幕間 ジギーの里・緊急評議――「静けさは扉」を胸に
夕刻。
山の裾を這う霧が里の屋根を舐め、食堂の明かりが早めに入った。柱には子どもたちの背丈印、梁には練習用の竹刀がずらりと吊られている。鍋からは芋と乾肉の匂い。だが、いつもの賑わいに混じって、落ち着かない拍が床板の下で鳴っていた。
忍びの里――北境に潜伏していた斥候からの報せが戻ったのだ。
十字聖教の大隊が国境線を越えようとしている。先行の唱導隊と行軍補助車、そして移動聖堂。聖火砲が二門、震掘獣が一。さらに――三刻後には本隊が風鳴り原の裂け目に布陣。王都からの援軍は出立したが、到着にはまだ間がある。
「――以上、潜伏組の見立てです」
報告を聞いたジギー=ジョージア・フォン・ギルバート子爵は両手を打つ。
「よし、全員静かに。静けさは扉だ」
食堂の長卓に忍びも子も整列し、サジとカエナは梁の上。
ジギーが短く言う。
「十字軍の狙いはこの里。だがここを越えさせない。……“線”を一つ折る」
子どもたちは拳を握り、サジが笑った。
「暴れるぞ!……あ、暴れすぎない。“ほどほど”で行く!」
「了解!」
ジギーは装備を配り、地図を広げる。
「避難、剪定、迎撃――順にやる。殺さず、縫って止めろ」
そのとき――
ゴウゥゥゥウン!
地鳴りのような轟音が外から響いた。
全員が顔を上げる。
その瞬間、ジギーは立ち上がる。
「……外だ。全員、動くな」
音は二度目で確信に変わった。
──これは“拍”だ。
敵が意図して踏んでいる、こちらに合わせてくる“戦いの拍”。
ジギーが障子を開けると、冷たい霧の向こうで、
旗が翻っていた。
十字の印。聖教国の軍旗。
その下に、鎧を鳴らす一団。
そして、縄で縛られ、膝をつかされている小さな影。
亜人の少女――エリアナだった。
服は裂け、顔に煤がつき、足は裸のまま。
頬に押しつけられた聖印が赤く腫れている。
「……エリアナ!」
後方でリナが叫ぶのを、ジギーは手で制した。
「動くな。いまは“静けさは扉”だ」
ヨシキが前に出た。
金の外套を翻し、剣の柄を叩きながら嘲るように声を張る。
「出てこい! 貴様ら、聖教国の奴隷を攫い、神に背く賊どもだろう!
勇者ヨシキが、正義の鉄槌を下してやる!」
その隣で、僧侶メルローザが祈祷杖を掲げ、
「聖なる審判を、地に!」と叫ぶ。
魔法陣が一瞬きらめくが、風は吹かない。
この山では“音”がすべて鈍いのだ。
ジギーが、低く呟いた。
「……バカが。音を殺した場所で詠唱しても通らねぇよ」
⸻
一、四忍の前へ
ザインが一歩、前に出た。
続いてラセツ、ラッシ、フログ。
誰も声を出さない。
ただ足音が四つ、ぴたりと揃った。
勇者ヨシキが鼻で笑う。
「おいおい、子どもの手習いか?
雑魚が四人、俺を止められるとでも?」
ラセツが首を傾げ、静かに構える。
「試してみるか? ……非致死、ほどほどで頼むぞ」
ヨシキの眉が跳ねる。
「ナメるな下郎どもッ!」
その声と同時に地を蹴った――が。
剣が振り下ろされるより早く、
ザインの肘がその腕の内側に入り、
踏み込みの拍を“殺した”。
「なっ……!」
次の瞬間、ヨシキの視界が回転していた。
ラセツが腰を取って投げ、フログの踵が背中に落ち、
ラッシが指先で関節を押さえ込む。
――ドサッ。
「……え?」
勇者側の僧侶が息を呑む間に、
ヨシキは地面に転がっていた。
剣は手から離れ、足が上を向いている。
「間合い、ゼロ。
“勇者”ってのは、剣の重さ頼みか?」
ザインが冷たく言った。
メルローザが震えながらメイスを構える。
「この……下郎どもッ! 神罰を――!」
振り上げた瞬間、
ラッシが袖で軌道を“抜く”。
拳ではない。風のように軽い動き。
メイスの重さが宙で裏返り、
そのまま僧侶自身の腕を極めた。
「や、やめ……!」
「非致死、って言ったろ?」
軽く押し出され、僧侶は背中から転がった。
魔術師アンリエッタが叫ぶ。
「炎弾魔法!!」
掌から赤い光弾が生まれ――爆ぜる前に、
フログが飛び込み、袖で火を包んだ。
空気が鳴らない。
魔法の熱が吸い取られる。
術式の中心で、炎は球のまま潰えた。
アンリエッタが後ずさる。
「そ、そんな……魔法が……!」
「魔法だろうが剣だろうが、
“間”を殺せば全部止まるんだよ」
フログが言った。
⸻
二、崩れる“勇者の理想”
「ふざけるなッ!」
ヨシキが叫ぶ。
「俺は勇者だぞッ! 世界を救う力を持つ者だッ!!」
「救う? お前が焼いたのは村の家だろ」
ザインが低く返す。
「お前らの“救い”ってのは、誰のためのものだ?」
ヨシキが再び剣を拾い上げる。
「うるさい! これが正義だッ!
聖なる炎よ――聖焔一閃ッ!!」
空気が裂ける。
剣先が白熱の光を放ち、一直線に伸びる。
ラセツが笑う。
「光速なら、もう見えた」
彼の掌が軽く動く。
地の砂を払うような一拍。
剣の光が途中で歪み、
ヨシキの肩を越えて後方の岩壁に突き刺さった。
ドォンッ……!
爆風の中、ラセツは動かず、ただ首を傾げる。
「……“正義”って、そんなに軽いのか?」
⸻
三、崩壊と沈黙
勇者一行、壊滅。
メルローザは腕を抑え、アンリエッタは魔力切れで膝をつき、
エイブラムスは呻きながら土に顔を伏せていた。
その光景を見ていたナオキ一行は後ずさる。
「ちょ、ちょっと待て……話が違うだろ!
こいつら、ただの盗賊じゃ――!」
エリンが前に出た。
銀糸の髪が霧を弾く。
目は静かに、しかし射抜くようにナオキを見た。
「……やはり、真の勇者とは違いますわね」
「な、なんだと……」
ナオキが息を詰める。
その意味が分からない。ただ、胸がざわついた。
「目の前に、本物がいることも分からないとは……」
エリンの視線が霧の奥を向いた。
⸻
四、霧の向こうから
霧がふっと流れた。
杖の石突が地を叩く音が、一拍。
「……随分と派手にやってくれたな」
黒衣の女が、ゆっくりと歩いてきた。
長い杖を片手に、髪をひと束に結い、
目はまるで夜の底のように静か。
「これの何が“正義”だ。
クソ外道の利権まみれどもが……」
誰も、声を出せなかった。
エリアナの震える手を包みながら、
ジギー――杖の勇者は、ただ一言だけ告げた。
「……静けさは、扉だ。
お前らの“神の声”は、ここでは響かねぇよ」
霧が再び閉じる。
その中で、誰かの剣が地に落ちた音だけが響いた。
⸻
霧が裂けたのは、一瞬だった。
聖教国の旗が風を受け、布の端が燃えてちぎれた。
ヨシキの剣は土に突き刺さり、
メルローザの祈祷杖は折れたまま、動かない。
僧兵たちは声も出せず、ただ息を潜めている。
その前で、ジギーが杖を肩に担ぎ、
子どもを抱いたまま静かに歩いた。
「……見ろ、エリアナ。
こいつらが言う“正義”ってやつの形だ」
少女は震えながら頷く。
涙が土に落ち、そこに新しい草の芽が覗いた。
ジギーはその小さな手を撫で、顔を上げた。
視線の先には、勇者ナオキ一行。
⸻
五、偽善者たちの拍
「ヨシキ……貴様……立て!」
ナオキが後ろから怒鳴った。
だが、ヨシキは動かない。
剣を握る指は痙攣し、口は何かを呟いている。
「“愛と平和のために。名はひとつ。私たちはひとつ”……」
それは教義の祈祷句。
血の味の混じった声で、延々と繰り返す。
アンリエッタが半狂乱で叫ぶ。
「ち、違うのよ! わたしたちはただ、命令に従っただけ!
罪はない! 神の御意志なの!!」
ジギーは首を横に振った。
「“御意志”ってやつは便利だな。
誰かが泣いてても、それを正義に変えられる」
杖の先が、土を小さく叩く。
コツ、コツ、と音が二度。
その拍に合わせて、背後の忍たちが動いた。
ザインが鎧の剣帯を奪い、
フログが唱導官の鐘をへし折り、
ラセツが全員の指輪シジルを外し、
ラッシが魔法触媒をまとめて袋に詰めた。
すべて、無音。
ただ杖の二拍だけが、場の譜面を支配していた。
⸻
六、言葉ではなく示す
「お前ら、“勇者”だろ?」
ジギーが杖を床に突き立てた。
「なら見せてみろよ――何を守るために、その剣を持ったのか」
ヨシキが顔を上げた。
涙か汗かわからぬ光が頬を伝い、歯を食いしばる。
「俺は……っ、聖教に選ばれたんだ!
世界を正す力を持つ者だ!
異形を焼き払い、人を救う、それが使命だッ!!」
「救うねぇ」
ジギーが鼻で笑った。
「じゃあ、“異形”ってのは誰が決めた?」
「そ、それは神が――!」
「神? 違ぇよ。
お前らの上に座ってる連中が、
都合の悪いものに“異形”の札を貼っただけだ」
その瞬間、エリンがそっと前に出た。
杖を軽く肩に担ぎ、目を細める。
「……本当に、真の勇者とは違いますわね」
ナオキが息を呑む。
「な、なんだと……?」
「あなたが信じている神は、
あなた自身を見てなどいない。
けれど――」
エリンはジギーの方へと一瞬だけ視線をやる。
「本物の勇者は、すでにここにおられる」
ナオキの目がわずかに震えた。
だが理解が追いつかない。
エリンの杖が地を打つ。
コン。
たった一打。
それで空気の密度が変わった。
⸻
七、処断
「お前たちは聖教の名を騙り、
この里の子を、仲間を、焼いた」
ジギーの声は静かだった。
「殺しはしねぇ。“非致死・ほどほど”だ。
でも――二度と立てねぇようにはしてやる」
杖が唸りを上げた。
それは打撃でも、魔法でもない。
空間そのものが“拍”で裂けた。
バァンッ!!
ナオキの仲間が吹き飛ぶ。
盾を構える間もなく、
身体が宙でひっくり返り、背から地を打った。
「ぐあっ!? な、なんだこの力っ……!」
「ただの地脈だ」
ジギーが答える。
「お前らが勝手に“神”の線だと思ってるやつ。
あれは昔からこの大地を巡る“呼吸”だよ。
人が勝手に名前をつけただけ」
エリンが続けて杖を横薙ぎに払う。
突風が吹き抜け、ヨシキの剣を弾き飛ばす。
その柄が岩に突き刺さり、もう抜けない。
「勇者ヨシキ」
エリンの声が低く落ちる。
「あなたの“力”は、誰かの命の上に立って得たもの。
そんなものを、勇気とは呼びません」
ヨシキが叫ぶ。
「ち、違うッ! 俺は選ばれたんだ!! 聖なる――!」
その叫びを遮るように、ジギーが杖を地に突いた。
ドンッ。
地面が鳴動し、砂埃が舞い上がる。
誰もが息を呑んだ。
ジギーは瞳を閉じた。
「……選ばれた者、ね。
なら聞けよ、“選ばれなかった者”たちの声を」
霧の向こうから、里の鐘が一つ鳴った。
――ゴン。
それは合図だった。
避難を終えた村人たちが、丘の上で静かに手を合わせている。
祈りではない。誓いだ。
⸻
八、夜の静けさ
戦いは終わった。
聖教軍の旗は焼け落ち、
勇者たちは気を失い、
彼らを縛る縄の上で、風が静かに流れた。
エリアナが、ジギーの袖を掴む。
「……ありがとう」
「いいんだ」
ジギーは微笑んだ。
「お前が泣かなくていいようにするのが、俺たちの仕事だ」
後ろでフログが笑う。
「ジギー姐、今日の“非致死”はちょい強めじゃねぇ?」
「黙れ。殴殺ギリだって言っただろ」
ラセツが肩をすくめる。
ラッシは剣を拭いながら苦笑した。
「まぁ、生きてるならほどほどってことで」
その光景に、
霧の端で立ち尽くしていた聖教の残兵が、何かを悟ったように膝を折った。
“正義”は、こんなにも静かに敗れるのか。
⸻
九、余韻
夜風が山を撫でた。
空には月。
灯の消えた旗の代わりに、星がいくつも瞬いている。
ジギーは空を見上げた。
「……来るぞ、次が」
「聖教の本隊?」
エリンが問う。
「いや――“帝国”の方の拍だ」
ジギーの杖が、再び地を叩いた。
コン、コン。
「静けさは扉。……今度は“蝶番”を狙う」
霧が閉じ、
忍びの里は再び沈黙の中へと戻っていった。




