷い笛が、風でぴ、ぴと鳴る。
遅い拍は、早い拍にとって石ころみたいなものだ。足の裏がわずかにつまずく。
誰かの盾の縁が落ち葉にこつんと触れ、鈴糸がちりと鳴った。
「右、警戒――」と言いかけた合図兵の踵が柔らかいものに取られ、膝がかくりと折れた。
「後ろ!」
振り向くより早く、竹枷がカチリと腕に落ち、もう片方の手首にもからりと回る。
首は落ちない。首の脇を挟むだけだ。
彼は仰向けに座り、目を見開いた。
「い、いま斬られ――」「違う。座らされただけだ!」
声の角が少し丸くなる。恐怖は言葉を誇張する。静けさは輪郭を戻す。
列の脇の落ち葉がばさと持ち上がり、撒菱が薄く散った。
鉄ではなく竹で作ったほどほどの牙。
踏めば刺さるが、抜けないほどではない。
「うわっ!」「足、痛っ……!」
足取りが止まる。止めれば、拍はほぐれる。
「左! 網!」
麻網がするりと落ち、肩から腰へふわりと絡む。
抜けられる。――落ち着けば。
だがB0.8は落ち着かない。
「走れ!」「逃げろ!」
二人が一度に動いて互いの肩がぶつかり、網がぎゅっと締まった。
前方に、人影が走るのが見えた。
「いたぞ、ガキだ!」「殺せ――八つ裂きにしろ!」
影はわざと見えるように、裏拍で走る。
追う足はますます拍を外す。
追跡の先に、薄い土のふくらみ。
そこへ飛び込んだ二人は、ふわりと沈み――竹の枠に支えられて座った。
坑は深くない。竹の節が刺さる前に止める。
「オイッ、助け――」
声は続かない。
眠膜がひとしずく、鼻先に落ちたからだ。
眠るのは死ぬことではない。
朝ごはんの前に起きる。
……数分。
座らされた者、網に絡まった者、撒菱で足をさすった者――
大半は動きを止めた。
「首を跳ねられた!」と誰かが叫ぶ。
叫んだ本人の首筋には、竹枷の痕が赤く線を引いているだけだった。
⸻
その頃、聖闘士ハキドとその直属小隊が後方から迫っていた。
六。
副長サムル、槍のドゥルカ、斧のミンネル、印術のバサ、弓のケル。
いずれも戦績で飾り立てられた男たち。――彼ら自身もそう信じている男たち。
「聖教徒どもはどこをほっつき歩いとる。怖気づいて隠れおったか」
ハキドは鼻で笑い、肩の外套を払う。
「全くたるんだヒヨコめ。ほかの勇者も聖戦士も要らぬ。我らだけで十分よ。ガハハ!」
「……冷えてきたな」
「寒い」
山の影が濃く、風が通る。
ミンネルが火打を出した。「焚き火を。ついでに火酒だ。温まる」
枯れ枝がぱちぱちと鳴り、獣脂の匂いが甘く立つ。
杯が回り、舌は滑らかになる。
副長サムルは立ち上がり、「ちと用だ」と竹の間へ消えた。
戻る途中、彼の踵がやわらかいものにこつと乗る。
「おい、人の頭踏んでんじゃ――」
頭に見えたのは土偶面。
その奥で、輪が締まる音がした。
かち、かち。
足首がするりと上へ引かれ、サムルの体は逆さに持ち上がる。
「――っ!」
言葉は落ち、息が短く鳴った。
竹の緩衝が骨を守る。
ほどほどに痛い。
ほどほどに恥ずかしい。
ほどほどに座らされる。
「遅いな」
火のそばでハキドが杯を回す。
「すぐ戻るさ。それより――」ドゥルカが笑った。「この戦で一番の手柄を立て、貴族に連なる。名を歴史に刻む。そうすればお前たちも――」
「そうだ、英雄だ。貴族の娘との縁談も――」
「我らの時代が来る!」
杯が打ち合わされ、拍はB0.8のまま高ぶる。
その時だ。
ばしゃっ。
頭上から何かが降った。
「なんだ――冷てぇ?」
掌で顔を拭ったミンネルが鼻をしかめる。
魚油と灰を混ぜたねばりのある液体。
燃やすためではない。匂いと重さで動きと鼻を鈍らせるための雨だ。
「油だ! 火から離れ――」
ハキドが叫ぶより早く、別のばしゃっが落ちた。
今度は水袋。
火の上にどさっと落ち、じゅっと消える。
炎は跳ね、蒸気が白く噴いた。
息が詰まる。
視界は濡れ、油は固まる。
火だるまにはならない。
彼らの足は重く、鼻は利かず、B0.8は崩れた。
「下らぬ手品を!」
ハキドが立ち上がり、肩で火酒を払う。
彼の視界の端を、白い羽がひらりと横切った。
静電が高域を熱に落とし、小鐘の囁きが痩せる――沈黙箱が噛んだ音だ。
「出てこい! 卑怯者め!」
ハキドは剣を抜き、竹の幹を叩いた。
ちり――鈴だけが鳴る。
『静けさは扉』
――この山の譜面は、それでできている。
闇の奥、影の中から骨が立ち上がった。
骸骨騎士。
盾と短槍、装飾も紋もない働く骨。
六。
彼らは一歩だけ前へ出て、構えは低く、喉は鳴らさない。
「化け物か」ケルが弦を引く。
ぱし。
矢は盾で寝かされ、地に座った。
骸骨は返しもしない。
ただ、押す。
押す――座らせる力で。
斧のミンネルが吼え、肩から突っ込む。
盾が斜めに滑り、ミンネルは膝から落ちた。
網がふわりと落ち、眠膜がひとしずく。
「……っ」
朝には起きる。
いまは座る。
「退くぞ、ハキド!」
ドゥルカが吠える。「ここは土塁だ。原で叩く」
「誰が退くか!」
ハキドは踏み込み、骨の胴を払った。
骨は割れない。
抜いた刃は空に振り、竹だけを揺らした。
拍はB0.6。
裏拍はここの空気だ。
「撤退! 隊列を組み直せ!」
副長サムルの声が、逆さのまま絞り出される。
彼は吊られたまま冷静だった。さすがだ。
ドゥルカとケルが彼を受け、輪を緩め、座らせる。
ハキドはなお前へ出ようとしたが、風が変わり、竹の葉がとん・とんと鳴った。
仲間の拍――B0.8――は、ばらばらになっている。
「……原で殺す」
最後に、ハキドはそれだけ残した。
言葉は刃になる。
だが、山は飲み込んだ。
刃の角は、竹で丸くなった。
小隊は撤いた。
負傷は多いが、死者は――いない。
彼らの自尊心だけが派手に擦りむけ、煤と油で黒くなった。
⸻
同じ夜。
風鳴り袋が里へひとつ届く。
『山の稽古、完了。非致死で三十六を座らせ、六を返せず。行軍拍は崩れ、原へ回る。――ジギーへ』
短い文だ。
ジギーはそれを沈黙箱に落とし、「よくやった」とだけ呟いた。
彼は骨に二拍を送る。
とん・とん。
B0.6。
骸骨竜が屋根の影を滑り、落石はまだ眠っている。
原で起こすのは――それからだ。
⸻
明け前。
撤収したハキド小隊は、雪代の音を背に口を噤んだまま進む。
ミンネルがふと笑う。「……暗殺の森だな」
「何が?」
「こういうのを、後年、人はそう呼ぶ。見えない刃に狙われた気がしたろ」
「刃は当たってない」ケルが渋く言う。
「当たったのは――俺たちの拍だ」副長サムルがぶら下がった痕の足首をさすりながら言った。「ずれを食わされた」
ハキドは応えない。
応えるべき相手が、今夜はいなかったからだ。
挑発に乗ってくる敵が、一人もいなかった。
それが一番、彼の苛立ちを募らせる。
「原で叩く」
彼はもう一度だけ繰り返した。
殺さずなど知らぬ、――そう書かれた顔で。
だが、山は静かだ。
静けさは扉。
蝶番は油を差され、きしまずに回る。
誰の首も落ちていない扉が、ひとつ、またひとつ、閉じただけの夜だった。
⸻
その後――
噂は勝手に育つ。
勇ましさを売りにする者ほど、怖さを派手に語る。
暗殺の森。
そう呼ぶ者が増えた。
実際に失われたのは牙ではなく、歩調。
実際に燃えたのは森ではなく、自尊心。
――名は輪郭。
輪郭は境界。
境界は、扉の蝶番。
山は、それをただ覚えている。
B0.6。
とん・とん。
静けさを稽古する音だけが、夜の竹に残った。




