敵側幕間 ルーデンハイム城評議――“聖なる行軍”の号砲
ルーデンハイム城の客間は、厚い絨毯と燭台の灯で昼夜の区別を奪われている。
窓外には吹雪き返す北風。だが室内には、別種の冷気――盲目的な確信だけがもたらす、血の温度を奪うような寒さが満ちていた。
十字聖教の英雄たちが集められている。
鎧は磨かれ、衣は聖句で縁取られ、剣も杖も“正しさ”の名で帯びられている。
中央の卓上で香が白く揺れ、壁の小鐘が風もないのにときおり乾いた喉の音を鳴らす。
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聖騎士長アインリッツは、金線のマントを肩に流し、杯を傾けながらキリフ大神官と話し込んでいた。
「そういえば大神官殿――ユーゲンティアラ王国は、我が聖教国が王国民を拉致しているなどとほざいているらしいな」
「ああそうだ。賠償だの何だの――損害を数え上げては手を差し出してくるらしい。ワハハハハ」
アインリッツは薄笑いを崩さず、杯の脚で卓を二度とん、とんと鳴らした。
それは彼らのあいだで共有された行軍拍――“こちらの譜面”を確認し合う合図だ。
「薄汚い亜人どもの王国など、十字聖教の力を示せば良い。降伏に追い込み、労働力――いや、奴隷はさらに増える。栄華は……」
「ダメだ」
卓の向こうから、声が切り裂くように降ってきた。
「亜人など、完膚なきまで叩き潰し、皆殺しにする。ヤツらこそこの世界のゴミだ」
姿を見せたのは、聖闘士ハキド。
短く刈った黒髪に、刃のような眼。鎧の縁には祈祷線が走り、彼の歩むたび、壁の小鐘が無風のまま微かに鳴いた。
ハキドは一言だけ吐き捨て、積もる視線など無視して自らの仲間の輪へと歩いていく。
アインリッツは杯を置き、鼻で笑った。「勇ましいことだ」
キリフ大神官は肩を震わせる。「正義の熱は尊い。……扱いは難しいがな」
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そのとき、扉口で厚手の外套が大きくはためいた。
北の国から来た勇者――眼鏡の男、吉永直樹こと勇者ナオキが、自らの一党を引き連れて姿を現す。
黒革の手袋を外しながら、彼は卓端の男に視線を投げた。
「噂は聞いたよ。世界の愛と平和を守る伝説の勇者様ともあろう者が、そこらの冒険者ごときに倒されたって? ……夜の方がお盛んすぎて、昼は力が出ないのか、フフフ」
勇者ヨシキの目が細くなる。「……ナオキ。何しに来た」
ヨシキが立ち上がるより早く、彼の仲間――華奢な剣士と、短杖を佩いた娘――が前に出て、二人の間に滑り込んだ。
「勇者ナオキ様といえど、ヨシキに対する無礼は許しません」
ナオキの背後でも仲間たちが一歩進み出る。
厚い外套の男が唇の端を吊り上げた。「おうおう、勇者ヨシキ様はそんなにいいか。……今晩でも、俺が忘れさせてやるぜ」
「無礼者!」
「貴様、わきまえぬか下郎!」
ヨシキ側の娘が苛立ちを抑えきれず剣を抜く。もう一人もサーベルを構え、火花が落ちた。
「俺だって――真ん中の剣なら、寝台でいくらでも噴かせるさ」
「オイオイ、仲良くしようぜ。下の大浴場でよ」
最悪の空気が膨らむ。その膨らみの真ん中へ、すたすたと歩いてきた影が、凄まじい闘気の重みで一同の肩を沈めた。
「あっ、アンタは……」
「聖戦士様」
聖戦士パク・ジェイフン。
背筋は刃、眼差しは鋲。彼の部下たちが左右に控えると、場は自然と戦場前の静けさを取り戻した。
「跪け」ジェイフンは鋼の声で言う。「いかに北の勇者といえど、我ら誇り高き聖戦士、および我が聖教国の勇者殿に対して、その態度は無礼であろう」
そこへ、聖闘士ハキドとその一党も歩み寄ってくる。
ジェイフンは顎で挨拶した。「ハキド殿か。久しいな」
「ジェイフンよ」ハキドは笑わない。「我らが十字聖教に敵意を向ける逆賊――山賊を使って我が商人隊を襲い、金品を奪い、我らの労働力である奴隷を勝手に解放しているのだと? 明らかな略奪行為だ」
周囲の聖職者も武人も、頷いた。
それは合意ではない。合唱だ。
彼らは同じ歌詞を、違う旋律で口にしながら、同じ拍に合わせている。
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重い扉が開き、大臣が勅書を携えて現れた。
金泥の封が卓上で割られ、羊皮紙が広げられる。
「勅命にある通り――我らが聖教国にとって大事な労働源である奴隷の供給を断たんとする輩がいる。山賊をたぶらかし、国内に忍び込ませ、諜報をさせ、先日も我が領にテロリストを送り込み破壊と蹂躙を尽くした。
我らの神の名において、逆賊に天罰を与え、首謀者を捕らえよ!」
言葉は蜂蜜のように甘く、刃のように鋭い。
読み上げの最後には、鐘の音が一拍だけ添えられた。
B0.8――少し早い。せっかちな合図兵の癖だ。
「……それからだ」大臣が続ける。「枢機卿ライオネロ猊下、神官長ネイザン、および兵士長バーグが到着された」
ざわめき。
バーグ――先日捕縛されたという報せもあったが、包帯を巻いた同名の男が、いまはまるで武勲の主のように胸を張っている。
真実がどれで、偽装がどれかは問題ではない。
名がそこに置かれている――それで十分なのだ。
ライオネロは派手な袖を静かに揺らし、指に嵌めた指印を卓上にコツと置いた。
「逆賊と繋がりのある女――リリアーナを捕らえた。先ほど尋問にかけ、大まかな居場所を特定した。三刻後、国境を越えて討伐を開始する」
「パパ!」
声が上がった。
神官長ネイザンの娘――ヨシキの仲間の一人が、父に飛びつく。
ネイザンは娘の頭を抱き「もう大丈夫だ、我が愛娘よ。酷い目に遭ったな。安心しなさい、神の鉄槌が懲らしめてくださる」と低く甘い声でささやいた。
娘の震えが、父の胸で合唱に溶けていく。
「場所は?」とジェイフン。
ライオネロが小鐘を指先でなぞる。「旧市街の井戸(赤陶井)から東への巡礼路――風鳴り原の裂け目に、位相釘が一度打たれている。**移動聖堂**を先行、行軍補助車三台、唱導隊を二列。……導管の仮枝はすでに用意した」
「ふん」ハキドが鼻で笑った。「ゴミを掃くには火が要る。聖火砲を二門、震掘獣を一体、祈祷ハーネスで繋げ。行軍母機は俺の隊列につけろ」
アインリッツが割って入る。「聖騎士団は前衛を取る。帝国式の号令補助器も二台借りる。北の勇者殿――」
「言われずとも」ナオキが眼鏡を押し上げた。「雷条砲を持っていく。器械兵の肩に据え付けろ。行軍拍を外す連中だと? なら拍を増やせばいい。倍で叩く」
ヨシキはずっと黙っていた。
彼の唇だけが、祈祷文をリハーサルするように動く。
《愛と平和のために。名はひとつ。私たちはひとつ》
混ぜ物を一滴、声に溶かす。
卓上に置かれた地図の上で、駒が動く。
鐘楼、帳場、井戸、巡礼路、風鳴り原、国境。
駒は白と金。動かす指は、血の温度を知らない。
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合図もなく、黒髪眼鏡のメイドが二段の皿を運んできた。
ビスケットは見事に焼けている。甘い匂いが毒の代わりに場を和ませ、計算された安心を広げる。
「ご用命があれば、お申し付けを……」
「……美しい手だな」ライオネロが言う。「祈祷符を書かせても映える」
メイドは目を伏せ、静かに一礼した。
彼女は給仕と目を合わせ、合図もないのに正確な順序で皿を置いていく。
行軍拍が身体に入っている――だが、それは逆に、こちらの譜面を測るための拍でもあった。
――扉の影に入ると、二人は同時に舌打ちした。
壁に軽く拳が当たる。
「な……何をやっているんですか、アッシュ殿」給仕がささやく。
「あのハキドとかいうヤツ……絶対つぶす」
アッシュと呼ばれた黒髪のメイドは、眼鏡の奥で視線を燃やし、胸元の小さな紙片に指を当てた。
沈黙箱に似た薄い金属板。
それは“混声”を飲むために用意された逆鍵――誰かがどこかで残した、見慣れない癖字の合言葉が刻まれている。
《静けさは扉》
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評議は続く。
セレス副長が巻物を配り、各隊の動員名簿が読み上げられる。
聖堂車の車輪には油が差され、補助車には蜂の巣のようなセンサー孔が増設され、唱導官には新しい小鐘が支給された。
「帳場からの配当は?」キリフ大神官。
「唱導官の取り分は一割増」セレス。「巡礼路沿いで説教を行う際の混声具の維持費名目で」
「よろしい」ライオネロは満足気に頷いた。「善き業には、善き報いが伴う」
ガロット――彼はこの場にはいないはずだが、彼に似た風貌の男が短く進言した。
「現地の状況は不明点が多い。失敗の報は潰してあるが、大鐘や鐘楼の線がいくつか鈍っている。――返送に切り替わったという噂も」
「噂に価値はない」ハキドが切って捨てた。「踏み潰せば、それが真実になる」
ジェイフンはわずかに眉を寄せた。
「非致死の命令は――」
「要らん」ハキドの声は硬い。「火を持て。鈴が鳴ろうが、泣きが出ようが、踏む」
ナオキは眼鏡の奥で笑う。「愛と平和のためにな」
ヨシキは無表情で頷いた。「もちろん」
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別室。
リリアーナは椅子に縛られ、冷水の滴る石壁に寄りかかっていた。
拷問という言葉は、ここでは儀式と呼ばれる。
儀式の記録役が淡々と筆を走らせ、祈祷官が水を配り、唱導官が質問を重ねる。
殴打も刃も用いない。
合唱だけが繰り返され、拍だけが強まり、声だけが絡まる。
「――名前は?」
「リ……リアーナ」
「どこから来た?」
「スタロ……リベリオ」
「誰に会った?」
「商隊。冒険者。ギルドの長」
「どこへ帰る?」
リリアーナの瞳が、かすかに揺れた。
そこへ眠膜が一滴。
唱導官の声が甘くなる。
「静かに、楽に。――どこへ?」
リリアーナの唇が動く。
「……井戸。赤陶井。東の風……鳴り……」
唱導官はそれ以上踏み込まない。
位相釘を打つには十分だった。
破片ひとつで扉は一度開く。
合図兵はせっかち――B0.8で叩くだろう。
“そこ”まで跳ぶには、それで足りる。
「終わりだ」
儀式の責任者が頷く。
「生かせ。見せ物にするな。――交換の種にする」
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三刻前。
灰外套の男は、ギルドの新人応援箱を新しいものと交換した。
印章は本物に見え、箱は似せ物だ。
底には混声縫合器の小型が仕込まれ、枝管は鐘片の針に繋がる。
窓口で対応する女は、真面目で、速い。
合図兵のB0.8に合わせ、眠膜を一滴。
裏口へ案内させ、資料庫を経由して保管庫。
覗き窓に位相釘をひと打ち――
扉は一度だけ開き、井戸の中へ跳ぶ。
見張りは見ていた。
だが見ていたのは、見張りが見ている自分だ。
合唱とはそういうものだ。
拍を合わせ、言葉を合わせ、視線を合わせ――
違う場所へ向かう。
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再び、評議の間。
出陣まで二刻。
ヨシキの仲間の娘が、机の上のビスケットを摘みながら笑った。
「伝説の勇者さま。――今度は勝ってくださいね」
ヨシキはただ微笑む。
ナオキが横から鼻で笑う。「夜はほどほどにな」
ジェイフンは場の浅薄を叱るように一つ手を打った。
「最終確認だ。殺さずは解除。非致死は不要――聖闘士は焚き、聖戦士は断つ。唱導隊は拍を倍。移動聖堂は先頭で鐘を鳴らす。合唱鍵は二重に。合図兵、拍はB0.8――早い方がよい」
「任せろ」ハキドが短く答える。
アインリッツは青い外套を翻し、扉へ向かう前に振り返った。
「ユーゲンティアラの連中は、学びだの名だのと子供じみたことを言っているそうだ。……名は記号だ。所有できる」
「記号なら、書き換えればいい」ナオキ。
ヨシキはまた微笑んだ。「愛と平和のために」
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廊下の影。
アッシュは給仕から小包を受け取った。
中には耳栓、薄板の沈黙箱、それから白い羽毛――黒で縁取られた嘴の一本が忍ばせてある。
ブラックの羽だ。
誰かがどこかで置いていったもの。
それはここでも働く。
混ぜ物を食い、高域を熱に落とし、拍の角を丸める。
「すべて、持った」
アッシュは息を整える。
「間に合う?」
給仕が問う。
「間に合わせる」
アッシュは壁の影へ戻り、拍をかぞえ始めた。
B0.6――こちらの譜面で。
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出陣の号が鳴る。
鐘は三度。
風鳴り原へ向けて、白と金が流れ出す。
移動聖堂、行軍補助車、唱導隊、聖騎士団、聖闘士、聖戦士――
行軍母機の合唱は厚く、震掘獣の吠えは低い。
拍はB0.8、裏拍は無し。
非致死は無効。
名は数。
数は貨。
貨は恵み。
恵みは神。
その譜面の外側で、二人だけが別の歌を覚えている。
静けさは扉。
扉は開け閉めの稽古だけ上手になる。
アッシュは眼鏡の奥で笑わない笑みを浮かべ、視線を遠くへ投げた。
「――あのハキドとかいうヤツ。絶対につぶす」
そして、まだ誰も知らない“次の拍”に向けて、彼女は静かに歩調を変えた。




