雨宿りと温もり
重く垂れ込めた空から、昼過ぎには雨が落ちてきた。
最初は霧雨だったそれは、いつしか本降りに変わり、街路を濡らし、馬車の車輪を泥で汚していく。
レオ・アークライトは、兵舎からの帰り道だった。
濃緑の軍用外套の肩には雨粒が落ち、黒髪に冷たく染みこんでいく。彼は気にした風もなく、黙々と歩いていた。
街角の石造りの屋根の下で、人影がうずくまっているのが見えた。
誰かが雨宿りしている。珍しいことではない――はずだった。
しかしその人影が、何かを胸元に抱きしめているのが見えて、レオは足を止めた。
近づけば、それは――エリシアだった。軍務庁の事務官。細い肩に外套もなく、全身ずぶ濡れで座り込んでいる。
「……どうした?」
声をかけると、彼女が小さく顔を上げた。
抱えているものの中から、小さな震えた鳴き声が洩れる。仔猫だった。毛並みは濡れ、身体は細く、ぐったりと力がない。
「……ごめんなさい。放っておけなくて……でも、タオルも何もなくて……」
エリシアの唇が青く、細かく震えているのに気づいて、レオは迷わず言った。
「近くに、家がある」
彼女は一瞬目を見開いた。が、何かを言いかけて、それを飲み込み、そっと頷いた。
石造りの質素な家に、二人と一匹が入る。
レオは暖炉に火を入れ、湯を沸かし、風呂の準備を整えた。
「何もしない」と、目も合わせずに言って、タオルと着替えを手渡す。
「ありがとうございます……」
エリシアが湯に入っている間、レオは猫を乾いた布で包み、温めたミルクを小さな皿に注いだ。
仔猫はそれを、ぴちぴちと音を立てて舐める。すこしずつ、しっぽが動き出す。
風呂場の扉がそっと開いて、エリシアが現れた。
借りた毛布を肩にかけ、まだ頬は赤みを帯びている。
「……ありがとう、ございます。助けていただいて」
猫を見て、小さく笑った。
「ミルク、飲めたんですね。よかった……」
レオは無言で、もう一つのカップを彼女に差し出す。温かいミルクだった。
彼女は驚いたように瞬きし、それを両手で受け取る。
「……本当に、ありがとうございました。あのままだったら、きっと凍えてました」
「助けとなったなら……よかった」
薪のはぜる音が、静けさを温めていた。
猫が足元で丸くなる。エリシアがそれを撫でながら、ふと顔を上げた。
「ありがとうございます。レオ様」
「名前を…知っていたのか」
レオがわずかに首を傾げる。
さすがに知らない相手についてくるほど警戒心がないわけではない。
エリシアはくすり、と笑った。
この青年が書類に困っていた時に助けの手を差し伸べた。
お母様が亡くなられた手続きの書類。
扶養から外す手続きは煩雑で、憔悴した彼に任せていても良いことはなさそうだと手伝った。
王国近衛第二隊 隊長。剣の腕を認められ、20という若さで隊長職についた人。
寡黙で、いつも正確に任務をこなし、多くは語らずとも着実に成果を上げてくると評判の騎士。
だからこそ、ついてくるという選択ができた。
「あの時は、助かった」
その言葉に、同じ出来事を思い出していたのだと悟る。
エリシアのまなじりが、わずかに揺れた。
「…覚えていらっしゃったのですね」
「書類の束を前に、何も言えなくなっていた。……あなたが助けてくれた」
そう言った後、彼は一拍置いて、言葉を継いだ。
「ずっと、礼を言いたかった。……ありがとう」
静かな、でも確かな声だった。
エリシアは、そっと笑みを浮かべた。
「……お手伝いできて、よかったです」
「……」
レオは何か言いかけたが、それをやめ、ただ火を見つめた。
やがて、エリシアは濡れた服を手に持ち、立ち上がる。
「そろそろ、帰らないと……泊まっていくわけには……」
「傘を」
レオは奥の棚から、古びた無骨な緑色の傘を取り出して差し出す。
柄の部分には、彼の名前――L・A――の刻印があった。
エリシアは、目を丸くする。
「必ず、お返しします」
「いい。……猫は、預かっておく。明日でも、取りに来て」
「はい。……本当に、ありがとうございました」
彼女は頭を深く下げて、傘を受け取り、扉の向こうの雨へと消えていった。
家の中には、火の音と、猫の寝息だけが残った。
レオは、カップの残りのミルクに目を落としながら、ふと思った。
――あたたかい、というのは、こういうことだったかもしれない。