小嶋薫
山村の後ろにいた小嶋薫が、
「私は先生を逆恨みした無責任な婆さんの一人でしたね」
林がクスリと笑う。小嶋が、
「どの面下げてと思いましたけれど、林さんに誘われて来ました。あの時は本当に申し訳ありませんでした」
「いえいえ。本当に良かったのですか」
伊丸岡が尋ねると小嶋はニッコリと笑い、
「ええ。私は周りに迷惑をかけながら死から逃げていただけでした。家族と長話も出来るようになりました」
小嶋には息子一人に娘二人と夫、娘の夫と息子の妻、そして四人の孫がいる。発症する前は小嶋が孫達四人の面倒を観ていた。しかし発症すると施設に入れられて、一年もしないうちに家族の事を忘れてしまった。
小嶋は珍しい事に介護士達にも他の利用者達にも優しく接していた。いつも明るい笑顔でその場を和ませていた。何度も同じ事を訊くことも有るが、その分、礼を言ったり謝ったりする。話し方も穏やかで相手の心証は悪くない。小嶋は小嶋なりに満足していた。
しかし自分達をスッカリ忘れた事に驚き悲しんだ家族が小嶋に治療を施した。色々な事を思い出した小嶋は鬱になった。家族を忘れていた事も悲しいが、自分が高齢者で死期を覚悟しなければならない事も苦痛であった。小嶋は認知症だった頃を思い出しては懐かしみ、治療を受けさせた家族や伊丸岡に怒鳴り散らした。あのまま認知症が進めば覚悟しなくても楽にし死ねたのではないのか。そんな考えが拭えなかったのだ。それでカウンセリングを一年続けたことで気持ちは落ち着き、家族に気持ちを傷付けた事を詫びた。
今では孫達の面倒を観たり逆に孫達に支えてもらっている。
小嶋は、
「認知症で本人が楽になっても周りが傷付いたら元も子もありません」
伊丸岡は複雑な気持になった。皆、家族や介護士達に迷惑をかけていないか気にしており、負い目を感じている。本当に自分の幸せだけを考えるならば、小嶋は伊丸岡に謝る必要は無い。認知症を治す技術は元々、患者本人の為のはずだった。ところが家族や医療現場や介護現場の為になっている。
これで良いのだろうか。亡き祖母はあの世から伊丸岡を認めているだろうか。
伊丸岡は暗い声で、
「皆さん、僕に遠慮していませんか」
老女達は驚いた顔をした。鈴原は、
「やはり先生、体調だけでなく精神も疲れていらっしゃいますね」
「いいえ、そんな事は⋯⋯」
伊丸岡が言い淀む。