アレクサル北鉱区――黒脈救出(前編):行軍拍を外せ
山肌をえぐるように口を開けた坑口の上で、錆びた巻き上げ機が低くうなった。
油と鉄と粉塵の匂い。等間隔に吊られたランプが橙の滴を落とし、足元のレールを鈍く濡らす。
俺たちは尾根の陰に身を伏せ、最後の確認をした。
「短く点呼」
「ユウキ」
「よっしーや」
「クリフさん」
「ニーヤですニャ」
「リンク」――「キュイ」
「リナ」
「あーさん、相沢千鶴にございます」
「……カァ(ブラック)」
耳飾りの回線がひとつ震え、「ミカエラ。外部監視・ポータル準備、良好」と落ち着いた声。
目下に見えるのは北鉱区の本斜坑。管理棟から鉱車が何本も出入りし、坑道の奥へ人が吸い込まれていく。
その歩みを揃えさせるように、斜坑口の上に行軍装置が据え付けられ、床板に行軍拍を流し込んでいる。――拍に合わせれば合わせるほど、名は輪郭からはがれていく。
「結構でかい施設やな。……ワイらも運悪かったらここやったかもしれん」よっしーが盾の縁を撫でる。
「クリフさん」
「ああ。……家族の名が、名簿にある。黒脈三番へ回されてるはずだ」
あーさんが懐中時計を開き、軽く親指ではじく。針の音が拍を刻む。
「・ー・・/・・・・・/・・(“静・け・さ”)。よろしゅう」
「静けさは扉」俺はうなずく。「作戦は三段――門、籠、祈祷室。順番を間違えると、向こうの譜面に飲まれる」
• 門:警備の目と行軍拍。ニーヤの合成魔法《光隠魔法》+ブラックの静電羽衣+《スリープサークル》で通す。
• 籠:巻き上げ室のケージでB0.6を上書き、“裏拍”で受けて降下。
• 祈祷室:坑道脇の出張祈祷機を下行(奪還)固定。導管は沈黙箱へ。
「非致死。縫って止める」
「了解ニャ」「任しとき」「……キュイ」
⸻
崖下へ滑り、影から影へ。ニーヤが息を整えた。
「合成魔法、いきますニャ――光隠魔法」
空気がふっとたわみ、肌のまわりに薄い屈折の膜が張る。輪郭がほどけ、互いの気配は拍と呼吸でつかむしかない。
「ブラック」
「……カァ」
白い綿羽がふわりと落ち、地面一面に静電の羽衣が敷かれる。足音の震えが羽衣に絡まり、土へ吸い込まれていった。
北門の詰所。鉄兜がふたつ揃って欠伸をしている。
「合図」
あーさんの懐中時計がピッと一音。
ブラックが低く鳴く。
《スリープサークル》
二人は椅子に座ったまま、こくりと眠りに落ちた。
「きれいに落ちたな」
「白やのにブラック、ええ仕事や」よっしーが小声で笑い、扉の閂に指をかける。
ニーヤが開錠の囁きをひとつ。錠は未来の疲労を一瞬借りたみたいに、音もなくほどけた。
廊下の壁には、祈祷式のプレート。導管が上へ、そして坑道の奥へ伸びる。
あーさんが薄い金属箱――沈黙箱を取り出し、枝管にカチリとはめた。
「“混ぜ物”は沈黙箱へ。名は名、似て非なるものは違う。――名寄せは、わたくしに」
「頼んだ」
管理室。
帳場に革表紙の収容名簿。
あーさんが素早くページをめくり、白墨で名寄せ表を作る。
「語尾の祈祷音が聖教国式。混ぜ物を別列へ。……ありました――この束がクリフ家の名。黒脈三番、夜勤」
クリフさんの喉が、かすかに鳴っただけだった。
「行こう」彼は矢筒の口を静かに締めた。
⸻
巻き上げ室は、鉄の鼓動が鳴っていた。
行軍装置が床板の下で唸り、踏めば踏むほど音が“揃う”仕掛け。
「反行軍でいく」
「任しとき」よっしーが盾の縁で裏拍を刻み、ニーヤがB0.6に0.2のずれを重ねる。
「“B0.6+0.2”のオフセット。こっちが酔うのではなく、向こうを酔わせるニャ」
ブラックが羽衣を薄く広げ、リンクが影の薄いところへ跳び段を作る。
「……カァ」「キュイ」
ケージの扉が開く。
「降下中は会話なし、合図は二拍――“とん・とん”。危なかったら“三拍”」
あーさんがモールスに直してうなずく。
「・ー(A)/・ー・・(L)/・・(I)――“扉”、よろしゅう」
「静けさは扉」
降りる。
鉱脈の匂いが濃くなり、粉塵が頬にまとわりつく。
よっしーが虚空庫から粉塵用マスクを配った。「ホームセンターセットや。ついでにヘッドランプも」
「買いすぎニャ」「要る」「要らんニャ」「要る」――小声でやり合い、すぐ沈黙へ戻る。
黒脈三番のレベルでケージが止まった。
坑道に行軍拍が流れている。
オートマタの監督兵が二体、電撃棒を抱えて歩哨。
「非致死」
クリフさんの矢が摩擦環に“置かれ”、関節が空回りする。
よっしーが盾を受け台にしてリンクを弾き、リンクは胸郭の継ぎ目へ軽い輪郭噛み。
「……キュイ」
二体は膝を折り、その場に座り込む。
ニーヤが足元に凍霧を這わせ、床の“鳴き”を0.3秒遅らせた。
「こっちや」
坑道の奥、列石室の前で、痩せた影が三つ四つ――家族を含む十数名。
鉄の首輪、荒い呼吸。
クリフさんは一歩、前に出て膝をついた。
「……帰ろう」
その声は硬いのに、震えていなかった。
あーさんが前に出る。
「相沢千鶴にございます。あなたのお名前を、こちらに」
黒板サイズの小さな板に、白墨の文字がひとつずつ増える。
名は輪郭。輪郭は境界。境界は、扉の蝶番。
呼ぶ。呼ばれる。呼び戻す。
リナが頷き、子どもから順に名を板へ写していく。
ニーヤとブラックが回復の薄い膜を重ね、よっしーがスポーツドリンクを配る。
「甘い……」「胸が楽に……」
「首輪はわたしが切る。無痛で」
ミカエラの声が耳飾りから落ち、通路奥の影から白い躯体が現れた。
「怖くないよ。見るならここを見て」
彼女は自分の胸の前で指を合わせ、手刀を継ぎ目へそっと置く。
――スパ。
金属だけが静かにほどける。皮膚は傷つかない。
「次。……次」
「ユウキ、行軍拍の源を見つけた」クリフさんが顎で示す。
坑道脇の祈祷室。
鐘の意匠が付いた小型の行軍装置が床に固定され、壁の導管が上層とつながっている。
《合わせろ。歩幅を揃えろ。名を外せ》
命令の音が、空気を擦ってくる。
「反行軍でいく」
よっしーが盾の縁で裏拍を刻み、ニーヤがB0.6+0.2のオフセットを重ねる。
ブラックの羽衣が命令の角を丸め、リンクが拡声スリットの影を噛む。
「……カァ」「キュイ」
あーさんの懐中時計がピッと合図を打つ。
俺は扉縫合(Lv.2)を一本、装置の“喉”へ渡した。
見えない扉の筋で声が“折れ”、四隅へ散る。
クリフさんの無音矢が側面スロットへ入り、矢羽根が鍵の代わりに回る。
『制御権限奪取。上行停止、下行優先へ。導管の“混ぜ物”は沈黙箱に落とせます』ミカエラ。
「落としてくれ」
導管に沈黙箱を割り込み、祈祷音の残滓が箱の中で消える。
「撤収ルートは?」
『坑口側は増援。――通気竪坑からの脱出を推奨。上部でポータルを開ける』
「通気は粉塵が怖いニャ」
「ブラック」
「……カァ」
白い羽衣がじんわり帯電し、浮遊粉塵の起電を食う。
よっしーが虚空庫から湿らせた布を人数分出す。「口に当て。ホームセンター、何でもあるで」
「買いすぎニャ」「要る」「いらんニャ」「要る」――二往復だけやって、走り出す。
⸻
通気竪坑は、冷たい。
垂直にのびる坑内壁に、梯子が古く打ち付けられている。
上の方で、行軍拍に似た金属音が重なった。
「追っ手や」
「縫って止める」
クリフさんの攪乱矢が共鳴の節を二つ三つ“置いて”狂わせ、ニーヤの凍霧が音の立ち上がりを遅らせる。
リンクが身軽に駆け上がり、影の薄い段で輪郭噛みをひとつ。
あーさんの懐中時計がピッ。
俺は扉縫合(Lv.2)を細く一本、竪坑の中ほどに渡した。
音の塊が折れて散り、追っ手の足並みが崩れる。
「上で開く。二分だけ安定」ミカエラの声。
地表に近い踊り場で、光の輪が三つ立ち上がる。
「順番に。名を呼びながら」
リナが先導し、あーさんが名寄せ表を抱え、子どもをひとりずつ輪へ入れていく。
「ユウキ、あと五人」
「いける」
よっしーの盾が裏拍で受け、ブラックの羽衣が粉塵を飲む。
最後に残ったのは、クリフさんの家族のひと塊と彼自身。
「先に行け」
「いっしょに帰る」
短い言葉で順が決まり、全員が輪を越えた。
光が閉じた瞬間、竪坑の上から命令の声が落ちてきた。
聖教国の監督官。黒い外套、淡い金の縁取り。
「名は、我らが合唱に捧げ――」
「それ、混ぜ物や」よっしーが肩をすくめ、沈黙箱を放り投げる。
箱は空中でぱくりと開き、声の端切れを食うように閉じた。
「ほな、おやすみ」
ブラックが短く鳴き、《スリープサークル》。監督官の膝が折れ、その場に座り込む。
「非致死、完了。退く」
⸻
里――第三階層の食堂へ戻ると、湯気と出汁の匂い。
黒板には今日の名が並ぶ。
リナが白墨で丸く書き、子どもたちが順に自分の名を呼び戻す。
あーさんが名寄せ表を貼り、似て非なるものを分けていく。
ミカエラは三鈴法の使用回数を板に記す。「未使用。温存」
よっしーはスポーツドリンクの桶を運び、リンクはテーブルの下で丸くなり、尻尾で俺の足首を二拍でとん、と触れる。
「……キュイ」
ルフィが顔をのぞかせ、頬にクリームをつけたまま手を振る。「おかえりー! ほどほどにやったよ!」
「ようやった」
「ダーリン(よっしー)は?」「ここや」
「じゃ、ケーキおかわりしてくる!」――ひらひらと消える。
ミカエラが小さく笑う気配。「非致死の理解は“ほどほど”。でも上出来」
短い儀式。
「ユウキ」「よっしー」「クリフさん」「ニーヤ」「リンク」「リナ」「あーさん」「ブラック」
『ミカエラ』
胸骨の裏で、小さな火が順に灯る。名は輪郭。輪郭は境界。境界は、扉の蝶番。
卓上に地図。
忍びの里からの潜入図と、今日拾った坑内図。
「黒脈三番、第一陣は安定搬出。……第二陣がまだ残ってる」
クリフさんが矢羽根を一本ずつ撫でる。「――行軍装置が可搬型のものを使っている坑道がある。家族の年長が、そこへ」
「行軍拍を“外す”手順は今日のとおり。反行軍、裏拍、B0.6+0.2。祈祷室は下行固定、混ぜ物は沈黙箱」
「名寄せと照合はわたくしが続けます。似て非なるものを違うと明確に」あーさん。
「風膜・凍霧・音位ずらし、準備OKニャ。三鈴法はまだ使わないニャ」ニーヤ。
「盾はもう一段丸める。粉塵用の静電ブラシも買っとく」よっしー。
「リンクは跳び段、控えめに」
「キュイ(ほどほど)」
耳飾りが小さく鳴り、ミカエラが補足する。
『監督官の端末に“偽勇者ヨシキの巡回説教ログ”。“名の混ぜ物”の布教をしつつ東へ移動中。アレクサルの名徴発は、その補助線。――のちほど沈黙箱のログから抽出して共有します』
「ヨシキは切り分ける。いまは家族が先や」
よっしーが盾にチョークででっかく書いた。
殺さず、縫って止める
「これ、学び部屋の標語にしよ」リナが笑う。
あーさんが黒板の隅にそっと一行。
静けさは扉。
彼女は懐中時計を閉じ、「扉は開け閉め。締めどころ、開けどころ。明日は“開け”で」と微笑んだ。
ブラックが窓枠で羽を梳く。「……カァ」
俺は今日の名を、ひとつずつ呼び直す。
ミン。ソラ。タロ。エイミ。――そして、黒脈から帰ってきた束の名。
ユウキ。よっしー。クリフさん。ニーヤ。リンク。リナ。あーさん。ミカエラ。ブラック。
名は輪郭。
輪郭は境界。
境界は、扉の蝶番だ。
次の黄昏――黒脈救出後編。
可搬行軍機を黙らせ、第二陣を連れ帰る。
静かに。
強く。
そして、こちらの譜面で。
——続く




